第39話 最後の夜──朗読会
# 最後の夜──朗読会
眠れなかった。
布団に入って三十分。天井を見つめている。壮介の寝息が聞こえる。先生のいびきが聞こえる。二人はもう寝ている。壮介は肝試しの疲れで即座に寝落ちした。先生は缶コーヒーの最後の一本を飲み干して、「おやすみ」の一言で寝た。二人とも寝つきがいい。
でも俺は眠れない。頭が冴えている。朗読会のことを考えている。明日の朝、原稿を声にする。九千四百文字の未完成原稿を、全員の前で読む。合評会の時に一度読んだ。でも朗読会は違う。批評はない。ただ読む。ただ届ける。それが怖い。未完成を声にするのは、もっと怖い。
花火の煙の匂いがまだ指先に残っている。線香花火の残り香。肝試しの蛍光塗料のメッセージ。壮介のカレーうどンの味。全部がまだ鮮明だ。合宿の最後の夜が終わろうとしている。明日の朝にはここを出る。
起き上がった。布団から出た。廊下に出た。二階奥の和室に向かった。海が見える仮の部室。ドアを開けた。
詩織さんがいた。
ちゃぶ台の前に座っていた。ランタンの灯りの中で。万年筆を握っている。書いているのではない。握っているだけだ。窓の外を見ている。暗い海。月明かり。
「詩織さんも眠れない?」
「はい。眠れなくて」
「俺も」
隣に座った。いつもの場所。詩織さんが左。俺が右。ペンケースは置いていない。境界線がない。でも自然と同じ位置に座っている。身体が覚えている。
廊下から足音が聞こえた。引き戸が開いた。凛先輩だった。
「お前たちも起きてたか」
「先輩も眠れないんですか」
「眠れない。最後の夜だからな」
凛先輩がソファに座った。いつもの場所。ソファの右側。凹みにはまる。かもめ荘のソファにも凛先輩の凹みができ始めているかもしれない。二泊で凹みは作れないか。
壮介が起きてきた。目をこすりながら。
「みんないる。俺も混ぜて」
「寝てたんじゃないのか」
「トイレに起きたら誰もいなくて、怖くなって探しに来た」
「肝試しの後遺症か」
「後遺症だ! 一人は怖い!」
壮介がちゃぶ台に座った。あぐらをかいて。目がまだ半分閉じている。寝起きだが、ここにいたいらしい。
先生が最後に来た。缶コーヒーを持って。
「騒がしいから起きた」
「すみません」
「謝るな。どうせ俺も眠れなかった」
先生が端っこに座った。缶コーヒーを開けた。プシュッと音がした。夜中の缶コーヒー。先生の日常が深夜にも続いている。
五人が集まった。深夜十一時。合宿の最後の夜。ランタンの灯りがちゃぶ台を照らしている。窓の外に暗い海がある。波の音。虫の声。
「朗読会、明日の朝にやる予定だったが」
凛先輩が言った。
「今やらないか」
全員が凛先輩を見た。
「明日の朝じゃ時間が足りない。チェックアウトまでに全員分読めるか分からない。今なら時間がある。夜通しでも構わない」
「先輩、夜通しは体力的に」
「体力の話をするな。最後の夜だ。眠れないなら、書いたものを声にしろ。それがこの合宿の最後の仕事だ」
誰も反対しなかった。全員が頷いた。壮介が目を完全に開けた。覚醒した。最後の夜の最後のイベント。朗読会。批評はしない。ただ読む。声に出して読む。自分の書いたものを、全員に届ける。
「順番は合評会と同じでいい。壮介、朝倉、千歳、俺」
「先輩が最後ですか」
「部長は最後に読む。それが礼儀だ」
*
壮介が立ち上がった。
ノートを持っている。「走れカレーうどン」。合宿中に書き足して、九百五十文字になっている。千文字には届かなかったが、七百八十文字から百七十文字増えた。煮込み時間と肝試しの待ち時間に書いたらしい。
壮介が読み始めた。声がいつもよりは小さい。でも壮介にしては小さいだけで、普通の人にしては十分大きい。
合評会の時と同じ冒頭。カレーうどンの国。壮介とメロス。でも途中から変わった。合宿中に書き足した部分だ。
「壮介は海を見た。海は広かった。カレーうどンよりも広かった。壮介は思った。世界は広い。でもカレーうどンがあれば、どこでも家だ。友達がいて、カレーうどンがあれば、それが家だ」
壮介の声が震えた。自分の書いた言葉に。合評会の時にはなかった文章だ。合宿の間に壮介が感じたことが、そのまま文章になっている。技術はない。構成もない。起承転結もない。でも本当のことが書いてある。嘘がない。壮介の文章には最初から最後まで嘘がない。カレーうどンが好きなことも、友達がいることも、それが家だということも、全部本当のこと。四月に「カレーうどンが好きだ!」と叫んでいた男が、今「友達がいれば家だ」と書いている。四十二文字が九百五十文字になった。文字数だけじゃない。言葉の深さも変わった。
「友達がいて、カレーうどンがあれば、それが家だ」。
壮介が読み終えた。鼻をすすった。泣いている。自分の文章で泣いている。この男は泣き虫だが、それは感情が豊かだということだ。
「千文字行けなかった。九百五十だ」
「五十足りないだけだ。十分だ」
先生が言った。短い。でも温かかった。
*
俺の番だ。
立ち上がった。原稿を持った。九千四百文字。未完成だ。ラストの六百文字がまだない。でも今日は読む。途中までを。合評会の時より少しだけ磨いた版だが、まだ終わっていない。
合評会の時は手が震えた。今回は震えていない。夜だからかもしれない。ランタンの灯りの中だからかもしれない。四人の顔が、オレンジ色の光に照らされている。壮介。凛先輩。詩織さん。先生。四人が俺を見ている。
読み始めた。
走れなくなった主人公の話。最初の一行から。声が落ち着いていた。合評会の時に震えた声が、今は安定している。一度読んだ原稿だ。二度目は楽だ。言葉の場所を覚えている。呼吸の場所を覚えている。どこで息を吸って、どこで間を取るか。身体が覚えている。
中盤。走れなくなった日の記憶。膝が壊れた日。削った部分はスムーズになっている。凛先輩の指摘は正しかった。テンポが上がった。読んでいて気持ちいい。自分の原稿なのに、読んでいて走れる。
終盤。文芸部に出会って。ペンを握って。「丸いボールから四角い原稿用紙に」。この部分を読んだ時、壮介が小さく「おお」と声を漏らした。合評会の時にも反応していた場所だ。同じ場所で同じ反応をする。壮介は正直だ。凛先輩が少しだけ目を細めた。この部分が凛先輩の好きな場所なのかもしれない。
ラスト。足した三行を読んだ。新しい部分だ。合評会では読んでいない。主人公が新しい走り方を完全に手に入れる場面。水に浮いて「止まっていてもいい」と知って。砂浜に言葉を書いて、波に消されて。図書館で隣にいる人のペンの音を聞いて。朝焼けの砂浜で歩いて。合宿の夜にランタンの灯りの中で書いて。全部が最後の場面に繋がっている。そして気づく。
「走り続けるには、隣にいる人が必要だった」
ラストの一行を読んだ。声が少しだけ揺れた。朝焼けの砂浜で見つけた一行。詩織さんの隣で見つけた一行。
読み終えた。原稿を下ろした。
静寂。波の音。
詩織さんが目を閉じていた。万年筆を握ったまま。目を閉じて、俺の声を聞いていた。目を開けた。潤んでいた。
「朝倉くん。合評会の時より、もっと良くなっています」
「推敲したからな」
「推敲だけじゃないです。声が変わりました。合評会の時は緊張していました。今は、届けようとしています」
「届けようと?」
「はい。読んでいる、じゃなくて、届けている。声が違うんです」
凛先輩が腕を組んだまま言った。
「推敲の成果が出ている。中盤のテンポが改善された。ラストの三行を足したことで、着地が安定した。良い原稿だ。前回よりもいい」
「ありがとうございます」
「帰ったら仕上げろ。中盤を削って、ラストの六百文字を書け。お前の原稿はあと一歩だ。合宿で方向は見つけた。帰ってから完成させろ」
凛先輩が「帰ったら仕上げろ」と言った。完成はまだ先だ。でも方向は正しい。ゴールは見えている。あとは道を書くだけだ。
*
詩織さんの番。
万年筆のキャップを外した。原稿を手に取った。一万二千文字の完成稿。ラスト三行を書き直した版。
詩織さんが読み始めた。声が静かだ。いつもの声だ。でも朗読の詩織さんの声は、普段の声より少しだけ低い。語りの声だ。物語を語る声。
読んでいる間、俺は目を閉じた。詩織さんの声だけを聞いた。言葉が空気に溶けていく。透明な文章が、透明な声で届けられる。嘘がない。飾りがない。見たものを見たまま書いた文章が、聞いたまま届く。
詩織さんの小説は、ある少女の話だった。詳細は書けない。コンクールに出す前だから。でも一つだけ言える。その少女は、誰かの隣にいることを選ぶ話だった。周りの誰もが「一人で立て」と言う中で、少女は「隣にいたい」と選ぶ。俺の小説と、テーマが近い。俺は「隣にいる人が必要だった」と書いた。詩織さんは「隣にいることを選んだ」と書いた。違う言葉で、同じことを。示し合わせたわけじゃない。図書館で並んで書いていた二人が、同じテーマに辿り着いた。偶然か。必然か。分からない。でも嬉しかった。
ラスト三行が変わっていた。合評会で凛先輩に指摘された部分。書き直された三行は、前の版より柔らかかった。力が抜けていた。推敲していない言葉に近い。「推敲していない言葉には本音が入っている」と詩織さん自身が言っていた。書き直した三行に、推敲を重ねた結果の「推敲していない」が入っている。矛盾しているようだが、文章はそういうものだ。磨き上げた結果、磨いていないように見える。それが最高の文章だ。
読み終わった。
「千歳」
凛先輩が言った。
「良い。これで出せ」
詩織さんが頷いた。小さく息を吐いた。万年筆のキャップを閉じた。パチン。小さな音。完成の音。
*
凛先輩の番。
最後だ。部長が最後に読む。
凛先輩がソファから立ち上がった。ちゃぶ台の前に立った。原稿を持っている。ミステリ短編。八千文字。合評会の後に感情描写を書き足した版。
「読む」
一言だけ言って、読み始めた。
凛先輩の声は鋭い。短い文。句点が多い。一文一文が刃物のように正確だ。ミステリの文章は冷たい。冷たいから、読者は安心して身を委ねられる。感情に振り回されない。論理だけが進んでいく。
でも、途中で声が変わった。合評会の後に書き足した部分だ。登場人物の感情が描かれている。凛先輩のミステリに、初めて「心」が入った。犯人が犯行に至った理由。そこに感情がある。冷たい文章の中に、一箇所だけ温かい場所がある。それが際立つ。凛先輩の文章の冷たさが、感情の温かさを際立たせている。氷の中に一滴の熱い水が落ちたようだ。その一滴が、ミステリ全体の温度を変えた。
凛先輩は合評会で「感情が弱点だ」と言われた。弱点を三日で補った。この人の成長速度は部長の名に恥じない。弱点を見つけたら即座に修正する。ミステリのトリックを解くように、自分の文章の問題を解く。
読み終えた。
壮介が泣いていた。また泣いている。この男は朗読会で毎回泣く。全作品で泣いている。感情のダムが決壊している。
「壮介、泣くな」
「泣いてない!」
「泣いてるだろ」
「花粉だ!」
「八月に花粉はない」
「八月の花粉だ!!」
「存在しない」
凛先輩がほんの少しだけ笑った。壮介が泣くのを見て、笑った。壮介の涙は凛先輩への最高の批評だ。論理的な分析より、壮介の涙のほうが正直で、正確だ。
先生が缶コーヒーを置いた。
「全員、読み終わったな」
「はい」
「どの原稿も、三日前より良くなっている。合宿の成果だ」
先生がそれ以上は言わなかった。短い。いつも通り短い。でもその短さの中に、全部が入っている。
*
朗読会が終わった。深夜一時。
五人がちゃぶ台の周りに座っている。朗読の余韻が部屋に残っている。四人の声が、まだ空気の中に漂っている気がする。壮介の声。俺の声。詩織さんの声。凛先輩の声。四つの声が混ざって、一つの空気になっている。
凛先輩が窓を開けた。夜の海の匂いが入ってきた。風が涼しい。
「お前たち」
凛先輩が窓辺に立った。背中が月明かりに照らされている。
「この合宿を覚えておけ。三日間の全部を。海と、山と、カレーと、花火と、肝試しと、原稿と。全部だ。砂浜の足跡は消えたが、ここにいた記録は消えない。お前たちの原稿がその証拠だ。原稿は残る。お前たちが書いたものは残る。だから書け。書き続けろ」
「先輩、急にどうしたんですか」
「急じゃない。最初から言おうと思っていた。最後の夜だから言う」
凛先輩が全員を見た。目が真剣だ。部長の目だ。ランタンの灯りに照らされた凛先輩の目は、部室のホワイトボードの前に立つ時の目と同じだ。どこにいても部長だ。
「来年、俺は三年になる。受験がある。部活に来られなくなるかもしれない」
「先輩——」
「だから、今のうちに言っておく。この部は、俺が作った。でもお前たちが育てた。俺一人じゃここまで来られなかった。壮介がいて、朝倉がいて、千歳がいて、先生がいて。五人でここまで来た。プリン消失事件も、体育祭の実況も、予算審査も、プールも、花火大会も、この合宿も。全部、五人でやった」
凛先輩の声が少しだけ震えていた。この人が声を震わせるのは初めてだった。凛先輩は感情を抑える人だ。掟の四番目を自分に課している人だ。泣くな。でも今、声が震えている。泣いてはいない。目は乾いている。でも声だけが、少しだけ揺れている。
「この合宿は忘れない。覚えておく。来年も再来年も。ここで過ごした三日間を」
「先輩、来年も来ましょう」
「来年のことは来年考える。今は今だ。今夜の朗読を忘れるな」
「忘れません」
全員が言った。同時に。示し合わせたわけじゃない。自然に。五人の声が重なった。「忘れません」。
壮介がまた泣いていた。今度は声を出さずに。静かに。壮介が静かに泣くのは珍しい。いつもは声を出して泣く。声を出さない涙は、壮介の一番深い感情だ。
先生が缶コーヒーを見つめていた。何かを思い出しているのかもしれない。十五年前にこの部屋で原稿を書いていた頃のことを。あの頃の先生にも、こういう夜があったのだろうか。仲間と原稿を読み合って、笑って泣いて、「忘れない」と言い合った夜が。
詩織さんが取材ノートを開いた。万年筆のキャップを外した。何かを書き始めた。俺の隣で。
「何を書いてるの」
「今夜のことを」
「取材?」
「取材ではなく、記憶です。忘れないように。全部書いておきます。凛先輩の声が震えたことも。壮介くんが静かに泣いたことも。先生が缶コーヒーを見つめていたことも。朝倉くんの原稿が完成したことも。全部」
「取材ではなく記憶」
「はい。取材ではなく。取材は分析するための記録です。記憶は残すための記録です。今夜のことは分析したくない。ただ残したい。そのまま。加工せずに。朝倉くんの声も、壮介くんの涙も、凛先輩の震えも、先生の沈黙も。全部そのまま」
詩織さんの万年筆が動いている。ランタンの灯りの中で。サラサラ。いつもの音だ。でも今夜の音は少しだけ違う。柔らかい。力が抜けている。推敲していない音だ。心のまま書いている音。取材ノートの中で、今夜のページだけは特別だろう。「取材」ではなく「記憶」と書かれたページ。そのページには俺たちの合宿の全部が入っている。
窓の外で波が鳴っている。月明かりが海面に線を引いている。合宿の最後の夜が深まっていく。
「そろそろ寝るか」
凛先輩が言った。
「明日の朝、チェックアウトだ。荷造りは朝やれ。今は寝ろ」
「先輩、掟の何番目ですか」
「掟にはない。でも言う。寝ろ。明日も文芸部だ」
全員が立ち上がった。それぞれの部屋に戻る。壮介が「おやすみ」と小さく言った。凛先輩が「おやすみ」と返した。先生が何も言わずに頷いた。詩織さんが「おやすみなさい。明日もよろしくお願いします」と丁寧に頭を下げた。
廊下で別れた。男子部屋と女子部屋。引き戸の音。カラカラ。いつもの音。部室の引き戸と同じ音。場所が変わっても、この音は変わらない。
布団に入った。壮介が隣で「おやすみ」ともう一度言った。「おやすみ」と返した。先生はもう寝ている。缶コーヒーの空き缶が枕元に置いてある。先生の今日の本数は数えていない。たぶん六本くらいだ。
天井を見つめた。暗い。でも暗くない。ランタンの余韻がまだ目の中に残っている。四人の声が耳の中に残っている。原稿の言葉が胸の中に残っている。壮介の「友達がいればそれが家だ」。凛先輩の声の震え。詩織さんの「取材ではなく記憶です」。先生の「お前は中盤型だ」。全部が残っている。消えない。砂の上の文字は消えるが、声は消えない。耳の奥に残る。
合宿の最後の夜が終わる。明日、ここを出る。でもここで得たものは持って帰れる。原稿と。記憶と。五人で過ごした時間と。重さはない。でも確かにある。リュックには入らないが、胸の中には入る。
目を閉じた。今度こそ眠れる気がした。波の音。月明かり。最後の夜。四人の声がまだ耳の中にある。温かい。この温かさだけは、忘れない。
明日、帰る。帰ったら、原稿を仕上げる。ラストの六百文字を書く。中盤を削る。そしてコンクールに出す。合宿で見つけたラストの一行を、世界に届けるために。走れなくなった俺が書いた、走り続ける理由についての物語を。




