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第77話 期末テストと凛先輩の焦燥

# 期末テストと凛先輩の焦燥


 期末テスト一週間前。恒例の部室勉強会が始まった。


 三回目ともなると手慣れたものだ。凛先輩が仕切り、ペアリングを決め、スケジュールを管理する。ちゃぶ台の上に教科書とノートが広がっている。ストーブの暖気が部室を満たしていて、夏の勉強会とは比べものにならないくらい快適だ。快適すぎて壮介が三分で寝落ちしたが、凛先輩のペンが壮介の額に飛んで瞬時に覚醒した。


「寝るな」


「寝てない! 目を閉じて集中してただけだ!」


「鼾が出る集中法は存在しない」


「鼾は出てない!」


「出てた。全員が証人だ」


 壮介が全員を見回した。詩織さんが「出てました」と丁寧に証言した。俺が「出てた」と短く言った。先生が「聞こえた。教室の外まで」と追い打ちをかけた。壮介が畳に沈んだ。


「全員敵だ」


「勉強しろ。味方になってやる」


「凛先輩が味方!? やる!!」


 壮介のモチベーション管理は簡単だ。凛先輩の一言で百パーセント充電される。


 凛先輩がホワイトボードに全員の前回成績を書いた。壮介の欄が一番左。


「大和。前回の全教科平均は五十一点」


「成長したぞ! 前々回から三点上がった!」


「三点の成長を自慢するな。今回は五十五点を目指せ」


「四点アップ!?」


「死ぬ気でやれ」


「四点で死ぬのか」


「比喩だ。死なないが、落とすな」


 壮介がノートを開いた。数学の教科書。一ページ目。壮介の数学はいつも一ページ目から始まる。前回の範囲すら怪しい。


「壮介、数学は今回どこまでが範囲?」


「二次関数」


「二次関数の前の一次関数は分かるのか」


「一次関数は直線だろ! 分かる!」


「じゃあ傾きは」


「傾きは斜めだ!」


「答えになってない」


 先生が缶コーヒーを飲みながら壮介の数学を覗き込んだ。三秒で目を逸らした。


「教師として言うが、壮介の数学は俺の管轄外だ」


「先生、見捨てないで!」


「見捨ててない。国語なら教えられる。数学は数学教師に聞け」


「数学教師が怖いんだ!」


「文芸部の顧問に数学を聞くほうが怖いと思え」


 詩織さんが壮介の横に移動した。


「壮介くん、二次関数のここ、教えましょうか」


「詩織ちゃんが教えてくれるの!?」


「数学は苦手ですけど、二次関数だけは得意なんです。グラフの形が万年筆のカーブに似てるので」


「万年筆のカーブ!?」


「放物線って、ペン先の曲線に似てませんか?」


「似てない! でも教えてくれるなら何でもいい!」


 詩織さんの数学指導が始まった。壮介に二次関数を教える詩織さんは、万年筆の曲線を使って放物線を説明していた。独自の教育法だ。分かりやすいのかどうかは謎だが、壮介は楽しそうに聞いている。



    *



 凛先輩の様子がいつもと違うことに気づいたのは、勉強会が始まって一時間後だった。


 ちゃぶ台の上に参考書が二種類広がっている。一冊は期末テストの範囲。もう一冊は違う。表紙に「大学入試基礎」と書いてある。受験の問題集だ。凛先輩は二冊を交互に開いている。右手でテスト範囲のページをめくり、左手で受験の問題集にペンを走らせている。


 二重勉強だ。


 ペースが速い。集中力が異常に高い。凛先輩はもともと集中力のある人だが、今日はそれが研ぎ澄まされている。ソファではなくちゃぶ台の前に正座して、背筋を伸ばして、二冊の参考書と格闘している。


 その代わり、周囲への気配りが減っていた。壮介が「先輩、この漢字の読み方教えて」と聞いた時、凛先輩は「後で」と短く返した。いつもなら丁寧に教える。壮介の質問がどんなに初歩的でも、凛先輩は絶対にバカにしない。「後で」の二文字で切ったのは初めてだった。


 壮介は気にしていなかった。「先輩忙しそうだな」と呟いて、自分で辞書を引いていた。壮介の鈍感さが今日は助かった。


「先輩、無理してません?」


 俺が聞いた。小声で。壮介には聞こえないように。


「無理じゃない。効率化だ」


「テストの勉強と受験勉強を同時にやってるでしょう」


 凛先輩の手が止まった。俺を見た。少し驚いた顔。


「バレたか」


「分かりますよ。参考書が二種類開いてるから」


「観察力が上がったな」


「先輩のおかげです」


「皮肉か」


「本気です」


 凛先輩がペンを置いた。二冊の参考書を交互に見た。溜息。凛先輩が溜息をつくのは珍しい。


「三年になったら時間が足りなくなる。部活の時間が減る。合宿もコンクールもある。全部やりたい。でも受験も落とせない。今のうちに基礎を固めておかないと、来年のこの時期に詰む」


「先輩の成績なら大丈夫じゃ」


「大丈夫じゃない。志望校は国公立だ。五教科全部必要だ。今の成績じゃ足りない」


 凛先輩が国公立を志望していることを初めて知った。国公立は五教科七科目。凛先輩の実力なら私立の上位は狙えるだろう。でも国公立はさらに上だ。全教科まんべんなく取らないといけない。


「一人で全部やろうとしないでください」


「一人で全部やるのが受験だろう」


「受験はそうかもしれないけど、テスト勉強は違う。皆で一緒にやったほうが効率いいのは先輩が一番知ってるでしょう」


 凛先輩が黙った。数秒。視線がちゃぶ台に落ちている。二冊の参考書。二重の負荷。一人で背負おうとしている背中。


 詩織さんが凛先輩の隣に座った。いつの間にか壮介の指導を終えていた。


「凛先輩。受験勉強、手伝えることがあったら言ってください。国語なら得意ですし、英語の長文読解も」


「千歳、お前は自分の勉強をしろ」


「先輩のほうが大変です。二冊同時にやってるんですから」


「見えてたのか」


「見えてました。先輩の手が二冊を交互に開いてるの、五分前に気づきました」


 俺より遅かったが、詩織さんも気づいていた。凛先輩の異変に。


 凛先輩が天井を見た。少し考えてから。


「じゃあ英語の長文読解だけ。お前の英語力は使える」


「はい」


 詩織さんが嬉しそうに頷いた。凛先輩のために何かできることが嬉しいのだ。


「俺は?」


 壮介が手を挙げた。


「お前は自分の五十五点に集中しろ」


「はい!!」


 先生がソファの端から口を出した。


「凛。受験の基礎は大事だが、焦るな。二年の冬に基礎をやっておけば三年の夏に楽になる。今はテストに集中して、冬休みに受験の基礎を固めろ。二つ同時にやると両方落ちる」


「先生の経験ですか」


「三回新人賞に落ちた男の経験だ。並行作業は非効率だ。一つずつ片付けろ」


 凛先輩が苦笑した。先生の新人賞三連敗は文芸部の伝説だが、そこから学ぶ教訓は意外と実用的だ。


「分かりました。テストが終わるまでは受験の問題集を閉じます」


 凛先輩が受験の問題集を閉じた。カバンの中にしまった。ちゃぶ台の上に残ったのはテスト範囲の参考書だけ。


「千歳、英語の長文は冬休みにやろう。テスト後で」


「はい。約束です」


 詩織さんが微笑んだ。凛先輩も少しだけ肩の力が抜けた顔をしていた。一人で背負っていたものを、少しだけ分けた。



    *



 テストが終わった。


 成績発表の日。部室。ストーブの前で全員が答案を見せ合っている。恒例行事だ。最初は恥ずかしがっていたのに、三回目ともなると全員が堂々と見せる。良くても悪くても。


 壮介が先頭を切った。


「全教科平均五十四点!!」


「五十五に一点足りないぞ」


「四捨五入で五十五だ!!」


「また四捨五入か。次は六十を目指せ」


「急にハードル上がった!!」


「成長とはハードルが上がることだ」


「先輩の教育論が厳しい!!」


 壮介の成績は、入部時の四十八点から六点上がっている。半年で六点。壮介のペースなら上出来だ。特に古典が五十五点まで来た。入部時は赤点ギリギリだった古典が、五十五。七点上がっている。文芸部で古文を読む機会が増えたからか、凛先輩に叩き込まれた文法知識が効いたのか。たぶん両方だ。


 詩織さんの番。


「国語九十八点です。学年一位でした」


「さすが」


「数学四十点です」


「赤点じゃない!」


「赤点じゃないです! 赤点回避です!」


 詩織さんがガッツポーズをした。国語九十八点と数学四十点を同時に誇る人間を初めて見た。振れ幅がすごい。


「千歳の数学が赤点を超えただけで祝うレベルなのはどうかと思うが。おめでとう」


「ありがとうございます!!」


 凛先輩の番。


「全教科平均八十二点。前回から七点アップ」


「七点!? すごいじゃないですか先輩」


「テストに集中した成果だな。受験の問題集を閉じたのが正解だった。先生の助言に感謝する」


 先生が缶コーヒーを傾けた。「礼なら缶コーヒーで」凛先輩が「現物支給ですか」と返した。


 俺の番。


「国語七十五点。入部以来の最高」


「おお! 陽翔の国語が七十五! 十点上がった!」


 壮介が叫んだ。俺より喜んでいる。


「文芸部に入って国語が上がった。読んで書いて考えた結果だな」


「先輩たちの合評のおかげです。人の文章を読んで意見を言うって、自分の読解力も上がるんですね」


「当然だ。合評は読む訓練であり、分析する訓練であり、伝える訓練だ。テストの読解問題と本質は同じ」


 先生が頷いた。


「全員の成績が上がっている。文芸部の活動は国語力に直結する。読む。書く。考える。発表する。全部テストに出る能力だ。部活が勉強に活きている。教育委員会に報告したいくらいだ」


「報告しないでください。注目されると面倒です」


「しない。面倒は嫌いだ」


 先生の面倒嫌いは徹底している。缶コーヒーを飲む以外の業務を最小限に抑える男だ。でもテスト期間中は全員の答案に赤ペンを入れてくれた。面倒嫌いの割に、やる時はやる人だ。


 先生が赤ペンを取り出した。胸ポケットから。いつもの赤ペン。コンクール原稿に入れるのと同じペンで、テストの答案にも赤を入れる。


「全員分に赤を入れた。持っていけ」


 先生が答案のコピーを配った。赤ペンの跡がびっしり入っている。テストの採点ではなく、答案の「文章」に対するフィードバック。国語の記述問題の答え方、論述の構成、語彙の選び方。テストの点数とは別に、「書く力」の視点で添削されている。


「先生、テストの答案にも赤ペン入れるんですか」


「テストの記述問題は小論文の練習だ。どうせ書くなら良い文章で書け」


「テストで文芸部の指導をしないでください」


「文芸部の顧問が文芸部の指導をして何が悪い。テスト会場も俺の教室だ」


 壮介の答案に入った赤ペンが一番多かった。


「大和、お前の記述問題の回答は内容は悪くないが、字が読めない。採点者が読めなければ零点と同じだ」


「字が読めない!?」


「象形文字に近い。フリック入力の癖が手書きに出ている。文字を書く筋肉が退化している」


「筋肉!? 文字に筋肉!?」


「ある。ペンを握る筋肉だ。お前はスマホのフリック入力しかしないから、手書きが弱い。冬休みに漢字の書き取りを百回ずつやれ」


「百回!? 先生のスパルタが凛先輩に近づいてる!」


「褒め言葉として受け取ろう」


 詩織さんの答案には赤ペンがほとんど入っていなかった。国語九十八点の答案だから当然だが、先生が一箇所だけ赤を入れていた。最終問題の論述部分。


「千歳。最終問題の論述、内容は完璧だ。だが"完璧すぎる"。隙がない文章は読んでいて息が詰まる。わざと一箇所だけ"遊び"を入れろ。読者に呼吸する余地を」


「遊び、ですか」


「お前の作品にもたまにある。構成が完璧すぎて読者が入り込めない瞬間。テストの論述も同じだ。九十八点を百点にするには"完璧を崩す技術"がいる」


 先生の赤ペンは、テストの点数を上げるためではなく、「書く力」を上げるために入っている。テスト会場でも部室でも、先生の赤ペンは同じ方向を向いていた。



    *



 テスト明けの帰り道。凛先輩と二人で歩いていた。


 壮介と詩織さんは先に帰った。壮介が「テスト終わったから焼肉!」と詩織さんを誘って走っていった。壮介のテスト後の行動パターンは固定されている。焼肉。毎回焼肉。


 凛先輩の歩く速度がいつもより遅かった。足取りが重い。テストと受験勉強の二重負荷。成績は上がったが、その分だけ体に負荷がかかっている。目の下に薄いクマがある。凛先輩は隠さない。隠す余裕もないのだろう。


「先輩、大丈夫ですか」


「大丈夫だ」


「嘘ですね」


「千歳と同じことを言うな」


「詩織さんは嘘がつけない。俺は嘘が見抜ける。文芸部の特技です」


 凛先輩が足を止めた。街灯の下。十二月の風が吹いている。マフラーが揺れている。凛先輩のマフラーは紺色だ。制服と同じ色。凛先輩は派手な色を身につけない。


「先輩。一人で全部やろうとしないでください。俺たちがいますから」


「お前たちに受験勉強は頼めない」


「受験は一人で戦うものかもしれないけど、テスト勉強は一緒にできる。部誌の編集も、合評の準備も、先輩が全部やらなくていい。俺にもできることはあります」


 凛先輩が俺を見た。街灯の光が凛先輩の顔を照らしている。疲れた顔だ。でも目は強い。いつもの目だ。


「頼りにしてるよ、朝倉」


 凛先輩が言った。小さな声で。風に混ざりそうなくらい小さな声で。


 凛先輩が「頼りにしてる」と言ったのは、入部してから初めてだった。いつも引っ張る側の人が、後輩に頼ると言った。それは弱さじゃない。信頼だ。部長が後輩を信じているという言葉だ。


「任せてください」


「任せすぎると楽になって書かなくなるぞ。適度に負荷は残す」


「先輩らしい」


「適度にスパルタだ」


「適度じゃないです。かなりスパルタです」


 凛先輩が笑った。疲れた顔で。でも笑った。冬の帰り道。街灯が一つずつ灯っていく十二月の夕方。先輩と並んで歩いている。先輩の歩幅は俺より少し小さい。いつもソファの上では大きく見える人が、隣を歩くと小さい。


 終業式が近い。冬休みが来る。クリスマスがある。壮介が鍋パーティをやると騒いでいる。凛先輩が「悪くない」と言った。年末が来る。一年目の終わりが近づいている。


「先輩。冬休み中も部室は使えますか」


「使える。来たい時に来い。ストーブは壮介が管理してくれるだろう。暖房費は各自負担だ」


「暖房費いくらですか」


「みかん一個」


「安い」


「現物支給で構わない。みかんは冬の通貨だ」


 凛先輩がマフラーに顔を埋めた。冬の風が冷たい。でも隣を歩いていると、風の冷たさが少しだけ和らぐ気がした。気のせいだ。でも気のせいでもいい。


 凛先輩が立ち止まった。コンビニの前で。


「コーヒーでも買うか。先生への土産にする」


「先生、缶コーヒーしか飲みませんよ」


「缶コーヒーを買う。ホットだ」


 凛先輩がコンビニに入った。缶コーヒーを二本買って出てきた。一本を俺に渡した。


「お前にも」


「ありがとうございます」


 缶コーヒーが手のひらに温かかった。凛先輩が缶コーヒーを買うのは初めて見た。先生の真似をしたわけじゃないだろう。寒いから温かいものが欲しかっただけだ。


 並んで缶コーヒーを飲みながら歩いた。先輩と後輩が、冬の帰り道で缶コーヒーを飲んでいる。先生が見たら「弟子が増えた」と言うだろう。


 冬休みが始まる。クリスマスが来る。年末が来る。全部が近づいている。一年目の冬は、終わりの予感と始まりの予感が同居する季節だった。


 壮介がLINEを送ってきた。「クリスマスイブ、部室で鍋やろう! 全員集合!」。五分後に凛先輩が返信した。「材料は各自持参。鍋は俺が用意する」。先生が返信した。「カセットコンロを持っていく」。詩織さんが返信した。「白菜と豆腐を持っていきます」。


 俺が返信した。「行く」。


 十二月。冬の部室。テストが終わって、クリスマスが来る。壮介の鍋パーティが開かれる。凛先輩が「悪くない」と言った鍋パーティが。


 ストーブの前で鍋を囲む五人の姿が、もう見えている。

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