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第64話 リレー小説、暴走中──詩織の想定外

# リレー小説、暴走中──詩織の想定外


 日曜日。朝霧祭二日目。朝七時半。


 全員集合した。凛先輩は五時間半睡眠。昨日より一時間半増えた。先生は缶コーヒーを五本持参している。二日分の燃料だ。壮介はメガホンを持って校門前に走っていった。先生が「メガホン禁止」と叫んだが間に合わなかった。


 詩織さんが新しい模造紙を壁に貼っている。二日目用の冒頭文が書いてある。


「"朝、目が覚めると、隣に知らない猫がいた"」


「猫?」


「猫は文学の定番モチーフです。"知らない猫"がベッドの隣にいる。なぜ? どこから来た? 疑問が連鎖します。昨日の"ノート"より謎が強い。二日目は攻めます」


 詩織さんの目がいつもより明るい。昨日の朗読の余韻だ。来場者の拍手が詩織さんの中に残っている。


 九時半。開場。昨日は開場後十分間ゼロだった。今日は違う。開場と同時に三人が入ってきた。「昨日来て面白かったから」。口コミのリピーターだ。続いて二人。「友達に勧められた」。さらに三人。「SNSで見た」。


 十五分で八人。昨日の午前四時間で十二人だったのが、今日は十五分で八人。ペースが完全に変わっている。凛先輩の口コミ複利計算が当たった。脱出ゲームに行列ができている。三組待ち。昨日は行列が午後からだったが、今日は午前中から。


 俺がPMとして整理券を配った。昨日の経験がある。即席の整理券ではなく、今朝凛先輩が印刷してきた正式な整理券だ。番号と待ち時間が書いてある。凛先輩は昨夜のうちに整理券のフォーマットを作っていた。四時間睡眠の理由がこれだ。


 壮介が待ち行列に声をかけている。「待ち時間にリレー小説いかがですか!」。昨日の天才的アイデアを今日も実行している。来場者が行列からリレー小説ブースに流れる。三企画の循環が回っている。


 カウンターが動き始めた。三十七。三十八。三十九。四十。昨日の三十六に足していく。数字が止まらない。



    *



 午前十時。リレー小説が暴走し始めた。


 来場者が一行ずつ書き足していく。ジャンルがバラバラだ。


 一行目。「猫は喋った。"お前の寝相、最悪だぞ"」。笑い声が起きた。


 二行目。「猫に説教されて落ち込んでいたら、窓の外に好きな人がいた」。「おお」と声が上がった。


 三行目。「好きな人を追いかけて窓から飛び出したら、そこは異世界だった」。「急展開!」


 四行目。「異世界で最初に見つけたのは、自分の死体だった」。全員が「急展開!!」。


 詩織さんが模造紙の横で目を丸くしている。


「こんな展開、想定していませんでした」


「暴走してるな」


「でも、面白い。私一人では絶対に書けない物語です。ジャンルの壁を超えて、書き手が変わるたびに予測不能な方向に進む。これは文学の実験として非常に——」


「分析モードに入ってる」


「あ、すみません。つい」


 物語が勝手に走り出している。来場者が次々と一行を書き足す。十行目にカレーうどンが登場した。「主人公は異世界のカフェでカレーうどンを注文した」。壮介が廊下から「カレーうどン出た!?」と叫んだ。凛先輩が「呼び込みに集中しろ!」と怒鳴った。カレーうどンは文芸部の公式メニューになりつつある。


 十一行目。「カレーうどンの中に暗号が隠されていた」。脱出ゲームをクリアした来場者が書いた一行だ。脱出ゲームの体験がリレー小説に波及している。三企画が互いに影響を与え合っている。凛先輩の脱出ゲームの暗号が、リレー小説のミステリ要素になった。


 十二行目。「暗号を解いたら、好きな人の住所が書いてあった」。ジャンルが恋愛に戻った。来場者がざわめいている。「告白展開!?」。物語が予測不能に動いている。


 十三行目。「住所に行ったら猫がいた。最初の猫と同じ顔だった」。


 詩織さんが息を呑んだ。


「すごい。来場者が自分で伏線回収している」


 冒頭の猫が物語の中盤で再登場した。十三行目を書いた来場者は、一行目の猫を覚えていた。意図的に再登場させた。自発的な伏線回収だ。


「物語は自分で構造を持とうとするんです。書き手が変わっても。バラバラでも。物語には"帰りたい場所"がある。この物語の帰りたい場所は猫だった」


「帰りたい場所が猫か」


「猫は帰る場所の象徴です。家にいるから」


 詩織さんの分析が嬉しそうだ。自分の種が知らない花を咲かせている。


 十五行目以降。物語がさらに加速した。「猫が言った。"お前、まだ寝てるだろ。起きろ"」。「目を開けると、全部は夢だった。異世界も、好きな人も、死体も」。「でも枕元に手紙があった。夢の中で出会った人からの手紙」。「手紙を持って家を出た。猫がついてきた。行き先は分からない。でも隣に猫がいれば大丈夫だ」。


 夢と現実の境界。来場者の手で自然にテーマが生まれている。誰も全体の構成を知らない。でも物語が一つの方向に向かっている。


 最終行。中学生くらいの少年がマーカーを持った。ゆっくり書いた。


「"こうして世界は救われた。猫は『お前の寝相は相変わらず最悪だぞ』と言った。おしまい"」


 冒頭の一行目と完璧に呼応している。「お前の寝相、最悪だぞ」で始まり、「お前の寝相は相変わらず最悪だぞ」で終わる。物語が円環を描いた。


 拍手が起きた。模造紙の前で。自然発生的な拍手。二十人の来場者が一行ずつ書いた二十行。バラバラのジャンル。バラバラの書き手。ギャグで始まり、恋愛に飛び、冒険に転がり、ミステリで落ちて、夢から覚めて、猫に戻った。誰も全体の設計をしていない。でも物語が一つの円を描いて閉じた。


 詩織さんが模造紙の前に立っている。万年筆を持っていない。今日の詩織さんは書く人ではない。場を作る人だ。来場者の一行を見守り、時々軌道修正し、物語が完成する場を提供した人だ。冒頭の一行だけが詩織さんの文字。残りの十九行は来場者の文字だ。


「二十人で書いた物語。私一人では絶対に作れない物語です」


 詩織さんの声が震えている。感動で。来場者が拍手している。自分たちが書いた物語に。自分自身に。「あなたも作家」の瞬間だ。



    *



 完成したリレー小説を印刷した。タイトルを詩織さんが即興でつけた。「猫と異世界と寝相の悪い主人公」。二十人の名前を「共著者」として記載した。一枚ずつ配った。


 来場者が自分の一行を探している。「"カレーうどンの中に暗号が隠されていた"って書いたの俺だよ!」。「俺の行ここだ!」。自分の一行が印刷物に残っている。


 最終行を書いた少年が、母親に印刷物を見せている。


「見て! 僕の文章! 僕が書いたの! ここ!」


「すごいね。最後の一行を書いたの?」


「うん! 猫が最初に出てきたから、最後も猫にしたの!」


「上手いわね。物語の締めくくりが綺麗」


「僕、作家になった!?」


 詩織さんが少年に印刷物を手渡した。しゃがんで、目線を合わせて。


「あなたも作者です。この物語はあなたなしでは完成しませんでした」


「僕、作家になったの?」


「はい。立派な作家です。最後の一行を書いた作家。あなたの一行が物語を完成させました」


 少年の目がキラキラ光った。母親が「ありがとうございます」と頭を下げた。少年が印刷物を大事そうに胸に抱えて帰っていった。何度も振り返りながら。最後に手を振った。詩織さんが手を振り返した。


 詩織さんの目から涙がこぼれた。


 コンクールの涙とは違う。コンクールは「自分の作品が認められた」涙だった。今日の涙は「みんなの作品が完成した」涙だ。質が違う。自分のための涙ではなく、他者のための涙。書く人から場を作る人に変わった詩織さんの、新しい涙だ。


 万年筆を持っていない手で涙を拭いている。いつもの詩織さんは万年筆を握っている。今日は握っていない。自由になった手で涙を拭いている。自由になった手は、来場者にマーカーを渡す手だ。印刷物を手渡す手だ。少年の目線に合わせてしゃがむ手だ。書く手から、届ける手に変わっている。


「これが。私がやりたかったことです」


 詩織さんが小声で言った。俺にだけ聞こえる声で。万年筆を持っていない手で涙を拭いている。


「掟の四番目だ」


「泣くな、ですね。すみません」


「泣いていい日もある。今日は例外だ」


「朝倉くんが許してくれるなら」


「許す。今日は特別だ」


 詩織さんが笑いながら泣いている。「僕、作家になった!?」という少年の声がまだ耳に残っている。詩織さんのリレー小説は「あなたも作家」。来場者を作家にする企画。コンセプトが実現した瞬間だ。小さな作家が一人、この教室から生まれた。


 先生が遠くから見ていた。缶コーヒーを持ったまま。飲んでいない。飲むのを忘れている。先生の目が穏やかだ。



    *



 午前中にリレー小説が三本完成した。昨日と合わせて六本。壁に全部展示している。来場者が立ち止まって読んでいる。自分が参加していない物語も読んでいる。笑い声が聞こえる。物語が教室に根付いている。


 第四号「猫と異世界と寝相の悪い主人公」。第五号「転校生が実は宇宙人だった話」。第六号「放課後のチャイムが鳴らない日」。昨日と合わせて六本。壁に展示している。


「六本。私が書いたのは書き出しの一行だけです。残りの百行以上は来場者の方々が書きました」


「種を蒔く人だな。詩織さんは」


「種を蒔く人。いい表現ですね。そう、私は種を蒔く人でいたい。花を咲かせるのは読者に任せたい。私がやりたいのは、場を作ることなのかもしれません」


「一人で書くことと、場を作ること。両方やればいい」


「両方。そうですね。コンクールでは一人で書く。リレー小説ではみんなで書く場を作る。どちらも私です。コンクールの私が「書く人」なら、リレー小説の私は「種を蒔く人」。どちらも千歳詩織です。どちらかを捨てる必要はない」


 詩織さんの目が澄んでいる。泣いた後の目だ。泣いた後の詩織さんは、泣く前より強い。コンクールの後もそうだった。涙の後に、次の一歩が見える。今日の涙の後に見えたのは、「場を作る人」としての詩織さんだ。


「朝倉くん。今日の少年、覚えておいてください。あの子が大きくなって本当に作家になったら、原点はここかもしれない。文芸部のリレー小説が、あの子の最初の『作品発表の場』だった」


「原点になれたら、すごいな」


「すごいです。それだけで、文芸部フェスティバルをやった価値がある。五十人とか数字とか、関係ない。あの子の目の輝きだけで十分です」


「詩織さん、今日一番いいこと言ったな」


「取材ではなく、本音です」


 カウンター。四十七人。あと三人で五十人。


 壮介が廊下で叫んでいる。「午後三時から朗読バトル! 声で文学! 今日だけの特別ステージ! 来てくれ!」。壮介は文化祭の二日間で「文芸部の声」になった。校内で壮介の声を知らない人はもういない。



    *



 昼休憩。教室の隅で昼食。壮介のツナマヨおにぎり。詩織さんの手作りサンドイッチ。凛先輩のコンビニのパン。先生のカップ麺と缶コーヒー。俺の鮭おにぎり。


 食べながら、窓の外を見た。校庭にテントが並んでいる。焼きそばの匂いが漂っている。吹奏楽部の演奏が聞こえる。朝霧祭の二日目。文芸部の教室は今、この学校の中で一番忙しい教室かもしれない。


 食べ終えて、教室の隅で原稿を広げた。千五百文字。「ここにいる」。小さな声で最初の一行を読んだ。


「"入部届の動機欄に、面白い小説を読んだからと書いた日のことを覚えている"」


 文章が身体を通っていく感覚がある。昨夜、寝る前に五回読んだ。今朝も二回読んだ。声に馴染んでいる。詩織さんとの電話で磨いた〇・五秒と二秒の間。全部が身体に入っている。


 詩織さんが隣で聞いている。黙って。万年筆を握らずに。


「今日の朗読、楽しみです」


「緊張する」


「緊張していいです。昨日、凛先輩も私も緊張しました。震えました。でも届きました。朝倉くんも届きます」


「詩織さんが保証してくれるなら」


「保証します。何度でも」


 壮介が立ち上がった。「午後の呼び込み行ってくる! 陽翔の名前を全校に叫ぶ!」


「恥ずかしいからやめろ」


「恥ずかしいくらいがエンタメだ! やりすぎが正解! 壮介のエンタメ論!」


 壮介が走っていった。メガホンを持って。先生が「メガホン禁止——」と言いかけて、諦めた。二日目のメガホン禁止令は完全に形骸化している。壮介の声が廊下から聞こえる。「午後三時! 朗読バトル! 朝倉陽翔の朗読! 聞け! 来い!」。壮介の声は校舎を揺らしている。


 凛先輩が隣に来た。


「朝倉。二回目のほうが良くなる。ミステリの再読と同じだ。昨日の凛と千歳の朗読は一回目。今日のお前の朗読も一回目。だが——お前はリハーサルで一回読んで、電話で一回読んで、今朝一回読んだ。三回目だ。三回目は一回目より確実に良くなる」


「先輩が保証しますか」


「保証はしない。ミステリ作家は結末を保証しない。だが——期待している」


「期待。十分です」


 先生が缶コーヒーを飲むペースが遅くなっている。いつもは三十分で一本だが、今は一時間で半分だ。先生が缶コーヒーを遅く飲むのは「嬉しい」ときのサインだ。味を楽しんでいるのではない。感情を噛み締めている。


 カウンターが動いた。四十八人。午後一時に一人追加。


 原稿の最後の一行を指でなぞった。「だから俺は、ここにいる」。祭りの喧騒が遠い。壮介の声が廊下から聞こえるが、教室の中は静かだ。嵐の前の凪。


 数字は関係ない。俺が読むのは五十人のためじゃない。ここに来てくれた一人一人に届けるために読む。


 詩織さんが隣に座っている。取材ノートを閉じている。万年筆をペンケースにしまっている。今日の詩織さんは書く人ではなく場を作る人だった。少年に「あなたも作家です」と言った人だった。自分の種から知らない花が咲くのを見届けた人だった。


 凛先輩が椅子を並べ直している。朗読バトルのステージ。二十脚の椅子。午後三時にこの椅子が来場者で埋まる。凛先輩のミステリで凍らせて、詩織さんの雨で溶かして、俺の走る文章で心拍数を上げる。三人三様。


 壮介の声が廊下から聞こえる。「午後三時! 朗読バトル! 来い!」。壮介は二日間走り続けている。チラシ三百枚。メガホン。呼び込み。MCの練習。五秒の沈黙。全部が壮介の武器だ。声で場を作る男。


 先生が缶コーヒーの最後の一口を飲んだ。ゆっくり。噛み締めるように。先生が缶コーヒーを遅く飲むのは嬉しい時のサインだ。


 午後三時。あと二時間。千五百文字の出番が来る。声で走る。「だから俺は、ここにいる」。この一行を届ける。あの少年のように目を輝かせてくれる人が、一人でもいれば。それだけで十分だ。詩織さんが教えてくれた。五十人という数字じゃない。一人一人の目の輝きだ。あの少年の「僕、作家になった!?」という声が、まだ耳に残っている。あの声に負けない朗読を、する。必ず、絶対に。

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