第71話 秋のコンクール──三人の挑戦状
# 秋のコンクール──三人の挑戦状
十一月第一週。月曜日。
部室の窓から見えるグラウンドの銀杏が黄金色に輝いている。十月の金木犀が消えて、十一月の銀杏に季節が移った。空気が冷たい。吐く息が白い。部室の畳がひんやりしている。凛先輩がソファでブランケットに包まっている。
壁に看板が立てかけてある。「文芸部フェスティバル」。金と赤と橙。文化祭の記録。もう一週間以上前のことなのに、昨日のことのように鮮明だ。五十七人の来場者。十五秒の拍手。壮介のMC。全部が看板と一緒にここにある。本棚には部誌三冊。第一号、第二号、特別編。リレー小説の模造紙が丸まって棚の隅にある。半年分の成果物が秋の日差しに照らされている。先生がデスクでホットの缶コーヒーを飲んでいる。今シーズン何本目か本人も数えていない。
凛先輩がホワイトボードの前に立った。ブランケットを巻いたまま。赤いマーカーで書いた。
「秋の高校文芸コンクール 締切:十一月末」
「文化祭は"届ける"戦いだった。来場者の前で声を出して、反応をもらって、拍手をもらった。コンクールは違う。"認められる"戦いだ。審査員に原稿を送って、結果を待つ。反応は見えない。拍手はない。別の筋肉を使う。全員、切り替えろ」
「夏に続いて二回目のコンクールですね」
「二回目だ。夏の経験がある。合評の文化がある。文化祭で鍛えた"届ける力"がある。全部を原稿に注ぎ込め」
エントリーの確認。詩織さん:出場。凛先輩:出場。俺:出場。壮介:出場。四人全員がコンクールに出る。先生は不出場だが赤ペン指導を約束した。
「壮介、お前も出るんだな」
「出る! 二千文字の大作に挑む!」
「千二十文字から倍増か。いけるか?」
「いける! たぶん!」
「"たぶん"は聞き飽きた。"絶対"と言え」
「絶対! たぶん!」
「"たぶん"がついてる」
*
詩織さんがちゃぶ台に向かいながら宣言した。
「今回は銀賞以上を目標にします」
全員が振り向いた。夏のコンクールで詩織さんは佳作だった。氷室蓮が銀賞。銀賞以上を狙うということは、氷室と同等以上を狙うということだ。
「ハードルが上がったな」
「上がりました。でも文化祭で"届ける"経験をしました。朗読バトルで声にした時の感覚。読者の顔が見える書き方。あの感覚を原稿に活かしたい」
「テーマは?」
「"声"です。声で届けることと文字で届けることの違い。文化祭で体験したリレー小説の"共有"の感覚を純文学として昇華したい」
「声を書くか。面白い挑戦だ」
詩織さんが万年筆のキャップを外した。書き始める前の集中の一呼吸。この瞬間が好きだ。詩織さんが万年筆を構える瞬間。世界が止まるような静けさ。
「氷室さんには負けません。夏は佳作と銀賞で一つ差がありました。秋はその差を埋める。同じ舞台に立つ」
「氷室から宣戦布告のLINEが来てただろう。"準備はいいか"って」
「来ました。私も準備万端です。戦略的に短く返信しましたけど」
「戦略的な短返信。詩織さんは氷室対策が完璧だな」
「ライバルですから。真剣です」
詩織さんの目に静かな炎がある。穏やかな負けず嫌い。ろうそくの炎のように消えない火。この火が詩織さんの文章を磨いている。
白石透も秋のコンクールに出る。桜庭高校の構成の天才。LINEで「構成を見直した。今回は自信がある」と言っていた。氷室蓮と白石透と西園寺麗。夏の金賞は西園寺。銀賞が氷室。佳作が詩織さん。秋はその序列が変わるかもしれない。強い相手が揃っている。
「強い相手がいるほど燃えます。文芸部では負けず嫌いは美徳ですから」
「美徳だ。その通り。文化祭で隠れファンが三人増えた。天城瑠璃。美術部の水野。OB。氷室は元からだが公式に認めた。文芸部のファンが増えている。コンクールでいい結果を出せば、さらに増える」
「ファンが増えるのは嬉しいですが、私はファンのために書くのではなく、自分の物語のために書きます」
「それでいい。自分のために書いた物語が、結果的にファンを作る。順番を間違えるな」
「間違えません」
*
俺の番だ。
「テーマは"聞くこと"にします」
「聞くこと?」
「文化祭の朗読バトルで三十五人の前で読んだ体験を書きたい。声を出すこと。耳に届くこと。音としての文学。夏は"走ること"がテーマだった。秋は"聞くこと"」
「走るから聞くへ。身体感覚が変わっているな。成長している」
先生がソファから口を挟んだ。缶コーヒーを持ったまま。
「朝倉。夏の原稿で"中盤型だ"と言ったの覚えているか」
「覚えてます。冒頭型じゃなくて中盤型。中盤で引き込む文体だと」
「今回はその中盤型を意図的に設計しろ。夏は無自覚だった。秋は自覚的にやれ。自分の武器を分かっている作家は強い」
「中盤型を武器にする。冒頭で掴むんじゃなくて、中盤でじわじわ引き込む構成を意図的に設計します」
「お前が自分の文体を言語化できるようになったのは大きい。夏と秋で別人だ」
「先生のおかげです。"三百文字の滑走路"も"中盤型"も、先生が教えてくれた」
「教えたのは名前だけだ。見つけたのはお前だ」
先生が缶コーヒーを飲んだ。短い。先生らしい。でも「夏と秋で別人だ」の一言が嬉しい。成長を認められた。文化祭の十四票より、先生の一言のほうが重い。先生は十年間小説を読み続けた人だ。その目に「別人」と言わせた。
「声で推敲する」スタイルを今回も使う。書いた原稿を声に出して読む。リズムが悪い箇所を耳で見つける。詩織さんとの電話朗読チェックで学んだ方法だ。文化祭で走った声を、コンクールの文字に変換する。
「締切は十一月末。あと二十五日。特別編の制作が終わったから、今週から全力でコンクール原稿に入れます」
「全員、今週中にプロット完成。来週から本文。第三週で推敲。第四週で最終稿だ」
「先輩のスケジュール管理は相変わらず正確ですね。ミステリの設計と同じ精度で」
「当然だ。遅れは許されない。コンクールの締切を過ぎた原稿は審査対象にならない」
締切厳守。凛先輩の鉄則だ。コンクールも脱出ゲームの設計も、凛先輩は常に締切の三日前に完成させる。残りの三日で推敲する。徹底した自己管理。凛先輩の強さの源泉だ。
「朝倉くん。今回はどんな構成にするんですか」
「中盤で転換する構成。最初の三千文字は静かに入って、中盤の千文字で一気に引き込む。ラストの千文字で着地する。三百文字の滑走路付き」
「先生の滑走路ですね。文化祭の朗読で効果は証明済みです」
「あの十五秒の拍手。あれが滑走路の効果だった。走ってきた文章が減速して止まった瞬間に、全部の感情が追いついた。あの構造をコンクールの原稿にも使う」
「声で推敲して、中盤型で引き込んで、滑走路で着地する。朝倉くんのスタイルが確立してきましたね」
「確立。大げさだけど、そうかもしれない。夏にはなかった自分のスタイルが、秋には見えている」
「見えているなら書けます。自分のスタイルが分かっている作家は強い。先生も言ってました」
詩織さんが微笑んだ。取材ノートにメモを書いている。「朝倉くんのスタイル:中盤型+声推敲+滑走路着地」。俺の文体が詩織さんのノートに記録された。俺の武器が言語化された。
部室が少しだけ温かくなった気がした。窓の外は十一月の冷たい風だ。でも部室の中は温かい。壮介の暖房圏と詩織さんのお茶と凛先輩のブランケットと先生の缶コーヒーで。五人分の体温で温まっている部室。ストーブがなくても温かい。人の体温がストーブの代わりになる。壮介だけで半分くらい温まっているが。この温度ごと、コンクールの原稿に入れたい。
*
放課後。帰り際。全員が帰った後、凛先輩が一人で部室に残っていた。俺が忘れ物を取りに戻ったら、凛先輩がホワイトボードを見つめていた。
「先輩、忘れ物ですか?」
「いや。考え事だ」
凛先輩がホワイトボードのコンクール締切日を見ている。「十一月末」。あと二十五日。
「朝倉。私にとって、一年目のコンクールはこれが最後だ」
「一年目最後?」
「来年は二年目だ。でも一年目の記憶で出せるのは今回まで。入部してから今日までの全部がこの原稿に入る。一年目の文芸部の全部を、この一作に」
「先輩のミステリ、いつも完璧じゃないですか」
「完璧じゃない。夏の合評で"感情が足りない"と言われた。あれ、まだ克服できていない」
「今回こそ?」
「今回こそ。心臓のあるミステリを書く。トリックの中に人間がいる。犯人の動機に心臓がある。読者がトリックを解いた瞬間に"すごい"ではなく"泣いた"と言うミステリ」
「泣けるミステリ」
「矛盾しているように聞こえるだろう。でも文化祭で学んだ。来場者が"やった!"と叫ぶ顔。あの顔の向こうに感情がある。紙の上でもあの感情を作りたい」
凛先輩の目が真剣だ。一年目最後のコンクール。来年は受験生になる。書ける時間が限られる。今の凛先輩にとって、この秋が最も濃い季節だ。
「先輩。参考にしたらどうですか。自分の感情を」
「自分の?」
「先輩が文芸部を守りたいと思った時の気持ちとか。廃部の危機の時の気持ちとか。大切なものを失いかけた時の感情を、犯人の動機に使えないですか」
凛先輩が一瞬目を見開いた。
「犯人の動機は"守りたかった"か」
「守りたくて、守れなくて、だから罪を犯した。先輩ならその感情が分かるでしょう」
「……分かる。分かりすぎるくらい分かる。書ける気がしてきた。朝倉、お前——いつからそういうアドバイスができるようになった」
「先輩と詩織さんに合評してもらったからです。人の作品を見る目が育った」
「育ったな。夏のお前には言えなかった言葉だ」
凛先輩が立ち上がった。ブランケットを畳んだ。ソファに置いた。
凛先輩の背中が小さく見えた。いつもは大きく見える背中だ。ミステリの設計者。脱出ゲームの創造者。掟を書いた人。でも今日の凛先輩は少しだけ小さい。「一年目最後」の重みが肩にかかっている。
「帰る。今夜から書く。二十五日で"心臓のあるミステリ"を完成させる」
「先輩なら書けます」
「書く。後輩に恥じない作品を」
凛先輩が部室を出ていった。振り返らなかった。いつも通り。歩き始めたら振り返らない人だ。でも今日の背中は、いつもより少しゆっくり歩いている気がした。「一年目最後」の重みを噛み締めながら。
凛先輩が書くのは「心臓のあるミステリ」。犯人が「守りたかったもの」のために罪を犯す物語。凛先輩自身が「文芸部を守りたかった」感情を犯人に投影する。自分の感情を作品に入れる。凛先輩にとって最も難しい挑戦だ。トリックは論理で設計できる。でも感情は設計できない。感じるしかない。凛先輩が感情を文字にする二十五日間が始まる。
先生の応募要項も本棚の一番上にある。先生も書くかもしれない。全員が書こうとしている。書く季節だ。秋は実りの季節。文芸部の実りは原稿だ。
一人になった部室。ホワイトボードに「秋の高校文芸コンクール 締切:十一月末」。看板が壁にある。部誌が本棚にある。全部がここにある。
三人のコンクール。詩織さんは銀賞以上。凛先輩は心臓のあるミステリ。俺はリベンジ。壮介は二千文字のカレーうどンミステリ。全員が夏の自分を超えようとしている。
「テーマは何にするんだ、壮介」
「カレーうどンのミステリ! カレーうどンの中に暗号が隠されてる話!」
「リレー小説の来場者が書いた一行からヒントをもらったんだったな」
「そう! "カレーうどンの中に暗号が隠されていた"って一行! あれを二千文字の物語にする!」
「壮介にしか書けない物語だな」
「世界初! カレーうどンミステリ! 新ジャンル!」
「新ジャンルかどうかは審査員が決めるが、独自性はある」
「独自性!! 壮介オリジナル!!」
四人全員が夏の自分を超えようとしている。秋の挑戦状。受けて立つ。
窓の外に銀杏の葉が舞っている。黄金色。夏の青が消えて、秋の金に変わった。文芸部も変わった。入部した四月から七ヶ月。カレーうどンの千二十文字から始まった。合宿で原稿を書いた。コンクールに出した。落選した。かき氷を食べた。文化祭で五十七人に声を届けた。全部が「今の自分」を作っている。
全部がコンクールの原稿に入る。走ったこと。失ったこと。見つけたこと。届けたこと。七ヶ月分の全部を文字にする。声で推敲して、中盤型で引き込んで、三百文字の滑走路で着地する。夏の自分にはできなかったことが、秋の自分にはできる。
先生が応募要項を本棚の一番上に置いた。十年ぶりに。先生も何かを始めようとしている。生徒が前に進むなら、教師も前に進む。缶コーヒーを飲みながら、少しずつ。デスクの引き出しには「あの夏の部室」の未完成原稿が二百ページ眠っている。十年間眠り続けた原稿。応募要項が本棚の一番上に移動した。原稿が引き出しから出る日は来るのだろうか。
十一月が始まった。コンクールの月だ。二十五日で原稿を仕上げる。二十五日間の全力の執筆。文化祭は五人で走った。コンクールは一人で書く。でも一人じゃない。部室に帰れば仲間がいる。合評がある。赤ペンがある。掟がある。
書け。掟の一番目。
書く。秋の挑戦状を受けて、書く。
詩織さんのLINEが来た。夜九時。
「朝倉くん。プロット、始めました。テーマは"声"。朗読バトルで声にした時の感覚を書きます。あの時の空気を文字にしたい」
「俺も始める。テーマは"聞くこと"。三十五人の前で読んだあの日の音を書く」
「似てますね。声と音。二人とも文化祭から受け取ったものが近い」
「近い。でも文章は違う。詩織さんの歩く文章と俺の走る文章」
「どちらも強い。走ると歩く。両方あるから面白い」
「コンクールでは対戦相手だぞ」
「対戦相手です。でも同じ部室で書く仲間でもあります。対戦と仲間。両方あるから文芸部です」
「両方。いいな。その言葉」
「おやすみなさい。明日から本気で書きます」
「おやすみ。俺も書く」
スマホを閉じた。十一月の夜。冷たい。でも胸は温かい。詩織さんの「両方あるから文芸部です」が、温かいお茶のように身体に広がっている。
二十五日。全力で書く。四人の挑戦状が秋の空に向かって飛んでいく。詩織さんの「声」。凛先輩の「心臓のあるミステリ」。壮介の「カレーうどンミステリ」。俺の「聞くこと」。全部が十一月末の締切に向かって走り始めた。
掟の一番目。書け。
書く。全力で。文芸部のクソ長い一年目の、秋の個人戦が始まる。走る文章と歩く文章とカレーうどンの文章と心臓のあるミステリが、二十五日後の締切に向かって全力で疾走する。畳の部室から、全国の審査員の机の上まで。声で走った秋の次は、文字で走る秋が待っている。個人戦だ。一人で書く。一人で走る。でも背中には四人の気配が、確かに、ここにある。




