第62話 朝霧祭・1日目朝──開幕の緊張
# 朝霧祭・一日目朝──開幕の緊張
土曜日。朝七時。
学校に着いた。校門が開いている。文化祭用のアーチが立っている。「朝霧祭」の横断幕。風に揺れている。いつもの学校と同じ建物なのに、空気が違う。祭りの空気だ。校庭には模擬店のテントが並び始めている。吹奏楽部がリハーサルの音を出している。遠くからトランペットが聞こえる。
教室に入った。凛先輩がもういた。昨日の設営のままの教室。看板。小道具。椅子。模造紙。全部がある。朝日が窓から差し込んで、看板の金文字が光っている。凛先輩はちゃぶ台の代わりに机に向かって、チェックリストを確認していた。
「先輩、寝ましたか」
「四時間寝た」
「少ない」
「ミステリ作家に十分だ。昨夜、脱出ゲームの最終チェックを自宅でもう一度やった。頭の中で来場者の動きをシミュレーションした。五パターン。全パターンで三十分以内にクリアできることを確認した」
「自宅で脳内シミュレーション五パターン」
「犯人の行動パターンを予測するのと同じだ。来場者がどこで迷い、どこで閃き、どこで詰まるか。全て予測済みだ」
「先輩の頭の中に来場者が五パターン住んでるんですね」
「住んでいる。全員がミステリを楽しんでいる」
凛先輩の目に疲れはない。充血もしていない。四時間睡眠でこの状態。先輩は文化祭前日に覚醒するタイプらしい。コンクールの締切前と同じだ。追い込まれると強くなる。
壮介が校門前でチラシ配りを始めた。朝七時から。メガホンを持っている。どこから調達したのか分からないメガホンだ。
「文芸部フェスティバル!! 脱出ゲーム!! リレー小説!! 朗読バトル!! 来てくれ!! 来てくれよ!!」
壮介の声が校門から校舎まで響いている。朝七時の住宅街に。通りがかった近隣住民が驚いている。犬を散歩させていたおじさんが立ち止まった。犬も立ち止まった。
先生が校門に走っていった。「壮介! メガホン禁止と言っただろう! 音量を下げろ! 近所迷惑だ!」。壮介が「先生! でもチラシが配れない!」と返した。先生が「メガホンなしでも聞こえる! お前の地声はメガホンを超えている!」。
壮介がメガホンを下ろした。地声に切り替えた。
「文芸部フェスティバルやってます! 来てください!」
地声。でもメガホンと同じ音量だった。先生が頭を抱えた。
通りがかりの老夫婦にチラシを渡した。「おじいちゃんおばあちゃんも来てよ! 脱出ゲームあるよ!」
「あら、元気な子ね」
「文芸部って何するの?」
「カレーうどンの小説が読めます!!」
俺が遠くから叫んだ。「それ宣伝になってない!!」。壮介が「カレーうどンは最高の宣伝文句だ!!」と返した。最高ではない。
詩織さんが教室でプロジェクターの電源を入れた。リレー小説のブースだ。模造紙が壁に貼ってある。冒頭文が朝日に照らされている。マーカーが三色並んでいる。準備は完璧だ。
「詩織さん、緊張してる?」
「少しだけ。でも大丈夫です。取材と同じです。来場者を観察して、対応する。やることは決まっている」
「取材モードか」
「はい。今日は文芸部史上最大の取材日です」
詩織さんが取材ノートを開いた。白紙のページ。今日一日でこのページが埋まる。来場者の反応、壮介のMC、凛先輩の脱出ゲーム、俺の朗読。全部が記録される。
*
午前九時。開場まで三十分。
教室に全員が揃った。凛先輩が最後の動線確認をしている。詩織さんがプロジェクターの映像をチェックしている。壮介がスピーカーのBluetoothを接続している。手順書を見ながら。紙を持つ手が少し震えている。俺が来場者カウンターを「0」にリセットした。数字の「0」。この数字が今日、五十に変わるかどうか。
「なあ」
壮介が言った。声が小さい。壮介の声が小さいのは珍しい。
「もし……誰も来なかったらどうする?」
全員が止まった。
「来る」
凛先輩が即答した。
「でももし——」
「来る。来させる。チラシ三百枚配っただろう。田中のサッカー部にも声をかけた。水野の美術部も来る。SNSで告知した。来ない理由がない」
「でも去年は不参加だったんだろ? 一昨年は八人。文芸部の文化祭は空気だって——」
「去年とは違う」
凛先輩の声が鋭い。断定だ。
「今年は五人いる。三つの企画がある。看板がある。チラシがある。水野の作った看板がある。お前のMC台本がある。千歳の冒頭文がある。朝倉の朗読原稿がある。俺の脱出ゲームがある。先生の缶コーヒーがある。全部がある。来ない理由がない」
「先輩の最後に缶コーヒー入ってますよ」
「缶コーヒーも武器だ」
先生が缶コーヒーを五本買ってきた。コンビニの袋から出した。全員に一本ずつ渡した。
「飲め。不安な時はカフェインだ」
「先生、教育的に正しくないですよ」
「教育的に正しいことを言おう。お前たちはこの半年間、十分に準備した。入部してから半年。合宿で原稿を書いて、コンクールに出して、落選して、かき氷を食べて、三企画を設計して、リハーサルで六回失敗して、全部直して、看板を掲げた。半年分の全部がこの教室にある。あとは信じろ。自分たちの言葉を」
先生が長く話した。先生が長く話すのは珍しい。缶コーヒーを飲んでいない手で、全員の顔を見回した。
「信じます」
「信じる!!」
「信じます」
「信じる」
全員が缶コーヒーを開けた。プシュッ。プシュッ。プシュッ。プシュッ。プシュッ。五つの音が重なった。五人が同じ缶コーヒーを飲んでいる。同じカフェインが体に入る。同じ緊張を共有している。
*
九時三十分。校内放送。
「朝霧祭、開幕です!」
歓声が校舎中から聞こえた。音楽が鳴り始めた。各教室からざわめきが漏れる。文化祭の空気が学校全体を包んだ。
文芸部の教室。廊下に凛先輩が立った。看板の横に。人の流れが始まった。生徒。保護者。近隣住民。廊下を歩いていく。教室の前を通り過ぎる。チラッと看板を見る。「文芸部フェスティバル」。見て、通り過ぎる。また一人。また一人。通り過ぎていく。
五分経過。来場者ゼロ。
隣の教室は二年一組の喫茶店だ。開場と同時に行列ができている。甘い匂いが廊下に漂っている。焼きたてのワッフル。行列が文芸部の教室の前を通っている。行列の全員が看板を見ている。見て、通り過ぎている。喫茶店に入っている。
壮介が廊下で呼び込みを始めた。「文芸部フェスティバルやってまーす! 脱出ゲーム無料です! リレー小説参加できます!」。声がでかい。行列の人が振り返る。でも入ってこない。振り返るだけ。ワッフルの匂いに負けている。文芸部の企画はワッフルの匂いに勝てないのか。
俺は教室の中で受付に座っている。カウンター:0。ゼロが動かない。詩織さんがプロジェクターの前で待機している。リレー小説の参加者がいないから、画面が白いままだ。詩織さんが万年筆を握っている。取材ノートを持っている。書くことがない。来場者がいないから。
七分経過。来場者ゼロ。
胸が痛い。コンクールの結果を待つ不安とは違う。あの時は結果が来るまで何もできなかった。今は目の前で「来ない」が見えている。カウンターの0が動かない現実がリアルタイムで突きつけられる。
凛先輩が教室の中にいる。ソファに座っていない。立っている。脱出ゲームの入口の前に。来場者を待っている。凛先輩の背筋が真っ直ぐだ。待つ姿勢が美しい。でも——手が少し震えている。凛先輩も緊張している。あの凛先輩が。
十分経過。
凛先輩が廊下に出た。呼び込みに加わった。「ミステリ脱出ゲーム、無料です。三十分で密室から脱出できますか?」。凛先輩の声は壮介ほど大きくない。でも鋭い。通りかかった女子生徒二人が足を止めた。
「脱出ゲーム? 面白そうじゃん」
「入ってみる?」
「無料だし。行こ」
二人が教室に入ってきた。
俺がカウンターを押した。
1。
2。
最初の来場者。
壮介が廊下で小さくガッツポーズをしている。詩織さんが「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えた。凛先輩が少しだけ目を細めた。先生が缶コーヒーを飲みながら頷いた。
たった二人。でもこの二人は、文芸部の看板を見て、自分の意志で入ってきてくれた人だ。三年前の「教室を間違えた一人」とは違う。この二人は「面白そう」と思って入ってきた。
*
最初の二人が脱出ゲームに挑んだ。凛先輩が案内役として教室の奥に導いた。
「この教室で事件が起きました。三十分以内に五つの謎を解いて、脱出コードを見つけてください」
二人が謎解きを始めた。第一パズル。壮介のカレーうどンエッセイの暗号。
「えーと、各段落の三文字目を……カ、レ、ー……カレー?」
「カレーだ! 数字に変換すると……」
クリア。三分。速い。凛先輩が横で見守っている。来場者が真剣に考えている顔。ミステリを「体験」している顔。凛先輩が求めていた光景だ。
第二パズル。アリバイ推理。二人で議論している。
「Bが午後三時に二か所にいる! 矛盾だ!」
「犯人はBだ!」
クリア。二分。壮介より速い。壮介基準の正しさが証明された。
第三パズル。鍵の箱。少し詰まった。
「開かない! 力じゃダメだ」
「ヒントカードを見よう。"鍵は常に見えている場所にある"……見えている場所?」
窓枠の上を見た。鍵がある。
「あった!! ずっと見えてたのに気づかなかった!」
「やった!!」
歓声。凛先輩が小さくガッツポーズした。壮介が四回壊して強度三倍にした箱が、正常に機能している。壊して学んだ成果だ。
第四パズル。文学クイズ。部誌を読んで答えを探す。二人が部誌をめくっている。
「この部誌面白いかも」
「"カレーうどンの味"って短編、笑える。カレーうどンの匂いで安心するって」
「これ書いたの誰?」
「大和壮介……さっき廊下で叫んでた人じゃない?」
「あの人が書いたの!? 意外! いい文章」
来場者が壮介の作品を読んでいる。読んで、笑っている。「意外! いい文章」。壮介の千二十文字が、知らない人に届いた瞬間だ。壮介は廊下で呼び込みをしていて、この場面を見ていない。見せてやりたい。お前の文章が「いい」と言われた瞬間を。
凛先輩の設計通りだ。脱出ゲームの中で、来場者が自然に文芸部の作品を読む。謎を解くために読む。読んだら面白い。凛先輩の罠にかかっている。来場者は気づいていない。「脱出ゲームを楽しんでいる」と思っている。でも実際には「文芸部の作品を読んでいる」。ミステリ作家の仕掛けは、謎解きの中にだけあるのではない。脱出ゲーム全体が一つの大きなトリックだ。
第五パズル。最終問題。凛先輩のミステリの犯人当て。
「犯人は……Dだ!」
「正解!」
「脱出コードを入力……正解!! クリアだ!!」
二人が拍手した。自分たちに。二十二分三十八秒。制限時間内。
「楽しかった! これ友達にも勧めていい?」
「もちろん」
「絶対来させる。二年三組の子たちに言ってくる」
二人が退出した。口コミの種が蒔かれた。凛先輩が「計算通りだ」と呟いた。脱出ゲームのクリア者が口コミを広げる。一組が二人に勧めれば、来場者は倍々で増える。複利の力だ。凛先輩は口コミの複利効果まで計算に入れている。
その後、午前中に来場者が少しずつ増えた。
十時十五分。三人目と四人目。男子二人組。「SNSで脱出ゲームがあるって見た」。文芸部のSNSアカウントからの来場者だ。詩織さんの投稿が効いた。
十時半。五人目と六人目。女子二人。「さっき脱出した子に"面白いよ"って勧められた」。口コミが早くも機能している。凛先輩の複利計算が当たっている。
十一時。七人目から九人目。田中が連れてきたサッカー部の二年生三人。「朝倉の文芸部ってここ?」「脱出ゲームやりたい」。田中が約束通り声をかけてくれた。サッカー部の仲間が文芸部に来ている。半年前は想像もできなかった光景だ。
十一時半。十人目から十二人目。リレー小説に参加した女子二人と、看板を見て入ってきた保護者一人。模造紙に一行書いて「面白い! 自分が物語の一部になれるなんて」と言ってくれた。詩織さんの企画理念が伝わっている。「あなたも作家」。来場者が作家になった瞬間。詩織さんの目が輝いている。
午前中の結果。来場者十二人。
脱出ゲーム:四組八人。クリア率五割。凛先輩の設計通り。リレー小説:参加者六人。物語が一本完成した。壮介のカレーうどンは書かれなかった。普通の物語になった。朗読バトルは午後から。
「十二人。三年前の四倍だ!」
「五十人まであと三十八人。午後と明日でいける」
「午後の朗読バトルが集客の鍵ですね」
「その通りだ。壮介、午後の呼び込みは朗読バトルを前面に出せ」
「任せろ!! メガホンの——」
「メガホン禁止」
「地声で!!」
昼休憩。教室の隅でおにぎりを食べた。五人で。詩織さんが持ってきたおにぎり。五個。全員分。「朝、作ってきました」。詩織さんが五人分のおにぎりを握ってきた。具は梅。シンプルだ。でも温かい。
壮介が「なんか……楽しいな」と言った。口におにぎりを頬張りながら。
「楽しいだろう。これが文化祭だ」
「十二人しか来てないのに楽しいのか」
「十二人"も"来た。去年はゼロだ。ゼロから十二。無限大の成長率だ」
「無限大!?」
「ゼロで割ると無限大になる。数学の基本だ」
「先輩、それミステリの基本じゃなくて数学の基本ですよ」
「ミステリ作家は数学も使う」
詩織さんが「午後も頑張りましょう」と笑った。取材ノートにはもう二ページ分の記録が書かれている。来場者十二人分のメモ。脱出ゲームの反応。リレー小説の参加者の一言。全部記録されている。
「午後は朗読バトルだ。壮介、MCの準備は」
「準備万端! 台本はポケットに! BGMはスマホに! Bluetoothの手順書も持った!」
「よし。午後一時から開始。壮介のMCで場を作り、凛→詩織→朝倉の順で朗読する。投票は朗読終了後。来場者が一人一票で投票する」
「了解です」
おにぎりを食べ終えた。午後の準備に取りかかる。朗読バトルのステージ。椅子が二十脚並んでいる。ここに来場者が座る。何人座ってくれるか分からない。二十脚全部が埋まるかもしれない。五脚しか埋まらないかもしれない。
十二人。まだ少ない。でもゼロじゃない。午前中に口コミの種を蒔いた。脱出ゲームをクリアした二人が「友達に勧める」と言ってくれた。午後、その口コミが花開くかどうか。
千五百文字の原稿をポケットから出した。広げた。「だから俺は、ここにいる」。最後の一行を目で確認した。この一行を、午後、来場者の前で声にする。何人に届くか分からない。でも届ける。一人にでも。詩織さんとの電話で磨いた声で。
午後の部が、始まる。朗読バトル。声の文学。三人三様の心拍数で、来場者の心を、声で揺らす時間だ。




