萌ゆる景観 (前)
あっついのぅ。
森の中で、冰清玉潤はげんなりしていた。
六の月になったばかりだというに、何じゃこの暑さは。
暦上ではまだ初夏と言えたが、本日は朝からいささか気温が高い。夏は、氷の精霊である冰清玉潤には少々辛い時季である。
木陰をふよふよと、泉がある涼しい場所へ向かう。この辺りの森はもう、庭のようなものだ。何処に何があるかは大体把握している。
主の蒼杜とその幼馴染みの千歳が独り立ちし、リィリ共和国に来てから六年が経っていた。
千歳は剣の腕を活かして国の警備隊に在籍しており、今は首都に居る。今日は休暇を使って、この北部まで遊びに来ていた。冰清玉潤はそれで、主を千歳に任せ、のんびり散歩に出た次第だ。思いがけず、外は暑かったが。
多分、暑さに弱い守護精霊の為に蒼杜は北に居を定めた。森に少し入った場所で医療所を開いている。
六年前、どうひっそり入国しようとも、瞬間移動などで不法入国したわけではなかったから、稀代の一級医事者が来たことは瞬く間に国内に知れ渡った。
国の中央議会は諸手を挙げて国営の医院に招いたが、蒼杜は固辞した。ヴィンラ半島に居る間に貯めていた金で森の一角を買い取り、家を建てて、そこで個人開業したのである。
この国の執政は一年周期で代わる為、数年は性懲りも無く新執政の使いが首都へ招きに来たが、そろそろ誰が行っても無理だと判断されたようだ。この二年ばかり、穏やかに日々が過ぎている。
森の近くにある村の人々の健康管理と、たまに地方から頼って来る患者を診て、後は薬の調合や家庭菜園で土いじり。蒼杜は今の暮らしが気に入っているようだ。流石に二十歳にもなれば、冰清玉潤が口を出さずとも、しっかり食事や睡眠もとるようになっている。
今年の春からは秘密の客人を所有敷地内に迎えたので、余計に蒼杜の生活はきっちりするようになっていた。
ティカ大公が耳にしたらヤキモキしそうだが、女性の客人だ。といっても、蒼杜は実梨の他に秋波を送ってくる村娘達にも笑顔を返すのみ。客の娘のことも、可愛い方ですね、とにっこりと評価するだけで他意は窺えない。
まぁ、アレにうっかり惚れてしまわれては非常に面倒な事態になるからな……
冰清玉潤は乙女を思い出しつつ、視線の先に涼しげな泉を映す。
風に流れて来た湧水の涼気にほっとした時、ふと術力を感じた。とても微かに。冰清玉潤は以前、コレを探したことがあった。
過去の経験を思い返し、精神を集中させてみる。
林立する大木と大木の間くらいに、波に誘われるように近づき、見つけた。
誰のじゃ。
茂る下生えの合間に、瞬間移動の指輪がある。冰清玉潤は小首を傾げた。十中八九、対の輪だろう。
問題は、誰の物かだ。
区画地図ぐらいにしか表記されないが、一応、ここも蒼杜が買い上げた敷地内だ。今は大事な客が居るから、あまり知らない者にうろつかれては困る。術者の類は特に。
ここは吾等の家より琴巳の家に近い――栩麗琇那か? なれば処分するわけにはいかぬが……
視線を巡らせ、冰清玉潤は腕を組む。近いとはいえ、ここは微妙に距離のある場所だった。
これは――知らせておくべきじゃな。
暑さを寸時忘れ、冰清玉潤は自宅に居るだろう主の元へと向かった。
琉志央は食卓で一人、窓硝子を伝う雨の筋を眺めながら、ぼんやりと焼パンをかじっていた。
家を得てから三年が流れた。自炊を覚え、益々一人で居ることが当たり前になっている。
日々、大概が暇だった。
槍駕が琉志央や予魅で暇潰しをしていた気持ちが、今は解る。忌々しいことだが。
魔術師には魔術しかないから、それを使う機会が無い現状は、居たたまれない空虚さだった。
心中し損ねた女とは、あれ以来会っていない。だが、生きる意味を見い出したわけでもなかった。
ただただ、朝が来て、夜が来る。
一度女の身体を知ってしまった所為か、はたまた孤独に狂いそうになるからか、時折、衝動に駆られる。そんな時は花街で、売られて来たわけではない女を指定した。
熱が冷めれば又、白々と日が過ぎて行く。
枕を共にした女を家へ連れ帰ろうかと思うこともあった。けれど口にする前に、自分の中でとどめる声があった――こいつは仕事で居るだけだ、と。
鼻で息をつくと、琉志央は食器を片づけた。
口をすすぎつつ窓の外へ今一度目をやれば、長閑に広がる草地や木立が雨にけぶっている。あがれば緑に萌ゆるのだろうが、現時点では靄がかかったように沈んだ色合いだ。
余所をぶらついて来るか……? 億劫だな。
自問自答し、琉志央は棚から小箱を手にした。中には水晶球が入っている。
琉志央は、遠見は割と好きだった。攫いが目的ではなく異国の風景を眺める為だ。対の輪を置くのも、槍駕のソレとは逆に人通りの少なそうな場所が多い。元々瞬間移動術は移動先に生き物や液体があるのを避けるべきなので、琉志央の対の輪の配置は基本に至極忠実である。
遠見は術者の力量だけなく、媒体でも見える精度が違う。物見遊山の為だけだったが、琉志央はこの件に関しては贅沢を自分に許し、水晶球を購入していた。最高品質の物だけあって、まるで直に見ているように見える。
片手の掌に透明の水晶球を包み持ち、上に瞬間移動の指輪を乗せる。古語を唱えて術力を送った。澄み切った球がぽっと一瞬光った後、鮮やかに風景が映る。目の先に、初夏の瑞々しい緑が広がった。
水晶の上に乗せたのは、リィリ共和国に行ける指輪だ。森に囲まれた、大陸で一番小さな国。首都は、幼い頃に読んでもらった、絵本に出てくるような街並みだった。その片隅に輪を置くのもいいと思ったけれど、やはりより人の少ない場所を琉志央は選んでしまった。ずっと向こうに泉の見える、美しい場所。
たまにそよぐ草葉や、揺れる陽の光を眺めていたら安らいできた。あちらは気持ちのいい天気のようだ。
と、指輪が赤く光った。対の輪の周辺、一定範囲内に鳥か獣が侵入したのだろう。何気なく、琉志央は空いた片手の指先を動かす。ゆっくりと視界が動いた。
娘が一人、息吹に溢れた木々の合間に映った。
風変わりな点が、興味を引く。
茶系の髪と目を持つ人種が大体を占めるリィリで、サージソートの人々に似た黒い髪。混じりけなくつややかな漆黒のそれを編んで、耳の上で輪にしていた。初めて見る髪形だ。
自然、容姿にも興味が湧いた。
半ば無意識に指が動いて角度が変わる。顔を見た途端、琉志央はどうしてか心の臓が跳ねた。
絹のような肌、形のいい額に眉、長い睫毛、黒曜石のような黒目がちの瞳、小さな鼻、優しい形をした淡紅色の唇――それらが、調和を持って配されていた。歳の頃は十四、五。
琉志央は娘を見つめ続けた。その間に、鼓動がやたらめったらに早くなっている。
何だ、これ――
わけの解らない感覚に襲われ、琉志央は胸元を掴む。早い。脈動が早い。顔も熱い。何かの発作か。
彼女は片手に駕籠を提げ、リィリ近辺の素朴な上下を纏い、少し早足の風情で歩いている。急いていると言うより、心が弾んで自然と足が速まっている感じ。
そして、その思わず頬の緩みそうな姿は、突然視界から消えた。
うろたえて指を動かしたが何処にも見当たらない。ハッとして見れば水晶の上の指輪が発光をやめている。彼女は遠見が可能な範囲から出てしまったのだ。
このままでは見失う――!
琉志央は指輪を引っ掴んだ。水晶球を小箱に放り込む。
爆発的に、欲しい、という感情が発生していた。
攫いじゃない――この食卓を挟んで向かい側に座ってもらうだけだ――これは攫いじゃない!
無理矢理に自分を納得させると、居ても立ってもいられなくなった。琉志央はリィリ共和国へ瞬間移動した。
「で、我が従兄殿はどうするつもりなんだ」
隣を歩く幼馴染みが言った。森の中でも危なげない。蒼杜は曖昧に笑む。
「帰れと一度は仰ったようですが」
「言われて帰るような覚悟で来てないだろう」
「その通りです」
「さっさと腹を括ったが良さそうだな」
千歳が肩をすくめて述べると、前方を行く守護精霊が可笑しそうに口を挟んだ。
〈そなたに言えるのか〉
ぐ、と千歳は変な呻き声を洩らす。
「シャトリ、わたしはまだ二十一なんだ。恐ろしいことを思い出させないでくれ」
〈そなた、成人の折もまだ十五だと言い訳しておったぞ。あの頃は、その言い分も頷けたがな〉
千歳は今度は何も言えずに目を彷徨わせる。
サージ大公は一年もしないうちに千歳の居場所を突き止めた。現在も度々、婚の誓いを迫っているようだ。どちらも素晴らしい持久力である。
ルウの民として不完全だからと拒む千歳の主張も解らないではないが、そろそろ潮時なのではないかとも思う。他の障害が無いのだ、彼等には。
遅かれ早かれまとまるだろうから、蒼杜は何も言うつもりはないが。
目下、何か言うべきなのか迷っているのは、件の従兄殿。
千歳の従兄にあたるラル家の皇子は十一年前に失踪したが、何処に居たかというと蒼杜の母の世界だった。好んで行っていたわけではない。そして、最近まで世界間の行き来の方法を得られず、帰って来れなかった。しかしながら先年、遂に帰還した。
十年も異世界に一人きりで暮らせた筈はなく、彼は厄介になっていた一家があった。そこの孫娘が、春からこの世界に来た客人――琴巳である。二人はあちらで、兄妹として過ごしていたそうだ。
現在ルウの皇帝になっている栩麗琇那は、睡眠時間を削ってまで、毎日のように大陸を訪れている。そのくせ、少々煮え切らない態度で〝妹〟に接していた。
ルウの民は誇り高く、ある意味排他的だ。そんな一族が、帝の近くに素性の知れない娘を見つけてしまったらどうなるか。皇子を十年も拘束していた凶悪な異世界から来ている者と判明したら、お手上げだろう。彼女が一族の家老辺りに知れる前に、栩麗琇那はどうするつもりかはっきりさせておいた方が良い。
シャトリの見つけた対の輪が、ルウの誰かが置いたものでないといいけれど……
違ったら違ったで、他の可能性といえば魔術師となり、こちらも危険だ。彼等の多くは人攫いを生業にしている。標的は婦女子が圧倒的だ。
こんな滅多に人の入らぬ森の中で標的を探すのは変だが、どんな職業にも駆け出しという時期がある。初心者の人攫い魔術師が、うっかり定めてしまったかもしれない。そういう手合いに攫われでもしたら、行動に慣れが無い分、却って見つけ出すのは大変そうだ。
でも、栩麗琇那には、いいきっかけかも。
浮かんだ考えは、被害者の心理を考えると選択できないが。
蒼杜が苦笑と共に首を一つ振った時、遠くで、待て、と誰かに呼びかける低声が耳に飛び込んできた。
〈む〉
微震する精霊独特の声が短く起こる。しゅっと空中に氷の帯を煌めかせ、木々を貫通して冰清玉潤は一方へ飛んで行った。
低声に聞き覚えが無く、蒼杜は素早く懐から陣を描いた紙片を出す。空間封じ術は四半刻しかもたないが、敷地内の瞬間移動を封じておく。呪文を紡いで術力を陣に放った。成功を示す光が灯り、紙が燃え尽きたように消える。
「特別手当が出るような事態かな」
父親に似た鷹揚さで、千歳が腰の長剣を鞘ごと抜いた。
「家の地下に寝かせてある梅酒を出しましょうか」
「悪くない」
二人は氷精の残した軌跡を追って走り出した。
爽やかに晴れていると思っていたのに、意外とリィリ共和国は蒸していた。
ふは、と琉志央は逸る息を洩らす。視線を巡らせても木々や茂みといった遮る物が多い。水晶球から最後に見ていた景色がどの方角だったか、必死に記憶を辿る。
泉は見えていなかった――こっちか!?
黒い髪。生成りの筒衣。焦げ茶色の帯。
どれだけの時間、見ることが叶っただろう。それほど長くなかった気がする。なのに、はっきり覚えている。
精霊を精製して捜させるべきかとよぎった時、木立の隙間に生成りの色を捉えた。捉えた時には足が勝手に駆け出している。
下生えに隠れた木の根に幾度か足を取られかけながらも、距離が縮めばあの娘だと確信できた。歩みに合わせ、丸く輪に編んだ黒髪が耳の上で揺れるのが判った。
周りが暑いからか、走ったからか、胸が熱い。痛い。
「待て――そこの、お前」
呼びかけたら、娘がこちらに顔を向けた。足も止まる。琉志央はわけもなく嬉しくなって、残る距離は飛行術で草木を飛び越えた。ふわりと前に降り立つと、娘は丸い目を軽く見張って見上げてくる。
実際、前にすると娘は小柄だった。琉志央の肩の辺りに額が届くか届かないか。呼吸を整えるうちに、娘から薫る微かな花の匂いを鼻が嗅ぎ取った。息を鎮めたいのに又乱れそうになる。
娘は気づかわしげな目をした。木陰なのに光を宿す唇が、澄んだ声を生み出す。
「道に、迷っちゃいました?」
森の中だからか。
「大丈夫だ」
笑みを見せると、娘も小さく笑った。真っ白い綺麗な歯がこぼれ見え、それだけで頭がぼうっとする。
「えーと、じゃあ、何でしょう」
そうだ、呼び止めたんだった。
連れて帰る為に。
「昼飯、一緒に食おう」
「へ?」
間の抜けた声で聞き返す娘の腕を、琉志央は取った。家へ瞬間移動しかけて、ここへ来る指輪を嵌めたままと思い出す。指輪を自宅のヤツに交換しないといけない。
細腕を放し、ちょっと待て、と長袴の隠しに手を突っ込むうちに、娘が数歩分の距離を置いた。
「あの、ごめんなさい。せっかくですけど、わたし、用事があるので、これで……」
口早に琉志央は告げた。
「逃がさない」
娘が柳眉をひそめて更に後ずさったので、琉志央は焦った。「別に、悪いようにはしない」
本心は悪いようにするつもりみたいだ。そんなつもりはない。断じてない。
己の口下手に内心で舌打ちした時、つと背筋が冷えた。無意識に結界を張るやいなや、異質な女の声が響く。
〈ごきげんよう、方々〉
肩越しに振り返ると、やや上に精霊が浮かんでいた。向こうの景色が少しだけ透けている白い姿は、美しい三十路ほどの女だ。精霊の取る姿は自在なので、本来の年齢は知れないが。
琉志央は隠しに突っ込んでいた掌中に、指輪を一つ手繰り寄せる。自宅でなくとも良いから、ひとまずこの場から娘と去るべきだ。
当の娘は、安堵した声を出した。
「シャトリさん」
去るべきだ、と琉志央は改めて判じた。女王となると六核。魔術師といえども容易く消せない。
娘の守護精霊ではないが、その知己のモノといったところだろう。六核精製は術者の命も削ると言われる術式だし、一、二核のように簡単に成功しない。娘の知り合いは大層な手練だ。
精霊に歩み寄る娘の腕を、琉志央は掴んだ。そのまま瞬間移動したつもりだったのに、刹那の視界の暗転もなく、周りの景色も変わらない。
空間封じか――
頬が引きつった琉志央の前で、娘は困ったような顔で掴まれた腕を弱く引いた。精霊が冷めた声音で言う。
〈手をお放しあれ。こちらは吾が主の大事な客人。そも声高に主張する主ではないが、この付近は主の所有地じゃ。そなたは何用でここにおられるのかな〉
空間封じは三十分しか効果がない。時間を稼げば機はある。琉志央は、するりと娘から手をほどく。
「こいつを、招待しに来た」
ほぅ、と精霊は薄い水色の目を娘に流す。娘は、何が入っているのか、大事そうに駕籠を胸の前で抱えた。
「わたし、お兄ちゃんが来てくれるかもしれないから……家に……」
訴えるように黒い瞳が精霊を見上げる。そうじゃな、と精霊はやんわりと目を細めた。
〈そういうことじゃ。お解りかな〉
さらりとこちらに言って、精霊は宙に腰かけるような格好をすると、優美に足を組む。琉志央は軽く口を曲げた。
兄などどうでもいいが、こいつが言うなら一緒に連れて行ってやらないでもない。家には食卓を囲む椅子は四脚ある。
しょうがないなと、それを口にしかけたところで、こちらに走って来る人影が目の端に映った。琉志央は唇を引き結ぶ。
二人来る。どちらかが精霊の作り手に違いない。空間封じの先手を打たれている上に、おまけまで連れて来られるとは。状況は非常に芳しくなかった。隙を窺えるかどうか。
これほど不利なのに、琉志央は傍らの娘を諦める気になれなかった。
全身を血潮が駆け巡っている。こんな時に生きていることを実感するとは、思ってもみなかった。




