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第41話 原稿、完成(のはずだった)

# 原稿、完成のはずだった


 合宿から一週間が経った。八月の第三週。コンクールの締切まであと十日。部室に全員が集合した。凛先輩がホワイトボードに「コンクール締切まで10日」と赤い字で書いている。


 久しぶりの部室は少しだけ埃っぽかった。一週間留守にしていたからだ。合宿の間、この六畳の畳は無人だった。ちゃぶ台の上に凛先輩が合宿前に置いた部誌の草案が残っている。本棚の本は増えていない。ソファの凹みは健在だ。ホワイトボードの掟も消えていない。全部が待っていてくれた。帰ってきた。ここに。


 でも今日はのんびり帰還を喜んでいる場合ではない。十日しかない。


「全員、進捗を報告しろ」


 凛先輩がちゃぶ台の前に座った。ソファではなく畳。部長モードだ。


 詩織さんが最初に報告した。「推敲完了しました。ラスト三行を書き直して、三回通して読み直しました。完成です」。凛先輩が「千歳は問題ない」と頷いた。


 凛先輩の番。「俺は九割完成。トリックの微調整のみ。ただし穴を塞いだと思ったら別の場所に穴が空く。窓のサイズを変えると時系列が矛盾する。時系列を直すと証拠が崩れる。モグラ叩きだ」。目が充血している。寝不足だろう。


 壮介の番。「九百五十文字! 合宿と同じ!」


「一週間で増えてないのか」


「帰ってから一回書いたんだけど、読み返したら恥ずかしくなって消した!」


「消すな! 書いたものは消すな!」


「先輩、恥ずかしかったんだよ! 本音を書こうとしたら顔が赤くなって! お前が文芸部にいる理由を書けって先輩が言ったから書こうとしたけど、書いた文字を見たら恥ずかしくて全部消した!」


 壮介が本音を書こうとして失敗していた。カレーうどンの「うまい」は書ける。でもその向こう側にある感情は、文字にすると顔が赤くなる。壮介にとって本音を書くのは、裸で外に出るのと同じくらい恥ずかしいことなのだ。カレーうどンの国のメロスは書ける。でも「なぜ文芸部にいるのか」は書けない。技術の問題ではなく、勇気の問題だ。


「千文字まであと五十。締切までに必ず書け。本音を。顔が赤くなっても」


「赤くなっても書く! たぶん!」


「たぶんを取れ」


「書く!」


 壮介が拳を握った。いつもの勢いだ。でも目が少しだけ不安を含んでいる。本音は怖い。壮介でさえ怖い。声がでかくて怖いものなしに見える壮介でも、自分の本音を文字にするのは怖い。


 俺の番だ。


「九千四百文字。合宿から変わってないです」


 凛先輩の目が鋭くなった。


「一週間で一文字も増えていないのか」


「正確には書いては消してを繰り返してます。中盤二千文字を丸ごと書き直そうとして、毎日三時間書いて毎日三時間分を消してます。七日間。合計二十一時間。結果ゼロ。いや、ゼロどころかマイナスです。書き直すたびに前の版より悪くなる。もう何が良くて何が悪いのか分からない」


「リライト地獄か」


「地獄です。自分の文章が全部同じに見えます。良い文も悪い文も区別がつかない」


 凛先輩が腕を組んだ。「中盤型の弱点だ。中盤が強い人間は中盤をいじると全体のバランスが崩れる。エンジンを分解して組み直すのは危険だ。直し方を変えろ」


「どう変えればいいんですか」


「削れ。書き直すな。削るだけだ。弱い五百文字を特定して削る。残った千五百文字はそのまま残せ。書き直すと文体が変わる。同じ作家が二回同じ文章を書くと、二回目は必ず違うものになる。それが悪いわけじゃないが、前後の文体と合わなくなる。削るだけなら文体は変わらない。外科手術だ。悪い部分を切除する。新しい臓器を入れ替えるんじゃない。悪い部分を取り除くだけだ」


「削るだけか。書き直さなくていいのか」


「いい。お前はこの一週間、書き直すことしか考えていなかった。だから地獄から出られない。書き直すのではなく削る。引き算だ。足し算じゃなく引き算で原稿を良くする」


 引き算。その発想がなかった。俺はずっと足し算をしていた。新しい文章を書いて、古い文章と入れ替えようとしていた。でも入れ替えるたびに前後の繋がりが壊れた。引き算なら繋がりは壊れない。悪い部分を取り除くだけだ。残った部分は自然に繋がる。


 先生が缶コーヒーを飲みながら口を挟んだ。


「朝倉。中盤型の人間がリライトで苦しむのは当然だ。自分の一番強い部分をいじっているからだ。右利きの人間が右手を怪我したようなものだ」


「先生もリライトで苦しんだことがありますか」


「三回。新人賞に三回落ちた原稿は全部リライト地獄だった。書き直すたびに悪くなる。無限ループだ」


「どうやって抜け出したんですか」


「抜け出せなかった。だから三回落ちた」


 重い。先生のリライト地獄は三回とも脱出に失敗している。


「だが、お前は俺とは違う。お前には凛がいる。千歳がいる。壮介がいる。俺は一人でリライトした。一人でもがいて一人で溺れた。お前は一人じゃない。使え。周りを。自分の文章を自分で直すのは限界がある。他人の目が必要だ」



    *



 放課後。部室に俺と詩織さんが残った。凛先輩は図書室に移動。壮介は「家で本音を書く!」と叫んで帰った。先生は職員室。


 ちゃぶ台に原稿を広げた。九千四百文字。A4で十二枚。中盤の問題箇所に赤い線が引いてある。この一週間、毎日この赤い線と戦って毎日負けた。


 家の机で毎日三時間。朝起きて、朝食を食べて、原稿を開く。昨日消したところから読み始める。「テンポが落ちる」。凛先輩の声が頭の中で響く。直そうとする。三百文字書く。読み返す。違う。前より悪い。消す。もう一度。二百文字。読み返す。さっきのほうがマシだった。でもさっきのは消した。思い出せない。三時間が経つ。一文字も進んでいない。


 七日間これを繰り返した。原稿用紙の上でペンが空回りしている。エンジンは回っているがタイヤが空転している。地面を掴めない。リライト地獄の典型だ。


「詩織さん、俺の原稿を読んでくれないか。弱い部分に印をつけてほしい。何度も読みすぎて良し悪しが分からなくなっている」


「分かります。自分の文章を客観的に見るのは難しいですよね。全部が必要に見えてしまう」


 詩織さんが原稿を受け取った。万年筆のキャップを外した。一行一行確かめるように読んでいる。余白にメモを書いている。読むスピードが一定だ。万年筆で書く時と同じリズム。揺れない。信頼できるリズムだ。


 俺は横に座って待った。ペンケースを境界線にして。図書館の時と同じ配置だ。でも今日は俺が書いているのではなく、詩織さんが俺の原稿を読んでいる。並走の新しい形。隣で走るのではなく隣で読む。俺の言葉が詩織さんの目を通っている。二人の文字が同じ紙の上で出会っている。


 待っている間、窓の外を見た。グラウンドでサッカー部が練習している。走っている。ボールを蹴っている。半年前はあそこにいた。今はここにいる。畳の上に。ペンを握って。場所が違うだけだ。今はそう思える。


 三十分が経った。詩織さんがペンを置いた。


「読みました。全体は良いです。中盤が特に強い。膝が壊れた日の記憶の部分はこの作品の心臓です。動かさないでください。心臓が動いている原稿は生きています。朝倉くんの原稿は生きている。ただし心臓の周りに余分なものがついています。同じ感情を別の言い方で二回書いている箇所が三つあります」


 三箇所に丸をつけてくれた。俺が一週間悩んだ赤い線とは別の場所だ。俺が問題だと思っていた部分は問題ではなく、問題じゃないと思っていた部分が問題だった。自分では見えない。他人の目が必要だ。先生の言葉が正しかった。


「どっちを残せばいい?」


「身体感覚のほうです。一つ目。"膝が笑っている"は残す。"走れない自分はグラウンドの幽霊だ"は削る。幽霊は身体がない。朝倉くんの文章は身体から出る言葉です。幽霊の比喩は借り物です。どこかで読んだ表現が無意識に混ざっています」


「言われてみるとそうだ。幽霊は俺の言葉じゃない」


「二つ目。"地面が顔に近づいた。芝の匂いがした"は残す。"世界が灰色に変わった"は削る。芝の匂いは嗅覚の実体験。灰色は視覚の比喩です。朝倉くんが本当に感じたのは芝の匂いです。灰色は後から考えた言葉です」


「後から考えた言葉?」


「はい。体験した時に感じたことと、後から振り返って考えたことは違います。朝倉くんの強みは体験した時の感覚をそのまま書けることです。後から考えた言葉は、他の人でも書けます」


「三つ目は?」


「入部の日の描写。"畳の匂い"は残す。"窓からの光"は削る。朝倉くんの武器は身体感覚。特に触覚と嗅覚です。視覚の比喩は他の作家でも書けます。朝倉くんにしか書けないのは身体の言葉です」


 鋭い。三箇所とも「身体を残し、比喩を消す」。俺の文章の本質を見抜いている。合宿の合評で凛先輩が「中盤を削れ」と言った。先生が「中盤型だ」と言った。詩織さんは「何を削るか」を具体的に示してくれた。三人の指摘が一つの方向を向いている。身体の言葉を残せ。借り物の比喩を捨てろ。


 ペンを握った。削り始めた。幽霊を消す。赤い線で消していく。二百文字が消えた。消した場所を読み返す。前後が自然に繋がった。幽霊がいなくなったほうが、文章が走っている。借り物の比喩を取り除いたら、身体の言葉だけが残った。


 灰色を消す。百五十文字。「世界が灰色に変わった」が消えて、「地面が顔に近づいた。芝の匂いがした」だけが残った。こちらのほうが痛い。灰色より芝の匂いのほうが、膝を壊した瞬間の痛みが伝わる。比喩で語るより、身体で語るほうが強い。


 光を消す。百五十文字。「窓からの光が差し込んでいた」が消えて、「畳の匂いが鼻に入った」だけが残った。入部の日。部室の引き戸を開けた瞬間。最初に感じたのは光じゃなく匂いだった。思い出してみればそうだ。畳の匂い。古い木の匂い。インクの匂い。全部が鼻から入ってきた。視覚じゃなく嗅覚だった。詩織さんの指摘は正しい。


 合計五百文字が消えた。消すのは書くより速い。三十分かかった書き直しが、十分で終わった。削るだけ。入れ替えない。取り除くだけ。凛先輩の「外科手術」は正しかった。


 原稿が八千九百文字になった。ラストの千百文字がまだない。五百文字削ったから書くべき量が増えた。でも原稿は軽くなった。余分な脂肪を落とした身体のように。この軽さがあれば、ラストまで走れるかもしれない。


「千百文字か。ゴール前の最後のスプリント。一番きつい区間だ」


「合宿の記憶が薄れかけて書けないと言いましたよね。これを読んでみてください」


 詩織さんが取材ノートを開いた。合宿のページ。パラパラとめくった。三日間の記録がぎっしりだ。受け取った。重い。詩織さんの万年筆の字。丁寧で細い。


 最初のページ。「かもめ荘到着。畳の匂い。潮風。壮介くんが"海だ"と叫ぶ。声量推定300%」。声量を推定している。取材の鬼だ。次のページ。「壮介カレー。じゃがいも大きめ。五人で食べるとうまい」。壮介の千文字目と同じことを書いている。詩織さんと壮介の感性が、「五人で食べるカレー」で交差している。ページをめくった。海の色の記録。砂浜の温度。花火の音の描写。全部が五感で記録されている。詩織さんの取材ノートは、もう一つの合宿の原稿だ。


 そして——あのページ。


 「8月○日 朝6時。砂浜。朝倉くんと散歩。朝日が海面に線を引いている。朝倉くんが"声が出ないくらい綺麗だ"と言った。私も声が出なかった。理由は朝日ではなく、朝倉くんの横顔だった。取材です」


 心臓が鳴った。胸の奥で。ドクン、と。最後の「取材です」に、詩織さんの全力の言い訳が詰まっている。取材じゃないだろう。でもそう書いてある。取材ノートに。万年筆で。消せない字で。


「詩織さんこれ。"理由は朝日ではなく、朝倉くんの横顔だった"って」


 詩織さんの顔が一気に赤くなった。耳も頬も首筋も全部赤い。嘘チャレンジの時より赤い。


「それは取材のメモです! 観察記録です! 客観的な事実を記録しただけです!」


「客観的に俺の横顔を」


「しました! 取材対象の表情を記録するのは基本です!」


 詩織さんが取材ノートを奪い返した。パタンと閉じた。胸に抱えた。万年筆を握る手が震えている。


「ありがとう。ノートのおかげで合宿の記憶が戻ってきた。海の匂い。砂の温度。朝焼けの色」


「それは良かったです。原稿のヒントになりましたか」


「横顔のページは原稿のヒントにはならなかった。でも別のものが見つかった」


「別のもの?」


「詩織さんが俺の横顔を見ていたこと」


 詩織さんが万年筆を落とした。カタン。ちゃぶ台の上で転がった。沈黙。蝉の声。


「原稿の話に戻りましょう!!」


 声が大きかった。壮介の声量に匹敵していた。この人が声を荒らげるのは初めてだ。



    *



 原稿に戻った。二人でラストの千百文字の構成を考えた。メモ帳に道筋を書き出した。


「ここで主人公が一度止まります。走り続けていた主人公が足を止める。止まった時に横を見る。隣にいる人がいる。ずっといてくれた人。その人の存在に気づく。気づいた瞬間にラストの一行に繋がる」


「止まって、横を見て、気づく」


「走っている時は前しか見えない。止まった時に横が見える。朝倉くんの主人公は走ることを失って、書くことを見つけた。書くことに夢中で走り続けていた。でもどこかで止まる。止まった時に、ずっと隣にいた人の存在に気づく。それがラストです」


「走ることも書くことも、一人でもできた。でも続けるためには——」


「隣にいる人が必要だった。そうです。その気づきに読者を導く千百文字です」


 メモ帳にシーンの流れを書いた。主人公が走る。止まる。横を見る。いる。ずっといた。気づかなかった。気づいた。ラストの一行。シンプルな構造だ。でもシンプルだからこそ、一つ一つの言葉が重要だ。止まるタイミング。横を見る瞬間。気づきの瞬間。全部が正確でなければならない。


 良い案だ。構成は見えた。でも言葉が降りてこない。頭では分かる。身体が動かない。合宿の砂浜で見つけた一行は、あの場所の空気と一緒に見つかった。今は部室だ。畳の匂いは似ているが、海の匂いがない。波の音がない。朝焼けの光がない。


「今日は構成まででいいです。言葉は後から来ます。明日書いてください。焦って今日書くより休んで明日書くほうがいい文章になります。締切まであと九日。大丈夫です」


「大丈夫か」


「大丈夫です。構成が見えている作家は、書けます。構成が見えていない作家が書けないんです。朝倉くんはもう見えている。あとは手が動くのを待つだけです」


 詩織さんの言葉を信じた。今日は構成まで。明日、言葉を探す。


 部室を出た。夕暮れの校舎。窓がオレンジ色に染まっている。旧校舎の廊下は薄暗い。二人分の足音が木の廊下に響いている。


「今日はありがとう。並走の新しい形だった。隣で読んでもらうのは、隣で書くのと同じくらい心強かった」


「並走しただけです。隣で読むのも並走です。朝倉くんの文章を読むのは楽しいですから」


「楽しい?」


「はい。走っている文章は読んでいて楽しいんです。朝倉くんの中盤はそういう文章です。読者を引きずり込んで一緒に走らせる。ラストの千百文字も、きっとその延長線上にあります」


「取材ノートの件は忘れないからな」


「忘れてください!!」


 廊下に声が響いた。木霊した。詩織さんの声量が壮介クラスに到達した瞬間だった。


 帰り道。一人で歩いている。五百文字を削った手が軽い。明日、千百文字を書く。構成は見えている。止まって、横を見て、気づく。詩織さんと一緒に作った道筋だ。


 空がオレンジ色から紫に変わっていく。星が一つ見え始めている。九月が近い。夏が終わりかけている。コンクールの締切が近づいている。壮介の五十文字。凛先輩のトリック。俺の千百文字。全員がまだ完成していない。


 完成のはずだった。合宿で全部終わるはずだった。合宿の三日間であれだけ濃密に書いたのに、まだ終わっていない。書くということは、終わらないということかもしれない。書けば書くほど、まだ書けていないものが見えてくる。ゴールに近づくほどゴールが遠くなる。マラソンと同じだ。走っている時はゴールが近づいている気がするが、実際にはゴールも動いている。


 でもいい。走り続ける。書き続ける。ゴールが動いても、走ることを止めなければいつか届く。明日、ペンを握る。千百文字を書く。止まって、横を見て、気づく。あの構成で。


 「理由は朝日ではなく、朝倉くんの横顔だった。取材です」


 忘れない。絶対に忘れない。あの一行が万年筆で取材ノートに書かれている。あの一行だけで今日は十分だ。原稿は明日書く。今日は詩織さんの字を思い出しながら眠る。明日の俺に託す。明日の俺なら、書けるかもしれない。


 壮介は五十文字の本音と戦っている。凛先輩はトリックの穴と戦っている。俺は千百文字の空白と戦っている。全員がまだ完成していない。完成のはずだった。合宿で全部終わるはずだった。終わらなかった。でもゴールは見えている。全員が。見えているなら辿り着ける。締切まで九日。九日あれば十分だ。先生は三回失敗したが、俺たちは五人いる。一人じゃない。だから、きっと書ける。文芸部の夏は、まだ終わっていない。

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