表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/90

第66話 朗読バトル最終戦──声で走る

# 朗読バトル最終戦──声で走る


 午後二時五十分。開演十分前。


 椅子が足りなかった。三十脚用意したのに、来場者が三十五人いる。立ち見が五人。田中が前列にサッカー部の後輩二人と座っている。水野が中列。天城さんが最前列。投票用紙を膝に置いている。先生が最後列。缶コーヒー五本目。


 教室のドアが開いた。私服の三十代の男性が入ってきた。受付で対応した。カウンターを押した。カチッ。五十七。


 先生が立ち上がった。先生が立ち上がるのは珍しい。座って見守る人間だ。


「お前」


「霧島先生。お久しぶりです」


「文芸部のOBか」


「はい。八年前に卒業しました。三代前の部長です」


 教室が静まった。凛先輩がステージ袖から顔を出した。壮介が「OB!?」と叫んだ。詩織さんが客席から振り返った。


「SNSで朝凪高校の文芸部が文化祭に出し物をやると見かけて。自分がいた頃は考えられなかった」


「八年前は出してなかったのか」


「部員が四人しかいなくて。部誌を作るのが精一杯でした。でも楽しかった。畳の部室で。ちゃぶ台を囲んで」


「畳とちゃぶ台。今も同じだ」


「変わっていないんですね」


「変わっていない。あとホワイトボードが増えた。掟が書いてある」


 OBが最後列の先生の隣に座った。先生が缶コーヒーを差し出した。自分の缶コーヒーを。先生が缶コーヒーを他人に渡すのは初めてだ。先生にとって缶コーヒーは自分だけのものだ。でも八年前のOBに渡した。


「飲め。文化祭にはカフェインだ」


「ありがとうございます」


「名前だけでも顧問を続けていて、良かったのか分からなかった。部員がゼロの年もあった」


「名前だけでも、いてくれたから文芸部が続いた。先生のおかげです」


 先生が目を擦った。


「花粉だ」


 十月に花粉はない。凛先輩が花粉と言って泣くのと同じだ。掟の四番目。泣くな。先生も掟を守っている。八年間、名前だけの顧問を続けた。部員がゼロの年もあった。廃部の危機もあった。それでも名前を残した。その八年間が無駄じゃなかったと、OBが教えてくれた。缶コーヒーを渡した手が震えていた。先生の手が震えるのを初めて見た。


 OBが教室を見回している。看板。脱出ゲーム。リレー小説の模造紙。朗読バトルのステージ。


「すごいですね。五人でこれを?」


「五人だ。あとは缶コーヒーで動く顧問が一人」


「先生は変わりませんね」


「変わらない。缶コーヒーの銘柄だけ変わった」



    *



 午後三時。壮介がマイクの前に立った。


 深呼吸。五秒の沈黙ではない。三秒。今日の壮介は三秒で入る。二日目の壮介はリズムが掴めている。


「ようこそ、文芸部の戦場へ!」


 声量がマイクを通して教室の壁を振動させた。廊下の焼きそばの呼び声を上書きした。


「文芸部朗読バトル、最終戦! MC担当の大和壮介です! 今日は三人の作家が自分の作品を声で届けます! 小説は黙って読むもの? 違う! 今日は耳で読め!」


 来場者から笑いが起きた。緊張がほぐれた。壮介のMCが場の温度を一瞬で上げた。


「最初の挑戦者! 文芸部部長にしてミステリの達人! 桐谷凛!」


 凛先輩がステージに上がった。BGMが暗いピアノに切り替わった。二日目の凛先輩は昨日と違う。声が安定している。そして昨日やらなかったことをやった。五人の容疑者の声を少しずつ変える演じ分け。リハーサルでも昨日もやらなかった。本番二回目で自発的に始めた。


「"犯人は——この部屋を出なかった人間だ"」


 〇・五秒の間。三十五人が同時に息を呑んだ。拍手。大きな拍手。サッカー部の拍手が教室を揺らした。凛先輩が小さく頭を下げた。ステージ袖に戻ってきた。手が震えている。ステージの上では震えなかった。降りたら出た。


「先輩、完璧でした」


「嘘つけ。七行目で少し詰まった」


「誰も気づいてませんよ」


「俺が気づいた。次はもっと上手くなる」


「次ってあるんですか」


「来年の朝霧祭だ。当然やるだろう」


 凛先輩が来年を見ている。今日の文化祭が終わっていないのに、もう来年を見ている。凛先輩らしい。常に次のページを読んでいる。


 壮介が「続いて! 文芸部の言葉の魔法使い! 千歳詩織!」。BGMがギターに。詩織さんの朗読。昨日と同じ温かさ。でも今日の詩織さんは少し違う。ラストの一行を読む時、一瞬だけ視線がステージ脇の俺に向いた。〇・三秒。


「"いつか、この気持ちを言葉にする日が来る"」


 静かな拍手。しみる拍手。詩織さんがステージから降りた。手が震えている。でも顔は笑っている。


「朝倉くん。次はあなたです」


「緊張する」


「緊張していいです。でも——昨夜の電話の声で読んでください。あの声が一番です」


「あの声で読む。約束した」


「約束です」


 詩織さんが客席の前列に座った。観客として。記録者ではなく、聞く人として。



    *



 壮介がマイクを握った。


「そして! 最後の挑戦者!」


 来場者が前のめりになった。昨日から焦らされていた三人目。二日間待った来場者がいる。田中が前列で身を乗り出している。


「文芸部の走る作家! 元サッカー部! ペンでグラウンドを駆ける男! 朝倉陽翔!」


 壮介がBGMを切り替えた。用意していたドラムビートではなかった。ピアノソロに変更していた。壮介が直前に変えた。俺の原稿を読んでいないのに、声の「温度」を予測した。ドラムの疾走感ではなく、ピアノの温かさが必要だと判断した。壮介の音楽的直感だ。MC台本には「ドラムビート」と書いてあった。でも壮介は変えた。凛先輩のピアノ。詩織さんのギター。俺のドラム。三人三様のBGMだったはずが、壮介が俺のBGMだけ変えた。


「壮介、BGM変えたのか」


 後で聞いた。壮介が答えた。


「お前の原稿のタイトルを見た。"ここにいる"。走る文章って聞いてたけど、タイトルは"ここにいる"だ。走って、止まって、ここにいる。止まる文章にはドラムじゃなくてピアノだと思った」


「タイトルだけで判断したのか」


「タイトルだけで十分だ。壮介の耳を信じろ」


 壮介の耳。千二十文字しか書けない男の耳が、千五百文字の温度を正確に予測した。書く力ではなく聴く力。壮介にしかない力だ。


 マイクの前に立った。三十五人の目が俺を見ている。田中。水野。天城さん。先生。OB。詩織さん。知らない顔。知っている顔。全部の顔がこっちを向いている。


 手が震えている。原稿を持つ手が。A4二枚。二日間ポケットで体温を吸った紙。くたびれている。でも文字は読める。千五百文字。半年分の全部。


 深呼吸した。ピアノの音が流れている。優しい音だ。壮介が選んだ音だ。


 読み始めた。


「"入部届の動機欄に、面白い小説を読んだからと書いた日のことを覚えている"」


 声が出た。震えていない。電話で詩織さんと練習した声だ。〇・五秒の間を意識した。二秒の沈黙を挟んだ。文章が声になって、教室に広がっていく。


「"膝が壊れた日、走ることを失った。グラウンドの芝を蹴る感触も、チームメイトの声も、全部が遠くなった"」


 田中が目を閉じた。田中は知っている。俺が膝を壊した日を。サッカーを辞めた日を。あの日の俺を。


「"でもペンを握った日、指先の感覚が変わった。ボールを蹴る足の感覚ではなく、文字を書く指の感覚。新しいグラウンドが生まれた。畳の上の、五人分のグラウンド"」


 声が走っている。文章が走っている。ピアノの音と声が重なっている。壮介が選んだピアノソロが正解だった。ドラムの疾走感ではなく、ピアノの温かさが俺の文章に合っている。走る文章だが、温かい文章だ。壮介は俺の原稿を読んでいないのに、声の温度を正確に予測した。来場者が動かない。目が俺を追っている。耳が声を追っている。凛先輩の朗読は教室を凍らせた。ミステリの冷たさで。詩織さんの朗読は教室を溶かした。雨の温かさで。俺の朗読は教室を走らせている。声がスピードを持っている。一文ごとに加速する。サッカーのドリブルと同じだ。ボールを蹴る代わりに言葉を蹴っている。足の代わりに声で。


 三分経過。来場者の姿勢が変わっている。背筋が伸びている。前のめりの人がいる。目を閉じて聴いている人がいる。田中が拳を握っている。走っている文章を体で受け止めている。サッカーの試合を見ている時と同じ姿勢だ。


「"カレーうどンの匂いがする部室。赤ペンが走る音。万年筆が紙をなぞる音。笑い声。缶コーヒーの蓋が開く音。全部が聞こえる。全部がここにある"」


 ラスト三百文字。滑走路に入った。速度を落とす。走ってきた文章が部室の五感で減速する。


「"サッカーをやめた日、俺のグラウンドは消えた。でもペンを握った日、新しいグラウンドが生まれた。ここで俺は走っている。ボールの代わりに言葉を蹴って。ゴールの代わりに原稿用紙に向かって。チームメイトの代わりに——いや、チームメイトはここにいる。変わったのは場所だけだ"」


 最後の一行。声が静かになった。走っていた声が、止まる。


「"だから俺は、ここにいる"」


 止まった。千五百文字が終わった。


 沈黙。


 三秒。五秒。七秒。十秒。


 誰も動かない。誰も拍手しない。余韻が教室を満たしている。走ってきた声が止まった後の静寂。心拍数が上がった後の、ストンと落ちる瞬間。


 十二秒。先生が最後列で目を閉じている。缶コーヒーを置いている。OBが隣で黙っている。天城さんが投票用紙を握ったまま動かない。詩織さんが前列で涙を拭いている。


 十五秒目。


 拍手が始まった。田中が最初だった。立ち上がった。拍手した。サッカー部が続いた。水野が。天城さんが。知らない来場者たちが。全員が拍手した。十五秒間の拍手。教室が揺れている。


 壮介がマイクの横に立っていた。拍手している。MCを忘れている。台本を持っていない手で拍手している。目が赤い。泣いている。


「壮介、泣いてるぞ」


「泣いてない! 汗だ!」


「目から汗は出ない」


「文芸部では出る!」


 凛先輩がステージ袖で一人拍手していた。腕を組んでいたはずの凛先輩が、腕を解いて拍手していた。小さく。でも確実に。


 先生が最後列で拍手していた。缶コーヒーを持っていない。置いている。手ぶらで拍手している。先生が缶コーヒーなしで拍手するのは、俺が知る限り初めてだ。


 田中が駆け寄ってきた。


「走ってたよ。お前、壇上で走ってた。声で。ペンで。足じゃなくて、声で走ってた」


「走れたか」


「走れてた。サッカーの時と同じ顔してた。いや、もっといい顔だった。お前が一万メートル走った時の顔覚えてるか? あの時と同じだ。ゴールに向かって全力で走ってる顔。でも今日のほうが柔らかい。サッカーの時は歯を食いしばってた。今日は笑ってた。走りながら笑ってた」


「笑ってたか」


「笑ってた。声で走りながら笑ってた。最高だった。サッカー部から来た甲斐があった」


 OBが先生の隣で拍手していた。「いい部ですね」と先生に言った。先生が「いい部だ」と返した。缶コーヒーなしで。


 詩織さんが客席の前列で立ち上がっていた。拍手している。目が潤んでいる。口が「届きました」の形をしている。声は出していない。でも読めた。唇の動きで。


 届いた。千五百文字が。半年分の全部が。ここにいる全員に。


 投票。壮介が投票箱を回した。来場者が一人一票を投じる。紙を折って箱に入れる。田中が悩んでいる。「全員良かったからな。一票じゃ足りない」。


 開票は壮介のMCで。「結果発表! 第三位——」。凛先輩が「順位をつけるな」と止めた。「全員の票数だけ発表しろ。順位は不要だ」。壮介が「了解!」。


 凛先輩:十二票。詩織さん:十一票。俺:十四票。合計三十七票(投票率百パーセント)。


「朝倉くんが一位です!」


「僅差だ。凛先輩と詩織さんとの差はほとんどない」


「僅差でも一位は一位だ」


 凛先輩が言った。負けた側の台詞ではない。認めた側の台詞だ。


「お前の朗読は走っていた。走る文章を声で読んだら、声も走った。三人の中で一番速かった。速さは正義だ」


「先輩のミステリが一番怖かったです。詩織さんの朗読が一番泣けました。俺は走っただけです」


「走っただけで十四票取れる。それがお前の武器だ」


 壮介がMCの最後の台詞を読んだ。


「本日のMCは、カレーうどンを愛する大和壮介でした! ありがとうございました!」


 先生が許可した「最後の自己紹介」。カレーうどンが入った。壮介の約束が果たされた。来場者が笑った。最後の笑い。文芸部フェスティバルの最後の声が、壮介のカレーうどンだった。文芸部らしい。


 午後五時。朝霧祭二日目終了。カウンター最終値。五十七人。


「五十七人」


 凛先輩がホワイトボードに数字を書いた。天城さんの条件は五十人。七人超過。


「やったな」


「やりました」


「やった!!」


「先生、感想を」


 先生が缶コーヒーを持っていない手で全員を見回した。


「九十五点だ」


「九十五!?」


「マイナス五点は箱の強度だ。来年は金属にしろ」


「先生、それ以外は満点ですか」


「それ以外は。満点だ」


 先生が「満点」と言った。先生の辞書に満点はないと思っていた。缶コーヒーの採点で百点をつけたことがない先生が、文芸部フェスティバルに満点をつけた。箱の強度以外は。


 OBが先生に缶コーヒーを返した。


「先生。いい部でした。来年も見に来ます」


「来い。来年はもっといい部になっている」


「楽しみです」


 OBが帰っていった。八年前の部長が、八年後の部室を見て帰った。文芸部は続いている。畳とちゃぶ台とソファとホワイトボードと、掟四条と、五人と缶コーヒーで。


 帰り道。五人で歩いた。全員が疲れている。でも全員が笑っている。二日間の全力の後の笑顔だ。掟の三番目。笑え。笑っている。最高の文化祭だった。


 詩織さんが隣を歩いている。


「朝倉くん。届きましたね」


「届いた。詩織さんのおかげだ。電話の朗読チェックがなかったら、今日はなかった」


「私のおかげじゃないです。朝倉くんの文章の力です」


「文章の力と詩織さんの耳。両方だ」


「両方。そうですね。両方です」


 詩織さんが笑った。夕日が詩織さんの横顔を照らしている。オレンジ色。秋の夕日。


「朝倉くん」


「ん?」


「いつか言えるようになります。まだ言えないこと」


「待ってる」


「待ってくれますか」


「待つ。走りながら」


「走りながら待つ。朝倉くんらしいですね」


 分かれ道。詩織さんが手を振った。角を曲がった。見えなくなった。


 一人になった。十月の夕暮れ。空がオレンジから紫に変わっていく。金木犀の最後の香りが漂っている。


 文芸部フェスティバル。二日間。五十七人の来場者。六本のリレー小説。脱出ゲームのクリア率五割。朗読バトルの三十七票。壮介のMC。凛先輩のミステリ。詩織さんの涙。先生の満点。OBの「いい部ですね」。田中の「声で走ってた」。全部が終わった。全部が良かった。


 掟の一番目。書け。書いた。

 掟の二番目。読め。読んだ。

 掟の三番目。笑え。笑った。

 掟の四番目。泣くな。泣かなかった。壮介は泣いたが。


 明日からまた日常が始まる。部室に戻る。畳とちゃぶ台とソファの場所に。掟のある場所に。俺たちの場所に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ