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第36話 合評会──全員、本気の言葉

# 合評会──全員、本気の言葉


 午前十時。二階奥の和室。海が見える仮の部室。


 ちゃぶ台の上に原稿が四つ並んでいる。完成しているもの、していないもの。厚いもの、薄いもの。詩織さんの原稿が一番厚い。一万二千文字。壮介の原稿が一番薄い。七百八十文字。A4一枚にもならない。でも四つとも同じちゃぶ台の上に並んでいる。文字数は違うが、全部が「書いたもの」だ。四人分の夏が、紙の上に載っている。


 窓の外に海がある。今日も青い。昨日の砂浜を歩いた時と同じ海だ。あの砂浜でラストの一行を見つけた。でもまだ完成していない。九千四百文字。残り六百文字。その六百文字を持っていない状態で、合評会に臨む。


 凛先輩がスケッチブックにスケジュールを書いた。「合評会。順番:壮介→凛→詩織→朝倉。一人二十分。読み上げ十分、批評十分」。


「なんで俺が最初なんですか!」


「短い順だ。お前が一番短い。七百八十文字なら三分で読み終わる」


「三分で読み終わる原稿を二十分かけて批評するの!?」


「する。文字数が少なくても批評の密度は同じだ」


「密度が怖い!」


 霧島先生がソファの端に座っている。缶コーヒーを持っている。今日は審査員席だ。


「じゃあ始める。壮介、読め」


 壮介が立ち上がった。原稿を両手で持っている。A4の紙一枚。七百八十文字。四十二文字から始まって、七百八十文字まで来た。


 壮介が読み始めた。声がでかい。カレーうどンの国。壮介とメロス。メロスが壮介の友達として登場している。太宰治が泣いている。でも壮介の声で読まれるメロスは、教科書のメロスとは全然違う。熱い。力強い。


「走るのは楽しい。カレーうどンを食べるのも楽しい。友達のメロスと走るのはもっと楽しい。一人で走るよりも、誰かと走るほうが速い」


「カレーうどンを食べた壮介は思った。"うまい"。これが壮介の感想の全てだった。うまいものはうまい。それでいい。終わり」


 読み終わった。二分半。沈黙。


 凛先輩が最初に口を開いた。


「壮介。率直に言う。メチャクチャだ」


「やっぱり!」


「構成がない。起承転結がない。結論が"うまい"だけ。メロスの使い方が雑だ。メロスは約束を守るために走った男だ。お前のメロスは壮介の友達として登場して、一緒にカレーうどンを食っている。メロスが泣いてる。太宰が泣いてる。小説として採点するなら、二十点だ」


 壮介が項垂れた。二十点。赤点以下だ。古典のテストの四十八点より低い。


「ただし」


 凛先輩が続けた。


「四月の四十二文字から七百八十文字まで伸びた。成長率は文芸部で最も高い。約十九倍だ。数字だけで見れば圧倒的な成長だ。そして嘘がない。壮介がカレーうどンを好きなことは本当だ。"一人で走るよりも、誰かと走るほうが速い"。この一文は良い。技術じゃなく実感から出た言葉だ。嘘のない文章は、下手でも読める」


「先輩」


「次はもっと長く書け。千文字を目指せ。構成を入れろ。でもカレーうどンは捨てるな。お前のテーマだ。あと——本音を書け。お前が文芸部にいる理由。カレーうどンの向こう側にあるもの。焼肉でもカレーでもなく、お前自身の言葉で。それを書けたら、千文字はすぐだ」


「本音」


「お前の七百八十文字には、まだ本音が足りない。"うまい"は本音だ。でもその先がある。なぜうまいのか。誰と食うからうまいのか。そこまで書け」


 詩織さんが手を挙げた。


「壮介くんの原稿、私は好きです。"うまいものはうまい。それでいい"。この一文には力があります」


「詩織ちゃん!!」


 壮介が泣いた。合評会の最初の作品で泣く男。ティッシュで鼻をかんだ。ブーッと音がした。合評会にふさわしくない音だが、壮介らしい音だ。


 先生がぼそりと言った。


「壮介。文章の基礎は俺が教える。合宿が終わったら部室に来い」


「先生!?」


「お前は教えがいがある。伸びしろしかないからな」


「褒めてるのか!?」


「褒めてる。お前の文字数は来年には三千を超えてるだろう。俺が保証する」


「三千!? 四倍!?」


「行ける。お前みたいに真っ直ぐな人間は伸びる。技術は後からついてくる。気持ちが先にある人間は強い。お前の"うまい"には気持ちがある。その気持ちに技術を乗せれば、三千どころか五千も行ける」


「五千!?」


 壮介が声を上げて泣いた。凛先輩が「泣くな。掟を忘れたか」。壮介が「泣いてない! 汗だ!」。目から汗が出る人間を初めて見た。



    *



 凛先輩の番。


 ミステリ短編。八千文字。部室を舞台にした密室もの。お菓子消失事件をヒントにした推理小説。登場人物が五人。文芸部の部室で、大切なものが消える事件。犯人は意外な人物で、動機がさらに意外だ。ミステリの形をした人間ドラマ。


 凛先輩が読み上げた。声が静かで正確だ。一文一文が刃物のように鋭い。トリックの伏線を丁寧に配置して、読者を誘導する。嘘をつかずに真実を隠す。凛先輩のミステリの技術だ。読んでいる間、全員が引き込まれていた。壮介でさえ黙って聞いていた。


 だが、途中で凛先輩の声が一瞬だけ止まった。中盤の密室トリックの説明部分だ。犯人が部屋から出る方法に関する記述。凛先輩は読み飛ばすように速度を上げた。自分でも弱いと分かっている部分だ。読み飛ばしたことを全員が気づいた。でも誰も指摘しなかった。合評の時間に指摘する。今は聞く時間だ。


 読み終わった。


「すごい」


 俺が言った。語彙が貧困だ。でも本当にすごかった。構成が精密だ。建築みたいだ。


「先輩、伏線が自然すぎて気づかなかった。ラストで全部分かった」


「完璧じゃない」


 凛先輩が珍しく自分から弱点を認めた。この人は普段、弱みを見せない。掟を作り、スケジュールを管理し、完璧な部長として振る舞っている。でも今日は違う。合評会だから。合評は全員が裸になる場所だ。凛先輩も裸になった。トリックの穴という裸を見せた。


「中盤の密室トリックに穴がある。犯人が窓から出る設定なんだが、窓の大きさと犯人の体格が物理的に矛盾している。合宿中に直そうとしたが、直すと時系列が崩れる。時系列を直すと証拠のシーンが矛盾する。一箇所を直すと別の箇所が壊れる。ドミノ倒しだ」


「先輩でもそういう壁があるんですね」


「ミステリは論理の塊だ。一箇所の矛盾が全体を崩す。"だいたい合ってる"は許されない。帰ってから、トリックの前提から設計し直す。時間はかかるが、妥協はしない」


 凛先輩の目が鋭い。トリックの穴を見つけた時の目だ。怒っているのではなく、挑んでいる。自分の作品の欠陥に挑んでいる。この人は自分に一番厳しい。


 詩織さんが批評した。


「凛先輩の文章は正確です。一文に無駄がない。ミステリの構造が美しい。でも、正確すぎて冷たく感じる場面があります。犯人の動機のところです。犯人がなぜそうしたのか。論理としては説明されていますが、感情としては伝わっていない。読者は論理で納得しても、感情で共感できない。登場人物の感情がもう少し見えると、トリックの衝撃がさらに増すと思います」


「感情か。俺の弱点だな。ミステリは論理が命だと思っていた。でも論理だけでは人は動かない。感情が必要だ」


「弱点ではなく、伸びしろです」


「壮介と同じ言い方をするな」


 凛先輩が少しだけ笑った。トリックに穴がある。感情が足りない。二つの課題を持って帰る。凛先輩でもまだ成長の余地がある。完璧に見える人が完璧じゃないと知ることは、少しだけ安心する。凛先輩も俺たちと同じ場所にいる。みんなが未完成だ。みんなが途中だ。



    *



 詩織さんの番。


 短編小説。一万二千文字。完成原稿。コンクール用の作品。詩織さんが万年筆のキャップを外して読み始めた。


 声が柔らかい。凛先輩の鋭い静けさとは違う。水のような静けさだ。語りの声。言葉が空気に溶けていく。透明な文章が、透明な声で届けられる。嘘がない。飾りがない。嘘がつけない詩織さんの、嘘のない一万二千文字。光の角度。声の温度。指先の震え。普通の人が見えないものが、詩織さんには見えている。見えたものを、そのまま文字にしている。


 読んでいる間、俺は目を閉じた。詩織さんの声だけを聞いた。文章の意味を追うのではなく、声の響きを聞いた。万年筆で紙の上を走る時の音と同じだ。サラサラ。静かで、確かで、止まらない。


 読み終わった。十五分かかった。誰も途中で時計を見なかった。壮介が「すげえ」と小声で呟いた。壮介にしては珍しい小声だ。圧倒されたのだろう。


「千歳」


 凛先輩が言った。


「完成度が高い。四人の中で一番完成に近い。文句のつけようがほとんどない」


「ほとんど、ですか」


「一箇所だけ。ラスト三行。推敲が足りない。言いたいことが言えていない。お前の作品全体が"見たものをそのまま書く"スタイルだ。だがラスト三行だけ"見たもの"ではなく"言いたいこと"を書こうとしている。そこで文体が揺れている。直せ。ラスト三行を"見たもの"で書き直せ。お前のスタイルを最後まで貫け」


「分かりました」


「それ以外は完璧に近い。コンクールで賞を取れるレベルだ」


 凛先輩が「賞を取れる」と言った。この人がそう言うなら、本当にそうなのだろう。凛先輩の批評は厳しいが正確だ。壮介に二十点をつけた人が、詩織さんに「完璧に近い」と言った。基準が一貫している。


 先生が缶コーヒーを置いた。


「千歳。お前の文章は、読者を信じている。説明しすぎない。読者が自分で感じることを信じている。それは才能だ。教えて身につくものじゃない。持っているか、持っていないか。お前は持っている」


「ありがとうございます」


 詩織さんが頭を下げた。耳が少しだけ赤い。褒められた時の赤さだ。嘘チャレンジの赤さとは違う。嬉しさの赤。



    *



 俺の番だ。


 立ち上がった。原稿を持っている。九千四百文字の未完成原稿。ラストの六百文字がない。ゴールは見えているが、道が書けていない。メモ帳に書いた一行を原稿の最後のページに挟んである。「走り続けるには、隣にいる人が必要だった」。この一行に辿り着く道が、まだない。


「先輩、俺の原稿は未完成です。ラストの六百文字が書けていない」


「知っている。途中まで読め。途中の批評を出す」


 手が震えていた。完成した原稿を読むのとは違う緊張がある。未完成を見せる怖さ。終わっていないものを人前に出す恥ずかしさ。サッカーでいえば、練習中のフォームを試合で見せるようなものだ。まだ固まっていない技術を、観客の前で披露する。


 読み始めた。


 走れなくなった主人公の話。膝を壊して、グラウンドを離れて、灰色の日々を過ごして。文芸部に出会って、ペンを握って、「丸いボールから四角い原稿用紙に」走り方を変えて。水に浮いて「止まっていてもいい」と知って。砂浜に言葉を書いて、波に消されて。図書館で隣にいる人のペンの音を聞いて。


 読んでいるうちに声の震えが止まった。言葉が走り始めた。ペンで走るのと同じだ。最初は引っ掻く声。途中から走る声に変わった。中盤に入ると声が安定した。先生が「中盤が強い」と後で言うことになる部分だ。膝が壊れた日の記憶。リハビリの日々。灰色の放課後。ここが一番力のある部分だ。身体の記憶が言葉に変わっている部分。


 九千四百文字目で止まった。


「ここで止まっています。ラストの一行は見つかっています。"走り続けるには、隣にいる人が必要だった"。でもそこに辿り着く六百文字が書けない」


 沈黙。波の音。


 壮介が最初に動いた。鼻をすすった。泣いている。未完成の原稿でも泣く。この男は完成度に関係なく泣く。文章の中に本当の感情があれば泣く。壮介の涙は正確だ。技術や構成は分からないが、感情だけは間違えない。


「陽翔、途中なのにすげえよ」


「壮介、泣くな」


「泣いてない。鼻水だ」


 凛先輩が腕を組んだまま言った。


「朝倉。途中だが、方向は正しい。文体が安定している。身体の感覚で書く文章がお前の武器になっている。"丸いボールから四角い原稿用紙に"は良いフレーズだ。お前だけの文体が形になりつつある」


「ありがとうございます」


「ただし、中盤の回想が長い。テンポが落ちる箇所がある。同じ感情を二回書いている。一回で十分だ。帰ったら中盤を五百文字削れ。削った分をラストに回せ。そうすればバランスが取れる」


「中盤を削って、ラストに回す」


「そうだ。お前は中盤が強い。中盤で走る力がある。だからこそ中盤が長くなりがちだ。削る勇気を持て。削ることも書くことだ」


 先生が缶コーヒーを一口飲んだ。


「朝倉。お前は中盤型だ」


「中盤型?」


「文章のエンジンが中盤にある。冒頭は普通だ。ラストは未完成。だが中盤が異常に強い。読者を引きずり込む力が中盤にある。サッカーでいえばミッドフィルダーだ。中盤を支配する選手。ボールを回し、パスを出し、試合のリズムを作る。お前の文体はそういう型だ」


「中盤型のミッドフィルダー」


「その強みを活かせ。中盤が強い作家は、長編に向いている。短い距離のスプリントより長い距離のマラソンが合っている。お前は将来、長いものを書く人間になるかもしれない。だが今は短編だ。短編では中盤を制御しろ。走りすぎるな。長距離走者が百メートルを走る時は、ペース配分が違う。帰ってから仕上げろ。急ぐな」


 先生の「お前は中盤型だ」。その言葉が、ストンと胸に落ちた。中盤型。確かにそうだ。冒頭は苦手だ。ラストも苦手だ。でも中盤は書ける。書き始めたら止まらない。走り始めたら止まらないのと同じだ。中盤で走るのが俺の武器だ。先生に自分の型を言い当てられた。サッカーで「お前はミッドフィルダーだ」と言われた時と同じ感覚だ。自分の居場所が見つかる感覚。文章の中にも、俺のポジションがある。


 詩織さんが万年筆を握ったまま、俺を見ていた。目が潤んでいた。泣いたのかもしれない。


「朝倉くん。途中でも、あの原稿は——走っていました。読んでいるこちらも走りたくなる文章でした。帰ってから書くラスト六百文字を、私は一番最初に読みたいです」


「一番最初に」


「はい。朝倉くんの原稿のラストを、世界で一番最初に読む人になりたいです」


 世界で一番最初に。大げさだ。でも嬉しかった。完成したら、詩織さんに一番に見せる。それだけで、帰ってから書く六百文字に力が入る。



    *



 合評会が終わった。


 二時間かかった。四人の原稿を全部読んで、全部批評して、全部受け止めた。完成した原稿もあれば、未完成の原稿もある。穴のあるトリックもあれば、千文字に届かないエッセイもある。全員が課題を持っている。全員が帰ってからやることがある。


 壮介は千文字を目指す。本音を書く。カレーうどンの向こう側にある言葉を見つける。凛先輩はトリックの穴を塞ぐ。密室の設計を一からやり直す。詩織さんはラスト三行を推敲する。言いたいことを正確に言葉にする。俺は中盤を五百文字削ってラスト六百文字を書く。中盤型の自分を制御して、ラストに着地させる。先生は全員の原稿に赤を入れる。赤ペンの先生。赤ペンの向こうに先生の愛情がある。


 全員に宿題がある。合宿は終わるが、作品は終わっていない。ここからが本番だ。帰ってから。日常の中で。部室の畳の上で。コンクールの締切に向けて。合宿は種まきだ。収穫は帰ってから。


「午後は自由時間だ。好きに過ごせ」


 凛先輩が言った。合宿で初めての「自由」だ。


「ただし夜はまだイベントがある。夕飯のカレーうどンと、花火と、もう一つ」


「もう一つ?」


「明日は帰る日だ。今夜が最後の夜だ。何をするかは今夜のお楽しみだ」


 壮介が「海!」と叫んで飛び出していった。凛先輩が「一人で行くな!」と追いかけた。先生が「俺は昼寝する」と男子部屋に戻った。


 和室に俺と詩織さんが残った。


「朝倉くん」


「ん?」


「合評会、良かったです。みんなの原稿を聞けて。未完成でも、途中でも、全部良かった。壮介くんの七百八十文字も、凛先輩の穴のあるミステリも、朝倉くんの九千四百文字も。全部が途中で、全部が未来に向かっている」


「未来に向かっている」


「はい。完成した原稿には完成という終わりがある。でも未完成の原稿には、まだ書かれていないページがある。朝倉くんの原稿には六百文字の、壮介くんの原稿には二百二十文字の、凛先輩の原稿にはトリック一つ分の未来がある。それが楽しみなんです」


「詩織さんの原稿は完成してるだろ」


「ラスト三行がまだです。三行分の未来が残っています」


「三行の未来か」


「はい。全員の未来が、帰ってからの日々の中にある。合宿で種を蒔いて、帰ってから花を咲かせる。そういう構造だと思います」


 詩織さんが微笑んだ。午後の光の中で。帰ってから書く六百文字。その六百文字に、合宿の全部を詰め込む。海と山とカレーと花火と朗読と。壮介の泣き顔と。凛先輩の鋭い目と。先生の「中盤型」と。そして、隣にいてくれた人の声を。


 窓の外に海がある。午後の光が水面に反射して、キラキラ光っている。合評会が終わった。全員に課題がある。全員に未来がある。未完成の原稿たちが、帰りを待っている。部室の畳の上で、完成する日を待っている。

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