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第84話  バレンタイン前夜──部室のチョコ事情

# バレンタイン前夜──部室のチョコ事情


 二月十三日。バレンタイン前日。


 部室に入った瞬間に空気がおかしかった。


 壮介がちゃぶ台の周りを歩き回っている。座らない。立ったまま、ちゃぶ台の周りを時計回りに歩いている。三周目だ。凛先輩がソファで本を読みながら「大和、鬱陶しいから座れ」と言った。壮介が「だって明日バレンタインだぞ!?」と叫んだ。


「知っている」


「チョコもらえるかな!?」


「お前にチョコをくれる人間がこの部にいると思うか?」


「いる!! いてくれ!!」


「現実を見ろ」


「見たくない!!」


 壮介が五周目に入った。俺がちゃぶ台の前に座って壮介の軌道をブロックした。壮介が止まった。


「座れ。歩いてもチョコは降ってこない」


「降るかもしれない!!」


「天から降るチョコはない」


「サンタが降るんだから、チョコも降っていいだろ!!」


「サンタは十二月だ。二月はバレンタインだ。降らない」


 壮介がしぶしぶ座った。座った三秒後に立ち上がった。


「やっぱり落ち着かない!!」


「落ち着け。お前のバレンタインの歴史を振り返れ」


「振り返りたくない!!」


「なぜ」


「お母さんからしかもらったことないからだ!!」


 部室が静まった。壮介の叫びが畳に吸い込まれた。


「壮介。母親のチョコは世界で一番尊い」


「尊いけど!! お母さん以外からもほしい!!」


「贅沢だ」


「贅沢じゃない!! 人間の基本的欲求だ!!」


「マズローの欲求階層にバレンタインのチョコは含まれていない」


「含めるべきだ!!」


 壮介のバレンタインへの期待は毎年空振りに終わっているらしい。中学三年間。高校一年目ここまで。全敗。母親チョコオンリー。壮介は人の成功に全力で叫べる男だが、自分の恋愛に関しては戦績ゼロだ。


「俺さ、文芸部入ってからモテ期来てると思うんだよ」


「来てない」


「即答!?」


「凛先輩も即答しますよね」


「俺と凛先輩の息が合ったの初めてだな」


 凛先輩がソファから「大和にモテ期が来る日は、俺のミステリが大賞を取る日と同じくらい遠い」と言った。


「先輩、自分も巻き込んだ!!」


「巻き込んでない。比喩だ」


「比喩が辛辣すぎる!!」


 詩織さんがちゃぶ台の向こうで万年筆を動かしている。取材ノートに何か書いている。


「詩織さん、今何書いてるんですか」


「取材です」


「壮介のバレンタインを取材してるの?」


「壮介くんの感情の振れ幅は文学的に価値があるので」


「文学的に価値がある!! でもチョコはもらえない!!」


「文学と恋愛は別のジャンルです」


 壮介が畳に沈んだ。詩織さんの冷静なツッコミは凛先輩より効く時がある。的確すぎて反論の余地がない。


 壮介が復活した。三秒で。壮介のメンタルは三秒でリセットされる。


「でも今年は違う! 文芸部に入って俺は変わった! 千二十文字書いた! 千九百八十文字書いた! 朗読バトルでMCやった! 五十七人の前で叫んだ! モテ要素がたくさんあるはずだ!」


「壮介。それは全部文芸部の実績であって、モテ要素ではない」


「文芸部の実績はモテ要素じゃないのか!?」


「文芸部の実績でモテる世界線は存在しない」


「存在させる!! 俺が!!」


 凛先輩が「お前がモテ世界線を創設する気概は買うが、現実世界では通用しない」と止めを刺した。壮介が三度目の畳沈没。復活まで五秒。新記録。


 先生が缶コーヒーを飲みながらちゃぶ台の端で黙って聞いていた。


「先生はバレンタインどうですか」


「俺か。去年はゼロだ」


「先生もゼロ!?」


「独身教師にチョコをくれる生徒はいない。当然だ」


「先生と俺で仲間だ!!」


「仲間にするな。年齢が違いすぎる」


「ゼロ仲間に年齢は関係ない!!」


 壮介と先生の「ゼロ同盟」が結成された。バレンタインのチョコを一個ももらえない男たちの同盟。結成と同時に解散してほしい。


「先生、来年は婚活してくださいよ。そしたら来年のバレンタインは」


「婚活の話はするな。凛にも同じことを言われた」


「凛先輩にも!?」


「クリスマスにも言われた。正月にも言われた。月一ペースで婚活を勧められている」


「月一!! 凛先輩の婚活推進が定期イベント化してる!!」


 凛先輩がソファから「先生の幸福は部の士気に影響する」と繰り返した。先生が「何の理論だ」と返した。二ヶ月前と同じ会話だ。先生の婚活は文芸部の季節行事になりつつある。春のコンクール、夏の合宿、秋の文化祭、冬の先生の婚活勧告。


「先生、俺がプロフィール書きましょうか。"趣味:缶コーヒー。特技:赤ペン。年齢:秘密"」


「年齢を秘密にするな。あと趣味が缶コーヒーだけだと引かれるぞ」


「他に趣味あるんですか」


「ない」


「ないのか!!」


「缶コーヒーが俺の全てだ」


「先生、それで婚活は無理だと思います!!」


 先生が缶コーヒーを啜った。悲しそうな顔はしていない。先生は一人が嫌いじゃない。ただ部室にいる時だけは一人じゃない。五人の生徒がいる。缶コーヒーを飲みながら見守る相手がいる。それで十分なのかもしれない。今のところは。



    *



 詩織さんが少し遅れて部室に来た。


 鞄が普段より膨らんでいる。手にビニール袋を持っていた。中身が見えた。板チョコ。ココアパウダー。生クリーム。ラッピング用の小箱。


 チョコレートの材料だ。


「千歳、手作りか」


 凛先輩が一瞬で看破した。


「はい。今夜作ります」


 壮介が椅子から飛び上がった。


「手作り!? 詩織ちゃんがチョコ作るの!?」


「部員全員にです。義理です。義理です」


 二回言った。


 二回言った。詩織さんが同じ言葉を二回言う時は、嘘をつけない自分を補強しようとしている時だ。「取材です」を二回言ったことはない。「フィクションです」を二回言ったこともない。「義理です」だけが二回繰り返された。


「千歳、"二回言う"のは嘘の時の癖だぞ」


 凛先輩が的確に指摘した。


「嘘じゃありません!!」


 三回目の否定。一回目より声が大きい。声が大きくなるのは動揺している証拠だ。壮介の法則と同じだ。壮介は嘘をつく時に声が大きくなるのではなく、本音に近づくと声が大きくなる。詩織さんも同じだ。


「参考にした本があるんですけど」


 詩織さんが鞄から料理本を取り出した。表紙を見た。


『恋する少女のショコラティエ入門』


「タイトルが完全に恋愛本じゃん!!」


 壮介が叫んだ。部室の壁が揺れた。


「取材です!! ショコラティエの技法を取材するための!!」


「"恋する少女"って書いてあるぞ!!」


「"少女"の部分は参考にしていません!! 技法だけです!!」


「タイトルの半分を無視して読んでるのか!?」


「はい!! 前半は無視して後半の"ショコラティエ入門"だけ読んでいます!!」


 凛先輩が溜息をついた。でも笑っている。


「千歳。料理で"取材"は新しいな」


「取材の範囲は無限です」


「無限のわりに方向が偏っている気がするが」


 詩織さんの頬が赤い。チョコレートの話をしているだけなのに赤い。義理チョコの話をしているだけなのに。義理。義理のはずだ。


 凛先輩は購入派だと宣言した。


「俺はGODIVAで済ませる。手作りは性に合わない」


「先輩、GODIVAは義理にしては高くないですか」


「千歳と朝倉にはGODIVAだ。相応の品質を渡す」


「壮介は?」


「ブラックサンダーだ」


「格差!!」


 壮介が叫んだ。GODIVAとブラックサンダー。価格差は十倍以上ある。


「三本入りにしてやる」


「三本で手を打つしかないのか!!」


「ブラックサンダー三本は十分な愛情だ。量で勝負する」


「量!! 質じゃなくて!!」


「お前には量が合っている。大量に食べて喜ぶタイプだろう」


「否定できない!!」


 壮介がブラックサンダー三本で妥協した。凛先輩のブラックサンダーは凛先輩なりの愛情表現だ。高級チョコを渡すより、壮介が本気で喜ぶものを選んでいる。ブラックサンダーの壮介。GODIVAの俺と詩織さん。先生にもGODIVA。先生が「GODIVAか。俺には缶コーヒーでよかったのに」と言うのが今から見える。


 壮介が凛先輩に最後の交渉を試みた。


「先輩、ブラックサンダーにもう一本追加で四本にしてくれませんか」


「ダメだ。予算超過だ」


「一本三十円だぞ!! 三十円の予算超過!!」


「三十円が積もれば山となる。ミステリ屋は数字にシビアだ」


「三十円にシビアすぎる!!」


「来年は四本にしてやる。約束だ」


「来年!! 先輩、来年もくれるんですか!!」


「毎年くれてやる。卒業するまでは」


 壮介の目が輝いた。ブラックサンダーの約束。毎年。卒業するまで。凛先輩のブラックサンダーは壮介にとって年間契約だ。GODIVAより嬉しいかもしれない。


 詩織さんが料理本を鞄にしまいながら呟いた。


「今夜作ります。五つの箱。同じサイズ。同じリボン。全部同じです」


 全部同じ。詩織さんが「全部同じ」を強調した。強調するということは、強調しないと保てない何かがあるということだ。


 聞かなかった。聞いたら答えが返ってくる。明日の放課後まで、この曖昧さのまま過ごしたい。



    *



 帰り道。壮介と別れた後、一人で歩いている。


 商店街を通る。バレンタインの飾りつけがしてある。赤とピンクのハート。リボン。チョコレート店の前には行列ができている。女の子たちが真剣な顔で売場を覗いている。明日のための準備。街全体がバレンタインモードだ。


 文具店の前で足が止まった。ショーウィンドウにバレンタイン用のラッピングセットが並んでいる。赤い箱。ピンクのリボン。ハート型のシール。全部甘い色だ。


 栞を渡した時のことを思い出した。白い封筒。リボンは断った。シンプルに。詩織さんは喜んでくれた。万年筆の栞を「毎日使います」と言ってくれた。あの時の頬の赤さを思い出すと、自分の頬も熱くなる。条件反射だ。


 明日、詩織さんからチョコをもらう。全員に配る義理チョコ。同じ箱。同じリボン。同じ中身。義理だ。


 義理でいいのか。


 いや、義理で十分だ。何を期待しているんだ。栞を渡したのは先月だ。あの時から何かが変わった。変わっていないようで変わっている。部室で隣に座る時の距離が五センチ近くなった。帰り道に二人で歩く頻度が増えた。LINEの返信が少し早くなった。「少し」の変化。積もっている。


 五センチ近づいたところで何が変わるんだ。何も変わらない。変わらないはずだ。でも五センチの違いが心臓に響く。詩織さんの万年筆の音が聞こえる距離。インクの匂いが届く距離。五センチは遠いようで近い。


 家に帰った。自室の机。ブックカバーがかかった文庫本が本棚にある。紺色の布。白い「H」。詩織さんの手縫い。毎日見ている。見るたびに指先の温度を思い出す。


 壮介からLINEが来た。深夜十一時。壮介は深夜になると急に哲学的になる。


「陽翔、明日チョコもらえるかな」


「知らないよ」


「お前は詩織ちゃんから確定だからいいよな」


「確定じゃない」


 たぶん確定だ。


「俺にはくれる人いないんだぞ」


「凛先輩がブラックサンダーくれるだろ。三本」


「ブラックサンダーは嬉しいけど!! もうちょっと高いの欲しい!!」


「贅沢言うな」


「贅沢じゃない!! 人間の基本的欲求だ!!」


「それ前も言ったぞ。マズローの欲求階層にチョコはない」


「マズローが間違ってる!!」


 壮介がマズローを否定した。心理学者が聞いたら泣く。


 五分間LINEが止まった。五分後。


「なあ陽翔」


「ん」


「明日楽しみだな。チョコより文芸部が楽しみだ」


 壮介の本音が来た。チョコがもらえるかどうかより、部室に行くことが楽しみ。壮介にとってバレンタインの価値はチョコの数じゃない。五人で部室にいること自体がバレンタインだ。


「俺もだよ。文芸部が楽しみだ」


「おっ!! 珍しく素直!!」


「素直なこともあるだろ」


「詩織ちゃんのチョコが楽しみなくせに!!」


「違う!! 部活が楽しみだ!!」


「両方だろ」


「両方かもしれない」


「認めた!!」


 にやにやスタンプ。壮介の定番。俺の感情を見抜くたびに送ってくる顔。にやにやしているけど、悪意はない。親友が鈍感なのを楽しんでいるだけだ。


「壮介」


「ん」


「明日、詩織さんのチョコが全部同じかどうか確認してくれ」


「何で俺が」


「俺が自分で確認するのは気まずい」


「気まずいのか!? お前、気にしてるじゃん!!」


「気にしてない。確認したいだけだ」


「それを"気にしてる"って言うんだよ!!」


 壮介の正論。返す言葉がない。


「分かった。俺が全員のチョコを比較調査する。壮介調査員、任務受諾!!」


「調査員って何だよ」


「バレンタイン特別調査員だ!! チョコの形状・サイズ・ラッピングの差異を詳細に確認する!!」


「そこまで本格的にやらなくていい」


「任せろ!! 俺の観察力を舐めるな!!」


 壮介の観察力は食べ物に関してだけ異常に高い。カレーうどンの麺の太さの違いを零コンマ一ミリ単位で識別できると自称している。チョコの形状を見分けるくらいなら壮介にできる。たぶん。


「あとさ、陽翔」


「ん」


「お前、詩織ちゃんからチョコもらったら、ちゃんと顔見ろよ。下向くなよ」


「何で下向くと思うんだ」


「お前、照れると下向く癖があるだろ。栞渡した時も下向いてたって自分で言ってたじゃん」


 壮介が俺の癖を指摘した。確かに照れると視線が下に落ちる。詩織さんの取材ノートにも書いてあるかもしれない。「朝倉くんは照れると下を向く」。


「明日は顔上げろ。詩織ちゃんの表情を見ろ。チョコを渡す時の表情が一番大事だ」


「壮介、恋愛経験ゼロのくせにアドバイスだけは的確だよな」


「経験ゼロだからこそ客観的に見える!! 当事者は見えないものが第三者には見える!!」


「それは確かに」


「だろ!? 俺はお前の恋愛のプロデューサーだ!!」


「プロデューサーはいらない」


「MCならどうだ!!」


「恋愛にMCもいらない」


 壮介がスタンプを送ってきた。にやにや顔。定番だ。


「明日、頑張れ。お前も俺も」


「壮介は何を頑張るんだ」


「ブラックサンダーを全力で喜ぶ」


「それは頑張らなくても喜べるだろ」


「全力で喜ぶのは技術だ!! 凛先輩の気持ちに全力で応える!!」


 壮介は正しい。もらったものに全力で喜ぶのは技術だ。壮介はその技術の達人だ。ブラックサンダー三本を世界一のプレゼントのように喜べる男。その才能は、チョコの値段より大事かもしれない。


 スマホを閉じた。目を閉じた。明日が来る。二月十四日。バレンタイン。


 詩織さんが今夜、台所でチョコを作っている。「恋する少女のショコラティエ入門」を見ながら。五つの箱。同じサイズ。同じリボン。全部義理。全部同じ。


 本当に全部同じだろうか。


 一つだけ、形が違うかもしれない。詩織さんは嘘がつけない人だ。「義理です」を二回言った人だ。嘘がつけない人が作る「義理チョコ」に、本心が漏れているかもしれない。チョコの形に。一つだけ。


 そんなことを考えたらますます眠れなくなった。バレンタイン前夜。世界中の男が眠れない夜。壮介はたぶんもう寝ている。壮介はどんな時でも三分で寝る。先生も寝ただろう。缶ビールを飲んで。凛先輩はまだ起きているかもしれない。ミステリを読みながら。


 明日が来る。チョコレートの匂いがする部室が、明日の放課後に待っている。

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