第68話 打ち上げ──屋上の夕焼け
# 打ち上げ──屋上の夕焼け
振り返り会議が終わった後、壮介がちゃぶ台に突っ伏した。三秒で寝落ちした。文芸部最速の睡眠への移行速度だ。
凛先輩がソファの凹みに身体をフィットさせた。二日ぶりのソファだ。文化祭の二日間は空き教室にいたから。凛先輩にとってソファは家だ。帰ってきた顔をしている。
詩織さんが万年筆を「持っている」のではなく、ちゃぶ台の上に「置いている」。疲労が万年筆の静止に表れている。いつもの詩織さんは万年筆を握ったまま休む。今日は握る力もない。
俺もぐったりしている。PMの仕事がゼロだ。管理することが何もない。心地よい虚無。文化祭のためにスケジュールを組んで、タスクを割り振って、整理券を配って、来場者カウンターを押して。全部が終わった。何もすることがない。贅沢な疲れだ。
先生だけ通常運転だ。缶コーヒーを飲んでいる。今日の一本目。文化祭中は一日五本だったが、今日は普段のペースに戻っている。先生の缶コーヒーのペースは文芸部の緊張度のバロメーターだ。一本の日は平和。五本の日は戦場。今日は一本。平和が戻った。文化祭中は一日五本だったが、今日は普段のペースに戻っている。
壮介の寝言が聞こえた。
「むにゃ……朗読バトル……来てくれ……」
「まだ呼び込みしてる」
「寝言でも声が枯れてる」
「二日間で声帯を限界まで使ったからな。壮介の声帯は文芸部のために擦り切れた」
「先輩、それかっこいい表現ですね」
「事実だ」
先生が立ち上がった。
「打ち上げにするか。屋上でいいか」
「先生にしてはいい提案ですね」
「"にしては"は余計だ」
「壮介を起こしてください」
「壮介。屋上。ジュース」
三語。凛先輩の三語伝達。壮介の脳が「ジュース」で覚醒した。
「ジュースって聞こえた。どこ」
跳ね起きた。頬に畳の格子模様がついている。壮介のバッテリーは飲食で瞬間充電される。
全員で屋上に向かった。階段を上がる足が重い。二日間の全力の後だ。壮介だけが「ジュース!」と走っている。壮介のバッテリーは無限だ。
屋上のドアを開けた。十月の風が吹き込んだ。涼しい。冷たくはない。金木犀の最後の香りが漂っている。空がオレンジからピンクに変わっていく。
フェンスにもたれた。五人が並んだ。グラウンドが見える。サッカー部が帰り支度をしている。田中の背中が夕日に染まっている。
俺はグラウンドを穏やかな目で見下ろした。半年前は「失った場所」だった。膝が壊れて、走れなくなって、チームメイトが走っているのを見るのが辛かった。今は違う。グラウンドは「送り出した場所」だ。あそこから出発して、ここに来た。畳の部室に。ちゃぶ台のある場所に。声で走る場所に。
先生がジュースを五本買ってきた。「経費で落ちるか不明だが」。壮介がオレンジジュースを選んだ。カレーうどンと夕焼けとオレンジジュース。壮介はオレンジ色のものが好きだ。凛先輩がコーラ。「ミステリ作家は予想外を好む」。詩織さんがりんごジュース。俺が烏龍茶。先生は缶コーヒー。
「乾杯。文芸部フェスティバル。五十七人。お疲れ様」
五つの缶がカチンと鳴った。
*
屋上。十月の夕方。空がオレンジからピンクに変わっていく。風は涼しいが冷たくはない。金木犀の最後の香りが漂っている。フェンスにもたれて五人が並んでいる。
グラウンドが見える。サッカー部が帰り支度をしている。田中の背中が夕日に染まっている。俺はグラウンドを穏やかな目で見下ろしている。半年前は「失った場所」だった。膝が壊れて、走れなくなって、チームメイトが走っているのを見るのが辛かった。今は違う。グラウンドは「送り出した場所」だ。あそこから出発して、ここに来た。畳の部室に。ちゃぶ台のある場所に。
先生がジュースを五本買ってきた。自動販売機で。
「経費で落ちるか不明だが」
「先生の缶コーヒー代、年間でいくらですか」
「計算したくない。知ったら辞職する」
「一日二本として年間約九万五千円。十年で約九十五万。軽自動車が買えますね」
「朝倉、計算するな。現実を突きつけるな」
壮介がオレンジジュースを選んだ。壮介はオレンジ色のものが好きだ。カレーうどン。夕焼け。オレンジジュース。全部オレンジだ。凛先輩がコーラを選んだ。意外だ。「ミステリ作家は予想外を好む」と言い訳した。詩織さんがりんごジュース。俺が烏龍茶。先生は当然缶コーヒー。
「乾杯しよう」
凛先輩が缶を掲げた。
「文芸部フェスティバル。五十七人。お疲れ様」
「お疲れ様!」
「お疲れ様です」
「お疲れ」
「乾杯。缶コーヒーで」
五つの缶がカチンと鳴った。
「一人ずつ聞く。文化祭で得たものを一言で」
凛先輩が促した。壮介が最初に手を挙げた。
「声! 声を枯らすまで叫んだのは初めてだ。でも枯れた後にまだ叫べた。声って筋肉なんだな。使えば使うほど強くなる」
「先生が言ってたセリフだな」
「俺の受け売りか。悪い気はしない」
凛先輩。
「手応え。ミステリを体験として届けられた。来場者の"やった!"の顔が忘れられない。あの顔をもっと見たい。来年はもっと凝ったトリックを設計する」
詩織さん。
「共有。四本のリレー小説は私一人では絶対に書けませんでした。二十人で書いた物語が円環を描いた瞬間。あの瞬間が私の宝物です」
俺。
「届いた。コンクールでは届かなかった。審査員の顔が見えなかった。でも朗読バトルでは声にしたら届いた。あの十五秒の拍手を俺は一生忘れない」
先生。
「缶コーヒーの消費量が倍になった」
「先生!!」
「冗談だ」
先生が缶コーヒーを一口飲んだ。
「俺が得たのは——"まだ遅くない"だ」
「まだ遅くない?」
「教え子がこれだけやれるなら、俺もまだ書けるかもしれない」
全員が振り返った。先生が「書く」と言った。先生は読む人だ。評価する人だ。アドバイスする人だ。でも「書く」側の人間ではなかった。少なくとも俺たちが知る先生は。
「先生、書くんですか」
「独り言だ」
「独り言にしては重大発言ですよ」
「独り言だ。忘れろ」
先生が缶コーヒーで口を塞いだ。でも言ってしまった。「まだ書けるかもしれない」。
先生は十五年前に小説を書いていた。出版社に原稿を送って、落選して、教師になった。書くことを諦めた人だ。少なくとも俺たちはそう思っていた。でも先生の中に書く意志の芽が生まれた。文化祭がOBを連れてきて、OBが先生の八年間を肯定して、五十七人の来場者が先生の部活を証明した。全部が先生の中に蓄積された。その蓄積が「書けるかもしれない」という一言になった。
「先生。書いてくださいよ。読みたいです。先生の小説」
「うるさい。独り言だと言った」
「独り言を五人に聞かれたら公式発言ですよ」
「公式ではない。非公式だ。オフレコだ」
「取材ノートには書きません。でも覚えておきます」
詩織さんが言った。先生が「お前の取材ノートに載らないのは初めてだな」と返した。「先生の大事な言葉だから。取材ノートではなくここに」。詩織さんが胸を指した。「ここに記録します」。「まだ書けるかもしれない」。先生の中に書く意志の芽が生まれた。文化祭がOBを連れてきて、OBが先生の八年間を肯定して、五十七人の来場者が先生の部活を証明して。全部が先生の中に蓄積された。その蓄積が「書けるかもしれない」という一言になった。
*
全体の会話が一段落した。壮介が凛先輩にちょっかいを出している。「文化祭の写真見て! 先輩の朗読の顔、かっこいい!」。凛先輩が「消せ!!」と怒鳴っている。平和だ。
屋上の隅。俺と詩織さんが並んで立っている。フェンスの向こうに夕焼け。オレンジが赤に変わっていく。
「朝倉くん」
「ん?」
「朗読、本当に素晴らしかったです。"だから俺はここにいる"の一行を聞いた時、私——泣きそうになりました」
「泣いてたよ。客席で」
詩織さんが赤くなった。
「取材です」
「取材で泣く人初めて見た」
「朝倉くんの作品が、取材の範疇を超えてしまっただけです!」
「ありがとう。詩織さんの保証がなかったら、あの声は出なかった」
「保証は撤回しません。来年も保証します」
「来年も朗読するのか」
「来年もやりましょう。朗読バトル。三人対決。今度は私が一位を取ります」
「宣戦布告だ」
「宣戦布告です。取材者としてではなく、一人の作家として」
沈黙。夕焼けが二人の影を長く伸ばしている。秋の影は長い。
「朝倉くん。合宿の花火の夜に、何を言おうとしたか。もう聞いてもいいですか?」
少し驚いた。花火の夜。覚えている。夏の終わり。合宿の最後の夜。海辺で花火を見ながら、何かを言おうとして、言えなかった。あれから二ヶ月が経った。夏が終わって、秋が来て、コンクールの結果が出て、かき氷を食べて、文化祭を準備して、朗読バトルで声を出した。二ヶ月分の全部が、あの花火の夜と今の夕焼けの間にある。合宿の最後の夜。海辺で花火を見ながら、何かを言おうとして言えなかった。
「"今日、楽しい"」
「え?」
「あの時言おうとしたこと。"今日、楽しい"。それだけだったんだ。でもなぜか言えなかった」
「……そうだったんですか」
「ただの感想なのに、なんで言えなかったんだろうな」
詩織さんが微笑んだ。夕日が詩織さんの横顔を照らしている。
「"ただの感想"じゃなかったからじゃないですか?」
胸に落ちた。詩織さんの言葉が。夕焼けと一緒に沈んでいく。
「ただの感想」じゃなかった。「楽しい」の中に別の感情が混ざっていた。名前がつけられない感情。「楽しい」でも「嬉しい」でも「好き」でもない。全部が混ざった何か。文芸部に入って言葉を扱う人間になったのに、自分の感情に名前をつけられない。皮肉だ。「楽しい」と「好き」の間にある何か。あの夜、それを言葉にできなかった。今もまだできない。でも詩織さんは見抜いている。
「詩織さんは鋭いな」
「取材者ですから」
「また取材か」
「はい。でも今日の取材は少しだけ——私的な取材です」
「私的な取材。朝倉くん専用の取材です」
詩織さんの声が柔らかい。夕日の色と同じ温度だ。「取材です」がいつもの免罪符ではなく、本音の包装紙になっている。中身が少しだけ透けている。
「取材ノートには書きません。ここに」
詩織さんが自分の胸を指した。
「ここに記録します」
取材ノートに書かない記録。詩織さんの中だけにある記録。百ページ以上の取材ノートには載らない、一行だけの記録。「ただの感想じゃなかった」。その一行が詩織さんの胸の中に刻まれた。
夕焼けが赤からピンクに変わっている。空が暗くなり始めている。十月の日没は早い。影が長く伸びて、やがて消える。
「はい。朝倉くん専用の。取材ノートには書きません。ここに」
詩織さんが自分の胸を指した。
「ここに記録します」
夕焼けが赤からピンクに。空が暗くなり始めている。十月の日没は早い。影が長く伸びて、やがて消える。
「詩織さん」
「はい」
「来年も一緒に文化祭やろう」
「はい。来年も。再来年も」
「再来年って卒業の年だぞ」
「卒業まで。ずっと」
*
全員がフェンスに並んだ。夕焼けが最も美しい瞬間。五人の影がグラウンドに向かって長く伸びている。
「来年もやろう。文化祭」
壮介が言った。
「当然だ。百人目標」
「百人!! やるぞ!!」
「来年はリレー小説をもっと進化させたいです。プロジェクターを使って投影するとか」
「俺も。来年はもっといい作品を、声で届けたい」
「俺は脱出ゲームの難易度を上げる。来年は金属の箱にする」
「金属!? 壮介が壊せないレベル!?」
「壮介対策として金属は最低限だ。理想はチタン合金」
「チタン合金!? 予算いくらですか!?」
「天城に交渉する」
「天城さんがチタン合金の予算を通すわけないだろ」
「壮介が壊せない箱はない。壮介対策は永遠の課題だ」
「俺、課題扱い!?」
笑い声が屋上に広がった。十月の夕暮れ。五人が笑っている。文化祭が終わった後の、一番穏やかな笑い。
先生が缶コーヒーを飲み終えた。
「そろそろ降りるか。暗くなる前に」
「はい」
「先生、最後に一つ」
凛先輩が言った。
「何だ」
「先生も。来年も付き合ってくださいね。缶コーヒー持って」
「当然だ。顧問だからな。九年目の顧問だ」
「九年目。ベテランですね。朝凪高校で一番長い顧問じゃないですか」
「たぶんそうだ。九年間で部員がゼロの年が三回あった。缶コーヒーだけが友達の年もあった」
「今は五人います」
「五人。多いな。一気に増えた」
「先生が名前を残してくれたからです」
「ベテランだ。缶コーヒーの味も九年分分かる」
階段を降りた。五人で。校舎が夕日に染まっている。秋の風。金木犀の最後の香り。文化祭の余韻が身体に残っている。十五秒の拍手の振動が手のひらに。壮介のMCの声が耳に。詩織さんの「ただの感想じゃなかったからじゃないですか?」が胸に。先生の「まだ遅くない」が心に。全部が残っている。全部が俺の中に。
掟の一番目。書け。
書く。書き続ける。文芸部の秋はまだ続いている。冬が来る。春が来る。凛先輩が三年生になる。時間は流れる。でも掟は変わらない。書け。読め。笑え。泣くな。
書き続ける。ここで。この仲間と。
校門を出た。五人がバラバラの方向に歩いていく。壮介が最初に「また明日!」と手を振って走っていった。凛先輩が静かに歩いていった。振り返らない。先生が「缶コーヒー買って帰る」とコンビニに消えた。
詩織さんと最後に残った。いつものように。
「朝倉くん。来年も一緒に文化祭やりましょう」
「やろう。来年も。再来年も」
「再来年は卒業の年ですよ」
「卒業まで。ずっと」
「ずっと。いい言葉ですね」
詩織さんが笑った。手を振った。角を曲がった。
一人になった。十月の夜。空に星が見え始めている。文化祭の余韻が身体に残っている。十五秒の拍手。壮介のMC。詩織さんの「ただの感想じゃなかった」。先生の「まだ遅くない」。凛先輩の「手応え」。全部が俺の中にある。
歩いている。走ってはいない。ゆっくり歩いている。文化祭の後の、穏やかな夜を。走らなくてもいい夜を。声を出さなくてもいい夜を。ただ歩いている。胸の中に五十七人分の記憶を抱えて。
明日から日常に戻る。でも日常は変わっている。看板が部室にある。リレー小説が本棚にある。来場者の記憶が残っている。田中の「声で走ってた」が残っている。先生の「まだ遅くない」が残っている。詩織さんの「ただの感想じゃなかった」が残っている。
秋は続く。冬が来る。春が来る。凛先輩が三年生になる春。時間は流れる。でも今日の夕焼けは消えない。屋上で五人で見た夕焼けは、記憶の中で永遠にオレンジのままだ。五人分のオレンジが。カレーうどンの色と同じオレンジが。壮介が好きな色が。俺たちの文芸部の色が。ずっと、この場所に、在る。




