第70話 秋が深まる──個人戦の季節
# 秋が深まる──個人戦の季節
十一月。金木犀の匂いが消えた。
朝、学校に向かう道で息が白くなった。今年初めてだ。夏が遠い。合宿の海も、花火の夜も、かき氷も、全部が遠い季節になった。秋が深まっている。冬の足音が聞こえる。グラウンドの銀杏が黄色い。真っ黄色。黄金色と言ったほうが近い。秋の朝日を浴びて銀杏が光っている。四月に見た桜のピンクから、十一月の銀杏の黄金に。季節が一周しかけている。あと五ヶ月で一年だ。
部室の引き戸を開けた。畳の匂い。いつもの匂い。でも今日は少し違う。冷たい。十一月の朝の冷気が畳に染みている。
凛先輩がソファにブランケットを巻きつけていた。猫が丸まっているようだ。
「寒い」
「十一月ですからね」
「ストーブがほしい」
「ストーブは十二月からです。予算の問題で」
「一ヶ月耐えるのか」
「根性で冬を越しましょう」
「根性論は嫌いだが、選択肢がないなら仕方ない」
壮介が胸を張った。
「俺がストーブだ! 壮介ストーブ! 人間暖房!」
壮介の体温は高い。壮介の周り半径五十センチは「壮介暖房圏」だ。壮介の隣に座ると暖かい。カレーうどンの匂いもする。暖かさとカレーうどンの匂い。冬の部室には壮介が必要だ。
詩織さんがお茶を淹れた。熱い。夏はぬるめだった。秋は適温だった。冬は熱い。詩織さんは季節に合わせてお茶の温度を変える。細やかだ。言わないけれど全員が気づいている。
先生が缶コーヒーを持って入ってきた。ホット。夏のアイスから切り替わった。先生の季節認識はアイスかホットかの二択しかない。春夏秋冬ではなく、アイスとホットの二季。先生の暦は缶コーヒーで動いている。
「先生、ホットの缶コーヒー、何本目ですか。今シーズン」
「数えてない。数えたくない」
「先生が数えたくないということは相当な量ですね」
「相当だ。退職金が缶コーヒーに変換されている」
部室が寒い。凛先輩のブランケット。壮介の人間暖房。詩織さんの熱いお茶。先生のホット缶コーヒー。俺は何もない。寒さに耐える一般人だ。
「朝倉くん、寒いですか」
「少し」
「お茶、もう一杯淹れますね」
「ありがとう」
詩織さんが俺の湯呑みにお茶を注いだ。温かい。詩織さんの気遣いが温かい。お茶の温度は気遣いの温度だ。「夏」と「冬」の二つだけ。秋は存在しない。アイスからホットに切り替わった日が先生の「冬の始まり」だ。
「先生、今日からホットですね」
「ホットの季節だ。夏が終わった」
「夏は三ヶ月前に終わってますよ」
「俺の夏はアイスコーヒーが終わるまで続く」
*
本棚を見た。部誌が三冊並んでいる。
第一号。入部して最初に出した部誌。壮介の棒人間の表紙。中身は薄い。でも俺たちの最初の一冊だ。
第二号。夏のコンクール後に出した部誌。詩織さんの佳作作品が載っている。俺の落選作も。壮介の千二十文字も。全員の夏が詰まっている。
特別編。文化祭の記録冊子。先週完成した。壮介の表紙。棒人間ではなくマイクのイラスト。壮介が初めて棒人間以外を描いた。マイクの形は少し歪んでいるが、マイクだと分かる。壮介の画力の進化だ。凛先輩が「マイクに見える。七十点」と評価した。壮介が「七十点!? 棒人間の時は何点だったんですか」と聞いた。凛先輩が「棒人間は採点対象外だ」と答えた。千二十文字から千五百文字への進化と同じ速度で、棒人間からマイクに進化した。
中身はリレー小説六本の全文。朗読バトルの三作品(凛先輩のミステリ、詩織さんの雨の短編、俺の「ここにいる」)。壮介のMC台本。脱出ゲームのトリック解説。来場者数のグラフ(詩織さんが手描きで)。投票結果。全部が一冊に収まっている。
三冊。半年で三冊。本棚が少しずつ埋まっていく。来年にはもっと増える。再来年にはもっと。三年間で何冊の部誌が並ぶのだろう。凛先輩が卒業する時、この本棚はどれだけ埋まっているだろう。
「本棚が充実してきたな」
凛先輩が本棚を見ている。入部した時、本棚には古い部誌が三冊しかなかった。三年前、二年前の薄い冊子。来場者三人の文化祭の記録。ほとんど空っぽだった。今は六冊。部誌三冊にリレー小説の模造紙。看板。半年で倍に増えた。
「来年はもっと増やす。月刊部誌にしてもいい」
「月刊!? 毎月出すんですか!?」
「冗談だ。季刊が限界だろう。だが質は上げる」
リレー小説の模造紙が丸まって棚の隅にある。看板が壁に立てかけてある。部誌と模造紙と看板。全部が文芸部の財産だ。半年分の。
*
「コンクールの話をする」
凛先輩がホワイトボードの前に立った。ブランケットを巻いたまま。
「文化祭は"届ける戦い"だった。来場者の前で声を出して、反応をもらって、拍手をもらった。コンクールは違う。"認められる戦い"だ。審査員に原稿を送って、結果を待つ。反応は見えない。拍手はない」
「文化祭のほうが楽しかったな」
「楽しいのは文化祭だ。だがコンクールには文化祭にはない価値がある。審査員という"プロの目"に認められること。それは来場者の拍手とは違う重みがある」
「声の筋肉から文字の筋肉への切り替えですね」
「その通りだ。文化祭では声で届けた。コンクールでは文字で認められる。使う筋肉が違う」
凛先輩が各自のコンクール原稿のテーマを聞いた。
「俺は"心に響くミステリ"だ。文化祭で学んだ。トリックだけでは足りない。人間を描く。人間の感情をミステリの構造に埋め込む。読者が謎を解いた時に"すごい"ではなく"泣いた"と言うミステリを書く」
「凛先輩が泣けるミステリを」
「矛盾しているように聞こえるだろう。だがトリックの向こうに人間がいる。人間がいれば感動がある。文化祭の脱出ゲームで学んだ。来場者が"やった!"と叫ぶ顔。あの感情をコンクールの読者にも与えたい。紙の上で」
「先輩、文化祭で変わりましたね」
「変わった。来場者が教えてくれた。ミステリは"すごい"だけでは足りない。"すごい"の先にある感情を書く。それが一年目最後のコンクールの目標だ」
「一年目最後のコンクール」
全員が黙った。凛先輩が「一年目最後」と言った。凛先輩にとっての「一年目」は部長としての一年目。来年は受験生。三年生になったら部長を次の代に引き継ぐかもしれない。凛先輩が部長でいられる時間は有限だ。
「一年目最後」
「そうだ。来年は受験生だ。書く時間が減る。今年の秋が俺の現役時代の最も濃い季節かもしれない。だから全力で書く。後悔しないために」
詩織さん。
「私は"声"をテーマにします。朗読バトルで声に出して読んだ経験を原稿に活かしたい。黙読でも声が聞こえるような文章を書きたい」
「声が聞こえる文章。面白いテーマだ」
「氷室さんには負けません。銀賞以上を狙います」
詩織さんの目に静かな炎がある。穏やかな負けず嫌い。氷室蓮がリレー小説に書いた一行を思い出す。「嘘をつく人間は、いつも目を逸らす。だが、彼女だけは逸らさなかった」。詩織さんは逸らさない。コンクールの結果からも。ライバルの視線からも。
俺。
「"今の自分"を書く。夏のコンクールでは過去を書いた。膝を壊した日。サッカーを失った日。朗読バトルでは今を書いた。"ここにいる"。コンクールでも"今"を書きたい。文芸部にいる今の自分を」
「夏の落選から学んだか」
「学びました。先生に"ラストが急だ"と言われた。三百文字の滑走路が必要だと。朗読バトルでそれを実践した。コンクールの原稿にも活かす」
「声で推敲する男の原稿は強いぞ。文化祭で証明した。十四票。来場者の半数以上がお前の朗読を選んだ。あの声を文字に変換しろ。声のリズムを文字のリズムに。声で推敲した原稿は、黙読しても声が聞こえる」
「声が聞こえる原稿。詩織さんのテーマと近いですね」
「近い。朝倉と千歳は同じ方向を向いている。声と文字の境界を溶かす。それが二人の武器だ」
「詩織さんと同じ方向か」
「同じ方向を向いているけど、文章は違います。朝倉くんの文章は走る。私の文章は歩く。走ると歩くの違い」
「どっちが強い?」
「どちらも強い。走る文章と歩く文章、両方あるから文芸部は面白い」
壮介。
「カレーうどンのミステリ!」
「何だそれは」
「カレーうどンの中に暗号が隠されてる話! リレー小説で来場者が書いた一行からヒントをもらった!」
「来場者の一行をヒントにしたのか」
「した! "カレーうどンの中に暗号が隠されていた"って一行がめちゃくちゃ面白かった! あれをミステリにする!」
「壮介がミステリを書くのか」
「書く! 凛先輩のミステリと詩織ちゃんの描写力と陽翔の走る文体を全部パクる!」
「パクるな。学べ」
「学ぶ! パクらず学ぶ!」
「文字数は?」
「二千文字目標!」
「千二十文字の倍か。いけるか?」
「いける! たぶん!」
「"たぶん"が出た」
「たぶんは希望だ! 希望を持って走る! 壮介の人生哲学!」
「壮介の人生哲学がまた増えた」
「いくつあるんですか、壮介くんの人生哲学」
「数えたことない! 数えたらたぶん百個ある!」
「百個の人生哲学。部誌に載せたら一冊埋まるな」
「壮介の人生哲学集! 出す!?」
「出さない。コンクールの原稿を書け」
「書く! カレーうどンのミステリ! 千二十文字の倍! 二千文字の大作!」
「二千文字で大作と言うのは壮介だけだ」
「壮介の二千文字は俺の一万文字に匹敵するぞ。壮介の一文字は他人の五文字分の密度がある」
「五倍密度!? 俺すごくない!?」
「すごいかどうかは審査員が決める。だがお前のカレーうどンには独自性がある。他の誰にも書けないカレーうどンだ」
「独自性!! 壮介オリジナル!!」
「オリジナルカレーうどンミステリ。世界初のジャンルかもしれない」
「世界初!!」
壮介のテンションが上がっている。コンクールへのモチベーションが文化祭並みに高い。壮介は乗せると走る。褒めると加速する。カレーうどンと褒め言葉が壮介のガソリンだ。
壮介の「たぶん」は本人の中では九割の自信を意味する。残りの一割は不安。でも九割の自信で走る。それが壮介だ。
*
詩織さんのスマホが鳴った。LINE。
「氷室さんからです」
「何て?」
「"コンクールの季節だ。準備はいいか"」
「短い。氷室らしい」
「返信します。"準備万端です"」
「短く返すんだな」
「戦略です。氷室さんに情報を与えない」
詩織さんがスマホを閉じた。氷室蓮とのライバル関係が続いている。文化祭で「素晴らしかった」と言った氷室が、コンクールでは「勝つ」と言う。褒めてから刺す。氷室の様式美だ。
「氷室さんは文化祭で何を得たんでしょうね」
「脱出ゲームを十二分でクリアした経験と、リレー小説に一行書いた経験。あとは詩織さんの朗読を聞けなかった後悔」
「聞きたかったと言ってましたね。振り返らずに去っていきましたけど」
「来年は聞かせてやろう。その代わりコンクールでは負けない」
「はい。負けません」
詩織さんの目が燃えている。穏やかに。詩織さんの炎は静かだ。壮介の炎が爆発なら、詩織さんの炎はろうそく。でもろうそくの炎は消えにくい。風が吹いても揺れるだけで消えない。詩織さんの負けず嫌いは、そういう種類の炎だ。
「白石はどうしてる?」
「桜庭高校の白石くんですか。LINEで少し話しました。"構成を見直した。今回は自信がある"と」
「白石も動いてるか」
「全員動いてます。氷室さんも白石くんも。秋のコンクールは夏より激戦になります。氷室さん、白石くん、西園寺さん。全員が夏のコンクール後に成長しています」
「西園寺も出るのか」
「金賞の西園寺さんは毎回出ます。夏に金賞を取った人が秋も出る。強いです」
「金賞か。遠いな」
「遠いけど見える距離です。夏は見えなかった。今は見える。金賞がどれくらいの実力か分かるようになった。分かるようになっただけで成長です」
「千歳の分析は的確だな」
「取材者ですから。データは嘘をつきません」
「上等だ。激戦が文芸を育てる」
凛先輩が言い切った。ブランケットに包まれたまま。寒がりのミステリ作家が、激戦を歓迎している。
*
放課後。帰り道。十一月の風。冷たい。コートが必要になる季節がすぐそこにある。
文化祭が終わった。特別編が完成した。コンクールの季節が来た。時間が流れている。四月に入部して七ヶ月。春、夏、秋。三つの季節を文芸部で過ごした。残りは冬と、もう一度の春。凛先輩が三年生になる春。
凛先輩は来年の春で三年生だ。受験生になる。部活に使える時間が減る。今年の秋が凛先輩の「現役時代」の最も濃い時期かもしれない。文化祭で声の壁を超えた凛先輩が、コンクールで何を書くか。泣けるミステリ。凛先輩の新しい挑戦だ。
詩織さんは銀賞以上を狙っている。氷室蓮という壁を超えるために。コンクールの佳作から銀賞へ。一段上がる。詩織さんの穏やかな炎が、一段上の高さに向かっている。
壮介はカレーうどンのミステリを書く。千二十文字から二千文字へ。倍の距離を走る。壮介のペースで。壮介の声で。壮介にしか書けない物語を。
俺は「今の自分」を書く。声で推敲する作家として。文化祭で学んだ全部を文字に変換する。走る文章を。もっと上手く。もっと遠くまで。
先生は応募要項を本棚の一番上に置いた。十年ぶりに。先生が書くかどうかは分からない。でも可能性の扉が開いている。缶コーヒー一杯分の幅で。
掟の一番目。書け。
書く。全員で。各自の戦場で。個人戦の季節が始まる。秋が深まり、冬が来る。文芸部の一年目の、最も長い季節が。
歩きながら空を見上げた。十一月の空は高い。夏の青より薄い。冬の灰色に近づいている。空の色が季節を教えてくれる。
ポケットに手を入れた。冷たい。手袋が必要な季節がもうすぐ来る。でも心は温かい。部室の畳の温度が身体に残っている。壮介の暖房圏の温かさが。詩織さんのお茶の温かさが。凛先輩のブランケットの温かさが。先生の缶コーヒーの温かさが。
文芸部に入って七ヶ月。入部届に「面白い小説を読んだから」と書いた日から。あれから二百日以上が経った。カレーうどンの千二十文字。合宿の海。コンクール。かき氷。文化祭。朗読バトル。五十七人。十五秒の拍手。全部が俺の中にある。全部が「ここにいる理由」になっている。
次はコンクールだ。個人戦だ。一人で書く。一人で戦う。でも一人じゃない。部室に帰れば五人がいる。ちゃぶ台がある。掟がある。
書け。読め。笑え。泣くな。
秋が深まる。十一月が始まる。コンクールの締切が近づく。原稿を書く。声で推敲する。推敲した原稿をポストに入れる。結果を待つ。待つ間に冬が来る。
冬が来る。文芸部のクソ長い一年目が、まだ続いている。長くて、おかしくて、最高の一年目が。どう考えてもおかしいくらい、最高で、クソ長くて、まだまだ、ずっと続く一年目が。




