第51話 秋が来た、文化祭も来る
# 秋が来た、文化祭も来る
窓から入る風が変わった。
十月。夏の湿った空気が消えて、乾いた秋風が畳の上を走っている。蝉の声が消えた。代わりにトンボが窓際を飛んでいる。赤いトンボ。グラウンドの木が色づき始めていた。校庭の銀杏が黄色くなりかけている。空が高い。夏の空より薄い青。水色に近い。
凛先輩がソファにブランケットを持ち込んでいた。
「先輩、もうブランケット?」
「寒い」
「まだ十月ですよ。最高気温二十二度」
「二十二度は寒い。夏に比べれば十度低い」
「夏と比べるな」
「先輩は猫体質ですね」
詩織さんが笑いながら言った。
「猫は褒め言葉として受け取る。猫は賢くて怠惰で美しい」
「自分で美しいって言うんですか」
「事実を述べただけだ」
凛先輩がブランケットの中に沈んでいく。ソファの凹みにはまって、ブランケットに包まれて、文庫本を読んでいる。確かに猫っぽい。大きくてクールな猫。
詩織さんはちゃぶ台で新しいノートに向かっている。コンクールの後に書き始めた短編「待合室」を仕上げて、もう次のプロットを練っていた。万年筆の音がサラサラと聞こえる。目が鋭い。佳作を獲ってから、この人の中に競争心の火がある。氷室蓮という名前が、詩織さんの中で燃料になっている。
壮介は「全国カレーうどン名店百選」を読んでいた。
「壮介、それ文芸か?」
「食文学だ! フードライティング!」
「フードライティングは英語で言っても食文学ではない」
「じゃあ何なんだ!」
「料理本」
「料理本を読むのも部活動だ!」
「違う」
先生はホットの缶コーヒーを飲んでいた。夏はアイスだった。缶コーヒーの温度で季節が分かる。先生の缶コーヒーは部室の温度計だ。
コンクールが終わって二週間。部室の空気がリセットされている。全員が少しだけ変わった。でも部室は変わらない。畳、ちゃぶ台、ソファ、掟。それでいい。
*
昼休み。校内放送。
「朝霧祭実行委員会からのお知らせです。今年の朝霧祭は十月第三週の土日に開催されます。出し物申請の締切は今週金曜日です」
放課後、部室。凛先輩がホワイトボードの前に立った。「朝霧祭」と赤い字で書いた。
「文芸部として参加する」
「去年は?」
「不参加。部員が足りなかった。今年は五人いる。コンクールでは俺と朝倉と壮介は結果を出せなかった。でも文化祭は審査員がいない。来てくれた人に直接言葉を届けられる。このチャンスを逃す手はない」
壮介が身を乗り出した。「何やるの!?」
「それを今から決める。だがその前に現実を見ろ」
凛先輩がノートを開いた。過去の文化祭記録。
「三年前。部誌展示のみ。来場者三人。うち二人は部員の家族」
「三人!? しかも身内が二人!?」
「実質一般来場者は一人だ。その一人も"教室を間違えた"と言って三分で出ていった」
「間違えて来ただけ!?」
「二年前。展示と朗読を追加。来場者八人。ただしうち三人は隣の教室の喫茶店の列に並んでいて"暇つぶしに覗いた"組」
「暇つぶし!」
「暇つぶしでも来場は来場だ。残りの五人は真面目に来てくれた。だがその五人のうち四人は文芸部員の友人だった」
「じゃあ純粋な一般来場者は一人?」
「二年連続で一般来場者が一人。文芸部は学校で最も存在感のない部だ」
壮介が真顔になった。珍しい。
「一人って……俺たちって学校で存在感ないの?」
「壮介の声量だけは全校一だがな」
「声だけ!?」
「声だけだ。"文芸部"と聞いて何をしている部か答えられる生徒は、たぶん一桁だ。だから今年は変える」
凛先輩がホワイトボードに「目標:来場者50人」と書いた。
「五十人!? 三人の十六倍以上!?」
「体育祭の実況小説は校内SNSで二百以上閲覧された。興味がある層はいる。来てもらう仕掛けがあれば五十人は届く」
「仕掛け?」
詩織さんが万年筆を置いた。
「体育祭の実況がウケたのは、リアルタイムで書いて、その場で読めたから。観客が巻き込まれる体験だった。文化祭でも同じ発想で"体験"を作れればいい」
「その通りだ。部誌を並べて座っているだけでは誰も来ない。来た人が"参加できる"仕掛けが要る」
「参加できる文芸って、具体的にどうするんですか」
「それを全員で考える。だから——」
壮介が手を挙げた。
「案がある!」
「言ってみろ」
「カレーうどンの屋台!」
「食べ物禁止」
「えっ、なんで!?」
「文芸部だからだ。文芸に関係ないことをする理由がない」
「カレーうどンは文芸と関係ある! 俺の千二十文字の原点だ!」
「それはお前の作品であってカレーうどンは食べ物だ。却下。次」
「お化け屋敷!」
「装飾の予算がない。却下」
「焼きそば!」
「食べ物禁止。三回目」
「たこ焼き!」
「食べ物。四回目」
「綿あめ!」
「食べ物。五回目。次に食べ物を言ったら——」
「飴細工! 芸術だろ!?」
「六回目。出ていけ」
「出ていかない!」
「なら食べ物以外を言え。お前の武器は声だろう。声を使う企画を考えろ」
「声? 声で文芸?」
「体育祭の実況はお前の声で盛り上がった。あの実況力を文化祭に転用できないか」
「実況力を転用! できる! たぶん! 声なら任せろ!」
「"たぶん"を取れ」
「できる!」
「よし。方向性はそれで考えろ」
先生が缶コーヒーを飲みながら頷いた。
「壮介の声は文芸部の最大の広告塔だ。コンクールでは使えなかった武器が、文化祭では最前線に出られる。適材適所だ」
「先生も俺を認めてる!?」
「声量だけはな」
「声量"だけ"!?」
「声量以外は伸びしろだ。伸びしろがあるのは良いことだ」
「それ褒めてないですよね」
「褒めている。缶コーヒーに誓って」
壮介が「先生の缶コーヒーの誓い、信用していいのか分からない!」と叫んだ。信用していい。先生の缶コーヒーは先生の全てだ。
*
凛先輩が仕切り直した。
「宿題の前に確認事項がある。申請書を見ろ」
凛先輩が生徒会室からもらってきた申請用紙を配った。A4一枚。項目が並んでいる。部活名、出し物名称、使用教室、必要機材、予算申請額、責任教員名。
「使用教室は旧校舎二階の空き教室を使う。部室の隣だ。部室と合わせて二部屋使える」
「二部屋もいいんですか」
「旧校舎は人気がない。他の部活は新校舎の教室を取り合う。旧校舎なら競争相手がいない」
「人気がないから取り放題」
「ネガティブに言うな。"静かで落ち着いた環境"だ。文芸部に最適だ」
「先輩、不人気を言い換えるのが上手い」
「ミステリ作家は言葉の使い方にうるさいんだ」
壮介が申請書を読んでいる。読んでいるというより、睨んでいる。
「予算……これ、いくら出るの?」
「基本枠が五千円。追加申請で最大一万円まで」
「一万円!? それだけ!?」
「文芸部の予算規模を考えろ。今年の部費が年間二万円だ。文化祭に一万使ったら半分消える」
「じゃあ金かからない出し物にしないと」
「当然だ。だから"体験型"なんだ。体験は材料費がかからない。必要なのは"仕掛け"と"言葉"。どちらも俺たちが自前で用意できる。金がないなら頭を使え。これもミステリの基本だ」
「先輩、何でもミステリに例えますよね」
「俺の思考回路がミステリでできているからだ」
先生が申請書の「責任教員名」の欄を見た。
「これ、俺の名前書くのか」
「当然です」
「書いたら俺にも責任が発生するんだが」
「発生します。顧問ですから」
「缶コーヒー飲んでるだけじゃダメか」
「ダメです。安全管理と予算管理をお願いします」
「仕事が増えた」
「元から先生の仕事です」
先生が渋々サインした。缶コーヒーを飲みながら。ペンを持つ手と缶コーヒーを持つ手が交互に動いている。器用だ。
凛先輩が申請書を回収した。「出し物名称は木曜に決める。全員、案を持ってこい」
「一案ずつ」
「一案ずつ。"文芸部ならでは"で、"体験型"で、"予算一万円以内"。この三条件を満たす案。食べ物は禁止」
「三条件!」
「三条件だ。ハードルは高くない。頭を使えば超えられる」
壮介が「頭を使う! 三日で!」と叫んだ。三日で壮介が食べ物以外の案を出せるか。正直不安だ。でも先生が言った。「声を使え」。壮介の武器は声だ。声で何かできるはずだ。
*
帰る前に、部室の隣の空き教室を見に行った。五人で。
引き戸を開けた。埃っぽい。机と椅子が積み重なっている。窓から夕日が入っている。広さは部室の倍くらいある。
「ここが文化祭の会場になる」
「埃すごいな。掃除しないと」
「掃除は来週やる。まず案を決めてから会場を整える。順番が大事だ」
壮介が積み重なった机を見て言った。「この机、全部どけたら結構広いな!」。凛先輩が「どけるのはお前の仕事だ」と即座に返した。壮介が「力仕事担当!?」と叫んだ。「文芸部で唯一の力仕事適性者だ」と凛先輩。壮介が「それ褒めてないだろ!」と返した。褒めてはいない。でも事実だ。
窓から外を見た。グラウンドが見える。サッカー部が練習している。夕日がオレンジに染めている。この窓から見る景色は、部室の窓とは少し角度が違う。
「ここ、結構いいな。広いし、窓からの光もいい」
「しかも旧校舎だから音を出しても怒られない。朗読に最適だ」
「先輩、朗読前提ですか」
「朗読は文芸部の基本だ。どの企画にも朗読要素は入る」
部室に戻った。凛先輩がホワイトボードにスケジュールを書き始めた。
「整理する。今日が月曜。木曜に出し物案の決定。金曜に申請。来週月曜から本格準備開始。再来週の土日が本番。準備期間は実質十日」
「十日!?」
「十日だ。コンクールの原稿は四ヶ月かけた。文化祭は十日。だが五人いる。一人で四ヶ月と五人で十日。計算上は——」
「計算上は?」
「五人×十日=五十人日。一人×百二十日=百二十人日。数字だけ見ればコンクールのほうが大変だ。文化祭は余裕がある」
「先輩の計算、人を機械みたいに扱ってません?」
「効率的な人材配分はプロジェクト管理の基本だ」
「プロジェクト管理って、先輩はいつそれ覚えたんですか」
「ミステリの犯行計画書と同じだ。時間配分、人員配置、リスク管理。全て犯罪計画に通じる」
「犯罪に例えないでください」
「では"完全犯罪のような完璧な文化祭準備"と言い換えよう」
「言い換えても物騒です」
先生が空き教室のドアに鍵をかけた。「準備用の鍵は職員室で管理する。使う時は俺に言え」
「先生、急に顧問らしい」
「鍵の管理は教員の仕事だ。これだけは譲れない」
「それ以外は譲るんですか」
「それ以外は缶コーヒーを飲んでいる」
五人で旧校舎の廊下を歩いた。夕日が窓から差し込んでいる。十月の夕日。八月より低い角度で、廊下に長い影を作っている。五人の影が並んでいる。
「なあ、凛先輩。五十人って本気で行けると思いますか」
「行ける。根拠はある。まず壮介の声量。あれは校内最強の宣伝ツールだ」
「俺が宣伝ツール!?」
「褒めている。お前の声は半径五十メートルに届く。壮介が廊下で叫べば、校舎全体が文芸部の存在を知る」
「半径五十メートル! そんなに!?」
「むしろ控えめに言った。本気を出せば百メートルだろう」
「百メートル!! 陸上部より速い!!」
「声の到達距離と足の速さは関係ない」
壮介が廊下で「文芸部!!」と叫んだ。実演だ。声が旧校舎に響き渡った。壁が震えた。窓ガラスが振動した。階段の向こうから反響が返ってきた。
「今のは推定七十メートルだ」
「凛先輩、測ったんですか」
「ミステリ作家は距離感覚に敏感だ」
壮介の声が旧校舎を揺らした。十月の夕暮れ。文化祭まで二週間。準備期間は十日。五人で三条件を満たす出し物を考える。
校門に向かう廊下で、詩織さんが横に来た。
「朝倉くん。文化祭、楽しみです」
「楽しみだな」
「コンクールの時は"怖い"が先でした。でも文化祭は"楽しみ"が先です」
「何が違うんだろうな」
「たぶん、自分たちの手で作れるからです。コンクールは書いて出して祈るしかなかった。文化祭は自分たちで場所を作って、自分たちで人を呼んで、自分たちで言葉を届けられる」
「審査員じゃなくて、目の前のお客さんに」
「はい。笑ってくれるお客さんに。それが嬉しい」
「届けよう。五十人に」
「はい。五十人に」
帰り道。壮介と歩いている。
「出し物、何がいいと思う?」
「文芸部にしかできないこと。書く、読む、物語を届ける」
「先生が"声を使え"って言ったの、刺さった。俺の武器は声だ。体育祭の実況もそうだった」
「お前の実況は確かにすごかった。廊下の端まで聞こえてた」
「あの時は楽しかったな! リアルタイムで実況して、みんなが笑ってくれて。あの感覚を文化祭でもやりたい」
「朗読は? 合宿みたいに声で物語を届ける」
「朗読だけだと地味だろ。来場者三人の歴史を繰り返す」
「じゃあ仕掛けがいる。"ただの朗読"じゃなくて"体験としての朗読"」
「体験としての朗読って?」
「分からない。まだ思いつかない」
「俺も。でも方向性は見えた。声。声で届ける何か」
「凛先輩は絶対ミステリ系を考えてるな。あの目が本気だった」
「ミステリの目だった。あの目の時の先輩は止められない」
「詩織さんは参加型の何かだろ。"観客を巻き込む"って自分で言ってたし」
「三人がそれぞれ違う方向を向いてるな」
「バラバラか?」
「バラバラだけど、全部"文芸部らしい"。凛先輩のミステリも、詩織さんの参加型も、壮介の声も。全部、他の部にはない武器だ」
「じゃあ全部やればよくない?」
「五人で全部は無謀だろ」
「無謀か。でも文芸部って最初から無謀じゃなかった? 五人で部を維持してるのも、千二十文字でコンクール出したのも、全部無謀だった。無謀は文芸部のスタイルだ。カレーうどンの次に得意なのは無謀だ」
「壮介、たまにいいこと言うな」
「たまにじゃない! いつも!」
「いつもはカレーうどンだろ」
「カレーうどンもいい話だ! あと焼肉もいい話だ!」
「全部食べ物じゃないか」
壮介と別れた。「三日で考える! 食べ物以外で! たぶん!」と叫んで走っていった。「たぶん」がついているのが不安だ。
一人になった。金木犀の匂い。秋の匂い。空が高い。星がうっすら見え始めている。
壮介が「全部やればよくない?」と言った。冗談だったかもしれない。でも引っかかった。凛先輩のミステリ。詩織さんの参加型。壮介の声。三人が三方向を向いている。一つに絞れば二つが消える。全部やれば三つ生きる。五人で三企画は無謀だ。でも——先生が前に言っていた。「文芸部は最初から無謀だ」。
三日後。全員が案を持ち寄る。凛先輩が何を出すか。詩織さんが何を出すか。壮介が食べ物以外を思いつけるか。先生がどの缶コーヒーを飲むか。全部が楽しみだ。木曜が待ち遠しい。久しぶりに部活の前日が楽しみな夜だ。
秋が来た。文化祭も来る。来場者三人の黒歴史を、五十人の笑い声で塗り替える。文芸部の秋が始まる。




