第86話 凛先輩は来年もここにいる(よね?)
# 凛先輩は来年もここにいる(よね?)
二月の第三週。三学期が折り返しを過ぎた。
部室に入ると、凛先輩がホワイトボードの前に立っていた。ソファではなくホワイトボードの前。凛先輩がソファから離れて立つのは、何か重要なことを話す時だ。
全員が揃うのを待った。壮介が最後に入ってきた。引き戸を閉めた。カラカラ。部室が静かになった。
「全員揃ったな」
凛先輩が部室を見渡した。ちゃぶ台の前に座る四人と、ソファの端の先生。五人。いつもの五人。
「来年のことを今のうちに話しておく」
凛先輩の声がいつもより少しだけ改まっていた。部長としての声だ。普段のソファの上のクールな声とは違う。ホワイトボードの前に立つ凛先輩は、部の方針を語る時の凛先輩だ。
「進級は問題ない。成績は安定している。受験にも影響しないレベルだ」
部室にホッとした空気が流れた。詩織さんが小さく息を吐いた。壮介が「よかった」と呟いた。先生が缶コーヒーを一口飲んだ。
「先輩、来年も二階にいるんだよね?」
壮介が聞いた。
「三年の教室は三階だが」
「文芸部にいるって意味!」
「いる」
凛先輩が即答した。短く。断定的に。凛先輩らしい。
「引退は秋まで粘るつもりだ」
詩織さんが指を組んだ。計算している。
「秋まで、ということは、夏のコンクールと秋のコンクール、あと二回出られるんですね」
「そうだ。それが俺の"残り回数"だ。前に言ったろう、あと三回と。あれから一回使った。残り二回」
「二回。大事にしましょう」
「大事にするよ。一回も無駄にしない」
残り二回。凛先輩のコンクール。秋に「来年は絶対に獲る」と言った。来年が来た。残り二回で入賞を狙う。凛先輩にとっての最後の挑戦が、二回だけ。
*
凛先輩がマーカーを持った。ホワイトボードに書き始めた。
「来年のことをもう少し話す。俺は三年になる。受験がある。塾も行く。だが文芸部を辞めるつもりはない。引退は秋の文化祭の後。それまでは部長を続ける」
壮介がガッツポーズをした。両手を握りしめて、ちゃぶ台の下で。声は出さなかった。壮介が声を出さずに喜ぶのは珍しい。本気で安心している時だけ、壮介は声を抑える。
「ただし」
凛先輩の声が一段下がった。
「来年は後輩が入るかもしれない。新しいメンバーが増えたら、お前たちが教える側になる」
「俺たちが?」
「当然だ。俺がお前たちに教えたことを、お前たちが次の世代に渡す。それが部活だ」
教える側。俺たちが教える。九ヶ月前に入部して、凛先輩に合評の仕方を教わって、先生に赤ペンを入れてもらって、詩織さんに文章の密度を学んだ。受ける側だった俺たちが、渡す側になる。
「もう一つ」
凛先輩がマーカーのキャップを外した。ホワイトボードに大きく書いた。
「引退した後も部室には来る。OGとして。卒業しても文芸部は辞めない」
壮介が椅子から半分立ち上がりかけた。
「先輩がOGになる。想像つかない」
「なるんだよ。いつかは」
「先輩がソファにいなかったら部室じゃないです」
「ソファは壮介に譲る。お前が座る番だ」
「俺が!? 先輩のソファに!?」
「俺のソファじゃない。部室のソファだ。次に座る人間がいれば、それでいい」
詩織さんが万年筆を膝の上に置いた。
「凛先輩がOGで来てくれたら、嬉しいです。いつでも」
「やめろ。湿っぽくなる。まだ一年以上あるんだからな」
凛先輩が照れた。口元だけ笑っている。凛先輩が照れるのは年に数回しかない。バレンタインのブラックサンダーの時と、今日と。
先生が缶コーヒーを飲み干した。ぷしゅ、と蓋を閉める音。
「凛。卒業しても来い。お前の席は空けておく」
「席はなくていいです。ちゃぶ台の端で十分です」
「ちゃぶ台の端か。それでいい。缶コーヒーくらいは出してやる」
「先生のおごりですか?」
「おごりだ。OG特典だ」
「先生にしては太っ腹ですね」
「缶コーヒー一本くらいは出る。二本目は自腹だ」
先生の太っ腹は缶コーヒー一本分だ。二本目から自腹。先生のケチさは健在だが、一本目をおごると言ったのは先生なりの愛情表現だ。
凛先輩がホワイトボードに書き終えた。「引退:秋の文化祭後。OGとして来訪。部室は閉じない」。十二文字。凛先輩の宣言はいつも短い。短くて重い。
「質問はあるか」
凛先輩が全員を見渡した。部長として。
「先輩。来年、後輩が入ったら、俺たちが教えるんですよね」
「ああ。合評のやり方。部誌の作り方。コンクールへの出し方。全部教えろ」
「俺、人に教えたことないんですけど」
「俺もなかった。お前たちが入ってくるまで。教えることで学ぶことがある。教わる側より教える側のほうが成長する。俺がそうだった」
凛先輩が教える側で成長した。俺たちに合評のやり方を教えることで、凛先輩自身の合評力が上がった。壮介の千二十文字に真剣なフィードバックを返すことで、凛先輩の読解が深まった。教えることは学ぶことだ。
「俺が教えたスタイルをそのまま真似る必要はない。お前はお前のやり方を見つけろ。俺はソファから全体を見るタイプだ。お前はちゃぶ台から一緒に走るタイプだろう。同じやり方をする必要はない」
「俺のやり方を見つけろ、ですか」
「そうだ。引き継ぎは"同じやり方を渡す"ことじゃない。"自分のやり方を見つける余白を渡す"ことだ」
凛先輩の言葉が胸に刺さった。同じやり方を渡すんじゃない。余白を渡す。凛先輩はソファから部を見渡すリーダーだ。俺は凛先輩とは違う。凛先輩の真似をしても凛先輩にはなれない。俺のスタイルを見つける。ちゃぶ台から一緒に書くスタイルを。
「先輩。ありがとうございます」
「礼を言うな。まだ何もしていない。あと半年は部長だ。礼は引退する日に聞く」
「引退する日に言います。今日のぶんも含めて」
「そうしろ」
凛先輩がマーカーのキャップを閉めた。ホワイトボードから離れて、ソファに戻った。いつもの姿勢。足を組んで文庫本を開く。部長モードが終わった。凛先輩がソファに戻ると空気が緩む。部長とクールな先輩の切り替えが自然だ。
*
放課後。全員が帰った後、一人で部室に残った。
ホワイトボードを見た。凛先輩が前に書いた文字が残っている。「来年も全員で入賞」。その横に今日追加された文字。「引退:秋の文化祭後。OGとして来訪。部室は閉じない」。
その下に掟が四つ。書け。読め。笑え。泣くな。凛先輩がこの部室に来た最初の日に書いた四つの言葉。消えかけている。何度も上から書き直してある。マーカーの色が微妙に違う。書き直すたびに少しずつ色が変わっている。凛先輩の掟の歴史がマーカーの色に残っている。
凛先輩の字だ。きれいな字。ホワイトボードにマーカーで書いても、凛先輩の字は読みやすい。命令形が多い文章を書く人の字は、不思議と美しい。
本棚を見た。四冊の部誌。第一号の表紙が見える。壮介の棒人間。目も口もない棒人間。あの棒人間が十ヶ月で表情を持つようになった。壮介の成長が表紙に出ている。
ちゃぶ台に手を置いた。木の温度。冬のちゃぶ台は冷たい。でもストーブの暖気で少しだけ温もっている。このちゃぶ台で何人が座って書いただろう。何文字がここで生まれただろう。壮介の千二十文字。千九百八十文字。俺の一万文字。詩織さんの銀賞作品。凛先輩の「守護者の密室」。先生の五百文字のエッセイ。全部がこのちゃぶ台の上で生まれた。
ノートを開いた。ペンを取った。
凛先輩がいる間に、吸収できることは全部吸収する。先輩の合評力。文章の密度を一言で見抜く目。ミステリの構造を応用した構成の組み方。そして何より、部長としての在り方。ソファから全体を見渡すリーダーシップ。短い言葉で核心を突く力。怒らないのに後輩が自然と従う存在感。
あと半年。半年で先輩の全部を吸収するのは無理だ。でもできるだけ多く。
凛先輩が今日言った。「自分のやり方を見つける余白を渡す」と。余白。凛先輩が残してくれる余白に、俺のスタイルを書き込む。ソファではなくちゃぶ台から。命令ではなく提案で。一人で引っ張るのではなく、一緒に走ることで。
先輩が卒業した後、俺たちがこの部室を守る番になる。凛先輩が作った文芸部を。ちゃぶ台とソファとホワイトボードと本棚の部室を。五人で始めた場所を。
ノートに一行書いた。「先輩がいる間に、全部吸収する。先輩がいなくなった後、全部渡す」。渡す先はまだ見えない。来年入ってくるかもしれない後輩に。壮介に。詩織さんに。先生に。全員に。凛先輩がくれたものを、次の人に渡す。
それが部活ってものなのかもしれない。四月に入部した時は分からなかった。先生に腕を掴まれて連行されただけだった。十ヶ月経って、ようやく分かり始めている。受け取って、渡す。書いて、読まれて、また書く。終わりがないサイクル。凛先輩から俺へ。俺から誰かへ。その誰かから、また誰かへ。
*
帰り道。壮介と二人で歩いている。
壮介がいつもより静かだった。いつもの七割くらいの声量。壮介の七割は普通の人の百パーセントだが、壮介比では静かだ。
「凛先輩がいなくなるの、嫌だな」
壮介が言った。まっすぐ前を見て。
「まだ先だよ」
「でも来るだろ。引退。卒業。先輩がソファからいなくなる日」
「来る。いつかは」
「俺、先輩がいなかったらこの部入ってない。先輩が"入れ"って言ってくれたから」
「俺もだよ。先輩に引きずり込まれた」
「引きずり込まれて良かったよな」
「ああ。最高に良かった」
壮介が笑った。寂しそうに。壮介が寂しそうに笑うのは初めて見た。口元だけの小さな笑いくらい大きく笑う。今日の壮介の笑いは、口元だけだった。凛先輩みたいだった。
「俺さ、凛先輩のこと考えると、もっと書きたくなるんだよ」
「もっと書きたくなる?」
「先輩がいる間に、もっとうまくなりたい。先輩に"面白い"って言ってもらいたい。千二十文字の時は何も言ってもらえなかった。千九百八十文字で"壮介らしい"って言われた。来年は何て言ってもらえるかな」
「"面白い"って言ってもらえると思うよ」
「根拠は?」
「壮介が真剣に書いてるから。真剣に書いてる人間の文章は面白くなる。先生も言ってたろ」
「先生が言ってた。"お前の文章は動く"って。動くだけじゃダメなのかな」
「動くのは才能だ。動かない文章は多い。壮介の文章は読んでて体が動く。それは凄いことだ」
「凄いのか。俺」
「凄いよ。下手だけど凄い。矛盾してるけど本当だ」
「下手だけど凄い!! 新しい褒め方だ!!」
壮介の声量が百二十パーセントまで回復した。下手だけど凄い。壮介にとっては最高の褒め言葉だろう。上手くなる必要はない。動く文章を書ける壮介は、それだけで壮介だ。
「じゃあ先輩がいなくなっても、俺たちでやるしかないな」
「やるしかない」
「焼肉食いながらな」
「最後に焼肉入れるな」
「焼肉は文芸部の燃料だ」
「燃料は原稿用紙だろ」
「原稿用紙と焼肉と缶コーヒーだ。三種の神器」
「壮介の三種の神器がおかしい」
笑った。二人で。冬の帰り道で。寂しさを笑いで包んで歩く。壮介と俺のいつもの帰り方だ。
壮介が駅の改札の前で立ち止まった。
「陽翔」
「ん」
「俺さ、先輩がいなくなったら、お前の隣でずっと叫んでるから。部室で。書けなくても。下手でも。千九百八十文字でも」
「千九百八十文字で十分だよ。壮介の千九百八十文字は、俺の一万文字より届く時がある」
「届く!? 俺の文が!?」
「届く。壮介の文は下手だけど動く。読んでると体が動く。先生も言ってたろ」
「先生が言ってた!! "才能だ"って!!」
「そうだ。壮介の才能だ。だから隣で叫んでくれ。来年も」
「叫ぶ!! 来年も再来年も!! 卒業しても!!」
壮介の声量が百五十パーセントに戻った。駅の改札で叫んでいる。周囲の乗客が振り返っている。壮介の声は半径三十メートルに届く。迷惑だ。でも嬉しい。壮介の声がある限り、文芸部は大丈夫だ。
壮介と別れた後、一人で歩いた。帰り道の空が冬の色をしている。灰色と紫。日が長くなってきた。二月の終わり。あと一ヶ月で一年生が終わる。四月からの十一ヶ月が、もうすぐ一年になる。
旧校舎を振り返った。四階の窓に灯りが見えた。部室の灯り。まだ誰かいる。凛先輩だ。たぶん。先生は先に帰ったはずだ。凛先輩が一人で部室に残っている。
ソファに座っているのだろう。本棚を眺めているのだろう。四冊の部誌。入部届。壮介の棒人間の看板。ストーブの残り火。全部が凛先輩の一年間の痕跡だ。凛先輩はあの部室で何を思っているだろう。来年のことか。卒業のことか。後輩のことか。
凛先輩は「離れたくない」とは言わない。凛先輩はそういう言葉を口にしない人だ。でも部室に一人で残っている。全員が帰った後に。灯りが点いている。消さない。まだ消さない。凛先輩がいる限り、あの灯りは消えない。
来年、凛先輩が引退した後も、あの窓に灯りが点いているようにする。俺が点ける。壮介が点ける。詩織さんが点ける。凛先輩がOGとして帰ってきた時に、変わらない灯りが待っているように。
あの灯りが消えるまで、部室は開いている。凛先輩がいる間も、凛先輩がいなくなった後も。誰かが灯りを点けている限り、部室は閉じない。
来年も灯りを点ける。俺が。壮介が。詩織さんが。先生が。新しく入ってくる誰かが。
凛先輩が今日言った。「部室は閉じない」と。
閉じない。約束だ。先輩がいなくなっても。先輩がOGとして帰ってきた時に、この灯りが変わらず点いているように。俺たちが守る。
学年末テストが近い。一年目最後のテスト。それが終われば春休みだ。春が来る。二年目が来る。来年は教える側になる。受ける側から渡す側に。
でもその前に。テスト。壮介が六十点を目標にしている。春から十二点上げる計画。春は四十八点だった。夏に五十一点。秋に五十四点。冬に六十点。壮介の計画は直線的だ。三点ずつ上がる直線。壮介の成長曲線は壮介らしく、まっすぐだ。曲がらない。壮介の文章と同じだ。不器用で、まっすぐで、動く。
詩織さんのことも考えた。来年のコンクール。詩織さんは金賞を狙っている。氷室に勝つ。「ファンです(訂正)ライバルです」の氷室に。詩織さんの隣で、俺も銅賞以上を狙う。約束した。一緒に入賞すると。栞と手紙を渡した日に。
全部が繋がっている。四月の入部から。夏の合宿から。秋のコンクールから。冬のストーブから。栞から。ハートのチョコから。凛先輩の宣言から。全部が一本の線で繋がっている。文芸部という一本の線で。
春が来る。でもまだ冬だ。冬の終わり。寒い。でもポケットの中で拳を握ると、少しだけ温かい。体温がある。書き続ける手の温もりがある。
先輩がいる間に、全部吸収する。先輩がいなくなった後、全部渡す。
約束だ。
あの灯りの下で、凛先輩は今も本棚を眺めているのだろう。四冊の部誌と掟四条を見つめて。この部室が好きだと、口には出さずに。




