第60話 陽翔の書き下ろし──朗読会のために
# 陽翔の書き下ろし──朗読会のために
木曜日の夜。リハーサルが終わった日。
机に向かっている。朗読バトル用の原稿。千五百文字。今朝の未明に書き上げて、リハーサルで読んで、噛んで、先生に「ラストが急だ。三百文字の滑走路が必要だ」と言われた原稿。
読み直した。冷静に。リハーサルの興奮が引いた頭で。
テーマは「走ること」。膝を壊してサッカーを失った俺が、文芸部でペンを握る話。悪くはない。でも足りない。何が足りないのか。声に出して読んでみる。部屋で一人。小さな声で。
足りないのは「今」だ。
コンクールの原稿は「過去」の話だった。膝を壊した日。サッカー部を辞めた日。失ったもの。それは確かに俺の物語だ。でも朗読バトルで届けたいのは「過去」ではない。「今」だ。文芸部に入って半年。カレーうどンから始まった日々。合宿の海。コンクールの結果。かき氷。そして文化祭の準備。全部が「今」だ。
書き直す。テーマを変える。「走ることを失った話」ではなく「居場所を見つけた話」にする。ラストの三百文字だけじゃなく、全体を修正する。千五百文字。一から書き直すのではなく、骨格は残して肉を入れ替える。リライトだ。合宿で凛先輩に教わった。リライトは新しく書くより難しい。でも今の俺なら書ける。
赤ペンで修正箇所を書き込んだ。五箇所。いや、七箇所。声に出した時に引っかかった全ての箇所に赤を入れた。
スマホが鳴った。詩織さん。
「朝倉くん。朗読チェック、始めていいですか」
「お願いします」
電話越しに詩織さんの声が聞こえる。少し遠い。でもはっきりしている。万年筆の音がしない。代わりにページをめくる音がする。詩織さんも自分の朗読原稿を手元に置いているのかもしれない。
「じゃあ読みます。最初から」
「はい。聞きます」
深呼吸した。原稿を持った。読み始めた。
「"膝が壊れた日、俺は走ることを失った。グラウンドの芝を蹴る感触も、チームメイトの声も、ゴールの向こうの空も、全部が遠くなった"」
「止めてください」
「え、もう?」
「二行目です。"チームメイトの声も"の後に〇・五秒の間を入れてください。"も"で少し息を止める。そうすると次の"ゴールの向こうの空も"が際立ちます」
「〇・五秒の間」
「はい。朗読は句読点だけじゃなくて、"息の間"で感情を伝えます。文章に書かれていない間が、朗読には存在するんです」
「詩織さん、朗読の技術に詳しいな」
「リハーサルの後に調べました。朗読の技法に関する本を図書館で二冊借りて」
「二冊!?」
「一冊は声優の教本。もう一冊は詩の朗読の解説書。声の使い方は文章の書き方と似ています。間合い、強弱、テンポ。全部、文章のリズムと同じです」
詩織さんは本気だ。リハーサルが終わった後に図書館で二冊借りた。自分の朗読のためだけじゃない。俺の朗読チェックのためにも勉強してきた。
「続けます」
「はい」
読み直した。二行目の「も」で〇・五秒止めた。
「"チームメイトの声も、——ゴールの向こうの空も"」
「いいです。今の間、すごくいい。次の段落も読んでください」
読んだ。三段落目。四段落目。五段落目。詩織さんが時々止める。
「ここの"走る"は"駆ける"に変えたほうがいいです。"走る"が三回続いている。同じ言葉の反復は朗読だと耳につきます」
「"駆ける"か。確かに音が違う。"走る"は二文字。"駆ける"は三文字。一音分の余裕ができる」
「はい。一音の差が朗読のリズムを変えます」
修正した。「走る」を「駆ける」に。声に出した。確かに違う。「駆ける」のほうが言葉に勢いがある。「か」の音が強い。
「次の段落。"ペンを握った日、世界が変わった"のところですが」
「はい」
「"世界が変わった"は大きすぎます。朝倉くんの文章はもっと具体的です。"世界が変わった"ではなく、何が変わったのかを書いてください」
「何が変わったか……ペンを握った日に変わったのは、指先の感覚だ。ボールを蹴る足の感覚ではなく、文字を書く指の感覚に変わった」
「それです。"世界が変わった"より"指先の感覚が変わった"のほうが朝倉くんらしい。身体感覚で感情を伝える。朝倉くんの文章の一番いいところです」
「俺の文章の一番いいところを詩織さんが知ってるのか」
「知ってます。半年間読んできましたから」
半年間。詩織さんが俺の文章を半年間読んできた。コンクールの原稿。体育祭の実況。部誌のエッセイ。全部読んで、全部覚えている。取材ノートのどこかに俺の文章の分析が書いてあるのだろう。何ページ分あるのだろう。聞けない。聞いたら心臓が持たない。
「続けます」
「はい。止めません。通しで聞きます」
「はい」
「"開けた"の後に二秒の間を取ってください」
「二秒。長くないですか」
「長いです。でも長い間が効くんです。"ドアを開けた"は転換点です。サッカーを失った主人公が、新しい場所のドアを開ける瞬間。ここに長い間があると、来場者はドアの向こうを想像します」
「ドアの向こうを想像する」
「はい。間は"余白"です。小説で言えば行間。朗読で言えば声の空白。その空白に来場者が自分の感情を入れる。壮介くんの五秒の沈黙と同じです」
「壮介の五秒と俺の二秒か。壮介のほうが長い」
「壮介くんは最大音量の後の沈黙だから五秒必要です。朝倉くんは静かな文章の後の沈黙だから二秒で足ります」
電話越しに笑い声が聞こえた。詩織さんが笑っている。小さな笑い声。電話だと声が近い。いつもの距離より近い。部室では三十センチ離れている。教室では五十センチ。帰り道では七十センチ。電話は距離がゼロだ。声が耳に直接触れる。
「最後まで読みます」
「はい。止めません。通しで聞きます」
通しで読んだ。最初から最後まで。千五百文字。五分弱。途中で噛まなかった。リハーサルの時とは違う。声が安定している。詩織さんの指摘で修正した箇所が、口に馴染んでいる。
読み終わった。
電話の向こうが静かだ。三秒。五秒。
「詩織さん?」
「……はい」
「どうでした」
「……良かったです。すごく」
声が震えている。詩織さんの声が。
「朝倉くんの文章は走る文章です。でも今夜聞いた朗読は、走るだけじゃなかった。走った後に、ちゃんと立ち止まっていた。最後の一行で」
「最後の一行」
「"だから俺は、ここにいる"。この一行で立ち止まった。走り続けた文章が、最後に止まる。止まった瞬間に、全部の感情が追いつく。心拍数が上がった後に、ストンと落ちる」
「それがいいのか」
「いいです。凛先輩が言った"三人三様の心拍数"。朝倉くんの役割は"上げる"でした。でも今の朗読は"上げて、最後に落とす"。上げるだけより、上げて落とすほうが記憶に残ります」
「走って、止まる」
「はい。サッカーで言えば——全力で走って、最後にボールを止める瞬間。あの瞬間が一番美しいと思います」
「詩織さん、サッカーの例えが上手くなったな」
「朝倉くんの隣にいると自然に覚えます」
隣。詩織さんが「隣」と言った。電話越しの声が温かい。いつもの「取材です」がない。今夜の詩織さんは取材モードではない。ただ聞いて、ただ感じて、ただ伝えている。
「詩織さん。ラストの三百文字、書き直そうと思うんだけど」
「先生が言った"滑走路"ですね」
「着地を丁寧にしたい。"だから俺はここにいる"の前に、もう少し減速する文章を入れたい。走ってきた文章が少しずつ速度を落として、最後の一行でピタッと止まる」
「いいと思います。具体的には?」
「部室の描写を入れる。畳の匂い。ちゃぶ台。ソファ。掟。詩織さんの万年筆の音。凛先輩のページをめくる音。壮介の笑い声。先生の缶コーヒーの音。全部を最後の三百文字に詰め込む」
「五感で減速するんですね。スピードから感覚へ。走る文章が、感じる文章に変わる」
「そう。走ってきた足が、部室の畳を踏む瞬間」
「書いてください。今夜。私、電話で待ってます」
「待ってくれるのか」
「はい。書き上がったら読んでください。電話越しに。初めての読者になりたい」
「初めての読者」
「はい。朝倉くんの新しいラストの、最初の聞き手に」
*
電話を切らなかった。
詩織さんが電話の向こうで待っている。俺は机に向かっている。原稿のラスト三百文字を白紙にした。消した。書き直す。先生が言った「三百文字の滑走路」。着地を丁寧に。走ってきた文章が、最後に減速して、止まる。
何を書くか。
ラストの直前まで、原稿は「走ること」を書いている。サッカーを失った日から、ペンを握った日まで。走る場所が変わった話。グラウンドから畳へ。ボールからペンへ。その変化を千二百文字で駆け抜けている。速い。スピードがある。でもラストで急に止まっていた。それが先生に指摘された「急なラスト」だ。
急に止まるのではなく、ゆっくり止まる。走ってきた人間が、目的地に着いた時に足を緩めるように。最後の三百文字で減速する。走りから歩きへ。歩きから立ち止まりへ。立ち止まって、周りを見る。
周りには何がある。
部室だ。
ペンを持った。部室の描写を書く。五感で。
匂い。畳の匂い。インクの匂い。缶コーヒーの匂い。全部が混ざった、文芸部だけの匂い。この匂いを嗅ぐと「帰ってきた」と思う。家ではない。でも居場所だ。
触感。ちゃぶ台の傷。壮介が拳で叩いた跡がある。凛先輩がペンを強く置いた跡がある。詩織さんの万年筆のインクがシミになっている。触ると凸凹している。半年分の凸凹。
音。万年筆がノートの上を走る音。文庫本のページをめくる音。壮介の笑い声。凛先輩の短いツッコミ。先生が缶コーヒーの蓋を開ける音。プシュッ。全部が部室の音だ。
視覚。ソファの凹み。凛先輩の形に凹んでいる。ホワイトボードに書かれた掟。書け。読め。笑え。泣くな。四つの言葉が部室の壁に刻まれている。
味。壮介のカレーうどン。かき氷のメロン。合宿のカレー。全部が部室の記憶に繋がっている。
五感を書いた。三百文字分の五感。走ってきた文章が、部室の五感で減速する。最後の一行に向けて。
書いた。声に出しながら。一文ずつ。声に出して確かめながら。
書いた。声に出しながら。
「"部室のドアを開けると、畳の匂いがする。インクと缶コーヒーが混ざった匂い。ちゃぶ台に傷がある。ソファに凹みがある。ホワイトボードに四つの掟がある。全部がここにある。万年筆の音がする。ページをめくる音がする。笑い声がする。ため息がする。全部が聞こえる。全部が俺の居場所だ"」
「詩織さん」
「はい」
「書けた。ラスト三百文字」
「読んでください」
読んだ。新しいラスト三百文字。声に出して。電話越しに。詩織さんの耳に届ける。
「"……サッカーをやめた日、俺のグラウンドは消えた。でもペンを握った日、新しいグラウンドが生まれた。畳の上の、五人分のグラウンド。ここで俺は走っている。ボールの代わりに言葉を蹴って。ゴールの代わりに原稿用紙に向かって。チームメイトの代わりに——いや、チームメイトはここにいる。変わったのは場所だけだ。だから俺は、ここにいる"」
読み終わった。
沈黙。電話越しの沈黙。五秒。十秒。
「詩織さん?」
「……泣いてません」
「泣いてるだろ」
「泣いてません。取材で感情が揺れただけです」
「取材の涙か」
「取材の涙です。朗読の感想としては——完璧です。ラストの三百文字が滑走路になっている。走ってきた文章が、部室の描写で減速して、最後の一行で着地する。先生が聞いたら合格点だと思います」
「ありがとう」
「お礼は本番で。来場者の前で読んでください。今の声で。今の間合いで」
「読む。約束する」
「約束です。じゃあ——おやすみなさい。朝倉くん」
「おやすみ。詩織さん」
電話を切った。耳に詩織さんの声の残響がある。「完璧です」。電話越しの声が近かった。距離がゼロの声。帰り道の七十センチより近い。部室の三十センチより近い。
原稿を見た。千五百文字。赤ペンの修正が入っている。詩織さんの指摘で直した箇所。先生のアドバイスで書き直したラスト。凛先輩が設計した出場順。壮介のBGM。全員の手が入った千五百文字だ。俺が一人で書いたようで、全員で作った原稿。
グループLINEに投稿した。「原稿、修正完了。ラスト三百文字を書き直した」
即座に壮介。「マジ!? 読みたい!!」
凛先輩。「本番まで見せるな。声で初めて届けろ」
壮介。「えー! 読みたいのに!」
凛先輩。「朗読バトルは初見の衝撃が命だ。事前に読んだら効果が半減する。お前はMCとして当日初めて聞け。その驚きがリアルなMCになる」
壮介。「リアルなMC!! 了解!!」
詩織さん。「楽しみにしてます」。短い。でもさっきの電話の声を知っている。「完璧です」と言ってくれた声。泣いてないと言いながら震えていた声。LINEの短いメッセージの裏に、電話の温度が残っている。
先生。「よくやった。あとは声に乗せるだけだ。喉のケアをしろ。本番前日にカラオケに行くな」
壮介。「カラオケ行く予定だった!!」
凛先輩。「行くな」
スマホを閉じた。
翌日。金曜日。最終調整日。
部室でリハーサルの六つの失敗を全部潰した。箱にラベルを貼った。マーカーを新品に買い替えた。Bluetoothの接続手順書を壮介に渡した。台本を最終版に差し替えた。凛先輩が朗読を三回通しで読んだ。二回目から止まらなくなった。俺は原稿を五回音読した。一回も噛まなかった。詩織さんの〇・五秒と二秒の間を意識した。声が安定している。
先生が全企画を巡回した。缶コーヒーを三本飲みながら。
「脱出ゲーム。問題なし。リレー小説。問題なし。朗読バトル。問題なし。六つの失敗は全部対策済みだ。百点満点で八十点。合格だ」
「六十五点から八十点に上がった」
「十五点分、お前たちが成長した」
先生が缶コーヒーを飲んで「以上」と言った。短い。先生らしい。でも「八十点」と「合格」が全てを語っている。六十五点から八十点。成長の証だ。
土曜の朝。文化祭前日。部室に全員集合した。看板を空き教室の入口に掲げた。水野の描いた「文芸部フェスティバル」が廊下に面している。金と赤と橙。通りかかった生徒が「おっ」と足を止めた。看板の効果だ。
「明日だ」
凛先輩が言った。
「明日、五十人を迎える。脱出ゲームで謎を解かせる。リレー小説で物語を作らせる。朗読バトルで声を届ける。全部やる。俺たちの全部を」
「全部やります」
「やる!!」
壮介が叫んだ。小さめに。先生に「声量を抑えろ」と言われていたから。壮介なりの「小声」だ。それでも普通の人の通常音量より大きい。でもいい。壮介の声が文芸部の声だ。この声が明日、来場者を迎える。
文化祭まであと一日。準備は終わった。全部が揃った。五人と、五十人分の準備が。
あとは本番だ。




