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第44話 提出──ポストに託す四つの封筒

# 提出──ポストに託す四つの封筒


 金曜日。八月最終週。コンクールの締切日。


 朝八時半に部室に集合した。凛先輩が昨日言った通りの時間だ。全員揃っている。夏休みの朝八時半。普通の高校生は寝ている時間だ。でも文芸部は違う。今日は特別な日だ。四ヶ月かけて書いた原稿を、世界に送り出す日。


 ちゃぶ台の上にA4の封筒が四つ並んでいる。白い封筒。凛先輩が昨日のうちに人数分用意していた。封筒の横に原稿が四つ。詩織さんの一万二千文字。凛先輩の八千文字。俺の一万文字。壮介の千二十文字。厚さが全然違う。詩織さんの原稿が一番厚い。壮介の原稿はA4一枚半。薄い。でも四つとも同じちゃぶ台の上に並んでいる。


「最後の確認をする。規定のフォーマットに従え。表紙にペンネーム、タイトル、ページ数、連絡先。全員チェックしろ」


 凛先輩が仕切り始めた。規定の提出フォーマットを印刷した紙を配った。合宿のスケジュール表と同じだ。凛先輩は何でも紙にする。紙にして確認する。ミステリのトリック設計と同じ精度で、事務作業もこなす。


「ペンネームって何にする?」


 壮介が聞いた。今になって。


「本名でいいだろ」


「本名? ペンネームつけなくていいの? カッコいいやつ」


「つけたければつけろ」


「カレーマスター大和!!」


「却下」


「焼肉キング壮介!!」


「却下」


「文芸部のエース!!」


「お前がエースを名乗るな。千二十文字のエースがどこにいる」


「千二十文字でもエースはエースだ!」


「本名にしろ」


「本名か。大和壮介。普通だな」


「普通でいいんだ。名前は普通でいい。作品で勝負しろ」


 詩織さんのペンネームは「千歳しおり」。本名のひらがな表記。柔らかい名前だ。詩織さんらしい。凛先輩は「桐谷凛」。そのまま。飾らない。凛先輩らしい。俺は少し考えて「朝倉陽翔」。本名だ。ペンネームを考える余裕がなかった。原稿を書くだけで精一杯だった。


 先生が横から「お前ら、ペンネームにひねりがないな」と言った。


「先生は応募しないでしょ」


「しないが」


 先生が少し残念そうな顔をした。一瞬だけ。十五年前に新人賞に三回落ちた先生。ペンネームはどうしていたのだろう。聞かなかった。聞かなくていい。先生の過去は先生のものだ。


 原稿を封筒に入れた。糊の匂いがした。工作の授業を思い出す匂いだ。でも今日の糊は工作じゃない。四ヶ月の結晶を閉じ込める糊だ。封筒の中に原稿を滑り込ませる。俺の一万文字。A4で十数枚。紙の束が封筒の中に消えていく。


 詩織さんが自分の原稿を封筒に入れる時、万年筆のキャップを一度外して、また閉じた。原稿にもう一度だけ触れたかったのかもしれない。最後のページの最後の一行を指先で撫でた。「取材」と呟いた。何の取材だろう。詩織さんの中で、この原稿は取材の記録なのかもしれない。


 壮介が封筒に原稿を入れる時、手が震えていた。A4一枚半。千二十文字。他の三人の原稿と比べると圧倒的に薄い。詩織さんの原稿の十分の一以下の厚さだ。でも壮介はその薄い原稿を、両手で丁寧に封筒に入れた。いつもバサバサとリュックに物を突っ込む男が、千二十文字だけは丁寧に扱っている。


 封を糊付けした。べたっとした感触。四つの封筒が閉じられた。もう開けられない。中身はもう見えない。最後のページに書いた一行。「走り続けるには、隣にいる人が必要だった」。あの一行が封筒の闇の中にある。もう触れない。もう直せない。完成したものを手放す瞬間。手元から離す瞬間。四ヶ月間ずっと手元にあったものが、今日、手を離れる。


 詩織さんが自分の封筒を胸に抱えた。大事そうに。万年筆を握る時と同じ手つきだ。一万二千文字を胸に抱いている。壮介が封筒を両手で持っている。いつもの雑さがない。千二十文字を丁寧に持っている。凛先輩が封筒を脇に挟んだ。表情は変わらない。でも封筒を持つ手に力が入っている。


「行くぞ」



    *



 郵便局への道。学校から十五分。五人で歩いている。


 八月の日差し。蝉の声。アスファルトが光っている。暑い。でも封筒を持つ手は冷たい。緊張で血が引いている。四つの封筒が四人の手の中にある。先生は手ぶらだ。缶コーヒーを持っている。見届け役だ。先生は応募しない。でも五人目として歩いている。先生がいるだけで安心する。十五年前にこの道を歩いたのかもしれない。新人賞の原稿を持って。同じ道を。


 壮介が封筒を大事そうに持っている。胸の前で。落とさないように。汗で封筒が濡れないようにハンカチで手を拭いている。壮介がハンカチを使うのは合宿の帰り以来二回目だ。


 詩織さんが封筒を胸に抱えている。万年筆をもう片方の手で握っている。書く道具と送り出す道具を同時に持っている。書くことと送り出すことは繋がっている。書いたから送り出す。送り出すから書く意味がある。


 凛先輩が封筒を脇に挟んで真っ直ぐ前を見て歩いている。歩く速度がいつもより速い。早く着きたいのか。緊張を歩く速度に変換しているのか。


「なあ、なんか緊張してきた」


「書いてる時は平気だったのにな」


「書いてる時は自分の中にあるから安心なんだよ。でもこれ出したら知らない人が読むんだろ? 知らない大人が俺の千二十文字を読む。"一人になるのが怖い"を読む」


「怖いか?」


「怖い。すげえ怖い。昨日部室で書いた時は四人の前だった。四人は味方だ。でもコンクールの審査員は味方じゃない。知らない人だ」


 凛先輩が歩きながら言った。


「怖くて当然だ。自分の言葉を他人に見せるのは心臓を差し出すのと同じだ」


「先輩も怖いですか」


「怖い。トリックが機能するか不安だ。壮介が五秒で解いた穴を、審査員が見つけないか不安だ。出した後には直せない。怖くて当然だ。だが出さなければ永遠に自分の中で閉じたまま。出して初めて作品になる」


「原稿と作品は違うのか」


「違う。原稿は書いた人のもの。作品は読む人のもの。ポストはその境界線だ」


 ポストは境界線だ。入れた瞬間に俺の言葉は俺のものじゃなくなる。知らない審査員の目に触れる。評価される。採点される。怖い。でも出す。出さなければ始まらない。



    *



 郵便局。


 書留扱いにした。確実に届くように。凛先輩が受付で手続きを仕切った。控えをもらった。事務的な作業だ。でも手が震えた。


 赤いポストの前に立った。普通の郵便ポストだ。手紙やはがきが入るただの鉄の箱だ。でも今日のポストは特別な箱だ。俺たちの四ヶ月が入る箱。


「一人ずつ投函する。順番は書き始めた順だ。最初に書き始めたのは千歳。次に俺。次に朝倉。最後に壮介」


 詩織さんが一歩前に出た。封筒を持っている。指先が震えている。万年筆を握る時の安定した手とは違う。送り出す手だ。


 ポストの口に封筒を入れた。一万二千文字。嘘がつけない詩織さんの、嘘のない文章。指先が封筒の端を撫でた。最後の接触。手を離した。封筒が滑り落ちた。小さな音。ポストの中に消えた。


 詩織さんが振り返った。目が潤んでいた。でも笑った。


「行きました」


 凛先輩の番。封筒をポストに入れる動作が正確で迷いがない。ミステリのトリックを解く時の正確さだ。投函後、「よし」と短く呟いた。だが右手が一瞬握り締められた。緊張していた。見せないだけ。凛先輩はいつもそうだ。感情を拳の中に隠す。


 俺の番。


 封筒を持った。重い。一万文字。四ヶ月分の文芸部。サッカーの記憶。走ることへの想い。走れなくなった痛み。書くことを見つけた喜び。「丸いボールから四角い原稿用紙に」。合宿の海。朝焼けの砂浜。詩織さんの取材ノート。壮介の千二十文字。凛先輩のトリック。先生の「中盤型」。全部が詰まった封筒。この封筒は俺の四ヶ月そのものだ。四月の灰色の放課後から、八月のオレンジ色の夕暮れまで。全部がこの中にある。


 ポストの前に立った。赤い鉄の箱。口が開いている。封筒を受け入れる準備ができている。俺が入れるのを待っている。


 ポストの口に入れた。手を離した。重力に引かれて封筒が落ちた。小さな音。金属の中で紙が着地する音。カサッ。もう戻ってこない。俺の一万文字がポストの闇の中に消えた。


 手のひらを見た。封筒がなくなった手が軽い。同時に寂しい。四ヶ月間手元にあったものが消えた。でも手のひらは空じゃない。封筒の温度が残っている。握っていた時の温度。八月の体温。すぐに消える。でも今はまだ残っている。


 壮介の番。


 封筒を持って固まっている。ポストの前で。赤い鉄の箱の前で。壮介の手が震えている。封筒が震えている。千二十文字が震えている。


「いいの? 千二十文字だよ?」


「出せ」


「プロの人は何万文字も書くんだろ? 千二十文字で出していいのか? 審査員に笑われないか?」


「笑う審査員はいない。千二十文字でも一文字でも、書いて出したものには敬意を払う。それが審査員だ」


「本当に?」


「本当だ。お前の千二十文字には"一人になるのが怖い"がある。あの一文は何万文字にも負けない。昨日お前が部室で泣きながら書いたあの一文は、お前だけの言葉だ。誰にも真似できない。出せ」


「先輩」


「出せ。壮介。お前の夏を世界に送り出せ」


 壮介が深呼吸した。大きく息を吸って。吐いて。もう一回吸って。目を閉じた。三秒。開けた。目が潤んでいた。でも泣いていなかった。今日は泣かない。今日は送り出す日だ。泣く日じゃない。


 ポストに入れた。


「出した!!」


 壮介が叫んだ。郵便局の前で。全力で。声量三百パーセント。声が空に吸い込まれていった。郵便局員が窓から顔を出した。通行人が振り返った。犬が吠えた。鳩が飛んだ。壮介の声は半径五十メートルに影響を与えた。


「郵便局で叫ぶな」


「我慢できなかった!! 千二十文字が飛んでいった!! 俺の夏が!!」


「ポストに入っただけだ。飛んではいない」


「心が飛んだ!!」


「心は飛ばすものじゃない」


「飛んだ!! 俺の心がポストの中に!!」


 四通の封筒がポストの中にある。詩織さんの一万二千文字。凛先輩の八千文字。俺の一万文字。壮介の千二十文字。合計三万千二十文字が同じ赤いポストの闇の中で重なっている。



    *



 郵便局の前。全員がベンチに座っている。先生がコンビニからアイスを五本買ってきた。いつの間に行っていたのか。先生のコンビニ捕捉能力は異常だ。半径百メートル以内のコンビニを即座に発見する。缶コーヒーとアイスのための嗅覚だ。


「打ち上げだ」


 全員がアイスを受け取った。壮介はガリガリ君。凛先輩はバニラバー。詩織さんはあずきバー。先生はアイスコーヒー(アイスじゃなくてコーヒー)。俺はスポーツドリンク味のアイス。走った後に食べるやつだ。千百文字を走り切った後のアイス。


 アイスを食べた。汗と安堵と不安が混じった味。冷たくて甘い。少ししょっぱい。汗の味だ。八月の午後。日陰のベンチ。五人で並んで座っている。合宿の砂浜で五人で並んで座った時と似ている。あの時は花火の後だった。今日はポストの後だ。


「なんか、スッキリしたけどモヤモヤする」


 壮介が言った。


「提出後症候群だ。出した後は不安になる。ここを直せばよかった、あの表現は正しかったか、誤字はなかったか。"あの比喩は伝わるか" "ラストの着地は自然か" "中盤のテンポは本当に改善されたか"。全部が後から押し寄せてくる」


「先輩も不安なの!?」


「当然だ。トリックが機能するか。壮介が五秒で塞いだ穴が本当に塞がっているか。千歳の言う通り感情を入れたが入れすぎていないか。全部不安だ。でも出した以上はもう修正できない。あとは結果を待つだけだ」


「待つだけ」


「待つだけだ。ここからは俺たちの手を離れた。審査員の仕事だ」


「結果っていつ出るんですか」


「九月末にウェブで発表。入賞者のみ事前に郵送通知が届く」


「郵送通知!」


 壮介の目が光った。ポスト監視の本能が目覚めた瞬間だった。


「一ヶ月も待つの!?」


「一ヶ月を長いと思うか短いと思うかは、原稿に自信があるかどうかで変わる」


「長い。自信がない。毎日ポスト見る」


「毎日見ても届く日は変わらないぞ」


「でも見る! 見ないと不安!」


 壮介のポスト監視宣言が出た。これから一ヶ月、壮介はポストを見続けるだろう。毎日。朝も夜も。壮介らしい。結果の待ち方も壮介だ。


 先生がアイスを食べながら言った。


「結果が出るまでは何も変わらない。だが出た後には全部が変わる。だから今のうちに"変わる前の自分"を楽しんでおけ」


「変わる前の自分」


「入賞しても落選しても、お前たちは変わる。結果を知った後の自分は、今の自分とは別人だ。今の不安と期待が入り混じった状態は、結果が出たら消える。この状態を味わえるのは今だけだ」


 先生の言葉が重い。経験者の言葉だ。三回落ちた人の言葉だ。結果を待つ不安を知っている人の言葉。


 壮介がアイスを一気に食べた。「頭がキーンてなった!!」と叫んだ。郵便局の前で二回目の叫び声。同じ職員が窓から顔を出した。呆れた顔だった。



    *



 帰り道。凛先輩と先生が先に帰った。壮介が「じゃあまた!」と走っていった。


 俺と詩織さんが残った。いつもの帰り道。図書館に通い始めてから、この帰り道を何回歩いただろう。十回は超えている。いつも同じ道。いつも同じ二人。でも毎回少しずつ違う。季節が変わり、話す内容が変わり、二人の距離が変わる。今日は封筒を出した後の帰り道だ。手ぶらだ。封筒を持っていない。代わりに安堵と不安を持っている。


「出しましたね」


「出したな」


「手が軽いです。封筒一枚分しか減ってないのに、すごく軽い」


「分かる。四ヶ月分の重さが消えた感じだ」


「朝倉くんの原稿、届きますよね」


「届くよ。審査員の手元まで。その先は分からない。入賞するか落選するかは」


「届けば十分です。読んでもらえれば。朝倉くんの"走り続けるには、隣にいる人が必要だった"が、知らない誰かの目に触れる。それだけで価値がある」


「詩織さんのもな。一万二千文字が誰かの目に触れる」


「結果が怖いです」


「俺もだ。でも出した。出したことに後悔はない」


「はい。書き切ったことが嬉しいです。結果はどうであれ、書き切った事実は消えません」


「詩織さんは一万二千文字だろ」


「はい。でも朝倉くんの一万文字のほうが、私にとっては大事です」


「俺のほうが?」


「朝倉くんが書き切った。ラストの千百文字を。リライト地獄を抜けて。私と一緒に作った構成で。それが嬉しいんです」


「詩織さんのおかげだよ。一人じゃ書けなかった」


「一人じゃなかったから書けた。朝倉くんの原稿のラストの一行と同じです」


「"走り続けるには、隣にいる人が必要だった"」


「はい。その一行が、今ポストの中にあります」


 分かれ道。詩織さんが右。俺が左。いつもの分岐点。


「また来週」


「はい。二学期が始まりますね。結果が出るまで、何を書きましょうか」


「何を書こうか。もう次を考えてるのか」


「書いていないと不安ですから。掟の一番目です。書け」


「詩織さんは本当に書くことが好きだな」


「好きです。でも書くことだけじゃなく、朝倉くんと一緒に書く時間が好きです。図書館で。部室で。隣に座って、ペンケースを境界線にして」


「ペンケースの境界線」


「あの境界線の向こう側に、朝倉くんの一万文字がありました。今はポストの中ですけど」


「ポストの中だな。遠いところに行った」


「でも朝倉くんの中にもあります。書いた言葉は、ポストに入れても書いた人の中に残ります。消えません」


 詩織さんが笑った。手を振った。角を曲がった。見えなくなった。


 一人になった。家に向かって歩いている。手のひらが軽い。封筒がなくなった手のひら。四ヶ月間握っていたペンの跡がまだ指に残っている。ペンだこだ。文芸部に入る前にはなかったもの。サッカーの時は膝にテーピングがあった。今は指にペンだこがある。走る場所が変わった証拠だ。走る道具が変わった証拠だ。ボールからペンへ。グラウンドから原稿用紙へ。でも走っていることは同じだ。


 今日、俺は生まれて初めて自分の言葉を世界に送り出した。一万文字。知らない誰かがそれを読む。怖い。でも嬉しい。俺の文章が俺の手を離れて、どこかの誰かの目に触れる。それだけで書いた意味がある。


 四月のことを思い出した。膝を壊して、灰色の放課後を過ごしていた。霧島先生に引きずられて文芸部に入った。プリン消失事件を解決した。壮介と一緒にカレーうどンを食べた。詩織さんの万年筆の音を聞いた。凛先輩に掟を教わった。図書館で文体を見つけた。花火の夜に言えなかった一言がある。合宿で海を見た。砂浜で一行を見つけた。リライト地獄を抜けた。壮介が千二十文字の本音を書いた。凛先輩のトリックが完成した。そして今日、ポストに入れた。全部が繋がっている。一万文字の中に全部がある。


 空がオレンジ色だ。八月の夕暮れ。夏の終わりが近い。蝉の声が少し弱くなっている。代わりにトンボが飛んでいる。秋が近づいている。結果は九月末。一ヶ月後。夏が終わって秋が来て、その秋の終わりに結果が出る。長い一ヶ月になるだろう。壮介の毎日の恒例ポスト巡りが始まるだろう。


 俺は書く。結果がどうであれ、次の作品を。掟の一番目。書け。だから書く。結果を待ちながら。ポストに入れた手で、新しいペンを握る。新しい原稿用紙の白い上を走る。

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