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第47話 結果発表の朝──震える指でサイトを開く

# 結果発表の朝──震える指でサイトを開く


 目覚ましの前に目が覚めた。


 スマホの画面を見た。午前六時。九月の最終週の月曜日。コンクールの結果発表日。発表は正午に公式サイトに掲載される。あと六時間。寝直す気力がない。布団の中でスマホを握っている。画面の光が暗い部屋を照らしている。今日で決まる。四ヶ月かけて書いた一万文字の運命が、今日の正午に決まる。


 布団から出た。顔を洗った。鏡を見た。顔色が悪い。昨夜ほとんど眠れなかった。寝たり起きたりを繰り返した。夢を見た。ポストに封筒を入れる夢。でも封筒が手から離れない。糊でくっついている。引き剥がそうとして手が切れる。血が封筒に垂れる。そこで目が覚めた。嫌な夢だ。


 階段を降りた。台所で母親が朝食を作っている。味噌汁の匂い。焼き鮭の匂い。いつもの朝だ。でも今日は味噌汁の匂いが胃に重い。


「大丈夫? 顔色悪いよ」


「大丈夫。今日、コンクールの結果が出る」


「あら、そうなの。頑張ったんだから大丈夫よ」


 根拠のない励まし。でも今はありがたい。味噌汁を一口飲んだ。熱い。舌が痺れた。鮭に箸をつけた。一切れ食べた。味がしない。緊張で味覚が死んでいる。ご飯を三口食べて箸を置いた。


 七時。八時。時計を何度も見た。針が遅い。いつもの倍遅く感じる。八時半。制服に着替えた。鏡で確認した。ネクタイが曲がっている。直した。まだ曲がっている。三回目で諦めた。今日はネクタイの曲がりなんか気にしている場合じゃない。


 家を出た。通学路。いつもの道。いつもの景色。でも色が違って見える。九月の空は青い。高い。雲が薄い。秋の空だ。ポストに封筒を入れてから一ヶ月が経った。あの八月の暑い日から、季節が変わった。蝉の声が消えて、秋の虫の声に変わった。空が高くなって、風が涼しくなった。一ヶ月。三十日。この三十日間、壮介は六軒のポストを巡回した。詩織さんは新作「待合室」を書いた。凛先輩は次のミステリのプロットを練った。俺は次の作品に取りかかれないまま、結果を待っていた。待つだけの三十日が今日終わる。


 この空の下のどこかの審査室で、俺の一万文字が評価された。もう結果は決まっている。俺がまだ知らないだけだ。知るのは今日の正午。あと四時間。



    *



 教室。


 壮介が机に突っ伏していた。顔を机にくっつけている。いつも騒がしい壮介が黙っている。周囲がざわついている。「大和、体調悪い?」とクラスメイトが聞いた。


「精神的に悪い」


 壮介が顔を上げないまま答えた。声が小さい。壮介の声量バロメーターが赤信号だ。


「壮介、大丈夫か」


「大丈夫じゃない。朝からポストを三回見た」


「三回? 六時と七時と?」


「六時と七時と家を出る前。何もなかった。チラシすらなかった。空っぽだった。俺のポスト、一ヶ月前から空っぽ率が上がってる。チラシすら来ない」


「チラシの有無はコンクールと関係ないだろ」


「でもポストが空っぽだと落ち込む! 何か入っててくれ! ピザのチラシでもいい!」


「ピザのチラシに救いを求めるな」


「入賞者への通知はもう届いてるはずだ。発表の一週間前に届くって凛先輩が言ってた。朝の時点で届いてなければ」


「言うな!! 最後の希望を残させてくれ!!」


 壮介が叫んだ。教室で。朝から。先生が黒板の前で振り返った。「大和、静かに」。壮介が「すみません」と謝った。声がでかい。謝罪も叫ぶ男。


 授業が始まった。全く頭に入らない。数学の教科書を開いたが、数式が文字化けして見える。国語の教科書は開けなかった。文章を見ると自分の原稿を思い出す。一万文字。あの原稿がどう評価されたか。合格か不合格か。ペンを持つ手が震えている。ノートに何も書けない。


 十時。残り二時間。十一時。残り一時間。時計の針を見るたびに心臓の速度が上がる。十一時半。残り三十分。壮介が横から「陽翔、顔が白い」と小声で言った。「お前もだよ」と返した。二人とも顔色が悪い。結果待ちの顔色だ。


 十一時四十分。スマホが振動した。ポケットの中で。授業中だ。見てはいけない。でも見た。詩織さんからLINE。


「昼休みに部室に集合しましょう。全員で見ましょう」


 返信した。「分かった」。壮介にも転送した。壮介から返信。「行く」。二文字。壮介が二文字しか打たないのは初めて見た。いつもは感嘆符が五つくらいつく。今日は「行く」だけだ。震えた二文字。



    *



 昼休み。


 部室に向かう廊下を歩いている。足が重い。旧校舎の引き戸が見える。あの向こうに部室がある。三ヶ月間通った道。四月に初めて来た時は、この引き戸の先に何があるか知らなかった。今は知っている。畳があって、ちゃぶ台があって、ソファがあって、ホワイトボードがあって、掟が書いてある。凛先輩がいて、詩織さんがいて、壮介がいて、先生がいる。俺の居場所がある。


 引き戸を開けた。


 全員がいた。誰よりも早く来ていたのは凛先輩。ソファではなくちゃぶ台の前に正座している。普段の脱力感がない。目が鋭い。戦場に臨む顔だ。凛先輩の前にノートPCが置いてある。まだ開いていない。銀色の蓋が閉じている。あの蓋を開けた先に、結果がある。


 詩織さんが横に座っている。万年筆を持っていない。手ぶらだ。書く余裕がない。いつも万年筆を握っている詩織さんの手が、今日は空だ。指を膝の上で組んでいる。祈るような形だ。


 壮介がドアを静かに開けて入ってきた。いつもの「バーン」ではなく、静かに。この男がドアを静かに開けるのは年に数回しかない。それだけで全員の緊張が伝わる。壮介が静かな日は、世界が張り詰めている日だ。


 先生はいなかった。「授業があるから見届けられない。結果はLINEで教えろ」とメッセージが来ていた。先生も緊張しているのだろう。「教えろ」の二文字に、先生の三回の落選の記憶が滲んでいる。


 凛先輩がノートPCを開いた。コンクールの公式サイトをブックマークから開いた。まだ結果は掲載されていない。「正午更新」の表示。白い画面に黒い文字。「結果は正午に掲載されます」。時計を見た。十一時五十六分。あと四分。


「全員、心の準備はいいか」


「できてない」


 壮介が正直に答えた。


「できてないけど見る」


「それでいい。できていなくても見る。逃げない。全員で見る。それがルールだ」


 十一時五十七分。三分。


 詩織さんが俺の横に座った。近い。いつもよりペンケース一個分近い。


「朝倉くん」


「うん」


「結果がどうであれ、書いた原稿は本物です。四ヶ月かけて書いた一万文字は、結果で消えません」


「うん。ありがとう」


「どちらの結果でも、私は朝倉くんの原稿が好きです。それは変わりません」


 詩織さんが俺の原稿のことを「好きだ」と言った。図書館で俺が「お前の文章が好きだ」と言った言葉の、返事かもしれない。


 十一時五十八分。二分。


 凛先輩がF5キーの上に指を置いた。まだ押さない。指先がキーの表面に触れている。カーソルがページの中央にある。


 十一時五十九分。一分。


 壮介が膝を叩いている。リズムなく。凛先輩がペンを回している。詩織さんが指を組んでいる。俺は膝を押さえている。四人の緊張が部室に充満している。畳の匂いが消えている。緊張が匂いを消した。


 時計の秒針が最後の一周を刻んでいる。四十五秒。五十秒。五十五秒。


 十二時。


「押す」


 凛先輩の指がF5キーを押した。カチッ。小さな音。世界を変える小さな音。



    *



 画面がリロードされた。読み込み中のアイコンがくるくる回っている。白い画面。二秒。三秒。四秒。四秒が永遠に感じる。時間が引き伸ばされている。五秒。


 ページが表示された。


「第十二回 全国高校生文芸コンクール 結果発表」


 バナーが表示された。青い文字。大きなフォント。凛先輩がスクロールした。マウスパッドに触れる指が震えていた。凛先輩の指が震えるのは初めて見た。全員がPCの画面に顔を近づけた。四つの顔が小さな画面を覗き込んでいる。壮介の呼吸が荒い。詩織さんの手が膝の上で握り締められている。俺の心臓が耳の中で鳴っている。ドクン、ドクン。自分の心臓の音がこんなに大きく聞こえたのは初めてだ。


 入賞者リスト。上から順に表示されている。金賞から順に。一番偉い賞から。


 金賞。「西園寺麗(桜田学院高等学校)」。知らない名前だ。知らない学校だ。全国の高校生の中で一番になった人。どんな作品を書いたのだろう。どんな人なのだろう。今はどうでもいい。俺たちの名前を探す。


 銀賞。「氷室蓮(清水ヶ丘高等学校)」。


「あいつだ!」


 壮介が声を上げた。氷室。図書館で詩織さんにライバル宣言をした男。去年も銀賞だった。今年も銀賞。安定している。壮介が「また銀賞か」と呟いた。凛先輩が「黙れ、続きを見ろ」と制した。


 銅賞。知らない名前が二つ。俺たちの名前はない。


 佳作。リストが表示された。五名の名前。一つずつ読んだ。


 一人目。知らない名前。

 二人目。知らない名前。

 三人目。


「千歳詩織(朝凪高等学校)」


 俺の目が止まった。文字を二度読んだ。三度読んだ。間違いない。千歳詩織。朝凪高等学校。詩織さんの名前が、佳作のリストの三番目にある。画面の中で、白い背景に黒い文字で、「千歳詩織」と書いてある。その文字は俺が知っている詩織さんの名前だ。取材ノートの表紙に書かれている名前と同じ文字だ。


「詩織ちゃん!! 入ってる!!」


 壮介が叫んだ。部室が揺れた。壮介の声がホワイトボードを振動させた。掟の文字が震えた。壮介の声量が完全復活した瞬間だった。結果発表の日に壮介の声が戻った。


「千歳、おめでとう」


 凛先輩が静かに言った。声が穏やかだった。凛先輩の穏やかな声は珍しい。嬉しいのだ。後輩の入選が。部長として。先輩として。凛先輩の口元が少しだけ上がっている。笑っている。凛先輩が笑うのは、本当に嬉しい時だけだ。


 詩織さんが画面を見つめていた。目が見開かれている。唇が震えている。万年筆を持っていない手が、膝の上で握り締められている。三秒。五秒。七秒。長い沈黙だった。全員が詩織さんを見ている。壮介が口を開きかけて、凛先輩が手で制した。待て。詩織さんの声を待て。


 声が出た。


「私の名前が……ある……」


 涙が落ちた。頬を一筋。詩織さんの目から涙が流れた。万年筆のインクが紙に落ちるように。一筋。もう一筋。三筋。声を出さずに泣いている。嬉しいのか。信じられないのか。怖いのか。たぶん全部だ。四ヶ月かけて書いた一万二千文字が、知らない審査員に認められた。「千歳詩織」の名前が、全国のリストに載った。


 俺は「おめでとう」と言った。本心だ。嬉しい。詩織さんの名前がリストにある。一万二千文字が認められた。佳作。入選。文芸部初の入賞者だ。詩織さんの隣で万年筆の音を聞いていた日々が報われた。図書館で並んで座った日々が、形になった。


 でも。


 画面をスクロールした。佳作リストの残り二名を読んだ。四人目。知らない名前。五人目。知らない名前。俺の名前はない。佳作五名の中に「朝倉陽翔」はなかった。


 奨励賞のリストに移った。十名の名前が並んでいる。一つずつ読んだ。焦らずに。一人目の姓を確認する。「朝」の字を探す。「あ」行を探す。一人目。違う。二人目。違う。三人目。「あ」で始まる名前があった。心臓が跳ねた。読んだ。「青木」。違った。「朝倉」じゃなかった。四人目。五人目。六人目。七人目。八人目。九人目。十人目。


 ない。


 俺の名前はどこにもなかった。一万文字。四ヶ月。合宿。朝焼け。リライト地獄。詩織さんの添削。壮介の本音。凛先輩のトリック。先生の「中盤型」。全部を込めた原稿が、リストのどこにもなかった。


 凛先輩の名前も探した。金賞から奨励賞まで全部。ない。壮介の名前も。ない。三人とも、リストのどこにもなかった。


 画面を閉じなかった。もう一度上からスクロールした。見落としがあるかもしれない。誤字があるかもしれない。「朝倉」の「朝」の字を見落としたかもしれない。金賞。銀賞。銅賞。佳作。奨励賞。全部読んだ。一文字ずつ。二回目。三人の名前はない。見落としではなかった。落選だ。


 凛先輩が画面から目を離した。表情が変わらない。いつもの凛先輩だ。でも右手が拳を握っている。爪が掌に食い込んでいるかもしれない。凛先輩も落選だ。八千文字のミステリ。二週間のトリック修正。壮介の五秒の天才。全部が報われなかった。でも凛先輩は何も言わない。落選の痛みを拳の中に閉じ込めている。


 壮介が俺の隣に来た。いつの間に移動したのか。「陽翔」と小声で言った。小声の壮介は優しい壮介だ。声量を下げることが壮介の最大の優しさだ。


「俺もなかったよ。名前」


「知ってる」


「悔しいか?」


「悔しい」


「俺も悔しい。千二十文字じゃ無理だったかな。規定一万文字のコンクールに千二十文字で出した。それ自体が無謀だったのかもしれない」


「無謀じゃない。出したことに意味がある。凛先輩が言っただろ。出した事実は変わらない」


「出した事実は変わらない。うん。でも次はもっと書く。二千文字。三千文字。もっと長く。もっと本音を。千二十文字の次は、二千文字の本音だ」


「壮介が次を見てるなら大丈夫だ」


「前向きが武器だからな! カレーうどンの次に強い武器だ!」


 壮介の声がでかくなった。復活の兆しだ。壮介の声量は精神状態のバロメーターだ。声がでかければ大丈夫。今は六割くらいまで戻っている。全回復は放課後の祝勝会の後だろう。


「でも詩織ちゃんが入ったから、今日は祝おう。俺たちの悔しさは明日にする」


 壮介の判断は正しかった。今日は詩織さんの日だ。俺たちの悔しさは、明日の朝に持ち越す。今は祝う。全力で祝う。文芸部初の入賞者を。


 壮介が「祝勝会だ!!」と叫んだ。コンビニに走ろうとした。凛先輩が「待て。午後の授業がある。放課後にやる」と止めた。壮介が「放課後!! 約束だ!!」と叫んだ。


 詩織さんが涙を拭いた。ハンカチで。丁寧に。泣いた後の詩織さんの顔は、泣く前より強く見えた。涙を流した分だけ、何かが洗い流されたように。


 俺を見た。俺の目を見た。何か言いかけて、口を開いて、少し迷って、それでも言った。


「朝倉くん。私だけ入選して……ごめんなさい」


「謝るな」


 即答した。考える前に口から出た。推敲していない言葉だ。


「謝るな。詩織さんが入選したことに、謝る理由は一ミリもない。お前の一万二千文字が認められた。それは詩織さんの力だ。俺の落選と詩織さんの入選は別の話だ。混ぜるな」


 声が強くなっていた。自分でも驚いた。詩織さんに「ごめんなさい」を言わせたくなかった。詩織さんの入選は、詩織さんだけのものだ。俺の落選の影を、詩織さんの光に落とさせたくない。


「ありがとうございます」


 詩織さんが笑った。泣くのを我慢した笑顔。強い笑顔。


 凛先輩が立ち上がった。ノートPCを閉じた。パタン。結果のページが消えた。


「全員に言う。結果は出た。千歳は入選。俺と朝倉と壮介は落選。事実だ。受け止めろ。だが、この結果で文芸部が変わることはない。掟は変わらない。書け。読め。笑え。泣くな。四月から変わっていない。これからも変わらない。明日からも同じだ。同じ部室で、同じちゃぶ台で、同じことをする。書く。それだけだ」


 凛先輩が掟を読み上げた。ホワイトボードの文字を見ながら。四つの掟。四月に書いた文字。インクが少し薄くなっている。日に焼けたのかもしれない。でも読める。読めるうちは効力がある。この掟は落選しても変わらない。入選しても変わらない。結果に左右されない掟だ。書け。それだけだ。


「泣くな。掟の四番目だ」


 凛先輩が言った。でも声が柔らかかった。泣くなと言いながら、泣いてもいいと言っている声だった。言葉と声のあいだに、凛先輩の優しさがある。凛先輩自身も落選した。でもそれを顔に出さない。拳の中に閉じ込めている。部長だから。先輩だから。凛先輩は自分の痛みより、後輩の痛みを先に受け止める。そういう人だ。


 チャイムが鳴った。昼休みの終わり。全員が立ち上がった。教室に戻る。壮介が横に来た。「放課後、祝勝会な」と小声で言った。「ああ」と返した。壮介が拳を上げた。俺も拳を上げた。ぶつけた。壮介の拳は熱かった。


 教室に戻った。午後の授業。黒板の文字が見える。ペンを持った。手はもう震えていなかった。結果は出た。落選した。事実だ。受け止めた。


 先生にLINEを送った。「詩織さん、佳作入選。氷室が銀賞。俺と凛先輩と壮介は落選」。三十秒で返信。「千歳、おめでとう。他の全員もよくやった。結果は一つの通過点だ。夕方に部室に顔を出す」。


 通過点。先生はそう言った。通過点なら、まだ道は続いている。落選も通過点。佳作も通過点。銀賞も通過点。全部が通過点で、ゴールはもっと先にある。先生は三回落ちた。三回の通過点を経て、今も部室にいる。缶コーヒーを飲みながら。赤ペンを持ちながら。先生が止まらなかったから、俺たちがいる。


 掟の一番目。書け。だから明日も書く。落選した手で。新しい原稿用紙を開いて。次の作品を。


 詩織さんの涙と、俺の沈黙。この日の部室に流れた二つの感情を、俺はたぶん一生忘れない。嬉しさと悔しさが同じ畳の上で共存した九月の昼休み。文芸部の最初の夏が、一つの結果を出した日。

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