第40話 さよなら海、また来る山
# さよなら海、また来る山
朝七時に目が覚めた。
四時間寝た。朗読会の後、深夜一時に布団に入って、気づいたら朝だった。深い眠りだった。夢は見なかった。壮介は夢でカレーうどンを食べていたかもしれないが、俺は何も見なかった。疲れきっていたのだろう。身体も、頭も、心も。全部使い切った合宿だった。
窓の外が明るい。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。最後の朝だ。かもめ荘で迎える最後の朝。
隣で壮介がまだ寝ている。布団をかぶって丸くなっている。先生の布団はもう畳んであった。この人は今日も早い。階下から缶コーヒーを開ける音が聞こえた。プシュッ。朝の一本目。先生の朝は缶コーヒーの音で始まる。
起き上がった。身体が軽い。昨日までの疲れが嘘みたいに抜けている。四時間の睡眠で回復するのは若さの特権だ。壮介を起こそうとしたが、やめた。もう少し寝かせてやろう。この男は昨夜、自分の原稿を読んで泣いて、他人の原稿を聞いて泣いて、凛先輩の言葉を聞いてまた泣いた。感情の使い過ぎだ。寝て回復しろ。
着替えて、顔を洗って、階段を降りた。
*
食堂に全員がいた。壮介以外。
凛先輩がテーブルに座っていた。文庫本は閉じている。珍しい。この人が本を閉じているのは珍しい。窓の外を見ている。朝の海。最後に見る、かもめ荘からの海。
詩織さんが取材ノートを開いていた。最後のページを書いている。「合宿 Day 3。最終日。朝」。三日間の記録の最後のページ。
先生が缶コーヒーを飲んでいた。窓際の席で。十五年前にもこの席に座っていたのかもしれない。同じ窓から同じ海を見て、同じ缶コーヒーを飲んで。あの頃の先生は、まだ小説家を目指していた。
「おはよう」
「おはよう。壮介は?」
「まだ寝てます」
「起こしてこい。朝食の時間だ」
「もう少し寝かせてあげてもいいんじゃ」
「ダメだ。チェックアウトは十時。荷造りの時間がいる。壮介の荷造りは時間がかかる」
正しい。壮介の荷造りは時間がかかる。来る時に花火と浮き輪で三十分ロスした男だ。帰りはもっとかかるかもしれない。おやつの残骸をどう詰めるかで悩むだろう。
壮介を起こしに行った。
「壮介、朝だ。起きろ」
「あと五分」
「五分はない。凛先輩の命令だ」
「凛先輩!?」
壮介が飛び起きた。凛先輩の名前は壮介の最強の目覚まし時計だ。起動率百パーセント。
*
朝食。女将さんが作ってくれた最後の食事。ご飯、味噌汁、焼き魚、漬物、卵焼き。昨日と同じメニューだが、今日は最後だから味が違う。同じものでも「最後」がつくと特別になる。凛先輩がりんご飴について言ったのと同じ理論だ。特別感。年に一回だから特別。最後だから特別。味噌汁が特にうまい。出汁が効いている。女将さんの味噌汁は三日間ずっと同じ味だったはずだが、最後の一杯が一番うまく感じる。
「女将さん、ご飯おかわりください!」
壮介が叫んだ。三杯目。最終日も壮介の胃袋は健在だ。女将さんが「よく食べる子だねえ」と笑った。三日間、毎朝同じことを言っている。壮介は毎朝三杯食べる。女将さんは毎朝笑う。この三日間のルーティンが、もう今日で終わる。三杯目のご飯を食べている壮介の横で、俺は味噌汁を最後まで飲み干した。器の底に少しだけ具が残っていた。最後の一口まで飲んだ。
「女将さん、三日間ありがとうございました」
凛先輩が頭を下げた。全員が続いた。
「いいんだよ。書く人が来てくれるのは嬉しいことだ。この部屋に人がいるだけで、壁が喜ぶんだよ」
「壁が喜ぶ?」
「この建物は古いからね。人がいないと寂しがるんだよ。壁も畳も。人の声を吸って、温かくなる。あんたたちが三日間騒いでくれたから、かもめ荘は今年の夏を覚えられる」
女将さんの言葉は詩的だった。壁が喜ぶ。畳が人の声を吸う。詩織さんが取材ノートにメモしている。「かもめ荘の壁は声を覚える」。
「また来てね。来年も、再来年も。書く人はいつでも歓迎だよ」
「来ます。必ず」
凛先輩が言った。短い。でも確かだった。「必ず」。凛先輩が「必ず」と言ったら、必ずだ。
先生が女将さんに近づいた。何かを手渡した。小さな包みだ。
「これは?」
「土産です。缶コーヒーじゃないですよ」
「あんた、昔もお土産くれたねえ。本だったっけ」
「今回も本です。新刊を一冊。本棚に足してください」
「ありがとう。本棚がまた一冊増えるね」
先生が本を女将さんに渡した。十五年前に本棚を作った先生が、新しい本を一冊足した。本棚は生きている。新しい本が加わって、少しだけ成長する。俺たちと同じだ。
*
荷造り。男子部屋。
壮介の荷造りは予想通り難航した。来る時よりも荷物が増えている。花火の残り。貝殻。ヤドカリの殻(カレー次郎の抜け殻だと主張している)。女将さんからもらったお菓子。砂浜で拾った流木(「これで何か作る」と言っている)。
「壮介、流木はいらないだろ」
「いる! 合宿の思い出だ!」
「思い出は写真で十分だ」
「写真じゃ触れないだろ! 触れる思い出が欲しいんだ!」
「触れる思い出」
「この流木を触ったら合宿を思い出せる。匂いも残ってる。潮の匂いだ」
壮介の理論は時々正しい。触れる思い出。確かに写真では触れない。匂いもしない。流木には潮の匂いが染み込んでいる。それを嗅げば、砂浜の記憶が蘇る。壮介の感覚は素朴だが正確だ。
「分かった。持って帰れ。ただしリュックに入る分だけだぞ」
「入る! 押し込む!」
壮介がリュックに流木を突っ込んだ。はみ出した。当然だ。流木は三十センチある。壮介のリュックからは流木の先端が飛び出している。異様な光景だ。文芸部の合宿帰りに流木を持っている高校生。不審者度が上がっている。
「壮介、電車の中で人にぶつけるなよ」
「気をつける!」
「あとお菓子の残りはちゃんとゴミ袋に入れろ」
「入れた! カレー次郎の殻も入れた!」
「ヤドカリの殻をゴミ袋に入れたのか」
「ゴミじゃない! 思い出だ! でもリュックに入らないからゴミ袋に入れた!」
「それはゴミだろ」
「ゴミと思い出の境界線は曖昧だ!」
壮介の哲学がまた炸裂した。ゴミと思い出の境界線は曖昧。否定できない。俺の部屋にも、サッカー部時代のユニフォームが捨てられずに残っている。ゴミかもしれないが、思い出だ。
俺の荷造りはすぐ終わった。来た時と同じだ。ノート三冊。万年筆。ペンケース。文庫本二冊。着替え。タオル。日焼け止め。そして、コンクール原稿の未完成稿。これだけが増えた。九千四百文字の原稿。三日前にはまだ八千二百文字だった。この合宿で千二百文字を書いた。ラストの一行を見つけた。でもまだ完成していない。帰ってから仕上げる。残りの六百文字を。
リュックの重さは変わっていない。でも中身の密度が変わった。原稿の重さは紙の重さだけじゃない。言葉の重さがある。一万文字分の言葉の重さが、リュックの中にある。
*
十時。チェックアウト。
二階奥の和室を最後に見た。海が見える仮の部室。ちゃぶ台。本棚。窓。畳。三日間の記憶が全部ここにある。ランタンの灯りの下で書いた夜。朗読会の声。壮介の涙。凛先輩の震え。詩織さんの万年筆の音。先生の缶コーヒー。全部がこの六畳の畳に染み込んでいる。女将さんが言った。壁が声を覚える。畳も覚えているだろう。俺たちの声を。ペンの音を。笑い声を。泣き声を。
本棚を見た。先生が十五年前に置いた本と、今朝先生が足した新しい本。古い本と新しい本が並んでいる。来年、俺たちが来た時にまた一冊足すかもしれない。本棚は少しずつ成長する。俺たちと一緒に。
窓の外に海がある。今日も青い。三日間ずっと青かった。朝は薄い青。昼は濃い青。夕方は赤い海。夜は暗い海。全部の海を見た。全部の海が綺麗だった。この窓からの海を、来年もまた見る。たぶん。いや、たぶんじゃない。必ず見る。
引き戸を閉めた。カラカラ。部室の引き戸と同じ音。この音ともしばらくお別れだ。また来年まで。
玄関で靴を履いた。全員が外に出た。女将さんが見送ってくれた。
「気をつけてね。また来てね」
「来ます」
「書けたかい?」
「書けました。全員、書けました」
「良かったねえ。書く人が書けた顔をしているのは、嬉しいもんだよ」
女将さんが笑った。しわの深い笑顔。三日前に初めて会った時と同じ笑顔。この人は変わらない。十五年前に先生が来た時も、今日俺たちが帰る時も、同じ笑顔で見送っている。「書く人のことは忘れない」。この言葉は本当だ。
坂を下り始めた。振り返った。かもめ荘が見えた。白い壁。エメラルドグリーンの屋根。女将さんが玄関に立って手を振っている。小さくなっていく。坂を下るにつれて、建物が木々に隠れていく。最後に屋根の先だけが見えて、それも消えた。
壮介が立ち止まった。振り返った。もう何も見えない。木々が全部を隠している。でも壮介はしばらく振り返っていた。
「また来ような」
「来るよ」
「来年も同じメンバーで」
「そうだな」
「女将さんのご飯がうまかった。味噌汁が最高だった。三日間毎朝おかわりした」
「壮介、食の記憶だけは鮮明だな」
「食は大事だ! カレーと味噌汁があれば人は生きていける!」
「栄養バランスが心配だけどな」
「バランスは二年目以降に考える!」
壮介が前を向いて歩き出した。リュックの流木が揺れている。坂を下る壮介の背中は、三日前に坂を上った壮介の背中と同じだ。でも中身が違う。リュックの中にはノートがある。九百五十文字の「走れカレーうどン」がある。四十二文字から始まった壮介の文字が、九百五十文字まで来た。流木と一緒に、壮介は文字も持ち帰る。
*
バスに乗った。電車に乗った。
帰りの電車は行きと同じ路線だ。同じ窓から同じ景色が見える。でも逆順だ。海が遠ざかっていく。山が遠ざかっていく。トンネルを抜けると田園風景。田園風景を抜けると住宅街。世界が日常に戻っていく。行きは期待で胸がいっぱいだった。帰りは充実感で胸がいっぱいだ。違う種類の「いっぱい」だが、どちらも悪くない。
行きの電車では壮介が「海だ!」と叫んだ。帰りの電車では壮介は黙っている。窓の外を見ている。静かな壮介は珍しい。リュックから流木がはみ出している。それだけが壮介らしい。壮介が静かなのは、言葉を探しているのかもしれない。九百五十文字から千文字にするための五十文字を、頭の中で探しているのかもしれない。
凛先輩が文庫本を開いた。読書を再開した。合宿中に読んだ四冊に加えて五冊目だ。この人の読書量は異常だが、文庫本を開いている凛先輩はいつもの凛先輩だ。日常に戻り始めている。
詩織さんが取材ノートを閉じた。三日間の記録が全部入っている。何ページになったのだろう。聞かなかった。聞かなくていい。詩織さんの中に三日間の全部が入っている。それだけで十分だ。
先生が缶コーヒーを飲んでいる。窓の外を見ている。行きの電車で「この路線、学生時代によく乗ったな」と呟いた先生が、帰りの電車でも同じ窓の外を見ている。何を考えているのか分からない。でもたぶん、十五年前のことと、今日のことを重ねている。
「先生」
「ん」
「また来年、連れていってくれますか」
「顧問だからな。お前たちが行くなら行く」
「来年の合宿も、かもめ荘で」
「女将さんに連絡しておく」
先生が缶コーヒーを一口飲んだ。窓の外に目を戻した。約束は短い。でも確かだ。先生の「連絡しておく」は実行される。
俺は鞄の中の原稿に手を触れた。コンクール原稿。九千四百文字。未完成。帰ったらまず中盤を削る。それからラストの六百文字を書く。先生が「中盤型だ」と言った。中盤を制御して、ラストに着地させる。締切までに完成させる。
電車が揺れている。景色が流れている。海が見えなくなった。住宅街が近づいてきた。日常が戻ってくる。でも日常に戻っても、俺たちは変わっている。三日前とは違う。原稿が完成している。文体が見つかっている。ラストの一行がある。「走り続けるには、隣にいる人が必要だった」。この一行を書けた俺は、三日前の俺とは違う人間だ。
*
駅に着いた。
改札を出た。夕方だ。日が傾いている。駅前のロータリー。三日前の朝、ここに集合した。壮介が十五分遅刻して、浮き輪を膨らませていた。あれからたった三日。三日で世界が変わった。
「解散する前に一つ」
凛先輩が全員を見回した。
「コンクールの締切は再来週だ。全員、原稿を仕上げろ。壮介もだ」
「俺も!? 九百五十文字だぞ!?」
「千文字まで行け。合評で言っただろう。本音を書け。あと五十文字で千に届く。五十文字くらい本音を書けば出る」
「五十文字の本音!?」
「お前が文芸部にいる理由。カレーうどンの向こう側。それを五十文字で書け」
壮介が黙った。五十文字。五十文字で本音を書く。それが壮介の宿題だ。
「よし。締切の前日に全員の原稿を揃える。揃ったら翌日、放課後に全員で郵便局に行く。封筒をポストに入れる。全員でだ」
四通。凛先輩、詩織さん、俺、壮介。四人のコンクール原稿。四人分の夏。ポストに入れる。全員で。
「じゃあ、解散。また来週」
凛先輩が手を振って歩き出した。振り返らない。凛先輩はいつも振り返らない。前だけを見て歩く。背中が夕日に照らされている。小さくなっていく。
先生が「じゃあな。原稿を仕上げたら連絡しろ」と言って反対方向に歩いていった。缶コーヒーを持ったまま。アロハシャツが夕風に揺れている。先生の背中は、かもめ荘で見た時より少しだけ大きく見えた。
壮介が「じゃあまた来週!」と叫んで走っていった。リュックが揺れている。流木がはみ出している。走る壮介の背中にはいつも何かがはみ出している。花火だったり、浮き輪だったり、流木だったり。この男の人生ははみ出している。
俺と詩織さんが残った。帰り道が同じ方向だ。花火大会の夜と同じだ。二人で歩き出した。
「合宿、楽しかったですね」
「うん。楽しかった」
「海も、山も、カレーも、花火も、肝試しも、朗読会も。全部楽しかったです」
「全部だな。一つも要らない時間がなかった」
「はい。三日間の全部が、必要な時間でした」
「朝倉くんの原稿、完成して良かったです」
「詩織さんのおかげだよ。ラストの一行は砂浜で見つけた」
「砂浜で見つけたのは朝倉くんです。私は隣にいただけです」
「隣にいてくれたから見つかったんだ」
詩織さんが微笑んだ。夕日が横顔を照らしている。花火の夜と同じ光だ。あの夜に言えなかった言葉が、まだ胸の中にある。「原稿が書けたら教える」と約束した。原稿は書けた。でもまだ言えない。まだ言葉になっていない。
「朝倉くん」
「ん?」
「花火の夜に聞きましたよね。原稿が書けたら教えてくれるって」
「覚えてる」
「原稿、書けましたよね」
「書けた」
「じゃあ、教えてもらえますか?」
詩織さんが俺を見た。まっすぐな目だ。嘘がつけない目だ。この目の前で嘘はつけない。
「まだ、ダメだ」
「ダメ?」
「原稿は書けた。でも、あの時の言葉はまだ言葉になってない。形がない。もう少し待ってくれ」
「いつまで?」
「分からない。でも、いつか必ず」
「待ちます」
詩織さんが笑った。怒っていない。急いでいない。待つと言った。待ってくれる。この人はいつも待ってくれる。図書館で俺のペンが止まった時も、砂浜で俺が一行を見つけるまでも、プールで俺が手を差し出すまでも。待つことが詩織さんの強さだ。並走することが詩織さんのスタイルだ。教えない。急かさない。ただ隣にいて、待つ。
「じゃあ、ここで」
分かれ道。いつもの分かれ道。詩織さんが右。俺が左。花火大会の夜もここで別れた。今日もここで別れる。同じ場所で。同じ二人で。でも今日は花火の夜より少しだけ近い。何が近いのか、まだ分からない。でも近い。
「また来週。郵便局で」
「はい。また来週。四通の封筒を、一緒にポストに入れましょう」
「入れよう」
手を振った。詩織さんが手を振り返した。角を曲がって見えなくなった。
一人になった。
家に向かって歩いている。リュックが背中にある。中に原稿がある。九千四百文字。四ヶ月の結晶。合宿でラストの一行を見つけた。海と山と畳とカレーと花火と朗読と。全部が詰まっている。まだ完成していないが、ゴールは見えている。
来週、この原稿をポストに入れる。世界に送り出す。走れなくなった俺が書いた、走り続ける理由の話を。
空がオレンジ色だ。夏の夕方。合宿が終わった。でも夏はまだ終わっていない。コンクールがある。結果がある。その先にまだ知らない景色がある。秋が来る。文化祭がある。コンクールの結果発表がある。凛先輩の受験がある。二年目が来る。全部がまだ先にある。
歩いている。一人で。でも一人じゃない。リュックの中に原稿がある。原稿の中に、四人がいる。壮介がいる。凛先輩がいる。詩織さんがいる。先生がいる。一万文字の中に、全員がいる。かもめ荘の畳の匂いがいる。海の青がいる。壮介のカレーの味がいる。
ペンで走り切った夏が、終わりかけている。でもまだ終わっていない。来週、ポストの前に立つ。四人で。五人で。封筒を入れる。俺の一万文字。詩織さんの一万二千文字。凛先輩の八千文字。壮介の九百五十文字。四つの原稿が、同じポストの闇の中で重なる。同じ場所に、同じ日に、全部を送り出す。
その時が来たら、俺は笑っているだろうか。
たぶん、笑っている。全力で。掟の三番目。笑え。
全力で笑って、投函する。俺たちの夏を、四つの封筒にぎゅっと詰めて、赤いポストの中に。




