第42話 締切48時間前のパニック
# 締切48時間前のパニック
締切まで四十八時間。
水曜日の放課後。部室。凛先輩がホワイトボードのカウントダウンを「2」に書き換えた。赤い数字の「2」。二日。残り二日で全員の原稿が揃わなければ、金曜日の投函に間に合わない。ホワイトボードの掟の横に、赤い「2」が光っている。掟の一番目「書け」。残り二日で全員が書き切れるのか。
窓の外は八月の午後だ。蝉が鳴いている。グラウンドではサッカー部が練習している。夏の空気が窓から入ってくる。でも部室の空気は重い。締切の重さだ。この重さは合宿では感じなかった。かもめ荘には締切がなかった。帰ってきて初めて、時間の重さを知った。
「全員、状況報告」
凛先輩がちゃぶ台の前に座った。腕を組んでいる。目が鋭い。
詩織さんが最初に報告した。「完成済みです。推敲も終わりました」。万年筆のキャップを閉じたまま報告している。書く必要がない。完成している人の余裕だ。凛先輩が頷いた。
凛先輩の番。「俺は八割。トリックの穴がまだ塞がらない。窓の問題だ。犯人の脱出ルートが物理的に矛盾している。直そうとすると別の場所が壊れる。ドミノ倒しだ。明日中に何とかする」。凛先輩の目が充血している。寝不足だ。二週間格闘している。完璧主義の凛先輩がトリックの穴に食いつかれている。
俺の番。「八千九百文字です。昨日五百文字削りました。構成は見えてます。千百文字分の道筋は詩織さんと作りました。でもまだ言葉にできてない」
「締切は明後日だ」
「分かってます。明日中に必ず書きます」
「書け。お前の原稿は方向が見えている。あとは手を動かすだけだ。中盤型のお前なら書ける。信じろ」
凛先輩が「信じろ」と言った。珍しい言葉だ。この人は論理で話す人だ。「信じろ」は論理ではなく感情の言葉だ。締切四十八時間前の凛先輩は、普段より少しだけ人間味がある。
三人が報告を終えた。俺と凛先輩は未完成。詩織さんだけが完成済み。四人のうち三人がまだ終わっていない。締切まで四十八時間。時間はある。でも余裕はない。
全員が壮介を見た。
壮介がちゃぶ台に突っ伏していた。額を畳にくっつけている。いつもなら「腹減った!」と叫ぶ時間だ。声が出ていない。壮介が黙っている。この男が黙っている時は、本当に追い詰められている時だ。カレーうどンの話すらしない。壮介がカレーうどンの話をしない日は、年に数えるほどしかないはずだ。
「壮介。報告しろ」
「九百五十文字」
「合宿から一文字も増えていないのか」
「増えてない」
声が小さかった。壮介の声が小さい。普段の三分の一くらいの音量だ。異常事態だ。壮介の声量バロメーターで言えば、赤信号だ。
「何があった」
「毎日書こうとしてるんだよ。家に帰って、机に向かって、ノートを開いて、ペンを持って。"文芸部にいる理由"を書こうとする。先輩が合評会で"本音を書け"って言ったから。本音を書こうとする。手が動かない。頭では分かってる。書きたいことは分かってる。でも文字にならない。文字にしようとすると恥ずかしくなって、顔が熱くなって、ペンを置いてしまう。毎日それの繰り返し。二週間ずっと。二週間で一文字も増えてない」
壮介の声が震えていた。この男の声が震えるのは珍しい。いつも真っ直ぐだ。叫ぶ時も泣く時も笑う時も。でも今日は震えている。
「あと五十文字で千に届くんだろ。たった五十文字だ」
「"たった"じゃないんだよ! この五十文字が俺にとっては富士山なんだ! 頂上が見えてるのに足が動かない!」
「なぜ動かない。カレーうどンのことなら何文字でも書けるだろう」
「カレーうどンは恥ずかしくない! カレーうどンは俺の魂だ! でも本音は違う! 本音を書くのは裸で校庭に立つのと同じだ!」
「裸で校庭」
「恥ずかしい! 死ぬ! 恥ずかしさで死ぬ!」
壮介が立ち上がった。目が赤い。寝不足だ。毎晩ノートと向き合って、毎晩一文字も書けずに朝を迎えていたのだろう。壮介もリライト地獄にいたのだ。俺と同じだ。千百文字の壁と五十文字の壁。高さは違うが壁は壁だ。壮介にとっての五十文字は、俺にとっての千百文字と同じ重さがある。
*
凛先輩が立ち上がった。ホワイトボードの前に立った。マーカーを持った。
「全員で壮介を支援する。緊急体制だ」
「緊急体制!?」
「締切まで四十八時間。壮介の五十文字が書けなければ、四人で投函になる。壮介だけ出せない。それは認めない。全員で出す。五人で出す。壮介を置いていかない」
凛先輩がホワイトボードに「壮介支援作戦」と書いた。マーカーの音。キュッキュッ。掟の横に作戦名が並ぶ。
「先輩」
「千歳。壮介のこれまでの原稿を読んで、良い部分を具体的に指摘しろ。壮介に自信をつけさせろ。壮介は自分の文章を全部ダメだと思い込んでいる。それは間違いだ。良い部分はある。お前の目で見つけてやれ」
「分かりました」
「朝倉。壮介の隣にいろ。書く時に一人にさせるな。お前は壮介の一番の親友だ。親友が隣にいれば壮介は書ける」
「了解」
「霧島先生。壮介が書いた瞬間に文法を直してやってください。壮介の文法は壊滅的です。でも今は直さなくていい。書かせることが先です。書いた後に直してください」
「了解した。書かせてから直す。順番は大事だ」
「俺は壮介に構成を教える。五十文字の構成だ。短くても構成はある。本音を言う前にワンクッション置く。"本当のことを言う"と前置きしてから本音を書く。それだけで読者が心の準備をできる」
四人が壮介を囲んだ。ちゃぶ台の四方に座った。壮介が真ん中。四人が壁になった。閉じ込める壁じゃない。支える壁だ。壮介が転んでも受け止める壁だ。
「壮介、怖がるな。俺たちがいる」
「陽翔」
「一人で書かなくていい。俺たちが横にいる。恥ずかしかったら目を閉じろ。目を閉じて、声に出せ。声に出した言葉をそのまま書け」
詩織さんが壮介の原稿を読み返していた。九百五十文字。万年筆で余白にメモを書いている。
「壮介くん。あなたの原稿で一番良い部分、分かりますか」
「分からない。全部ダメだと思ってる。九百五十文字全部。一文字残らずダメだと思ってる」
「それは間違いです」
詩織さんが万年筆で壮介の原稿の一行に線を引いた。
「"五人で食うカレーのほうが美味い"。この一文です。この一文にはあなたの全部が入っています。技術ではなく実感。体験した人にしか書けない言葉です。私が一万二千文字で書こうとしていることを、壮介くんはこの一文で書いています」
「詩織ちゃん。俺の一文が?」
「はい。この一文は本物です。嘘がない。壮介くんが本当に感じたことが、そのまま文字になっている。合宿の夜にカレーを食べた時の顔を覚えています。あの顔がこの一文に入っています」
「あの顔」
「みんなと一緒に食べて、嬉しそうだった顔です。あの嬉しさの理由が、五十文字の答えです」
「嬉しさの理由」
「"なぜ五人で食うと美味いのか"。その答えを書いてください。それが壮介くんの本音です」
壮介が黙った。考えている。なぜ五人で食うカレーは美味いのか。カレーの味は同じだ。同じ鍋で作ったカレーだ。一人で食べても五人で食べても、カレーの味は変わらない。でも美味さが違う。なぜ?
答えは壮介の中にある。二週間ずっとあった。書けなかっただけだ。恥ずかしくて文字にできなかっただけだ。答えは「一人になるのが怖い」。五人で食うカレーが美味いのは、一人じゃないからだ。
凛先輩が言った。「壮介。今から書け。ここで。全員の前で。声に出しながら」
「全員の前で!?」
「お前は声で書く人間だ。ペンの前に声がある。声を出せ。口から出た言葉をそのまま紙に叩きつけろ。推敲するな。考えるな」
「恥ずかしいんだよ!」
「知ってる。恥ずかしくて当然だ。でも文芸部はそういう場所だ。裸を見せ合える場所だ。お前が裸になっても、俺たちは笑わない。ここで書け。今」
壮介がノートを開いた。ボールペンを握った。手が震えている。四人が見ている。凛先輩がソファの端に。詩織さんがちゃぶ台の向かいに。先生が窓際に。俺が壮介の隣に。
四人の視線の中で書く。朗読会とは違う。朗読会は書いたものを読むだけだった。今は書くところを見せる。言葉が生まれる瞬間を四人に見せる。壮介にとって、これは人生で一番恥ずかしい瞬間かもしれない。
壮介が深呼吸した。目を閉じた。五秒。十秒。唇が動いた。音にならない言葉が唇を通過している。壮介の中で言葉が形を探している。二週間書けなかった言葉が、今、壮介の中で暴れている。出たがっている。でも出口が見つからない。
俺は壮介の隣に座っている。黙って。何も言わない。言葉が出るのを待つ。詩織さんが俺の原稿を読む時、俺が隣で待ったように。並走とは、隣にいて待つことだ。
壮介が目を開けた。ボールペンを握り直した。
「"本当のことを言う"」
声が小さい。壮介が小声になるのは本気の証拠だ。声量が下がれば下がるほど壮介の言葉は重くなる。
「"俺は一人になるのが怖い"」
一文が部室に落ちた。重い一文だ。九百五十文字のどこにもなかった言葉。カレーうどンの向こう側にあった言葉。壮介が文芸部にいる本当の理由。カレーうどンが好きだから入ったんじゃない。一人になりたくなかったから入ったのだ。カレーうどンは口実だった。本当の理由は「一人が怖い」だった。
「"文芸部がなくなったら、俺はまた一人だ。中学の時は友達が少なかった。休み時間も一人で焼肉の雑誌を読んでた。話す相手がいなかった。誰かと一緒にご飯を食べたかった。でも誘えなかった。声がでかいから、近づくと人が引いた"」
壮介の声がでかいのは、友達がいなかったからだ。声をでかくしないと聞いてもらえないと思っていたからだ。声がでかすぎて人が引く。引かれるからもっと大きい声を出す。悪循環だ。壮介の声量の裏に、孤独があった。
「"高校に入って陽翔がいて、詩織ちゃんがいて、凛先輩がいて、先生がいて。五人で部室にいる時間が、俺の一日で一番好きな時間だ"」
声が震えている。でも止まらない。ペンが止まらない。声が止まらない。堰を切ったように言葉が出てくる。二週間書けなかった言葉が、四人の前で一気に溢れている。壮介のボールペンが紙の上を走っている。ガタガタの字で。でもスピードがある。壮介は走っている。ペンで走っている。カレーうどンの国を走っていたメロスのように。でも今回は友達のためじゃない。自分のために走っている。自分の本音を、自分の手で、紙の上に走らせている。
「"カレーうどンより好きだ。それが本音だ"」
カレーうどンより好きだ。壮介が世界で一番好きなカレーうどンより、文芸部が好きだ。この一文が千二十文字の全体を照らしている。九百五十文字のカレーうどンの話は、この一文のための助走だったのだ。全部が繋がった。壮介の文章に心臓が入った。
「"俺の初めての短編小説、終わり"」
千二十文字。壮介がペンを置いた。手が震えていた。顔が赤かった。最後の数行は声にならなかった。唇が動いていたが音がなかった。でも文字にはなった。ガタガタの字で。本音がガタガタの字で紙の上にある。
*
沈黙。部室が静かだ。蝉の声が遠くに聞こえる。エアコンの音。壮介の呼吸。
凛先輩が原稿を手に取った。読んだ。三十秒。長い三十秒だった。
「壮介。千二十文字、確認した。完成だ」
「完成?」
「完成だ。お前の原稿は本音で書かれている。技術はない。構成もない。起承転結もない。だが本音がある。"一人になるのが怖い"。その一文は、お前にしか書けない。千二十文字の中で、あの一文が一番強い」
壮介の目が潤んだ。
「先輩」
「泣くな。掟の四番目だ」
「泣いてない! 汗だ! 八月だから!」
「八月だからな。汗は出る」
凛先輩が少しだけ笑った。壮介の涙を「汗」として受け入れた。
詩織さんが万年筆を握ったまま泣いていた。声を出さずに。
「壮介くん。あなたの千二十文字は、技術じゃなく本音の重さで読む人の胸を掴みます」
「詩織ちゃん!?」
「"カレーうどンより好きだ"。壮介くんがそれを書いた。カレーうどンが世界一だと言い続けた壮介くんが、それより好きなものを見つけた。その発見が千二十文字目に入っている。すごいことです」
先生が缶コーヒーを置いた。立ち上がった。壮介の前に来た。
「壮介。お前は千二十文字で人を泣かせた。それは才能だ。文法は壊滅的だ。赤入れは俺がやる。だが本音で書く力は、教えて身につくものじゃない。お前は持っている」
「先生!!」
壮介が声を上げて泣いた。もう汗とは言い張れない量だ。声が部室に響いた。ホワイトボードの「泣くな」が見えている。掟の四番目。でも今日は特別だ。千二十文字の本音を書いた日は泣いてもいい。凛先輩が何も言わなかった。壮介が泣くのを黙って見ていた。詩織さんも泣いていた。先生が缶コーヒーを飲みながら窓の外を見ていた。先生の横顔が、少しだけ柔らかかった。先生も十五年前に本音を書いたことがあるのだろう。書いて、泣いて、また書いて。
壮介が泣き止むまで十分かかった。鼻をすすって、目をこすって、「すみません」と小さく言った。小さく。壮介が小さく謝ったのは初めて見た。いつもは叫ぶ男が、小さく謝った。本音を書いた後の壮介は少しだけ違う壮介だ。でもすぐに元に戻るだろう。壮介は壮介だから。
「謝るな。書いた。それだけだ。それだけでいい」
凛先輩が言った。短い。でもその短さの中に全部がある。凛先輩の言葉は凛先輩のミステリと同じだ。短い文の中に全てを詰め込む。無駄がない。一文で心臓を掴む。
「残りは俺と朝倉だ。俺のトリックと、朝倉のラスト千百文字。明日中に仕上げる。壮介は完成した。壮介、よくやった」
「先輩が"よくやった"って言った!」
「一回しか言わないからな」
「一回で十分です!!」
壮介の声量が戻った。完全復活だ。泣いた後の壮介は、泣く前の壮介より少しだけ声がでかい。感情を出し切った後の開放感だろう。壮介の声は部室の空気清浄機だ。重い空気を一瞬で吹き飛ばす。
窓の外が夕暮れに染まっている。壮介の千二十文字が完成した。残りは俺と凛先輩。明日、二人とも仕上げる。明後日、全員で投函する。
「帰るぞ。壮介、封筒は持ってるか」
「持ってない!」
「明日までに買え。A4の封筒だ」
「A4! 了解!」
部室を出た。夕暮れの廊下。壮介の目がまだ赤い。でも笑っている。
「壮介」
「ん?」
「千二十文字、良かったよ。"カレーうどンより好きだ"は、お前にしか書けない一文だ」
「陽翔」
「お前がカレーうどンより好きなものを見つけたってことは、お前の人生で一番大事なことが変わったってことだ。それを千二十文字で書いた。すごいよ」
「すごいか?」
「すごい。胸張れ」
壮介が胸を張った。物理的に。背筋を伸ばして。リュックを背負い直して。千二十文字の本音を書いた男の姿勢だ。
「でも陽翔。お前はまだだろ」
「ああ。千百文字が残ってる」
「書けるよ。お前なら」
「なんで分かる」
「分かるよ。俺が五十文字で泣いてる横で、お前はずっと俺の隣にいてくれた。お前は隣にいる力がある人間だ。お前の原稿のラストの一行、"隣にいる人が必要だった"だろ? その一行を書ける人間は、書ける。俺が保証する」
「壮介が保証するのか」
「千二十文字の男が保証する! 自信を持て!」
壮介のロジックはめちゃくちゃだ。千二十文字の男に保証される千百文字。でも壮介の声は真っ直ぐだ。真っ直ぐな声で「書ける」と言われると、書ける気がする。不思議だ。壮介の声には、論理を超えた説得力がある。
「千二十文字の男、大和壮介!!」
壮介が叫んだ。廊下に響いた。隣の教室から「うるさい!」と声が聞こえた。壮介が「すみません!」と叫んだ。さらにうるさくなった。いつもの壮介だ。本音を書いても壮介は壮介だ。声がでかい。元気。カレーうどンが好き。一人が怖い。全部が壮介だ。
校門を出た。夕暮れの空。五人で並んで歩いている。壮介が真ん中。いつも通りだ。壮介はいつも真ん中にいる。声がでかいから自然と中心になる。
明日、俺は千百文字を書く。凛先輩はトリックの穴を塞ぐ。壮介はもう完成している。詩織さんも完成している。先生は赤ペンを握って待っている。残りは二人。明日が勝負だ。
壮介の千二十文字が、俺の背中を押している。壮介が本音を書けたのなら、俺もラストの千百文字を書けるはずだ。壮介が富士山を登ったのなら、俺のゴール前のスプリントくらい走れるはずだ。明日の部室で、凛先輩のトリックが完成するのを見届けながら、俺も書く。
「一人になるのが怖い」。壮介の本音。俺は壮介に同意する。一人は怖い。一人じゃ書けない。一人じゃ走れない。だから文芸部がある。だから隣に人がいる。壮介がカレーうどンを超える言葉で教えてくれた。文芸部が一番好きだと。一人は怖いと。だから一緒にいると。
明日、書く。千百文字。ゴールまで。壮介が見せてくれた勇気を胸に。凛先輩のトリックが完成するのを横で見ながら。全員が揃う日まで、あと一日。あと丸一日、二十四時間ある。掟の一番目。書け。明日、全員が書き切る。金曜日に全員でポストの前に立つ。四つの封筒を持って。五人全員で。




