第65話 氷室蓮、偵察に来る──ライバルの目
# 氷室蓮、偵察に来る
午後一時。カウンター四十八。
次の来場者が教室の入口に立った。紺のブレザー。朝凪高校の制服ではない。冷たい目。涼しい表情。背が高い。
氷室蓮。北嶺高校文芸部。コンクール銀賞。
「偵察に来た」
壮介が「あ、こないだの感じ悪い人!」と叫んだ。氷室の顔が歪んだ。
「敬意を持って感じ悪いって言ってるからな!」
「敬意を持って言っても失礼だ」
「千歳さんの文化祭がどういうものか、興味があった。SNSで見た」
「千歳さんの文化祭?」
「千歳さんが中心になって企画したと聞いた」
氷室の本音が透けている。氷室蓮は嘘が下手だ。分析力は天才的だが、自分の感情を隠すのは苦手だ。「偵察」と言いながら目が詩織さんを探している。「興味があった」と言いながら声のトーンが〇・五度上がっている。「偵察」は建前で、本当は詩織さんの企画を見に来た。コンクール銀賞の分析の鬼が、佳作の詩織さんの文化祭を見に来た。ファンの行動だ。
カウンターを押した。カチッ。四十九。氷室蓮が四十九人目だ。
*
氷室が脱出ゲームに挑んだ。一人で。他の来場者はグループで来る。氷室は一人だ。「一人で作る」人間は一人で解く。
凛先輩が案内した。氷室がパズルに向かった。
第一パズル。暗号。壮介のカレーうどンエッセイ。氷室がエッセイを手に取った。一読。各段落の三文字目を一瞬で拾った。「カ、レ、ー。カレー。数字変換で二七八」。各段落の三文字目を一瞬で拾った。十秒で突破。壮介が三分かかった問題を十秒で解いた。壮介基準の十八分の一の速度だ。
第二パズル。アリバイ推理。氷室が時系列表を見た。三十秒。
「犯人はD。CとDの証言が矛盾している。EがCのアリバイを証明しているため、Dが嘘をついている」
根拠の説明まで完璧だ。凛先輩が「正確だな」と呟いた。
第三パズル。鍵の箱。氷室は力で開けようとしなかった。力で開ける選択肢が氷室の中に存在しない。部誌のヒントを読んで、窓枠の上の鍵を五秒で発見。
第四パズル。文学クイズ。部誌を開いた。詩織さんの短編のページで手が止まった。
クイズを解くためではない。作品を「味わって」読んでいる。氷室の目が文字を追っている。一行ずつ。丁寧に。「偵察」の建前が完全に透けた瞬間だ。氷室蓮は詩織さんの文章を読みに来た。脱出ゲームの謎解きは口実で、本当は詩織さんの短編を読みたかった。
「いい文章だ」
氷室が小声で呟いた。俺にだけ聞こえた。たぶん。氷室が詩織さんの短編を読む姿は、読書家の姿だ。分析者ではなく読者。銀賞の実力者が、佳作の作品を「味わって」読んでいる。凛先輩が「来場者に作品を読ませる」ために設計した脱出ゲームの真の目的が、氷室蓮という最高の読者によって達成された。
凛先輩が横で見ている。氷室が詩織さんの作品を読む姿を。凛先輩の目が複雑だ。自分の設計が機能している喜びと、ライバルに自分たちの作品を見せる緊張が混ざっている。
第五パズル。最終問題。全問クリア。所要時間十二分。ヒントカード使用ゼロ。凛先輩が設計した「理論上の最速」に近い記録だ。壮介の四十二分。先生の十八分。一般来場者の平均二十五分。全てを大幅に下回っている。氷室蓮の頭脳は文芸部の全パズルを十二分で貫通した。
「十二分か。あいつ、ミステリ作家としても優秀だな」
凛先輩の顔が複雑だ。自分が設計した脱出ゲームを来場者に十二分でクリアされた。嬉しいのか悔しいのか。たぶん両方だ。ライバルに「見事だ」と言われた嬉しさと、コンクールでは負けた悔しさが混ざっている。凛先輩はミステリの設計で負けたことがない。部内では常に一番だ。でも氷室は外の世界から来た。外の世界の実力が、凛先輩の設計を十二分で貫通した。「来年のコンクールは負けない」。凛先輩が小さく呟いた。
「トリックの設計が見事だ。特に第四パズルの文学クイズは秀逸。来場者に自然に作品を読ませる導線が巧み」
「ただ?」
「物理トリックの箱の強度が心配だ。力で開ける人間がいそうだ」
「すでに二回壊されている」
「俺のことだ!!」
壮介が手を挙げた。氷室が壮介を見た。三秒。何も言わなかった。言葉にならない感情が氷室の目に浮かんだ。たぶん「この人間が箱を壊すタイプか」という分析だ。
「十二分か」
凛先輩が呟いた。
「最速記録です」
「負けた気分だな。自分が設計したゲームで来場者に負けるとは」
「先輩、来場者に勝つゲームではないですよ」
「分かっている。分かっているが。悔しい」
*
氷室がリレー小説のブースに来た。
「面白い企画だ。来場者が作者になる仕掛け。千歳さんの発想か?」
「はい。物語は一人で作るものじゃないと思って」
「僕は一人で作るほうが好きだ」
「一人で書く物語と、みんなで書く物語は、別の美しさがあります。今朝のリレー小説は二十人で書いて、物語が円環を描きました。一人では作れない構造でした」
氷室が五秒黙った。反論できない時の沈黙だ。分析の鬼が分析で返せない時に黙る。
「参加してもいいか?」
「もちろんです! ジャンルカードをどうぞ」
氷室がミステリのカードを引いた。午後の新しい模造紙の前に立った。マーカーを持った。一行書いた。
「"嘘をつく人間は、いつも目を逸らす。だが、彼女だけは逸らさなかった"」
ミステリの一行だ。だが恋愛としても読める。「彼女」が誰を指すか。ミステリの登場人物か。それとも目の前にいる佳作の作家か。二重の意味を持つ一行。氷室蓮らしい。計算された一行。一行の中に二つの物語が同居している。ミステリの一行としては「犯人を示唆する伏線」。恋愛の一行としては「嘘をつけない人への感情」。どちらで読んでも成立する。これが銀賞の実力だ。
来場者が氷室の一行を読んでいる。「この行すごくない? 一行でミステリになってる」。氷室の一行がリレー小説の物語を一瞬で引き締めた。プロの一行が入ると全体の密度が変わる。詩織さんの軌道修正と同じ効果だ。
「上手いですね」
「当然だ」
氷室の口角が微かに上がった。〇・五ミリ。詩織さんの目がそれを捉えた。取材者の目は〇・五ミリの変化も見逃さない。
「氷室さんは不器用なファンですね」
詩織さんが俺にだけ聞こえる声で言った。
氷室が帰り際に立ち止まった。
「千歳さん。文化祭、素晴らしかった」
「ありがとうございます」
「だが、次のコンクールでは僕が勝つ」
「望むところです」
「あの朗読。聞きたかった。コンクールの佳作作品を、声で聴いたら、もっと良いだろう」
「え——」
「また来る」
氷室が振り返らずに去った。歩き始めたら振り返らない。凛先輩と同じだ。背中が廊下の向こうに消えた。
「氷室、結局朗読は聞かないのか」
「聞きたかったんでしょうね。でも素直に残れない。氷室さんは"偵察"で来たから。"ファン"として残るのはプライドが許さない」
「面倒くさい奴だな」
「面倒くさいですね。でもそういう人がいることは嬉しい。文芸部の作品を認めてくれる人が、他校にもいる」
詩織さんの声が温かい。氷室を「面倒くさい」と言いながら嬉しそうだ。認められることの喜び。コンクールの佳作とは違う種類の承認だ。ライバルからの承認。それは審査員よりも重い。
氷室が書いた一行が模造紙に残っている。「嘘をつく人間は、いつも目を逸らす。だが、彼女だけは逸らさなかった」。この一行が午後のリレー小説を最も美しく彩るだろう。
壮介が「あいつ、素直に好きって言えばいいのに」と呟いた。「お前に言われたくないと思うぞ」。「俺は素直だ! カレーうどンが好きだって毎日言ってる!」。「カレーうどンへの素直さと人への素直さは別だ」。
詩織さんが少し黙った。
「氷室さんは素直じゃないですね」
「詩織さんも十分素直じゃないと思うけど」
「私は素直ですよ。取材者として」
「取材者としてはな。詩織さん個人としては?」
「個人としては。まだ言えないことがあります」
「まだ言えないこと?」
「はい。いつか言えるようになります。たぶん」
詩織さんの目が〇・三秒だけ俺を見た。それから逸らした。〇・三秒。短い。でも確かに見た。昨日の朗読の時と同じ〇・三秒。電話で朗読チェックをした夜と同じ温度の目。
「まだ言えないこと」が何なのか、聞けなかった。聞かなかった。今はまだ聞く時じゃない。文化祭が終わって、日常に戻って、また部室でちゃぶ台を囲んで、万年筆の音が聞こえる日常の中で。いつか詩織さんが「言える」と思った時に。それまで俺は待つ。走りながら待つ。
*
午後一時四十五分。教室の入口に見覚えのある姿。
天城瑠璃。生徒会長。生徒会の腕章を外している。私服ではなく制服だが、腕章だけがない。一般来場者として来た。
「天城さん!?」
「たまたま通りかかっただけです」
「たまたまが多いな、お前は」
凛先輩が言った。天城さんが視線を逸らした。
壮介が「ファンだ!!」と叫んだ。天城さんの顔が赤くなった。
「ファンではっ——」
声が裏返った。予算交渉でも出し物申請でも裏返らなかった天城さんの声が、壮介の「ファンだ!!」で裏返った。壮介は人間の防壁を破壊する。箱だけではなく。生徒会長の建前もだ。予算交渉で三時間粘った天城さんが、壮介の一言で崩壊した。壮介の声には建前を溶かす力がある。
凛先輩が証拠を列挙した。ミステリ作家の推理だ。
「証拠を挙げようか」
凛先輩がニヤリと笑った。
「一、部誌を読んで"質は認めます"。二、朗読バトルの出場者リストを確認して"楽しみです"。三、腕章を外して客席に。犯人確定だ」
「来場者として来たからには公正に評価します」
「義務って。楽しみなよ!」
「楽しみに来たのではなく——」
天城さんが言いかけてやめた。三秒の沈黙。
「楽しみにしています」
最後に素直になった。壮介の破壊力が天城さんの建前を壊した。
カウンターを押した。カチッ。
五十。
天城瑠璃が五十人目だ。
「天城。五十人、達成したぞ」
「知っています。五十人目が私です」
「自分で出したノルマを自分で達成させるとは」
「条件を出した以上、確認も私の責任です。結果として五十人目が私だっただけです」
「偶然か?」
「偶然です。たまたまです」
「また"たまたま"か」
壮介が「五十人達成!!」と叫んだ。来年も三企画が承認された。天城さんのノルマを天城さん自身がクリアした。皮肉で美しい結末だ。生徒会長が自分の条件を自分でクリアした。天城さんの目が少し潤んでいる。たぶん気づいていない。自分が五十人目であることの意味に。文芸部を「空気」だと思っていた部が、五十人を集めた。その五十人目が自分だ。見届ける側が、物語の一部になった。
「来年も三企画でいいですか」
「結果が出ましたので。承認します」
「ありがとうございます」
「感謝は不要です。結果に対する正当な判断です」
「天城さんの正当な判断に感謝しますよ」
「それは——ありがとうございます」
天城さんが頭を下げた。小さく。生徒会長の礼。厳格で公正な人の、小さな礼。凛先輩が「また来年もよろしく」と言った。天城さんが「来年は百人を条件にします」と返した。凛先輩が「受けて立つ」と笑った。天城さんも笑った。ほんの少し。生徒会長と文芸部部長が笑い合っている。一年前は予算交渉で三時間睨み合った二人が。
壮介が「二人とも笑ってる! 珍しい!」と叫んだ。二人同時に「うるさい」と返した。息が合っている。
「五十人は通過点だ」
凛先輩が言った。
「まだいく。五十七人でも六十人でも。来る人は全員迎える」
*
午後二時十五分。カウンター五十二人。五十人のノルマは達成した。天城さんが五十人目。氷室が四十九人目。サッカー部が十人以上。美術部が四人。SNSからの来場者が十人以上。口コミのリピーターが十人以上。全部が積み重なって五十二人。
朗読バトルまであと四十五分。椅子を増やした。二十脚から三十脚に。昨日より来場者が多い。田中が前列にサッカー部の後輩二人を連れて座った。水野が中列に。天城さんが最前列に投票用紙を持って座っている。目が少しキラキラしている。ファンモードだ。先生が最後列。缶コーヒー五本目。二日間で計十本。文化祭の先生は缶コーヒーで動いている。
壮介がメガホンで最後の呼び込みに走っていった。「朗読バトル最終戦! 朝倉陽翔、最後の挑戦! 聞き逃すな!」。壮介の声が校舎に響いている。二日間で壮介は「文芸部の声」になった。校内の誰もが壮介の声を知っている。「カレーうどンの人」から「文芸部のMC」に。壮介の肩書きが変わった。いや、増えた。カレーうどンの人でもあり、MCでもある。両方が壮介だ。
俺はポケットから原稿を出した。A4二枚。くたびれている。二日間ポケットで体温を吸い続けた紙。手が汗ばんでいる。
壮介が戻ってきた。息を切らしている。二日間走り続けた男だ。
「陽翔」
「ん」
「行くぞ」
「行く」
「数字は関係ない。五十人でも百人でも。俺たちがやることは同じだ。お前の言葉を、来場者に届ける。俺のMCで」
「頼む。壮介」
「任せろ」
壮介が笑った。カレーうどンみたいに温かい笑顔だ。この二日間、壮介は走り続けた。チラシ三百枚。メガホン。呼び込み。MC。五秒の沈黙。全部を全力でやった。書く力では部内最下位かもしれない。でも「場を作る力」と「声で届ける力」は壮介が一番だ。先生が言った通り。壮介の笑顔を見ると、全部大丈夫な気がする。リレー小説に来場者が書いた一行を思い出した。「カレーうどンの匂いがした。それだけで、全部大丈夫な気がした」。壮介そのものだ。
詩織さんが客席の前のほうに座った。万年筆を持っていない。取材ノートも閉じている。今日の詩織さんは記録者ではない。聞く人だ。朗読を聞く一人の来場者として座っている。
凛先輩がステージの袖にいる。腕を組んでいる。二回目の朗読の準備をしている。昨日より声が安定しているはずだ。凛先輩は本番に強い。
原稿の最後の一行を見た。「だから俺は、ここにいる」。この一行を声にする。あと三十分で。掟の一番目。書け。書いた。掟の二番目。読め。もうすぐ読む。掟の三番目。笑え。笑う。掟の四番目。泣くな。泣かない。
行くぞ。半年前、入部届を出した日から走ってきた。サッカーを失って、ペンを握って、仲間を見つけて、合宿で書いて、コンクールで落選して、かき氷を食べて、文化祭を準備して。全部がこの千五百文字に詰まっている。全部がこの瞬間に向かっていた。
行くぞ。声で。走る。千五百文字の全力疾走。詩織さんが保証してくれた声で。凛先輩が期待してくれた原稿で。壮介がMCで場を作ってくれる。先生が缶コーヒーを飲みながら見守ってくれる。五人で走る。五人の文芸部フェスティバルの、最後の、最高のステージへ。今、声で走り出す。




