黒い風景
琉志央の耐える日々に変化は訪れたが、それは決して喜ばしい類のモノではなかった。実を言って、それまでと五十歩百歩か、もっと悪い日々に変わっただけだった。
彼を連れ去った男――槍駕は、人攫いを生業にし、奔放に暮らす、魔術師だった。
槍駕の住まいは琉志央が初めて見る規模の大きな屋敷で、使用人まで居た。瞬間移動術で来た為、当初はその屋敷が大陸の何処にあるのかも知れなかった。三年経て、ようやくサージソート王国の南端らしいと判ったが。
つまりその年数、琉志央は屋敷から出ることも儘ならなかったのだ。
最初の数日は、琉志央は至れり尽くせりの待遇を受けた。槍駕が例の茨の実を使って某かの薬製作に早速取りかかり、拾った子供などに構っている状況ではなかったからだ。コレの世話をしろ、と使用人に命じて槍駕は自室に籠もったので、琉志央はちやほやされて過ごした。
後にも先にも、そのような境遇はその数日だけだった。
以降、琉志央には、とんでもない目に遭わされ続けた記憶しか無い。
先ず、食事に薬を盛られて昏睡状態に陥り、瞬間移動術の闇契約を、それと知らされないまま行わされた。後になって調べてみると複数人の補助が要る術式だったが、琉志央は昏倒したまま一人で円陣の中に転がされた。お蔭で体力を限界近くまで削られ、契約締結はできたものの、その後は一週間近く寝たきりになった。寝たきり期間中も、覚えろ、と見たことさえ無かった古語を学ばされた。
琉志央は公用語の読み書きも怪しかったのに、古語だけを徹底的に叩き込まれた。魔術は呪文も術式にも古語が用いられているから、という話だった。
古語をほぼ吸収すると、えげつない時間が始まった。槍駕は恐らく、この為に琉志央を連れて来たのだろう。
実技を授けると称していたが、実態は槍駕が優越感にひたる為のいびりだった。
一年目の琉志央は、手加減無しの攻撃魔術を受けるばかり。この時、自分が雷持ちという体質だったのではなく、無自覚に危難避けの結界を張っていたのだと知った。知って意識的に張ることを試みるも、当然ながら槍駕には大して通用しない。
二年目に入る頃には、必死で防御術系を独学し、かわすことを覚えた。それでも毎回、なぶり殺される寸前まで痛めつけられた。
何度も屋敷から逃げ出すことを考えた。だが、逃げ出して何処へ行けばいいのか、どうやって食べていけばいいのか判らなかった。又、逃げたとして、槍駕に見つかったらどうなるのか。使用人への対応と同じなら、今度こそ息の根を止められる。
いっそ、ここでの立場を代えてやる――
その決意が芽生えたのは、いつだったか。日常的に地下の暗い土床に這いつくばされ、十歳になる頃には、胸の奥でその芽がかなり育っていた。
琉志央は夕食後も、ひたすら術書の頁を繰っていた。熟読している暇は無い。必要な箇所を見つけ出し、必要な情報だけを頭に刻み込んで、実地で試すしかない。
槍駕の近くで三年間過ごしてきたが、奴の長所はほぼ皆無と言っていい。ただ、若い頃は一つだけあったようだ。向学心というヤツが。
魔術師として何処までも強くあろうとしていたらしく、屋敷には大陸中から集めたと言う魔術に関する大量の術書や巻物があった。たまに表や裏に血痕らしき染み付きの物もあるから、手段を選ばず手に入れてきたのだろう。とにかくも、琉志央が身につけた魔術と魔術知識は、概ね槍駕の書庫から得たものだった。
明日には又、槍駕に地下へと連行されるに違いない。少しでも対抗の手段を増やしておかなければ……
二日前につけられた傷は跡形も無く、体力も殆ど戻っている。
槍駕は何処かから医事者を攫って来て、琉志央の怪我の治療をさせていた。かなり高位と思われる医事者で、癒し術を使えるものだから、琉志央は外傷の治癒速度が異様に早い。その分、直後は疲労が酷いが、傷から拙い物が入り込むこともなく、発熱しないだけに全体的な回復も早まる。
治れば又ぞろ苦行の時となるから、琉志央としてはその医事者の優秀さは腹立たしいだけだった。
でも、あのおっさん、そろそろ目がやばくなってるよな……
そもそも医事者は、魔術師とは水と油とさえ言われている。槍駕に連れて来られている中年男は、自ら来ているわけではなく、暗示術をかけられて来ていた。暗示は脳に働きかける。あまりに繰り返されると精神がおかしくなるのだ。避けるには自分以外の血を額に塗っておくしかないが、日常的にそんな対策をしている者などまず居ないだろう。
おっさんが壊れても、槍駕は捨てるか始末するだけだろうけど。
しかしながら、自分の治療を続けさせられた挙句の果てと思うと、琉志央はいささか心が痛む。
十人前後の使用人中、三年前から変わらず居る者はない。槍駕が処分しては新しいのを連れて来る。仕事を覚えさせようとか慣れさせようという効率の観点を、槍駕は持ち合わせていない。取り敢えず、余所で使用人をしていた連中を攫ってはいるようだが。
息をついて、琉志央は術書を閉じた。
別の術書を漁るべく、部屋を忍び出る。槍駕は蔵書類に興味を失し気味だから黙認しているだけで、琉志央にそれらを読んでいいとは一言も口にしていなかった。奴の虫の居所が悪い折に琉志央が術書を手にしているのを見たら、書庫ごと燃やしかねない。
幸い、書庫は槍駕の私室より手前にある。
夜の暗い廊下を、琉志央は片手を発光させて進んだ。書庫や槍駕の私室が見えてきて、光を弱める。
槍駕の部屋の方から女の悲鳴が聞こえ、琉志央は顔をしかめた。使用人の何かが気に入らなかったのか。単に機嫌が悪かったのか。
悲鳴を聞き流し、琉志央は真っ暗な書庫へ滑り込んだ。再び手を小さな明かりにすると、部屋から持ってきた術書を棚に差し入れ、使えそうな物がないか探す。探すうちにも、遠く悲鳴が届いた。
さっさと殺っちまえよ、趣味悪ぃな。
術者ではないだろう相手をねちねちと死に至らしめようというのは、想像だけでも胸糞悪かった。
誰か――と女が泣き叫ぶのが聞き取れてしまった。
琉志央は一つ舌を打つと書庫を出た。適当に髪を掻き回す。
ソレはもう死にそうだと指摘してやれば、興ざめて、ひと思いにとどめを刺すだろう。
槍駕の私室を、琉志央は開けた。
ぼんやりと明かりが灯る寝台の上に、槍駕と若い女が居た。
肌が半ば露出した女は槍駕に取り押さえられかけていたが、部屋の何処にも血は無い。赤い色があちこちに飛び散っている様を予想していたので、琉志央は拍子抜けした。
それでも女は小さく口を開閉し、縋るような目でこちらを凝視した。弱い明かりの中でも、その双眸から涙がこぼれたのが判った。
琉志央は戸惑った。女の茶色い髪が、ほんの少し、本当の母親に似ていたから。青みがかった黒髪が多いサージソートで、珍しい明るい色。
「何しに来た」
感情の無い、低く掠れた声に琉志央はハッとする。咄嗟に、考えていた言い訳を口にした。
「寝惚けた、みたい」
「おぬしは寝衣に着替えず寝ているのか」
小馬鹿にしたように言われ、琉志央は失態に口を引き結ぶと視線を彷徨わせる。
布を裂く音に目を向けると、槍駕は女の服の一部らしき物を寝台の外に放った。声も無くもがく女を押さえつけながら、槍駕はこちらに目を流す。明かりを映して、瞳が恐ろしく光っていた。
「おぬしも抱くか?」
「……抱く……?」
何をか理解できずに琉志央が繰り返すと、もはや槍駕は弟子の相手に飽きたようだった。懐から何か掴むと投げつけてくる。受け止めると、銀色の貨幣だった。
「貸してやろう。ハナマチに行け」
そこへ行ってどうするのか。やはり理解できなかったが、これ以上とどまると、今のところ血を見ていない女も自分も危険だった。
琉志央は銀貨を握り締め、踵を返した。
「せいぜい病をうつされないことだ」
台詞に続いて低い笑声が背中に当たったが、琉志央は振り返らず、廊下を走って自室に戻った。
翌日、昼が近づいても、槍駕は〝術を授け〟に現れなかった。
ハナマチで何か買って来なくちゃいけないのか。昨夜のうちから行かなきゃ駄目だったのか……?
昼食後、琉志央は、ハナマチに行ってくる、と使用人に告げて屋敷を出てみた。告げられた使用人が目をむいたので、割と誰もが知っている場所なのだろう。
詳しく訊いても良かったが、琉志央は普段、使用人と会話というものをしないで過ごしている。連中は琉志央を槍駕と似たような存在だと認識しているようで、必要最低限の接触しか持とうとしない。琉志央としても、ここに来るまでは使用人のような生活だった。自分の時はどうだったかを思い出せば、偽両親には食事を得る目的以外では近寄らないのが最も幸いだったと言える。
不意に、和やかに食卓を囲む懐かしい光景が脳裡に蘇った。失くしてから四年も経つ光景。
あれから、一度も取り戻せずにいる。
ハナマチにも無いんだろうな。
屋敷の玄関から出て、琉志央は息をつく。
琉志央はこの三年、一歩も屋敷を出なかったわけではない。ただ、外出は槍駕の瞬間移動に拠ったし、屋敷には窓も少なく、すぐ外のことは全くと言っていいほど知らなかった。
屋敷があるのは小高い丘の上だった。近くを幅と水量のある川が流れ、遠く森が広がったその先に、建物らしき物が密集しているのが見える。
あれがハナ――街かな……?
琉志央は長袴の隠しに手を入れた。鎖に通した瞬間移動の指輪を手繰る。滑らかな木の触感がある輪は四つ。対の輪は、この屋敷、リィリ共和国、ロマ公国、皇領月区に置いてある。輪を作り過ぎると覚えきれないが、眼下に見える街らしき所へ移動する分くらいなら増やしてもいいだろう。
指先に術力を集め、琉志央は古語で呪文を唱えると宙に円を描いて輪を作った。銀貨と一緒に出来たての輪を二つ握り締めると、川を越えるべく地を蹴って空に飛ぶ。今回の目的地には、先ずは己の力で辿り着かなければならなかった。
子供の足だし、病み上がりのような体調で、距離を稼げない。森に入るか入らないかのうちに日が暮れてしまった。琉志央はひとまず、出がけに作った輪を到達地点に置いて屋敷に瞬間移動で戻った。
自室から食堂に入ると槍駕が既に夕食後の茶を飲んでいて、馬鹿にするべきか愉快がるべきか定めきれないと言うような、妙な表情でこちらを見た。
苛立ちを感じ取らなかったので、琉志央は内心で安堵して席につく。食事が並べられた。
肉と野菜の白煮込みをかき込み始めると、脇から槍駕が問うた。
「いい女は居たか?」
「……ハナ街に?」
匙を止めて問で返すと、槍駕はひゃひゃひゃひゃと頓狂な笑い声をあげた。
「おぬし、何処へ行って来たんだ、一体」
「ハナ街の、途中まで」
「ぷはっ――はははは、門前で追い返されたのか? 次は脅して入るがいい。何の為の魔術だ」
「……分かった」
本当は、よく解らなかったが。
「昨夜の女も売っておいたぞ。欲しけりゃ捜せ」
殺されずに済んだのか。琉志央は心の隅でほっとする。
その時は、昨晩、何が行われたのか、理解していなかったから。




