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第72話 執筆の秋──それぞれの進化

# 執筆の秋──それぞれの進化


 十一月半ば。部室にストーブはまだない。


 予算が十二月からだ、と凛先輩が言った。だからあと半月は気合いで耐えろ、とも言った。気合いで寒さが消えるなら暖房メーカーは全部潰れる。


「寒い!! なんでストーブないの!!」


 壮介が叫んだ。声量だけは暖房の代わりになりそうだが、残念ながら音は空気を温めない。


「予算が十二月からだ」


「文芸部の予算で買えない?」


「文芸部の予算は紙とインクで消える」


「紙とインクで暖は取れない!!」


「取れないから我慢しろ」


 凛先輩がソファにブランケットを巻きつけて猫のように丸まっている。ノートを膝に載せて、ペンを走らせている。秋のコンクール原稿の仕上げだ。ブランケットの中で書く凛先輩は、洞窟の中で推理を組み立てている探偵に見えた。洞窟が毛布なだけで。


 詩織さんは手袋をつけたまま万年筆を走らせていた。薄手のニット手袋の指先が万年筆のペン軸を正確に捉えている。器用だ。手袋をつけたまま書ける人を初めて見た。しかも文字が崩れていない。


「詩織さん、手袋つけたまま書けるんですね」


「慣れました。冬の図書館で練習していたので」


「冬の図書館」


「暖房が効くまでの三十分間に、手袋をつけたまま原稿を書くのが中学生の頃からの習慣でして」


 取材のための訓練なのか、ただの習性なのか。詩織さんの場合、たぶん両方だ。


 壮介はスマホに息を吹きかけて温めていた。フリック入力の指がかじかんで動かないらしい。「指が死んでる」と叫びながらスマホの画面を必死にタップしている。


「お前、息で温めても意味ないだろ」


「意味あるよ! 指に温度がないとフリック精度が落ちる!」


「フリック精度って何だよ」


「一分間に打てる文字数のことだ!」


「それを気にする前に内容を気にしろ」


 先生が缶コーヒーを飲んでいた。ホットだ。十一月からホットに切り替わる。先生の缶コーヒーは季節のバロメーターだ。アイスが消えたら秋、ホットが来たら冬の入口。今日はホット。冬がすぐそこまで来ている。


 先生がポケットカイロを一個だけ出した。


「これ、使え」


 壮介に渡した。


「先生の体温で温まったカイロ」


「それがどうした」


「いや、ありがたいけど微妙」


「贅沢言うな。俺の最後の一個だ」


 壮介がカイロを握りしめた。微妙と言いつつ両手で包んでいる。寒さの前には好き嫌いも凍る。


 部室の窓から西日が差している。秋の日差しは低くて長い。畳の上に四角い光が落ちている。光の中に埃が舞っている。ちゃぶ台の上にノートが三冊。パソコンが一台。スマホが一台。全員がコンクール原稿と向き合っている十一月の放課後だった。



    *



 秋のコンクール原稿の締切まで二週間を切っていた。エントリーを決めてから三週間。全員が原稿の追い込みに入っている。


 詩織さんの変化に最初に気づいたのは俺だった。


 ちゃぶ台を挟んで斜め向かいに座っている詩織さんの手元を、何気なく見た。万年筆の横に紙が一枚、広げてあった。見慣れない紙だ。マス目のない白い紙に、箱と矢印が書いてある。


 プロットシートだ。


 夏のコンクールの時、詩織さんはプロットなんて書いていなかった。いきなり万年筆を走らせて、最初の一行から最後の一行まで一気に書き上げた。天才ゆえの直感型。頭の中に完成形が見えていて、それを紙に写すだけ。そう思っていた。


 今は違う。


 プロットシートには「起」「承」「転」「結」と書かれた四つの箱があって、それぞれの箱の中に細かい文字がびっしり詰まっている。万年筆の青黒いインクで。箱と箱を結ぶ矢印の横には「ここで読者の視点を切り替える」「感情のピークは転の後半」といった注釈がある。


 構成を先に組んでいる。


「詩織さん」


「はい」


「プロット書いてるんですね。前は書いてなかった気が」


 詩織さんの万年筆が止まった。顔を上げた。少し照れたような表情を浮かべてから、プロットシートを軽く指先で押さえた。


「夏のコンクールで指摘されたんです。"構成に冗長な部分あり"と。講評に書かれていました」


「講評に」


「はい。凛先輩にも合評の時に同じことを言われました。"中盤の密度が不均一だ"と。才能だけでは構成の穴は埋まらないと、気づいたんです」


 凛先輩がソファからブランケット越しに声を出した。


「千歳が弱点を自覚した。これは大きい」


「凛先輩の合評が厳しすぎたおかげです」


「厳しくて悪かったな」


「感謝しています。本当に」


 詩織さんの声に冗談のトーンはなかった。本気で感謝している。凛先輩の合評で抉られた穴を、自分で塞ぎにいっている。天才が技術を手に入れ始めた瞬間だ。


 プロットシートの四つの箱の中身をもう少しだけ見た。テーマ欄に「声」と書いてある。文化祭の朗読バトルで体験した「声で届ける」感覚を、文字の作品に変換しようとしている。耳に届く言葉と目に届く言葉の違い。その境界線を小説として描く。


 詩織さんが万年筆のキャップを外した。集中の合図だ。ペン先がプロットシートから原稿用紙に移った。構成を組んでから書く詩織さんは、夏の詩織さんとは別の書き手に見えた。


 同じ人だ。同じ万年筆だ。でも書き方が変わった。


 感性で書いていた人が、設計図を引いてから建て始めた。建物の骨格は見えないけれど、完成した時の強度が段違いになる。そういう変化だった。



    *



 自分の原稿に向き合った。


 パソコンの画面に八千文字が並んでいる。コンクール規定の一万文字まであと二千文字。夏は完成に三週間かかった。秋はもう三分の二まで来ている。一週間と少しで。速度が上がっている。


 書ける体力がついた、と思う。


 夏は千文字書くごとに息切れした。集中力が切れて、壮介のカレーうどンの話に引っ張られて、気づくと三十分が溶けていた。今は二千文字を一気に書ける。体力というよりリズムだ。文章のリズムが体に染みついてきた。


 テーマは「聞くこと」。


 主人公は音楽を失った少年。耳は聞こえる。でも音楽が楽しめなくなった。ある日、図書館で誰かが本を朗読しているのを聞く。言葉の音に救われる。音楽ではなく言葉の響きが、少年の耳を開く。


 文化祭の朗読バトルで三十六人の前に立った時のことを思い出しながら書いている。声にした瞬間に文章が変わった。紙の上で黙っていた言葉が、空気を震わせた。あの体験が原稿の根っこにある。


 書いた文章を小声で読み上げた。


「"図書館の声は、楽譜のない音楽だった"」


 声に出すと引っかかる。「楽譜のない音楽」が少し硬い。もう一度。


「"図書館の声は、誰にも聞こえない音楽だった"」


 こっちのほうがいい。「誰にも聞こえない」のほうが孤独感が出る。声に出して確かめる。目で読んだ時にはスルーした引っかかりが、耳で聞くと鮮明になる。


 文化祭の朗読バトルで身につけた手法だ。書いた文章を声に出して推敲する。声に出して引っかかる文は、黙読でも引っかかる。逆に、声に乗る文章は目で読んでも滑らかだ。耳と目の両方でチェックする。二重のフィルター。


 部室の隅でブツブツ言いながら画面を睨んでいる自分の姿は、はたから見ればかなり怪しいと思う。


「陽翔が独り言を言ってる」


 壮介が怯えた目で見ていた。


「推敲だ。声に出して確かめてる」


「推敲って声出すの?」


 凛先輩がブランケットの中から答えた。


「朝倉流だ。文化祭の朗読で身につけた。声に乗る文章を書く方法。悪くない」


「じゃあ俺もやってみる!」


 壮介がスマホの画面を見て、声に出して読み始めた。


「"カレーうどンは人類の叡智である"」


 読み上げてから、壮介は満足そうに頷いた。


「うん。いい文だ」


「自画自賛するな」


「いや、声に出したらさらに良く聞こえた! 朝倉流すごい!」


「使い方が間違ってる」


 壮介の声で推敲の集中力が飛んだ。でもまあ、笑ったからいい。壮介のおかげで肩の力が抜ける。コンクール前の追い込みは緊張するけど、壮介がいると緊張が適度にほぐれる。ボケの効能というやつだ。処方箋に「壮介一回分」と書きたい。


 画面に向き直った。八千文字の原稿。あと二千文字。中盤の密度をもう少し上げたい。主人公が図書館で朗読を聞くシーン。声の描写をもっと丁寧に。先生に「お前は中盤型だ」と言われた。冒頭で掴むタイプじゃない。中盤でじわじわ引き込む構成が自分の武器だと、夏のコンクールの合評で気づいた。


 今回はそれを意図的に設計している。冒頭は静かに入る。中盤で読者の呼吸を掴む。終盤で手を放す。先輩と詩織さんの合評で教わった「密度の高い静寂」を、今回は自分の設計図の中に組み込んでいる。


 夏は「書きたいものを書いた」。秋は「自分の強みを分かった上で設計して書く」。


 同じ一万文字でも、中身の密度が違う。



    *



 凛先輩の原稿が気になっていた。


 ソファの上でブランケットにくるまったまま、凛先輩はずっとノートと向き合っている。ペンが止まっては走り、止まっては走る。いつもの凛先輩ならペンが止まることはほとんどない。ミステリの構成は論理で組み立てるから、書く前に設計が終わっている。あとは設計図通りに文章を置いていくだけ。凛先輩はそういうタイプだった。


 今日はペンが止まる。


「先輩、詰まってますか」


「詰まってる」


 素直に認めた。凛先輩が素直に弱みを見せるのは珍しい。それだけ苦戦しているということだ。


「トリックに穴が?」


「トリックじゃない。トリックは完璧だ。問題は犯人だ」


「犯人?」


 凛先輩がブランケットから顔を出した。目が真剣だ。


「今回のミステリは従来と変えている。トリックの精巧さじゃなく、犯人の動機に重点を置いた。"なぜこの人間は罪を犯したのか"。心理描写がメインだ」


「感情描写に挑戦してるんですね」


「挑戦というか、避けてきたものと向き合っている。トリックは設計できる。論理は組み立てられる。でも"この人間はなぜ殺したのか"を書くのは別の能力が要る。俺にはそれが足りない」


 合評で俺が言ったことだ。夏のコンクール後の合評で、凛先輩のミステリに「トリックは完璧だけど、犯人が人間に見えない」と指摘した。犯人がトリックを実行するための「装置」に見えて、生きた人間として感情移入できなかった。


 凛先輩はあの時、黙って頷いただけだった。反論しなかった。認めたのだ。自分のミステリに心臓が足りないことを。


 そして今、その心臓を入れようとしている。


「先輩。参考にしたらどうですか。自分の感情を」


「自分の?」


「先輩が文芸部を守りたいと思った時の気持ちとか。大切なものが失われるかもしれないと感じた時の気持ちとか。犯人の動機って、結局は"何かを守りたかった"とか"何かを失いたくなかった"って気持ちから来るんじゃないですか」


 凛先輩のペンが完全に止まった。


 目を見開いている。何かが繋がった顔だ。


「犯人の動機は"守りたかった"か」


「先輩が部を守りたいと思う気持ちと同じ根っこから出てくるんじゃないかと。もちろん殺人とは全然違いますけど、"大切なものを守るために何かをする"っていう構造は同じで」


「朝倉」


「はい」


「書ける気がしてきた」


 凛先輩がブランケットの中に沈みながら、ペンを走らせ始めた。今度は止まらない。さっきまでの迷いが消えている。ペン先がノートの上を滑る音が聞こえる。カリカリ、カリカリ。


 俺のアドバイスで凛先輩が書けるようになった。その事実に少し驚いている。夏の俺なら、凛先輩にアドバイスなんてできなかった。先輩は先輩で、後輩は後輩だった。上から教わるだけの関係だった。


 今は違う。


 凛先輩のミステリに足りないものを指摘できる。足りないものを補うヒントを出せる。対等とは言わない。まだまだ凛先輩のほうが上だ。でも「一方通行」じゃなくなった。先輩から学び、後輩が返す。サッカーでいえばワンツーパスだ。出して、返って、また出す。そういう関係になれたことが、少し嬉しかった。


 ソファの上でペンを走らせる凛先輩の横顔を見た。真剣だ。「1年目最後のコンクール」に懸ける覚悟が、ペンの速度に出ている。凛先輩にとって、このコンクールは来年以降に繋がる分岐点だ。感情の入ったミステリが書けるかどうかで、凛先輩の作家としての幅が決まる。


 書けると思う。この人は書ける。大切なものを守る気持ちなら、凛先輩は誰よりも知っている。文芸部を。この部室を。俺たち全員を。ずっと守ってきた人だから。



    *



 壮介の進捗報告が始まった。


「千五百文字!!」


 声量で部室の窓ガラスが微かに震えた気がする。


「夏の千二十文字から五百文字近く伸びた。着実だな」


 凛先輩がブランケットの隙間から顔を出して言った。珍しく認めている。


「でもあと五百文字が出てこない」


「何を書いている」


「文芸部の一年を焼肉に例えて!」


 全員の手が止まった。


「例えるな」


「"入部はロース、合宿はカルビ、文化祭はハラミ、コンクールはホルモン——"」


「ホルモンは内臓だぞ。コンクールを内臓に例えるな」


「内臓は味わい深いって意味だよ!」


「味わい深いかもしれないけど、審査員にホルモンって書いたら落ちるぞ」


 壮介がスマホの画面を見せてきた。千五百文字。ざっと目を通した。


 焼肉の比喩は正直どうかと思う。でも壮介の文章には、夏の時にはなかったものがある。焼肉の合間に、本音が挟まっている。


「"俺は焼肉が好きだ。でも一人で食う焼肉より五人で食うカレーのほうが美味い。文芸部はカレーだ。辛くて熱くてたまにむせるけど、腹の底から温まる"」


 焼肉とカレーが混在しているのはツッコミどころだが、「五人で食うカレーのほうが美味い」は壮介の本音だ。一人じゃない。誰かと一緒にいたい。壮介の文章の核はいつもそこにある。技術はない。構成も甘い。でも本音だけで千五百文字を書ける。それは才能だと思う。


 凛先輩がノートから顔を上げた。


「壮介。焼肉の例えを削って、本音を書け」


「本音?」


「お前が文芸部で一番大事にしていること。焼肉じゃなくて」


「焼肉じゃなくて」


 壮介が黙った。壮介が黙るのは珍しい。スマホの画面を見つめている。フリック入力の指が止まっている。


「一番大事にしていること」


「そうだ。それを五百文字で書け。合計二千文字になる」


「二千文字」


 壮介の目が光った。二千文字。夏に掲げた目標だ。千二十文字で終わった夏のリベンジ。今度こそ二千の壁を超える。


「書く! 本音で! 焼肉抜きで!」


「焼肉は全部抜かなくていい。比喩として一箇所だけ残せ。お前らしさは消すな」


 凛先輩の指導が的確すぎる。全否定しない。壮介らしさは残す。でも核心に向き合わせる。先輩の言葉には冷たさと優しさが同居している。ミステリのトリックと同じだ。表面は厳しく見えて、中身は全部壮介のために設計されている。


 壮介がスマホを握り直した。カイロで温めた手でフリック入力を始める。カチカチカチ。壮介の打鍵音は他の誰よりも速い。指の動きだけは。内容はともかく。


 詩織さんが微笑んでいた。万年筆の手を止めて、壮介のほうを見ている。


「壮介くん、頑張ってください」


「詩織ちゃんに応援された! やる気が百倍!」


「百倍になっても千五百文字の百倍は十五万文字だぞ。長編小説だ」


「長編作家になる!!」


「なるのはいいけど、まず二千文字を仕上げろ」


 先生が缶コーヒーを傾けながら口を挟んだ。


「大和、締切までにあと五百文字。焼肉の例えは一箇所だけ残して、残り四百文字は本音で埋めろ。お前の本音は面白い。夏の千二十文字で証明済みだ」


「先生にも褒められた!」


「褒めてない。事実を言っただけだ」


「事実でも嬉しい!」


 壮介が画面に向かった。フリック入力の音が部室に響く。カチカチカチ。凛先輩のペンの音。カリカリ。詩織さんの万年筆の音。サラサラ。俺のキーボードの音。カタカタ。先生の缶コーヒーの音。プシュ。


 五種類の音が重なっている。全部が別の音。でも同じ場所で鳴っている。一つの部室の中で。同じ締切に向かって。


 寒い。ストーブはない。ブランケットとカイロとマフラーと手袋で武装して、全員が原稿と格闘している十一月の放課後。


 夏のコンクールの時と同じ光景だ。でも中身が違う。


 詩織さんはプロットシートを使い始めた。天才が技術を手に入れた。俺は声で推敲するようになった。文化祭の体験を文体に変えた。凛先輩は感情をミステリに入れようとしている。合評の指摘を受けて、自分の弱点に正面から向き合っている。壮介は千五百文字まで来た。焼肉の比喩に頼りながらも、本音の比率が増えている。


 先生だけは変わらない。缶コーヒーを飲んでいる。ホットに変わっただけで。でもソファの上で、俺たちの原稿をちらちら見ている目は真剣だ。赤ペンがいつでも動けるように、胸ポケットに刺さっている。


 全員が変わった。夏を経て、文化祭を経て、秋のコンクールに向かう五人は、半年前の五人とは違う。同じ部室にいる。同じちゃぶ台を囲んでいる。でも書いているものの密度が、確実に上がっている。


 秋の西日が傾いた。畳の上の四角い光が細くなっていく。日が短くなった。夏はまだ明るかった時間に、もう夕暮れが来ている。季節が進んでいる。時間は止まらない。


 コンクールの締切まであと二週間。


 壮介が突然叫んだ。


「千八百文字!! あと二百!!」


「お前、さっきから三百文字を十五分で書いたのか」


「本音を書いたら止まらなくなった!!」


「何書いた」


「"文芸部がなかったら、俺はたぶん一人で焼肉を食ってた。美味いけど寂しい焼肉を。文芸部があって良かった。カレーうどンより温かい場所だ"って!」


「カレーうどンが出てきてるぞ」


「一箇所だけって言われたから一箇所!」


「凛先輩の指示通りだな」


「凛先輩の指示は絶対だ!!」


 凛先輩がブランケットの中で小さく笑った。口元だけ。壮介には見えていない。でも俺には見えた。先輩が笑っている。後輩が書けるようになったことを、嬉しいと思っている顔だ。


 あと二百文字。壮介が二千文字に届く。今日中に届くかもしれない。夏に届かなかった壁を、秋に超える。


 全員がそれぞれの壁に向かっている。詩織さんは構成の壁。俺は中盤の密度。凛先輩は感情の壁。壮介は文字数の壁。先生は赤ペンの壁——というか赤ペンを入れる原稿が四本あるという物量の壁。


 秋のコンクール。夏とは違う。夏は初めてで、何も分からなかった。秋は二回目で、自分の強さも弱さも知っている。知った上で挑む。


 窓の外が暗くなり始めた。そろそろ帰る時間だ。でも誰も立ち上がらない。もう少しだけ。もう少しだけ書きたい。その「もう少し」が重なって、部室の灯りが廊下に漏れている。旧校舎の四階で、文芸部だけが灯っている。


 その灯りが、たぶん俺たちの現在地だ。

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