第82話 冬の部誌──卒業号の予感
# 冬の部誌──卒業号の予感
一月の第三週。冬休みが明けて三学期が始まった。
部室のちゃぶ台に壮介のスケッチブックが広げられていた。壮介が編集長を務める冬の部誌、第四号の表紙デザインだ。四回目の編集長。春に初めて部誌を作った時はホチキスの留め方すら分からなかった男が、今は表紙のデザインを自分で描いている。
「今回の表紙、見てくれ!」
壮介がスケッチブックを持ち上げた。全員の視線が集まった。
棒人間が五体描かれていた。
前回の部誌の表紙も棒人間だった。丸い頭に直線の体。手と足が棒。目も口もない、究極にシンプルな絵。凛先輩に「却下だ」と言われたが結局採用された。文芸部の表紙に棒人間。シュールすぎて逆に印象に残る。
今回は違う。棒人間に表情がついていた。
「進化型棒人間だ!!」
五体の棒人間にそれぞれ特徴がある。
一体目。クールな目。眉が一直線。ソファに寝転がっている。凛先輩だ。
二体目。万年筆を持っている。少し微笑んでいる。詩織さんだ。
三体目。口が大きく開いている。叫んでいる。どう見ても壮介だ。
四体目。片手を上げてツッコミのポーズ。俺だ。
五体目。缶コーヒーを持っている。目が閉じている。寝ている。先生だ。
「似てる」
全員が同時に言った。
「でしょ!? 目と口を描いたら表情が出た! 棒人間の進化系だ!」
「棒人間に表情をつけたら棒人間じゃなくなるのでは」
「進化型だから!!」
凛先輩がスケッチブックを受け取って、じっくり眺めた。自分の棒人間のクールな目を見ている。
「認めたくないが、特徴は捉えている」
「先輩が認めた!!」
「認めたくないと言っている」
「認めてるじゃん!!」
先生が自分の棒人間を見た。缶コーヒーを持って寝ている。
「俺はいつも寝ているのか」
「寝てるでしょ! ソファで!」
「授業中は起きている」
「授業中の先生は棒人間に描いてません!」
表紙は壮介の進化型棒人間で決定した。文芸部の部誌の表紙に、毎号壮介の棒人間が載る。一号は棒だけ。二号は棒にマイク。三号は棒にペン。四号は棒に表情。壮介の絵も進化している。壮介なりの成長が表紙に出ている。
*
冬号のテーマは「振り返り」。一年目の総括号だ。
凛先輩がホワイトボードに書いた。「第四号 冬号 テーマ:振り返り 各自ベスト作品を選定し収録」。全員が今年書いた作品の中から一番良いものを選び、加筆修正して部誌に載せる。
「ベスト作品か。何にしよう」
「お前は分かりやすいだろ。朗読バトルで読んだ書き下ろしだ」
凛先輩が即答した。「だから俺はここにいる」。文化祭の朗読バトルで読んだ二千文字の書き下ろし。十五秒の拍手をもらった作品。
「あれでいいですか」
「いい。あの作品はお前の一年目の核心だ。声で届けた作品を文字でも残す。部誌に載せる意味がある」
凛先輩のベストは「守護者の密室」。秋のコンクール出品作。入選はならなかったが、凛先輩が初めて「心臓のあるミステリ」を書いた作品。俺が読んで泣いた作品。
「先輩、コンクールで入選しなかった作品を部誌に載せるんですか」
「載せる。入選しなかったのは審査員の評価だ。俺の評価は違う。これは俺の一年目で一番良い作品だ。結果と品質は別だ」
凛先輩の信念は揺るがない。結果に左右されない。自分が良いと思うものを選ぶ。ミステリ屋のプライドだ。
詩織さんのベストは「声」。秋のコンクール銀賞作品。部誌用に一部改稿するらしい。
「コンクール版と部誌版で何が違うんですか」
「コンクール版は審査員に向けて書きました。部誌版は読者に向けて書き直します。同じ作品でも届ける相手が違えば文章が変わるんです」
「同じ作品を二回書くのか」
「書き直すんです。届ける相手を変えるんです。取材です」
詩織さんの「取材です」が今日も発動した。
壮介のベストは千九百八十文字の「文芸部の一年」。秋のコンクール出品作。焼肉の比喩を一部削除して、本音の部分を増やした改訂版を載せるらしい。
「焼肉どのくらい削った?」
「三割」
「三割か。まだ七割残ってるのか」
「焼肉は俺の文体だ!! 削りすぎたら俺じゃなくなる!!」
「七割が焼肉の文体って何だよ」
「カレーうどンも入れると八割だ!!」
「一割しか本題がないのか」
「二割が本題で八割が食べ物だ!」
凛先輩が「焼肉の比喩は一箇所だけ残せと言っただろう」と溜息をついた。壮介の改訂は凛先輩の指示を半分しか聞いていない。壮介の耳は食べ物関連の情報だけ選択的に吸収する。
最後に先生が口を開いた。
「俺も寄稿していいか」
全員が先生を見た。先生が部誌に書く。初めてだ。
「エッセイを一本。五百文字くらいの」
「先生が部誌に書くのは初めてですね」
「初めてだ。顧問としてではなく、書き手として」
書き手として。先生がその言葉を使った。顧問ではなく書き手。大晦日に「書く」と宣言し、元日にペンを持ち、初詣で「二十七年ぶりにペンを持った」と一行を書いた先生が、部誌に寄稿する。これは先生にとっての一歩だ。
「テーマは何ですか」
「教え子について。内容は完成するまで秘密だ」
「秘密ですか」
「完成品を読め。途中経過は見せない」
先生の秘密主義は凛先輩に似ている。完成品で勝負する。途中を見せない。先生と凛先輩は根っこが同じだ。ストーブの前で缶コーヒーを飲む姿勢まで似ている。
原稿の加筆修正が始まった。全員がちゃぶ台に向かって作業している。壮介がスマホのフリック入力でカチカチと打っている。焼肉の比喩を削る作業。壮介にとって焼肉の比喩を削るのは自分の腕を切るようなものだ。
「"入部はロースの刺身"を削った」
「ロースの刺身って何だよ。焼肉と刺身が混ざってるぞ」
「これは高級感の比喩だ!」
「高級感の比喩が破綻してる」
「じゃあ"入部は新鮮なロース"に変える!」
「焼肉は残すんだな」
「焼肉は俺のアイデンティティだ!! 削ったら俺が消える!!」
凛先輩が「焼肉は一箇所だけ残せと何回言えば分かるんだ」と溜息をついた。壮介の焼肉削減作業は毎回難航する。壮介にとって焼肉を文章から削ることは、詩織さんにとって万年筆を手放すことと同じくらいの苦痛らしい。
詩織さんが「声」の改稿作業をしている。コンクール版と部誌版を並べて、一文ずつ確認している。ペンが止まっては走り、止まっては走る。
「ここの一文、コンクール版では"声は消えない"でしたが、部誌版では"声は残る"に変えます」
「どう違うんですか」
「"消えない"は否定です。"残る"は肯定です。審査員には"消えない"の強さが必要でした。読者には"残る"の温かさが必要です」
「一文字の違いでそこまで変わるのか」
「変わります。文字は一つ変えるだけで温度が変わるんです」
詩織さんの推敲は外科手術に似ている。一文字を入れ替えるだけで文章の体温が変わる。神経の一本まで意識して言葉を選ぶ。天才の推敲は、凡人の執筆より精密だ。
俺は「だから俺はここにいる」の部誌版を仕上げていた。朗読バトルで声に出して読んだ原稿を、黙読用に調整する。声に出す文章と目で読む文章は微妙に違う。句読点の位置。改行のタイミング。声のリズムを文字のリズムに変換する作業。
凛先輩が「守護者の密室」の最終チェックをしている。部誌版では冒頭の三行を書き直したらしい。
「コンクール版より冒頭を柔らかくした。コンクールは審査員を掴む必要がある。部誌は読者に寄り添う必要がある。届ける相手が違えば、冒頭が変わる」
「詩織さんと同じことを言ってますね」
「千歳と俺は書き手として似ている部分がある。認めたくないが」
「先輩が詩織さんに似てるって認めるの珍しい」
「似ているのは方法論だ。出力は全く違う」
凛先輩のプライドは健在だ。詩織さんとの共通点を認めつつ、差異を主張する。ミステリ屋の矜持。
*
部誌のレイアウトを組んでいる途中だった。壮介がページ数を計算して、詩織さんが目次を書いて、俺がホチキスの位置を確認して。凛先輩がソファで全体を監督していた。
凛先輩がふと呟いた。
「来年の冬号は卒業号になるな」
部室が静まった。ストーブの音だけが聞こえている。やかんの蓋がカタカタと鳴っている。
「卒業号?」
壮介が聞いた。声がいつもより小さい。
「俺が三年になる。来年の冬号が出る頃には卒業が近い。だから来年の冬号は、俺の卒業号だ」
「先輩、まだ一年以上あるじゃん」
「一年はあっという間だ。今年がそうだったろう?」
全員が黙った。確かに、今年は一瞬だった。四月に入部してから十ヶ月。十ヶ月が一瞬に感じる。入部した日のことを昨日のことのように覚えている。先生に腕を掴まれて部室に連れてこられた日。詩織さんが万年筆で何かを書いていた日。凛先輩がソファで本を読んでいた日。壮介がカレーうどンの話をしていた日。
十ヶ月前だ。十ヶ月が一瞬なら、一年も一瞬だ。来年の冬号が出る頃には凛先輩の卒業が目の前に来ている。
「だから今年の冬号は"卒業前の最後から二番目"だ。来年は最後になる。だから今のうちに言っておく。来年の卒業号は、全力でやれ」
「先輩。卒業号は最高のものにします。約束します」
俺が言った。凛先輩が少し照れた顔をした。口元だけ笑っている。
「まだ一年以上あるんだから、気が早いぞ。でも、ありがとう」
壮介が鼻をすすった。泣きそうになっている。壮介の涙腺は「卒業」の二文字で決壊する設計になっている。
「泣くなよ壮介。まだ卒業してない」
「泣いてない! 鼻水だ!」
「鼻水なら拭け」
「拭いたら泣く!」
「拭いても泣かなくていいだろ」
*
部誌が完成した。第四号。冬号。表紙は壮介の進化型棒人間。
全員で初版二十部を印刷した。部室のプリンターがガタガタと音を立てながら、一枚ずつ吐き出す。春の第一号は五部だった。夏が十部。秋が十五部。冬は二十部。部数が増えている。読者が増えているわけではない。配る先が増えたのだ。部室の本棚に一部。凛先輩の分。詩織さんの分。壮介の分。俺の分。先生の分。残りは図書室と、文化祭で興味を持ってくれた生徒に渡す分。
本棚に並べた。第一号、第二号、第三号、そして第四号。四冊が並んでいる。一年分の記録だ。
「四冊。一年で四冊作ったのか」
壮介が本棚の前に立って呟いた。
「予定通りだ。年四冊発行の目標、達成」
「本棚に並んでいるのを見ると嬉しいです。背表紙が少しずつ厚くなっている」
詩織さんが本棚に手を伸ばした。第一号の背表紙に触れた。ホチキス留めの薄い冊子。春に作った最初の部誌。壮介の棒人間が表紙の、あの五部だけの部誌。
「壮介くんの表紙デザインも進化してますね」
「棒人間に表情が!! 成長!!」
「棒人間の成長を褒めるのは複雑だが」
凛先輩が四冊の部誌を一冊ずつ手に取った。第一号を開いた。壮介の千二十文字の「カレーうどンの意志」が載っている。文芸部で初めて壮介が書いた作品。
「これを書いた男が、今は千九百八十文字を書いている。倍近い。成長だな」
「先輩が褒めた!!」
「事実を述べただけだ」
第四号の最終ページに、先生のエッセイが載っている。「教え子について」。五百文字。部誌が完成するまで内容は秘密だった。先生は原稿を凛先輩にだけ渡して、他の全員には完成品で読ませると指示した。
帰りに部誌を一冊ずつ持って帰った。電車の中で第四号を開いた。最終ページ。先生のエッセイ。
「教え子について」
「文芸部の顧問になって三年。最初の二年は部室で寝ていた。三年目、五人の生徒が来た。彼らは書いた。喧嘩した。笑った。泣いた。走れなくなった少年が書くことで走り始め、天才が弱点を知り、書けない男が場を作り、完璧主義者が心臓を見つけた。俺は何もしていない。ただ見ていた。見ていただけなのに、俺のほうが、たくさんもらった」
五百文字。先生の三年間と、俺たちの十ヶ月が、五百文字に圧縮されていた。
「走れなくなった少年が書くことで走り始め」。俺のことだ。
「天才が弱点を知り」。詩織さんだ。
「書けない男が場を作り」。壮介だ。
「完璧主義者が心臓を見つけた」。凛先輩だ。
「俺は何もしていない。ただ見ていた。見ていただけなのに、俺のほうが、たくさんもらった」
先生。
電車の中で鼻の奥がつんとした。泣きそうになった。泣かなかった。掟の四番目。泣くな。でも目が熱い。五百文字がこんなに重いとは思わなかった。千九百八十文字より短い。でも密度が違う。先生の三年間と十年間の沈黙が、五百文字に凝縮されている。
明日、部室で先生に何を言おう。「読みました」だけでいい気がする。先生のエッセイに対して長い感想は野暮だ。先生が五百文字で済ませたなら、俺も一言で済ませる。「読みました。すごかったです」。それだけ。
でもたぶん、壮介は泣く。壮介が先生のエッセイを読んだら確実に泣く。凛先輩は目を伏せるだろう。詩織さんはノートに何かを書こうとして、書けないだろう。全員が先生の五百文字を受け取って、それぞれの方法で消化する。
翌日。案の定だった。
壮介が部室に入ってきた瞬間、目が赤かった。「先生のエッセイ読んだ」。声が震えている。「"書けない男が場を作り"って。俺のことだ。先生が俺のことを書いてくれた」。壮介の涙腺が決壊した。ちゃぶ台に突っ伏して泣いた。
凛先輩はソファで文庫本を持ったまま動かなかった。目を伏せている。ページをめくる手が止まっている。「完璧主義者が心臓を見つけた」。先生はそう書いた。凛先輩のミステリに心臓が入ったのは、先生の赤ペンがあったからだ。何も言わない。何も言わないのが凛先輩の返事だ。
詩織さんは取材ノートを開いていた。万年筆を持っていた。でも何も書いていなかった。白いページを見つめていた。「天才が弱点を知り」。先生に天才と呼ばれたことより、「弱点を知り」と書かれたことのほうが詩織さんには響いたはずだ。弱点を知ったから強くなれた。先生はそれを見ていた。
先生はソファの端で缶コーヒーを飲んでいた。全員の反応を見ている。見ているだけだ。何も言わない。「俺は何もしていない」とエッセイに書いた人が、今も何もしていない。缶コーヒーを飲んでいるだけだ。でもそれがこの人のやり方なのだ。見守ること。見守ることだけを、誰よりも丁寧にやる人。
本棚に四冊の部誌が並んでいる。一年分の文芸部の歴史だ。春の五部から冬の二十部まで。壮介の棒人間から進化型棒人間まで。全部がこの一年間の記録だ。来年は卒業号を作る。凛先輩の最後の部誌を。それまでにもっと良い作品を書く。もっと良い部誌を作る。先生の五百文字に負けないくらいの言葉を。
引き出しの中の封筒を思い出した。栞と手紙。「来年も隣で書こう」。まだ渡していない。部誌が完成した今なら、渡すタイミングかもしれない。次に詩織さんと二人きりになった時に。部室で。カフェで。帰り道で。
渡す勇気が、少しずつ溜まってきている。先生の五百文字が背中を押している。「俺のほうが、たくさんもらった」。先生は見ていただけで、もらったと言った。俺も詩織さんの隣にいただけで、たくさんもらっている。もらった分を返したい。栞と手紙で。二十一文字の手紙で。




