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第88話 後輩が来る前に──凛の問いかけ

# 後輩が来る前に──凛の問いかけ


 三月。


 窓を開けると、冬の冷たさの中にかすかな別の匂いが混ざっていた。梅の花だ。近くの公園で咲き始めているらしい。来月には桜が咲く。新入生が入ってくる。制服が新しい一年生が廊下を歩く季節が来る。


 部室に凛先輩と二人だった。


 壮介は教室で補習。六十一点を取っても一部科目の再テストが残っている。壮介の六十一点は全教科平均であって、個別教科では赤点ギリギリのものもある。数学が三十八点。赤点は三十五点。三点の命拾い。その三点を補習で救済するために壮介は教室にいる。


 詩織さんは図書委員の仕事。年度末の蔵書点検。図書室の本を全部数えるらしい。詩織さんにとっては天国のような仕事だろう。本に囲まれて一日を過ごせる。


 先生は職員会議。年度末の会議は長い。缶コーヒーを三本持って行ったと壮介が報告していた。三本で足りるのか。足りないだろう。先生の缶コーヒー消費量は会議の長さに比例する。


 二人きりの部室。ストーブはもう消えている。三月に入って暖房は停止された。でもまだ寒い。旧校舎の四階は季節の変わり目が一番中途半端だ。寒くも暑くもない。でもどちらかといえば寒い。


 凛先輩がソファで本を読んでいた。俺がちゃぶ台でパソコンを開いて原稿を書いていた。キーボードを打つ音とページをめくる音だけが聞こえている。いつもの部室の音だ。壮介がいないから静かだ。壮介のいない部室は音量が七割減る。


 凛先輩が本を閉じた。


「朝倉」


 声のトーンがいつもと違った。静かで、真剣で、少しだけ重い。凛先輩がこの声を出す時は、大事な話がある時だ。ソファの上でのクールな独り言ではなく、部長としての言葉が来る時の声だ。


「来年の話をしていいか」


「はい」


「来年、俺は三年になる。秋に引退する。引退した後、この部はお前たちが回すことになる」


「はい」


「お前が部長だ」


 心臓が跳ねた。部長。自分が。


「正式な任命は秋の引退時にする。だが今のうちに言っておく。朝倉陽翔。お前が次の文芸部部長だ」


 凛先輩の目がまっすぐだった。冗談じゃない。冗談の時は口元が緩む。今は緩んでいない。本気だ。


「千歳は副部長でいい。壮介は編集長兼MC。役割分担は任せる。だが最終判断はお前が下す。できるか?」


「正直に言うと、自信はないです。先輩みたいにクールに仕切れるか分からない」


「クールに仕切る必要はない」


 凛先輩が少し笑った。


「お前は"お前のやり方"でやればいい。前にも言ったろう。ツッコミで場を回すのが朝倉の強みだ。ソファから全体を見渡す俺のスタイルを真似る必要はない。ちゃぶ台から一緒に走れ。お前はそういうタイプだ」


「ちゃぶ台から一緒に走る」


「そうだ。それがお前の部長像だ。俺のコピーにはなるな。朝倉の原版であれ」


 凛先輩がソファから立ち上がった。ちゃぶ台の前に来て、俺の向かいに座った。入部初日の配置だ。先生に連行されて部室に入った日。ちゃぶ台の向かいに凛先輩がいた。あの日と同じ距離。同じ角度。同じちゃぶ台。


「朝倉。お前は一年前、ここに座った。霧島先生に連行されて。何も書けなかった。何も読んでいなかった。今はどうだ?」


「コンクールに出しました。文化祭で朗読しました。部誌に四回載せてもらいました。テストの国語が六十五点から八十二点になりました」


「そうだ。お前は書く人間になった。走る人間が、書く人間になった。その変化を起こしたのはお前自身だ。俺たちはきっかけを作っただけだ」


 凛先輩の声が柔らかかった。ソファの上のクールな声ではなく、ちゃぶ台越しの人間の声だった。


「一つだけ聞く」


 凛先輩が俺の目を見た。


「来年、俺がいなくても、文芸部は大丈夫か?」



    *



 大丈夫か。


 その四文字が部室の空気を変えた。さっきまでキーボードの音とページの音だけだった空間に、凛先輩の声が落ちた。重力のある声。ちゃぶ台の木を伝って俺の指先に届いた。


 凛先輩の「大丈夫か」は、普通の「大丈夫か」じゃない。凛先輩が「大丈夫か」と聞く時は、答えを求めている。慰めは要らない。「大丈夫ですよ」という空っぽな返事も要らない。凛先輩は事実を聞きたがっている。大丈夫なのか、大丈夫じゃないのか。嘘なしの答えを。


 一年前の俺なら答えられなかった。大丈夫かどうかも分からなかっただろう。文芸部が何なのかも分かっていなかった。先生に連行された場所。知らない先輩と知らない女子がいる場所。ちゃぶ台と畳の六畳間。それだけだった。


 今は違う。この部室が何なのか分かっている。誰がここにいるのか分かっている。誰がソファに座って、誰がちゃぶ台で書いて、誰が叫んで、誰が缶コーヒーを飲んでいるのか。全部分かっている。分かっているから答えられる。


「大丈夫です」


 言った。でもすぐに首を横に振った。


「いや、大丈夫じゃないです。先輩がいなくなったらめちゃくちゃ困ります。先輩の合評がないと作品が甘くなるし、先輩のミステリ講座がないと壮介が暴走するし、先輩がソファにいないと部室のバランスが崩れるし」


「正直だな」


「でも」


 凛先輩の目を見た。まっすぐに。


「先輩がいなくなるわけじゃないでしょ? 卒業してもOGとして来るって言ったじゃないですか」


「言った」


「だから大丈夫です。先輩がいなくても。先輩が"いた"ことが、この部室に残るから」


 凛先輩が黙った。三秒。五秒。長い沈黙だった。ちゃぶ台の木の温度が指先に伝わっている。三月の部室。冬と春の境目。


「"いたことが残る"か。お前、いいこと言うようになったな」


「先輩のおかげです」


「おかげじゃない。お前が書いて、読んで、考えた結果だ」


 凛先輩が目を閉じた。二秒。開いた。何かを確認するように。ソファの背もたれに手を触れた。自分が一年間座っていたソファ。凛先輩の体重の分だけ凹んでいるソファ。来年もこの凹みは残る。凛先輩がいなくなっても。


「この部室には、一年間の全部が残る。ちゃぶ台の傷も。ホワイトボードの掟も。本棚の部誌も。壮介の棒人間も。千歳のインクの匂いも。お前の原稿の打鍵音も。先生の缶コーヒーの空き缶も。全部残る。俺がいなくなっても。そういうもんだ」


「先輩」


「だから大丈夫だ。お前が大丈夫だと言うなら、大丈夫だ」


 凛先輩がソファから完全に離れた。ちゃぶ台の横に立ったまま、ホワイトボードを見た。掟が四つ書いてある。書け。読め。笑え。泣くな。凛先輩が書いた四つの言葉。


「この掟は消すなよ」


「消しません」


「書き直してもいい。お前の字で。でも内容は変えるな」


「変えません。先輩の掟は先輩の掟です」


「お前なら大丈夫だ。文芸部を頼む」


 凛先輩が言った。短く。断定的に。凛先輩の最短語。でもその三文字に、一年間の全部が入っていた。「頼む」。凛先輩が誰かに何かを「頼む」のは、信頼している相手にだけだ。凛先輩は弱い人間に頼まない。強いと認めた人間に頼む。


 頼む。その二文字が重くて、温かくて、少しだけ苦い。一年前の自分には想像もできなかった二文字だ。サッカーを辞めて、先生に連行されて、畳の上に座って。何も書けなかった自分。何も持っていなかった自分。あの自分に「お前は来年部長になる」と言ったら、たぶん笑う。笑って「嘘だろ」と言う。


 嘘じゃない。凛先輩が嘘を言わないのは知っている。一年間ずっと見てきた。凛先輩の言葉には無駄がない。一文字も嘘がない。ミステリ屋は伏線に嘘を仕込むが、言葉に嘘は仕込まない。


「頼まれました。引き受けます」


「よし」


 凛先輩が短く頷いた。それだけで終わった。長い演説はない。握手もない。凛先輩のスタイルだ。必要な言葉を、必要な分だけ。バトンを渡す瞬間も、凛先輩はクールだ。


「そしてもう一つ」


 凛先輩がちらりと笑った。ニヤリと。クールな顔にいたずらっぽい笑みが混ざっている。


「千歳のことも、頼む」


「え」


「千歳のこと?」


「あいつは強いが、脆い部分もある。お前が一番知ってるだろう。取材ノートに書いてある弱点の数を」


「弱点の数は知りませんけど」


「知ってるだろう。八行。ノートの右側に」


「先輩、詩織さんの分析ノートまで見てたんですか」


「ミステリ屋は情報収集が仕事だ。まあ、これ以上は言わないけどな」


 凛先輩がにやりと笑った。壮介のにやにやスタンプと同じ顔だ。にやにやは壮介の専売特許だと思っていたが、凛先輩もする。先輩後輩で顔が似てきたのか。


 引き戸がバンと開いた。


「ただいまー!! 補習終わったー!!」


 壮介だ。声量百五十パーセント。シリアスな空気が吹き飛んだ。凛先輩が「大和、タイミング最悪だな」と溜息をついた。壮介が「何かあった?」と首を傾げた。


「何もない。お茶でも入れろ」


「はーい」


 壮介がやかんに水を入れに行った。凛先輩が俺を見た。片目をつぶった。二人だけの秘密。部長の任命と、「千歳を頼む」の二つ。壮介は知らない。壮介が知ったら「マジで!?」と叫んで部室の壁を揺らすだろう。今はまだ、二人だけで。


 壮介がお茶を持って戻ってきた。三人分。急須から注いでいる。壮介のお茶の入れ方は雑だが、量は正確だ。三つの湯呑みに同じ量のお茶が入っている。壮介は「均等」が得意だ。食べ物を分ける時だけは壮介の計量能力が発揮される。


「で、何の話してたの?」


「来年の新入部員の勧誘について」


「勧誘!! 俺もやりたい!! ポスター描く!!」


「棒人間のポスターか」


「進化型棒人間だ!! 表情つきだ!!」


「進化型棒人間のポスターで新入部員が来るのか」


「来る!! 棒人間に惹かれるやつは文芸部に向いてる!!」


 壮介の勧誘ポスター計画が始動した。凛先輩が「棒人間の横に"掟四条"を書け」と指示した。壮介が「書く!! 掟ポスター!!」と叫んだ。シリアスな空気が完全に壮介のエネルギーで上書きされた。


 壮介が来ると空気が変わる。重い温度が一瞬で戻る。凛先輩がシリアスを作り、壮介がギャグに変換する。この二人のバランスが文芸部の呼吸だ。来年、凛先輩がいなくなったら、シリアスの担当が減る。でも壮介のギャグは残る。ギャグがあれば、シリアスの後に必ず笑いが来る。それでいい。


 凛先輩がソファに戻った。いつもの姿勢。足を組んで文庫本を開く。壮介がちゃぶ台でお茶を飲んでいる。俺がパソコンの前に座っている。三人。いつもの部室。いつもの午後。


 でも今日から、俺の見え方が少しだけ変わった。この場所を「守る側」として見ている。来年、凛先輩がソファからいなくなった時、この部室がどう見えるか。想像すると、少しだけ怖い。でも怖さの向こうに、凛先輩の「お前なら大丈夫だ」がある。大丈夫だと言ってもらえた。それだけで怖さは半分になる。



    *



 帰り道。一人で歩いている。


 三月の夕暮れ。空が紫とオレンジのグラデーションだ。冬の空は灰色だった。春に向かう空は色が増える。


 凛先輩に「お前が部長だ」と言われた。部長。桐谷凛の後の部長。朝倉陽翔が文芸部の二代目部長。


 重い。重いけど、不思議と嫌じゃない。凛先輩が「お前なら大丈夫だ」と言ってくれた。凛先輩が認めた。一年前に連行されてきた男を。膝を壊して走れなくなった男を。ペンを握って走り直した男を。凛先輩の目は確かだ。ミステリ屋の目だ。人を見る目が確かだ。その目が「大丈夫だ」と言った。信じていい。


 凛先輩は「お前のやり方でやれ」と言った。ソファからではなくちゃぶ台から。命令ではなく提案で。一人で引っ張るのではなく、一緒に走ることで。


 サッカーでいえばボランチだ。チームの真ん中で、パスを回して、全体を見渡す。ボランチは派手なゴールは決めない。でもチームを動かす。パスを出す。受ける。繋ぐ。


 そう考えると、サッカー部にいた意味もあるのかもしれない。走り方を変えた先に、部長がある。グラウンドから畳の上に。スパイクからペンに。変わったのは場所と道具だけで、チームの真ん中にいるのは同じだ。


 「千歳のことも頼む」。凛先輩が最後に言った。照れくさそうに。にやりと笑いながら。凛先輩は俺と詩織さんの関係を見ている。ミステリ屋の観察力で。そして応援している。口には出さないけど。


 壮介にLINEを送った。「凛先輩と話した」。壮介の返信。「何の話?」。「来年の話。まだ内緒」。壮介の返信。「内緒!? 俺には教えろ!」。「秋になったら分かる」。壮介の返信。「秋まで待てない!!」。にやにやスタンプ。壮介はいつでもにやにやしている。


 来年は部長だ。凛先輩が築いた場所を守る。壮介と詩織さんと先生と。新しく入ってくる後輩と。ちゃぶ台の前で。ホワイトボードの掟を背にして。ソファではなく、ちゃぶ台から。俺のスタイルで。


 三月の風が吹いた。冬と春の間の風。梅の匂いが混ざっている。来月には桜が咲く。凛先輩が三年生になる。俺が二年生になる。後輩が来る。ちゃぶ台がもう一台必要になるかもしれない。


 全部が変わる。でも全部は変わらない。ちゃぶ台は変わらない。畳は変わらない。掟は変わらない。凛先輩が「いた」ことは変わらない。


 家に帰った。自室の机。ブックカバーのかかった文庫本が本棚にある。紺色。白い「H」。詩織さんが縫った「H」。凛先輩が「千歳のことも頼む」と言った。頼まれた。詩織さんのことを。


 頼むの意味は分かっている。凛先輩は察しがいい。俺と詩織さんの間にある「名前のないもの」を見抜いている。壮介と同じだ。壮介はにやにやスタンプで示す。凛先輩は片目をつぶって示す。方法が違うだけで、見ているものは同じだ。


 来週、手紙を開ける日が来る。一年前に書いた手紙。本棚の奥に封をして入れた。あの時の自分が、今の自分に何を言うのだろう。一年前の四月。何も書けなかった自分。何も持っていなかった自分。あの自分が今の自分を見たら、何と言うだろう。


 「部長になったのか」と驚くだろうか。「詩織さんに栞を渡したのか」と照れるだろうか。「壮介が六十一点を取ったのか」と笑うだろうか。


 一年前の手紙を開ける。一年間の答え合わせをする。全員で。凛先輩も壮介も詩織さんも先生も。五人で。同じちゃぶ台で。


 春が近い。手紙を開ける日が近い。一年目が終わる日が近い。


 全部が近い。でもまだ今日じゃない。今日は凛先輩に「部長を頼む」と言われた日だ。それだけで十分に重い一日だ。


 ペンを持った。ノートを開いた。何か書こう。部長として、最初の一行を。


 「凛先輩が"頼む"と言った。俺は引き受けた。ここから先は俺の番だ」


 一行。短い。でもこの一行が、二年目の最初のページになる。


 ノートを閉じた。窓の外を見た。三月の夜空。星が見えた。大晦日の夜は曇りだった。今日は晴れている。星が一つ、二つ、三つ。数えるのをやめた。数えきれないから。


 数えきれないものがこの一年間にはあった。書いた文字の数。読んだ本の数。笑った回数。壮介に突っ込んだ回数。凛先輩に叱られた回数。詩織さんの万年筆の音を聞いた回数。先生の缶コーヒーの蓋の音を聞いた回数。


 全部が、一年目の数だ。数えきれない。でも全部覚えている。

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