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第87話 学年末テスト──最後の戦い

# 学年末テスト──最後の戦い


 学年末テスト一週間前。四回目の部室勉強会。


 もう手慣れたものだ。凛先輩が仕切り、ペアリングを決め、スケジュールを管理する。ちゃぶ台の上に教科書とノートと参考書が広がっている。ストーブがまだ動いている。三月に入ったが、旧校舎の四階はまだ寒い。


 四回目ともなると全員の動きに無駄がない。凛先輩がペアリングを発表する前に、全員が自主的に席についている。壮介は俺の隣。詩織さんは凛先輩の隣。先生は巡回ポジション。一年間で確立されたフォーメーション。サッカーでいえばスタメンの配置だ。全員が自分のポジションを理解している。


「今回こそ六十点超える!!」


 壮介が宣言した。四回連続で宣言している。壮介のテスト前の宣言は季節の風物詩だ。春は五十点。夏は五十五点。秋も五十五点(未達)。冬は六十点。


「今回の目標が六十か」


 凛先輩がソファから言った。


「春は五十。夏は五十五。秋は五十五。冬は六十。着実に上がっているな」


「成長曲線!!」


「曲線というには緩やかすぎるが」


「直線に近い!!」


「直線は成長曲線じゃなくて横ばいでは」


「横ばいじゃなくて微増!!」


「微増を堂々と宣言するな」


 壮介が胸を張った。微増を誇る男。壮介は自分の成長に対して常にポジティブだ。三点上がれば「成長」。一点上がれば「前進」。横ばいでも「安定」。壮介のメンタルは壊れない。


「壮介、今回は何の教科が一番ヤバい?」


「全部」


「全部!?」


「全教科均等にヤバい。穴がない。全方位にヤバい」


「穴がないのは良いことのように聞こえるけど、全方位にヤバいのは褒められない」


「でも前回より全教科三点ずつ上がればいけるんだ! 五十四プラス三で五十七、プラス三で六十!」


「二回足してるぞ。一回で六点上がらないと六十にはならない」


「六点!? そんなに!?」


「算数もヤバいじゃないか」


 先生が缶コーヒーを飲みながら壮介の計算を聞いていた。


「大和。算数は小学校で終わっている。高校は数学だ」


「先生、算数と数学って何が違うんですか」


「算数は答えが一つ。数学は答えが複数ある場合がある。お前の人生にも正解は複数ある」


「先生が哲学的なことを」


「テスト前に哲学は要らない。計算しろ。六十マイナス五十四はいくつだ」


「六!」


「正解だ。六点上げれば六十になる。六点分の勉強をしろ。具体的に。漢字で二点、古典で二点、英語で二点。それで六点だ」


「先生の指導が具体的!!」


「教師だからな」


 先生が珍しく実用的な指導をした。缶コーヒーを飲みながら。先生は教える気がない時は「自分でやれ」と言う。教える気がある時は、こうやって具体的な数字を出してくれる。今日は教える気がある日だ。


 壮介が「漢字で二点! 古典で二点! 英語で二点!」とノートに書き込んだ。壮介は目標を書くと実行する男だ。書かないと忘れる。書いても忘れることがあるが、書かないよりはマシだ。


「先輩、テスト範囲の重要ポイントはどこですか」


「全部だ」


「全部!? 全部が重要!?」


「テスト範囲はすべて重要だ。重要じゃない場所はテストに出ない」


「先輩の正論がつらい」


 壮介がちゃぶ台に額を打ちつけた。精神統一。がん。畳が揺れた。壮介の精神統一は毎回物理的だ。脳細胞が心配になるレベルで額を打ちつける。


「壮介、額打つの禁止。脳を大事にしろ。書く時に使う」


「書く時に使ってるのか? 俺、指で書いてる気がする」


「指令は脳から出てるんだよ」


「脳から!? 脳すげえ!!」


「今更か」


 詩織さんが壮介の古典ノートを覗き込んだ。


「壮介くん、ここの助動詞の活用表、間違ってますよ」


「どこ!?」


「"たり"の連体形が"たる"なのに"たれ"って書いてます」


「似てない!?」


「似てるけど違います。一文字違うだけで意味が変わるんです」


「一文字!? 一文字で変わるの!?」


「変わります。万年筆のインクと同じです。一滴多いだけで文字の太さが変わります」


「詩織ちゃんの例え方が独特すぎる!!」


 詩織さんの古典指導はインクの比喩だった。一文字の違いをインクの一滴に例える。分かりやすいような分かりにくいような。でも壮介はなぜか理解した。壮介は独特な例えのほうが記憶に残るタイプだ。


 凛先輩が壮介の英語のノートを見た。三秒で閉じた。


「壮介。英語のスペルが全部カタカナで書いてある」


「覚えやすいから!!」


「英語をカタカナで書くのは禁止だ。テストではアルファベットで書け」


「アルファベットだと覚えられないんだ!!」


「覚えろ。カタカナの英語は通用しない。"サンキュー"と"Thank you"は別の言語だ」


「別の言語!?」


「別だ。カタカナ英語は日本語だ。英語の試験で日本語を書いても点はもらえない」


 壮介が「サンキュー」と「Thank you」の違いに衝撃を受けていた。高校一年生にしてカタカナ英語が通用しないことを知った。遅すぎる。でも知らないよりはマシだ。壮介の成長は「知らないことを知る」ことから始まる。



    *



 勉強会が三時間続いた。


 俺が壮介に英語の文法を教え、凛先輩が壮介に古典の助動詞を叩き込み、詩織さんが壮介に数学の公式を説明した。壮介への三方向同時教育。壮介の周りに三人の家庭教師がいる状態。贅沢だ。壮介は世界で一番恵まれた劣等生かもしれない。


「壮介、古典の"けり"と"き"の違いは?」


「えーと。"けり"は伝聞過去で、"き"は体験過去!」


「正解だ。覚えたな」


「覚えた!! 凛先輩に百回言われたから!!」


「百回言わないと覚えないのか」


「百回で覚えるのは早いほうだ!! 前は二百回だった!!」


「退化してないか?」


「進化だ!! 百回に短縮された!!」


 凛先輩が溜息をついた。でも笑っている。壮介の古典の成績は、一年間で凛先輩の指導のおかげで着実に上がっている。春は赤点ギリギリ。今は平均近い。凛先輩の根気と壮介の粘りの合作だ。


 詩織さんが俺に数学を教えてもらっている。逆だ。俺が詩織さんの数学を助けているのだ。国語九十八点の天才が数学で苦しんでいる。世の中は不公平だ。


「ここの二次方程式、因数分解ですよね」


「そう。x二乗プラス五xプラス六は、xプラス二かけるxプラス三」


「二と三を足すと五で、かけると六。なるほど」


「詩織さん、理解は早いんだから、あとは練習だよ」


「練習が苦手なんです。万年筆なら何時間でも練習できるのに、シャープペンだとすぐ手が止まる」


「道具の問題じゃないだろ」


「道具の問題です。万年筆のペン先は美しいですが、シャープペンの芯には美しさがありません」


「数学の美しさはペン先にはないよ。数式にある」


「数式に美しさを感じられたら、数学が得意になれるんでしょうね」


「たぶんね」


 詩織さんの数学嫌いは道具のせいではない。でも詩織さんにとって道具は大事だ。万年筆で数学を解けたら、詩織さんの数学の成績は跳ね上がるかもしれない。マークシートに万年筆は使えないが。



    *



 テストが終わった。


 成績発表の日。部室。ストーブの前で全員が答案用紙を持っている。四回目の成績発表会。凛先輩がホワイトボードに一年間の成績推移を書いた。四回分。春から冬まで。


 壮介から。


「全教科平均……」


 壮介が答案用紙を震える手で持っている。紙がカサカサと鳴っている。


「六十一点!!」


 部室が沸いた。壮介が立ち上がった。答案用紙を天井に向かって掲げた。


「六十超えた!! 六十超えた!!」


 全員で拍手した。壮介の目に涙が浮かんでいる。バレンタインのチョコをもらった時と同じ顔だ。壮介にとってのバレンタインは二月に二回あったことになる。チョコと六十一点。


「おめでとう。一年で十三点上がった。壮介にとっては快挙だ」


「快挙!! 俺、快挙!!」


「古典は何点だった?」


「五十八点!!」


「五十八。春の三十二点から二十六点上がった。お前に古典を教えた甲斐があった」


「凛先輩のおかげです!!」


「お前が覚えたんだ。俺が教えただけだ」


 凛先輩の声が少しだけ柔らかかった。壮介の古典が五十八点。凛先輩が一年間、百回ずつ教えた成果だ。百回の「けり」と百回の「き」。全部が五十八点の中に入っている。


 凛先輩がホワイトボードに書いた。「壮介:48→51→54→61」。右肩上がりの数字。緩やかだが確実な上昇。壮介の成長曲線は直線に近い。でも直線だって上を向いていれば成長だ。


 詩織さんの番。


「国語九十八点。数学四十五点です」


「国語は安定の九十八。数学が五点上がったな」


「四十五点!! 赤点じゃないどころか平均に近づいています!!」


「平均は五十五だ。まだ十点足りない」


「十点!! 来年は五十五を目指します!!」


 詩織さんの数学が四十五点。春の二十八点から十七点上がった。俺が教えた因数分解が出たらしい。二次方程式の問題を全問正解したと詩織さんが嬉しそうに言った。


「朝倉くんが教えてくれた因数分解、全部解けました」


「良かった」


「万年筆で解きたかったですけど」


「シャープペンで頑張れ」


 俺の番。


「国語八十二点。入部以来の最高更新です」


「八十二!! 春の六十五から十七点アップだ!!」


 壮介が叫んだ。俺の成績に壮介が叫ぶ。壮介は人の成功に全力で叫べる人間だ。


「文芸部で読んで書いて考えた一年間が、国語の点数に出ているな」


「先輩たちの合評のおかげです」


「お前が伸びたんだ。合評はきっかけに過ぎない」


 凛先輩がホワイトボードに書いた。「陽翔:65→73→75→82」。一年間で十七点。壮介の十三点より多い。俺のほうが伸び幅が大きい。でも壮介の十三点のほうが重い。四十八点から六十一点への十三点は、六十五点から八十二点への十七点より険しい道のりだ。


 凛先輩の番。


「全教科平均八十五点。安定」


「先輩は安定しすぎです」


「受験に影響しないレベルを維持できた。テストと受験勉強の両立が成功した証拠だ」


「先輩の成績推移は?」


 凛先輩がホワイトボードに書いた。「凛:78→80→82→85」。右肩上がり。凛先輩も伸びている。受験勉強との両立の中で、テストの成績まで上げている。凛先輩の効率は異常だ。


 先生がホワイトボード全体を眺めた。四人分の成績推移。全員が右肩上がり。一年間で全員が成長した。


「全員の成績が上がっている。一年間の文芸部の活動が国語力に直結した。読む、書く、考える、発表する。全部がテストに出る能力だ」


「先生、教育委員会に報告しましょうよ。"文芸部に入ると成績が上がる"って」


「報告しない。注目されると面倒だ」


「先生の面倒嫌いが一年間変わらない」


「変わらないのも安定だ。俺の成績推移は面倒回避力一定だ」


 先生の面倒回避力だけは年間通して安定していた。成績推移グラフにしたら完璧な水平線だ。


 先生がホワイトボードの数字を全員で眺めた。四人分の一年間。右肩上がりの数字が並んでいる。


「これが一年間の成果だ。数字で見える成長。テストの点数だけが成長じゃないが、数字は嘘をつかない。お前たちは確かに伸びた」


 先生が赤ペンを胸ポケットから出した。ホワイトボードの数字の横に赤い丸をつけた。壮介の「61」に丸。詩織さんの「数学45」に丸。俺の「82」に丸。凛先輩の「85」に丸。


「赤丸は"合格"の印だ。テストの合格じゃない。一年間の努力の合格だ」


 先生の赤ペンが合格印になった。いつもは原稿の修正に使う赤ペンが、今日はテストの成績に使われた。赤ペンの使い方が違う。でも「見ている」「認めている」の意味は同じだ。先生の赤ペンは、どこに使っても愛情の証だ。


 壮介が赤丸を見て「先生に丸もらった!! 人生初!!」と叫んだ。先生が「人生初は言い過ぎだ」と返した。壮介の「人生初」は年に何回も出てくる。バレンタインのチョコも人生初だった。六十点超えも人生初。壮介の人生は初体験で溢れている。


 詩織さんが赤丸を嬉しそうに見ていた。国語九十八点ではなく、数学四十五点のほうの赤丸を。苦手科目で認められたのが嬉しいのだ。


「先生、数学の赤丸が嬉しいです。国語より」


「苦手を克服するほうが、得意を維持するより難しい。だから赤丸だ」


「来年は五十五を超えます」


「超えろ。お前なら超えられる。因数分解ができたんだから」


 先生の指導は的確だ。褒める時は具体的に褒める。「できた事実」を指摘する。先生は漠然と「頑張れ」とは言わない。「因数分解ができた」と事実を示す。事実に基づく励ましは、曖昧な励ましより十倍強い。



    *



 テストが終わった日の帰り道。三月初旬。風が少し暖かくなった。冬のマフラーが少しだけ暑く感じる。春が近い。


 壮介が隣を歩いている。テスト後の壮介はいつもハイテンションだ。解放感で声が百五十パーセントになっている。


「六十一点だぞ!! 俺!! 六十一!!」


「もう五回聞いた」


「六回目だ!! 六十一!!」


「報告する回数と点数が近づいてるぞ」


「六十一回言う!!」


「やめてくれ」


 壮介が六十一点の話を六十一回する前に、話題を変えた。


「来年はどうする?」


「来年? テストの話?」


「テストもだけど、部活の話。後輩が入るかもしれない。凛先輩が三年になる。俺たちが教える側になる」


「教える側か。俺に教えられることってあるかな」


「あるだろ。壮介の千九百八十文字から、新入部員は学べることがたくさんある」


「何を?」


「下手でも書き続けることの大事さ」


「褒めてるのかけなしてるのか分からない!!」


「褒めてる。壮介が一年間書き続けたことは、どんな上手い文章よりも説得力がある」


 壮介が黙った。三秒。壮介が黙る三秒は、相手の言葉を受け取っている三秒だ。


「ありがとう。陽翔」


「どういたしまして」


「来年も隣にいるからな。部室で。ちゃぶ台で。テスト勉強会で。全部」


「ああ。来年も頼むよ」


 壮介が笑った。今日は全力の笑いだ。口が裂けそうなくらい大きく開けて。声が空に抜けるくらい大きく笑って。


 春が近い。テストが終わった。一年目の最後の壁を越えた。あとは春休みだ。終業式だ。そして四月が来る。二年目が来る。


 でもその前に。凛先輩が何かを聞きたがっている気がする。テストが終わったら話す、と言っていた目をしていた。ホワイトボードの前で宣言した日から、凛先輩の目が少しだけ変わっている。問いかけの目だ。


 何を聞かれるのか。たぶん分かっている。でもまだ答えは用意していない。凛先輩の問いに、どう答えるか。春が来る前に。


 ホワイトボードの数字を思い出した。四人分の一年間。48→51→54→61。65→73→75→82。全員が上がった。全員が成長した。でもこの数字が意味するのは、テストの点数だけじゃない。


 文芸部に入って、読んで、書いて、考えて、発表して。合評で人の文章を読み、自分の文章を直し、コンクールに出し、文化祭で声に出した。全部が繋がっている。テストの点数は氷山の一角だ。水面の下には、この一年間で積み上げた全部がある。


 来年のテストでは、壮介が七十点を超えるかもしれない。詩織さんの数学が五十五点を超えるかもしれない。俺の国語が九十点に届くかもしれない。


 でもそれは来年の話だ。今年のことは今年で終わる。一年目のテストが終わった。一年目の全部が、もうすぐ終わる。


 春が来る。桜が咲く。凛先輩が三年生になる。俺たちが二年生になる。後輩が来るかもしれない。ちゃぶ台がもう一台必要になるかもしれない。


 その前に。凛先輩の問い。答えなきゃいけない問い。


 「来年は私がいなくても大丈夫か」。


 先輩はたぶん、そう聞く。

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