第45話 待つ夏──結果発表までの日々
# 待つ夏──結果発表までの日々
ポストに封筒を入れてから、二週間が経った。
九月になっていた。二学期が始まった。夏休みが終わって、制服に戻って、授業が再開した。教室の窓から見える空は、八月より少しだけ高くなっている。入道雲が減って、秋の雲が増えた。薄くて長い雲。筆で引いたような雲。
夏休みの間に日焼けした壮介はまだ少し赤い。腕と首筋が赤い。プールと海の勲章だ。クラスメイトに「どこ行ったの?」と聞かれて「海! 合宿!」と叫んでいた。声がでかい。教室の端まで届いている。隣のクラスにも届いているかもしれない。
凛先輩は変わらずクールだ。日焼け対策が完璧だったから、肌の色が夏休み前と全く変わっていない。パラソルの勝利だ。二学期最初のホームルームで「夏休みの思い出」を発表する場面があったらしいが、凛先輩は「読書をした」としか言わなかったそうだ。四冊読んだこと、ミステリ仕掛けの肝試しを設計したこと、ブランケットをかけたこと、声が震えたこと。全部省略して「読書をした」。凛先輩らしい。
詩織さんは少し髪が伸びた。夏の間に切らなかったらしい。「書いていたら美容院に行くのを忘れました」。この人は書くこと以外を忘れる。でも伸びた髪が少しだけ大人っぽく見える。肩より少し下まで伸びている。夏の前は肩までだった。三センチくらい伸びた。三センチの変化に気づいた俺は、たぶん見すぎだ。
先生は夏太りしていた。ベルトの穴が一つ外にずれている。「合宿のカレーが原因だ」と言っているが、缶コーヒーの糖分が原因だろう。一日六本を三ヶ月続ければ、糖分の摂取量は相当なものだ。壮介が「先生、腹出てる!」と指摘して、先生に「黙れ」と一蹴された。
部室に全員が揃った。放課後の部室。畳の匂い。ちゃぶ台。ホワイトボード。ソファ。かもめ荘の和室とは違う匂いだ。学校の匂い。チョークと古い木と、微かにカビの匂いがする旧校舎の空気。でも帰ってきた感覚がある。ここが俺たちの本拠地だ。かもめ荘は仮の部室だった。ここが本物だ。ちゃぶ台は一台。変わっていない。本棚には夏の間に誰かが置いた新しい文庫本が一冊増えている。詩織さんだ。夏休み中に読み終わった本を置いていったらしい。本棚が少しずつ育っている。
ソファにはまだ凛先輩の凹みがある。壮介が座ろうとして「先輩の凹みだ」と避けた。壮介の中で、ソファの右側は凛先輩の聖域だ。誰にも指示されていないのに、壮介は凛先輩の場所を守る。
ホワイトボードには凛先輩が書いた掟が消えずに残っている。夏休みの間、誰も消さなかった。
① 書け
② 読め
③ 笑え
④ 泣くな
四つの掟。変わっていない。ホワイトボードのインクが少しだけ薄くなっている。日に焼けたのかもしれない。でも読める。読めるうちは効力がある。
全員の頭の中にあるのは一つだけだ。コンクールの結果。
「結果って、いつ出るんでしたっけ」
壮介が聞いた。聞くのは三回目だ。
「九月末にウェブで発表。入賞者のみ事前に郵送通知が届く。何回言わせる」
「いつ届くの? 郵送通知」
「分からない。発表の一週間前くらいだと言われている。つまり九月の第三週あたりだ」
「あと一週間!?」
「あと一週間かもしれないし、二週間かもしれない。正確には分からない」
「正確に分からないのが一番つらい! 確定してくれ!」
「コンクールの事務局に言え。俺に言われても困る」
*
壮介の「ポスト監視」は深刻だった。病的と言ってもいい。
記録をつけた。壮介自身がつけたのではない。俺がつけた。壮介の行動があまりに面白かったので、取材ノートではなく俺のノートに記録してしまった。詩織さんの影響かもしれない。記録癖が感染している。
月曜日。帰宅後、ポストを確認。チラシと電気料金の請求書。コンクールの通知はない。落胆。夕食時に母親に「ポストに何か来てなかった?」と三回聞いた。母親が「さっき見たでしょ」と困惑。
火曜日。朝六時にポストを確認。新聞だけ。「郵便局の人がまだ配達していないだけだ!」。登校後、放課後に帰宅して二度目の確認。チラシのみ。壮介が夕方のLINEグループに「今日も来なかった」と報告。凛先輩が「毎日報告するな」と返信。壮介が「報告しないと不安!」と返信。凛先輩がスタンプで返した。猫のスタンプ。凛先輩がスタンプを使うのは珍しい。呆れた時だけ使うらしい。
水曜日。壮介が学校から自宅のポストを遠隔確認したいと言い出した。昼休みに。
「スマホでポストの中が見えるカメラみたいなやつないの?」
「スマートロックはあるけどスマートポストは聞いたことない」
「発明すべきだ! 文芸部で開発しよう!」
「文芸部はカメラを開発する部ではない」
「じゃあ誰が開発するんだ!」
「郵便局に聞け」
「郵便局に聞く! 電話する!」
「するな! 迷惑だ!」
壮介の電話を物理的に取り上げた。この男は止めないと本当に電話する。行動力がある場所が間違っている。
木曜日。壮介が俺の家のポストを確認しに来た。放課後に。突然。チャイムを鳴らして。
「陽翔! お前のポスト見せてくれ!」
「お前の通知が俺の家に届くわけないだろ!!」
「万が一! 住所を書き間違えたかもしれない!」
「間違えてない! 凛先輩が全員の封筒を確認しただろ!」
「確認した……そうだ……先輩が確認したんだ……」
安堵の表情を浮かべた壮介が、三秒後に「でも念のため!」と言ってポストを覗いた。中にはピザのチラシが一枚だけあった。壮介が「ピザか……」と呟いた。ピザに罪はない。
金曜日。壮介が霧島先生のポストを確認しようとした。職員室に行って「先生の家のポスト見せてください」と頼んだ。
「俺は応募していないんだが」
「念のためです!」
「念のためにもならない。俺の家のポストにお前の通知が届く理由が一ミリもない」
「郵便事故!」
「郵便事故で教師の家に生徒の郵便が届く確率は、お前がコンクールで大賞を取る確率より低い」
「先生! それは俺の入賞確率が低いってことですか!?」
「そういう意味ではない。出ていけ」
土曜日。壮介が凛先輩の家のポストを確認しに行った。インターホンを押した。凛先輩が出た。
「来るな」
ドアが閉まった。一秒で終了。凛先輩の「来るな」は絶対だ。壮介が「先輩は冷たい」とLINEに書いた。凛先輩が「ポストを見に来る人間に温かくする義務はない」と返した。正論だ。壮介が「でもポストは公共の場所では」と返した。凛先輩が「俺の家のポストは俺の私有財産だ」と返した。壮介が「法律!?」と返した。凛先輩が既読無視した。
日曜日。壮介が詩織さんの家のポストを確認しに行った。詩織さんの母親が出て、「あら、壮介くん。詩織は買い物に出てるけど」と言ったらしい。壮介が「ポストを見せてください!」と頼んで、詩織さんの母親が困惑しながらも見せてくれた。中身は新聞と近所のスーパーのチラシだけだった。壮介が帰った後、詩織さんから俺にLINEが来た。「壮介くんが来ました。ポストを見て帰りました。母が心配しています。壮介くんは大丈夫でしょうか」。大丈夫ではないと思う。
翌週の月曜日。壮介が学校の郵便受けを確認しようとした。事務室の前にある学校宛ての郵便物が入る箱だ。事務員に止められた。「生徒が学校の郵便物を見ることはできません」。壮介が「文芸部宛ての郵便物だけでいいんです!」と食い下がった。事務員が「ありません」と答えた。壮介が「本当に?」と聞いた。事務員が「本当です。帰ってください」と答えた。壮介が帰った。事務員が職員室に報告した。先生が呼び出されて注意を受けた。先生が部室に来て「壮介、もうやめろ。俺が怒られた」と言った。壮介が「先生すみません!」と謝った。声がでかかった。
一週間と三日で六軒のポストを巡回した壮介。自宅、俺の家、先生の家、凛先輩の家、詩織さんの家、学校の事務室。文芸部関係者のポスト全軒制覇。おそらく日本の文芸部史上初の記録だ。記録すべきではない記録だ。
「壮介。落ち着け」
月曜日。部室。凛先輩が正面から壮介に向き合った。
「通知が届くのは入賞者だけだ。お前の千二十文字が入賞する確率を冷静に考えろ」
「低い?」
「正直に言うと、かなり低い。全国から何千もの作品が集まる。その中で千二十文字のカレーうどンエッセイが入賞する確率は——」
「言わないで!」
「——計算するまでもなく低い」
「言った!」
「でもゼロじゃない」
「ゼロじゃない!!」
壮介のテンションが即座に復活した。この男のメンタルは壊れているのか強いのか分からない。「ゼロじゃない」の四文字で全回復する。凛先輩のフォローが絶妙だ。落とすだけ落として、最後に一本の糸を残す。ミステリのトリックと同じだ。読者を絶望させてから、最後に希望を見せる。
*
壮介が暴走している間、他の三人はそれぞれの方法で「待っていた」。
詩織さんは新しい短編を書き始めていた。タイトルは「待合室」。待つことをテーマにした小品。病院の待合室で、知らない人同士が隣に座って、言葉を交わさないまま時間を過ごす話。
「もう次の作品書いてるの?」
「書いていないと不安になるんです。書いている間は結果のことを忘れられます」
「ペンを握ってる間は?」
「ペンのことだけ考えていられます。文字の形。インクの濃さ。紙の手触り。万年筆のペン先が紙に触れる角度。結果の代わりに、ペンが頭を占領してくれます」
「それって逃避?」
「逃避かもしれません。でも逃避の結果、新しい作品が生まれるなら、逃避も創作です。逃避から生まれた作品のほうが、正面から書いた作品より良いこともあります。力が抜けているから」
「力が抜けた文章のほうがいいのか」
「必ずしもではありません。でも待合室の人たちは、力が抜けた状態で隣にいます。それが自然で。自然な文章が書けます」
詩織さんの「待合室」は、結果待ちの不安から生まれた作品だ。不安が創作を生む。逆説的だが、文芸部ではよくあることだ。壮介のカレーうどンも、サッカーを辞めた俺の原稿も、全部何かの不安や喪失から生まれている。書くことは、失ったものを言葉で取り戻す行為なのかもしれない。
凛先輩は次のミステリのプロットを練っていた。ノートに部屋の間取りを描いている。人物の動線。時間軸。犯人の心理。トリックの設計図。コンクールの結果が出る前から次の作品に取りかかっている。
「先輩、もう次のプロット?」
「結果を待っている時間が無駄だ。手を動かしたほうがいい」
「先輩と詩織さんは同じこと言いますね」
「書く人間は皆同じだ。手が止まると不安になる。動かし続ければ不安が消える。原理は単純だ」
先生は部室の隅でソファに座って缶コーヒーを飲んでいた。新学期の授業準備の合間に部室に来ている。
「先生は結果待ちの経験者ですよね。新人賞の」
「ああ。三回やった」
「三回とも待ったんですか」
「待った。毎回地獄だった。一回目は三ヶ月待った。二回目は四ヶ月。三回目は五ヶ月」
「五ヶ月!?」
「新人賞は選考が長い。一次、二次、三次と通過するたびに通知が来る。来なかったら落選。通知が来るたびに"次も来るか?"と祈る。祈りながらポストを見る。壮介と同じだ」
「先生も壮介と同じことを?」
「やった。毎日ポストを見た。三回目の落選の時は、通知が来なかった日に缶コーヒーを八本飲んだ」
「八本!?」
「やけ飲みだ。缶コーヒーでやけ飲みをする人間は珍しいと思うが、俺はやった」
先生の経験談は重い。でも先生は淡々と話す。十五年前のことを。傷は癒えている。癒えた傷の話は、傷が癒える前の話とは違う。痛みの記憶だけが残っている。痛みの記憶は消えないが、痛み自体はもうない。
「結果が出るまでは何も変わらない。だが出た後には全部が変わる。だから今のうちに"変わる前の自分"を楽しんでおけ」
「変わる前」
「入賞しても落選しても、お前たちは変わる。今の不安と期待が入り混じった状態は、結果が出たら消える。この状態を味わえるのは今だけだ」
*
九月の第二週。放課後。
廊下で田中に会った。サッカー部の元チームメイト。秋の大会が近いらしく、ジャージ姿で走っていた。
「朝倉! 元気?」
「元気だよ」
「文芸部、楽しいか?」
「楽しいよ。忙しいけど」
「コンクールに出したんだって? 壮介から聞いた」
「壮介がバラしたのか」
「"陽翔が一万文字書いた!!"って叫んでた。廊下で。声がでかかった」
「あいつのことだからな」
「一万文字ってすごくないか? 俺、夏休みの作文で八百文字が限界だったぞ」
「最初は俺も似たようなもんだったよ」
「マジかよ。今は一万か。文芸部って鍛えられるんだな」
「鍛えられるよ。違う筋肉だけど」
「違う筋肉か。でも鍛えてるのは同じだな。俺たちはグラウンドで、お前は部室で」
「そうだな」
「秋の大会、見に来いよ。応援席で」
「行くよ。壮介も連れていく」
「壮介うるさいからな。応援の声量はチーム全体より上だぞ」
「知ってる。あいつの声量は武器だ」
「頑張れ。結果出たら教えろ」
「ああ。ありがとう。田中も大会頑張れ」
田中が手を振ってグラウンドに走っていった。俺は部室に向かって歩いた。違う方向だ。半年前は同じ方向だった。同じグラウンドに向かって走っていた。今は違う。でもどちらも「走っている」ことは同じだ。田中は足で。俺はペンで。
部室に戻った。窓の外にグラウンドが見える。サッカー部が練習している。以前なら胸が痛んだ光景。今は穏やかに見られる。まだ少しだけ痛む。完全には消えていない。でも「痛い」よりも「頑張れ」のほうが大きい。走っている奴を見て「頑張れ」と思える。それは成長だ。たぶん。
詩織さんが「待合室」を書いている。万年筆の音。サラサラ。図書館で聞いた音と同じだ。凛先輩がプロットを練っている。シャーペンの音。カリカリ。壮介がスマホでポストの写真を撮ろうとしている。先生が「やめろ」と止めている。いつもの風景だ。変わる前の日常。この風景が、結果が出たら変わる。
「結果が出たら、何か変わるんですかね」
詩織さんが万年筆を止めて言った。独り言のように。
「変わるだろ」
凛先輩が答えた。
「入賞すれば自信になる。落選すれば悔しくなる。どちらにしても"結果を知る前の自分"には戻れない」
「戻れない」
「だから今を記録しておけ。千歳、お前の取材ノートに。今の俺たちの顔を。結果を知らない顔を」
詩織さんが万年筆を持ち直した。取材ノートを開いた。新しいページに、今日の日付を書いた。そして書き始めた。何を書いているかは見えない。でもたぶん、今の部室の風景を書いている。壮介がスマホをいじっている姿。凛先輩がノートに図を描いている姿。先生が缶コーヒーを飲んでいる姿。俺が窓の外を見ている姿。全部を。
「来週あたり、届くかもしれないな」
先生が窓の外を見ながら言った。
「届かなかったら——まあ、その時はその時だ」
「その時はその時ですか」
「結果がどうであれ、書き続ければいい。落選しても世界は終わらない。俺が三回落ちた時も、世界は終わらなかった。缶コーヒーを八本飲んで、次の日には新しい原稿を書き始めていた。書く人間は、止まれない。止まったら書く人間じゃなくなる」
「掟の一番目ですね。書け」
「凛が作った掟は良い掟だ。シンプルで、正しい」
窓の外がオレンジ色に染まり始めた。九月の日は短い。夏より早く暗くなる。季節が進んでいる。結果が近づいている。
凛先輩が立ち上がった。
「結果が出たら——全員でここに集まれ。一人で見るな。全員で見る。入賞の通知が届いた者は、開封せずに持ってこい。通知が届かなかった者も来い。全員で同時に確認する。それがルールだ」
「開封せずに持ってくるんですか」
「そうだ。一人で開ける人間がいたら、その場で部誌から名前を消す」
「怖い制裁!」
「冗談だ。だが一人で見るな。いい結果も悪い結果も、全員で受け止める。文芸部はチームだ。個人戦のコンクールだが、俺たちはチームとして出ている。結果もチームとして受け取る」
「はい」
全員が頷いた。壮介が「全員で見る! 約束!」と叫んだ。声がでかい。でも今日は誰もツッコまなかった。全員が同じ気持ちだったからだ。
帰り道。一人で歩いている。空がオレンジから紫に変わっていく。星が一つ、二つ見え始めている。九月の空。夏の終わり。秋の始まり。
手のひらを見た。二週間前にポストに封筒を入れた手。封筒の温度はもう消えている。でも記憶は残っている。砂に書いた文字は消えるが、書いた記憶は消えない。詩織さんが教えてくれたことだ。
結果を待っている。怖い。でも待てる。四人がいるから。五人がいるから。一人じゃないから。壮介のポスト監視に笑える仲間がいるから。詩織さんの万年筆の音が聞こえるから。凛先輩の「ゼロじゃない」がそばにあるから。先生の「その時はその時」が支えてくれるから。
掟の一番目。書け。
待ちながら、書く。結果が出るまで。出た後も。ずっと。俺たちは書く人間だ。結果が怖くても、ポストが空でも、書くことは止まらない。止められない。止める理由がない。書く理由しかない。
明日もポストを見る。壮介が先に見ているかもしれないが。それもまた、文芸部の愉快な日常だ。




