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第83話 栞を渡す日

# 栞を渡す日


 土曜日の朝。引き出しを開けた。


 封筒がある。十二月二十六日に入れたまま、一ヶ月近くここにある。万年筆モチーフの栞と、便箋一枚の手紙。二十一文字。「詩織さん。一年間ありがとう。来年も隣で書こう」。


 今日渡す。


 口実は作ってある。詩織さんに借りていた小説を返す。十月に借りた本だ。読み終わっているのに返していなかった。返していなかったのではなく、返すタイミングを計っていた。本を返す時に、一緒に封筒を渡す。自然な流れだ。自然に見えるはずだ。


 スマホを開いた。LINEの画面。詩織さんとのトーク。最後のやり取りは昨日の「明日お時間ありますか?」「はい、大丈夫です」。理由は「返したい本がある」。嘘ではない。本を返すのは本当だ。ただ、本だけじゃない。


 十時に駅前のカフェで待ち合わせ。あと二時間。


 コートのポケットに封筒を入れた。内ポケット。心臓の近くだ。心臓がうるさい。封筒を入れたせいじゃない。封筒を入れる前からうるさかった。


 鏡を見た。いつもの服装。特別なことはしていない。髪は寝癖を直しただけ。おしゃれをする必要はない。プレゼントを渡すだけだ。感謝のプレゼント。感謝。感謝の。


 壮介にLINEを送った。「今日渡す」。三秒で既読がついた。返信。「頑張れ。焼肉奢ってやるから」。何でそこで焼肉が出てくるんだ。でも壮介の焼肉はいつも通りで、いつも通りが今は安心する。



    *



 駅前のカフェ。窓際の席。俺が先に着いた。


 コーヒーを注文して待っている。窓の外に人が歩いている。土曜日の午前中。買い物客。カップル。家族連れ。普通の休日。俺にとっては普通じゃない休日だ。コートの内ポケットに封筒が入っている。その重さが心臓に響いている。


 カフェの中は暖かい。暖房が効いている。コーヒーの湯気が立ち上っている。壁にジャズが流れている。小さな音量。リラックスできる空間のはずだ。リラックスできない。椅子に座っているのに落ち着かない。足が動く。膝が揺れる。


 壮介に「緊張する」とLINEを送った。壮介の返信。「サッカーの試合前みたいなもんだろ。大丈夫。お前は試合に強い」。壮介がまともなことを言っている。焼肉じゃなくてまともなことを。壮介がまともだと逆に不安になる。


 十時三分。入口のドアが開いた。


 詩織さんが入ってきた。


 白いニット。ダッフルコート。マフラー。頬が寒さで赤い。冬の外から来た人の顔だ。店内の暖かさとの温度差で、少しだけ息が白い。マフラーを外しながら俺の席を見つけた。微笑んだ。


「お待たせしました」


「三分だよ。全然待ってない」


「すみません。電車が一本遅れて」


「大丈夫。座って」


 詩織さんが向かいの椅子に座った。コートを脱ぐ。白いニットが見える。いつもの制服姿とは印象が違う。当たり前だ。私服なのだから。でも私服の詩織さんを見るのは数えるほどしかない。合宿と文化祭の打ち上げくらいだ。


 店員がメニューを持ってきた。詩織さんが「ホットチョコレートをお願いします」と注文した。甘い飲み物を頼む詩織さん。部室ではお茶しか飲まない。カフェでは甘いものを飲むらしい。知らなかった。


「本、持ってきたよ」


 鞄から小説を出した。十月に詩織さんに借りた本。読み終わったのは十一月だ。二ヶ月も返していなかった。


「ありがとうございます。読みました?」


「読んだ。すごく良かった」


「どの場面が好きでしたか?」


 本の話が始まった。詩織さんが俺に勧めた理由。主人公の走り方が変わる場面。新しい居場所を見つける場面。詩織さんは俺に合う本を選んでくれていた。走ることと書くこと。変わることと変わらないこと。俺の一年間と重なる物語。


「この本を勧めてくれた理由、分かりました。俺のことを考えて選んでくれたんですね」


「はい。朝倉くんに読んでほしい本でした。取材です」


「取材で小説を勧めるのか」


「はい。朝倉くんが何を読んで、何を感じるか。それが取材です」


 詩織さんの「取材です」は多義的だ。取材でもあり、本心でもある。詩織さんは俺の反応を知りたかった。読んだ感想を聞きたかった。それは取材であり、同時に「気にしている」の別名だ。


 ホットチョコレートが来た。詩織さんが両手でカップを包んだ。指先が冷たそうだ。冬の外を歩いてきた指。ストーブで万年筆を温めるのと同じ仕草で、カップを温めている。


 本の話が弾んだ。主人公が走れなくなってから新しい居場所を見つけるまでの描写が特に良かった、と俺が言うと、詩織さんが「あの場面を読んで朝倉くんのことを思い浮かべました」と答えた。


「俺のこと?」


「はい。朝倉くんもサッカーを辞めてから文芸部に来たでしょう。主人公が図書館で新しい自分を見つけるシーン、朝倉くんが部室で書き始めた時と重なったんです。だからこの本を勧めました」


「そこまで考えて選んでくれたのか」


「はい。朝倉くんに読んでほしい本を探すのは楽しいんです。朝倉くんが読んで、どこで立ち止まって、どの一文に引っかかるか。想像するだけで万年筆が進みます」


「俺を観察してるみたいだな」


「取材です」


「取材か」


「取材です。朝倉くんの感想を聞くのも取材の一部です。朝倉くんの表情を見るのも」


 最後の一文が少しだけ小さかった。詩織さんが自分で言って、自分で照れている。カップのホットチョコレートに顔を近づけた。湯気で隠れている。隠れているつもりだろうが、耳が赤い。耳は湯気では隠せない。


 俺も耳が熱い。詩織さんに「表情を見るのも取材」と言われた。見られている。観察されている。取材ノートに俺のことが書いてある。俺の顔が。表情が。何かを読んだ時の反応が。


 そういえば詩織さんの取材ノートを一度だけ見たことがある。俺のページが異常に詳しかった。「朝倉くんは小説を読む時、右の口角が上がる」とか「朝倉くんは感動すると膝を押さえる」とか。膝を押さえるのは無意識だった。サッカーの癖だ。詩織さんはそこまで見ている。



    *



 本の話が一段落した。


 店員がコーヒーのおかわりを聞きに来た。「お願いします」と答えた。時間を引き延ばしている。渡すタイミングを計っている。コーヒーのおかわりが来るまでの数十秒が、最後の猶予だ。


 店員がコーヒーを置いて去った。


 今だ。


 コートの内ポケットに手を入れた。封筒に触れた。冷たかった。外の空気で冷えている。心臓の近くにあったのに、封筒は冷たい。手が少し震えている。寒さのせいだと自分に言い聞かせた。嘘だ。


 封筒をテーブルの上に出した。白い封筒。何も書いていない。


「これ、詩織さんに」


 詩織さんが封筒を見た。目が少し見開かれた。


「何ですか?」


「クリスマスの時のプレゼント交換で、インクを渡しただろ。あれとは別に、ちゃんと渡したいものがあって」


「ちゃんと渡したいもの」


「開けてみてください」


 詩織さんが封筒を手に取った。丁寧に。万年筆を持つ時の指の動きと同じだ。繊細に。ゆっくりと。封を開ける。中から便箋と、小さな箱が出てきた。


 箱を先に開けた。万年筆モチーフの金属の栞。銀色。ペン先が繊細に再現されている。本に挟んでも邪魔にならないサイズ。


「きれい」


 詩織さんが栞を手に取った。指先で万年筆のモチーフを撫でた。ペン先の部分を。なぞるように。光にかざした。銀色がカフェの照明を反射した。


「栞です。詩織さん、いつも本を読んでるから。万年筆の形がいいかなと思って」


「万年筆の栞」


「本を読む時にこれを挟んでくれたら。書くことと読むことが繋がるかなと」


 詩織さんが栞をテーブルの上に置いた。次に便箋を取り出した。


 読んでいる。二行の手紙。二十一文字。読むのに三秒もかからないはずだ。でも詩織さんは十秒以上かけて読んでいた。一文字ずつ読んでいる。万年筆で書かれていない文字を、万年筆で書くように読んでいる。


 顔を上げない。手紙を持つ指が微かに震えている。便箋の端が揺れている。


 十五秒。二十秒。


 顔を上げた。


 目が潤んでいた。笑っているのに泣きそうだ。笑顔と涙が同居する表情。銀賞の結果発表の時と同じ顔だ。嬉しさと別の何かが混ざっている。


「朝倉くん」


「あ、泣かないでくれ。大したものじゃ」


「大したものです」


 声が震えていた。でも目は真っすぐだった。俺を見ている。


「私にとっては、大したものです」


 詩織さんが栞をもう一度手に取った。ぎゅっと握った。


「この栞、大切に使います。毎日使います」


「毎日」


「毎日。本を読むたびに。朝倉くんのことを、思い出しながら」


 朝倉くんのことを思い出しながら。


 その言葉が俺の胸を貫いた。「取材です」とは言わなかった。「フィクションです」とも言わなかった。嘘のない言葉だった。嘘がつけない人の、本心の言葉だった。


 何か返さないといけない。気の利いた言葉を。文芸部員なのだから、言葉で返すべきだ。でも頭が真っ白だ。手紙には二十一文字しか書けなかった。今も言葉が出てこない。


「使ってくれたら、嬉しい」


 それだけ言った。それしか言えなかった。



    *



 カフェの空気が変わった。


 変わったけど、居心地は悪くない。むしろ今までで一番心地いい。コーヒーが冷めていく。ホットチョコレートも冷めていく。でも二人の間の空気は冷めない。温かいままだ。


 話を続けた。本のこと。部活のこと。来年のコンクールのこと。凛先輩のこと。壮介の焼肉のこと。壮介の話題が出ると場が和む。壮介は話題になるだけで空気を柔らかくする。


「先生のエッセイ、読みました?」


「読みました。電車の中で」


「泣きました?」


「泣いてない。掟の四番目」


「私は泣きました。取材ノートに何か書こうとして、書けなかった。五百文字に返す言葉が見つからなくて」


「俺もだ。"読みました"としか言えなかった」


「五百文字って、一万文字より重い時があるんですね」


「ある。先生の五百文字は一万文字分の重さがあった」


 詩織さんがカップを両手で包んでいる。ホットチョコレートはもう冷めている。でもカップを離さない。手元に何かを持っていたいのだろう。


 詩織さんが鞄に手を入れた。何かを取り出した。


「私も、お返しがあります」


「え?」


 小さな包み。紺色の布に包まれている。手渡された。


「手作りなんですけど。不格好で」


 開けた。布製のブックカバー。紺色。手触りが柔らかい。布の端が少しだけ不揃いだ。手縫いの跡がある。角の部分に白い糸で刺繍がされていた。アルファベット一文字。「H」。


「HはHarutoのHです」


 詩織さんの顔が赤い。ホットチョコレートの湯気のせいじゃない。もう冷めているのだから。


「裁縫は得意じゃないので、不格好ですけど」


「すごい。手作り?」


「冬休み中にこっそり。取材ノートの合間に」


「取材ノートの合間にブックカバーを縫う人がいるのか」


「いるんです。ここに」


 ブックカバーを手に持った。紺色。白い「H」。詩織さんの手が縫ったもの。一針一針。万年筆のペン先と同じくらいの細かさで。


「ずっと使う」


「ずっと使ってくれたら、嬉しいです」


 さっき俺が言った言葉と同じだ。「使ってくれたら嬉しい」。同じ言葉が二人の間を行き来した。栞とブックカバー。万年筆と「H」。どちらも本と言葉に関わるもの。文芸部の二人らしいプレゼント。


 先生にもらった文庫本をブックカバーに入れてみた。紺色のカバーが本を包む。「H」の刺繍が表紙の右下に見える。完璧だ。サイズもぴったりだ。


「詩織さん、サイズぴったりだけど、俺の本のサイズ知ってたの?」


「文庫本の標準サイズです。A6判。縦148ミリ、横105ミリ」


「数字まで把握してるのか」


「万年筆のインクの種類は二百以上覚えています。本のサイズくらいは」


「スケールが違う」



    *



 カフェを出た。冬の午後。空が紫に染まりかけている。一月の日は短い。三時を過ぎるともう夕方の気配がする。


 二人で駅まで歩いている。詩織さんが栞を鞄にしまう時、一度だけ光にかざした。カフェの中でもそうしていた。金属の栞が夕日を反射した。一瞬だけ銀色が光った。


 俺の手にはブックカバーがある。先生にもらった文庫本に被せたまま。紺色の布の温かさが手のひらに伝わっている。


 分かれ道。詩織さんの家と俺の家は途中で方向が分かれる。いつもの分かれ道。部活帰りに何度も通った場所。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ。本も返せたし」


 詩織さんが少し笑った。本を返すのが目的だったはずだ。建前上は。二人ともそれが建前だと分かっている。でもそれでいい。建前があるから渡せた。本音だけだったら渡す勇気が出なかった。


「朝倉くん」


「うん」


「来年も、隣で書きましょうね」


 手紙の言葉をそのまま返してくれた。「来年も隣で書こう」。俺が書いた二十一文字を、詩織さんが声にして返してくれた。文字が声になった。手紙が返事になった。


「約束だ」


 詩織さんが笑った。目がまだ少しだけ赤い。さっき泣きそうになった跡が残っている。涙の跡が残ったまま笑う顔は、銀賞の時と同じだ。嬉しさが溢れている顔。


 角を曲がって、詩織さんが見えなくなった。


 一人になった。


 帰り道。冬の空。一番星が見えた。今日は晴れている。大晦日の夜は曇りだった。今日は星が出ている。


 今日のことを小説にしたら、きっと恋愛小説になる。カフェで向かい合って座る男女。プレゼントを交換する。栞とブックカバー。手紙に「隣で書こう」と書く。相手が「思い出しながら使います」と言う。別れ際に「約束ですね」と言う。


 恋愛小説だ。どこからどう読んでも。


 俺が書いたら下手くそな恋愛小説になるだろう。構成は甘いし、主人公は鈍感だし、ヒロインの気持ちに気づくのが遅い。先生に赤ペンを入れられたら真っ赤になる原稿だ。


 でも悪くない。この下手くそな気持ちは、悪くない。


 名前はまだつけない。つけなくていい。手紙の二十一文字に全部入っている。「来年も隣で書こう」。隣にいたい。書きたい。詩織さんと。その気持ちは二十一文字に収まっている。それ以上は要らない。


 壮介にLINEを送った。「渡した」。


 返信。「どうだった?」


「泣きそうになってた。詩織さんが」


「お前は?」


「泣いてない」


「嘘つけ」


「泣いてない。掟の四番目」


「お前の掟の使い方、凛先輩に似てきたな」


 壮介がスタンプを送ってきた。今度はにやにや顔じゃなくて、親指を立てたスタンプ。グッジョブ。壮介なりの「よくやった」だ。


 ブックカバーの「H」を指でなぞった。白い糸。詩織さんの指が縫った糸。一針ずつ。冬休みの間に。取材ノートの合間に。


 来年も隣で書く。詩織さんが約束してくれた。俺も約束した。同じ言葉を交わした。同じ気持ちを確認した。


 バレンタインが近い。二月十四日。あと三週間。壮介が「チョコもらえるかな」と騒ぎ始めるだろう。凛先輩が「うるさい」と言うだろう。先生が缶コーヒーを飲んでいるだろう。


 詩織さんがチョコを作るかもしれない。義理チョコ。全員分の。五つの箱。同じサイズ。同じリボン。


 でも一つだけ、形が違うかもしれない。


 そんなことを考えながら、冬の帰り道を歩いた。星が一つ増えていた。

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