第32話 砂浜の原稿用紙
# 砂浜の原稿用紙
坂を駆け下りた。
壮介が一番乗りだった。サンダルを脱ぎ捨てて、砂浜に飛び出して、波打ち際で雄叫びを上げた。
「うおおおおお!!」
声が海に吸い込まれていった。波の音が壮介の声を受け止めて、返してこなかった。海は広い。壮介の声量でも敵わない。
「壮介、荷物を散らかすな!」
サンダルが砂浜の三メートル先に飛んでいる。Tシャツも脱ぎ捨てられている。壮介は海パン一枚で波の中に突進していった。浮き輪はまだ膨らんでいない。膨らませる前に海に入った。順番が違う。
砂浜は広かった。白い砂。太陽の光が反射して眩しい。サングラスを持ってくればよかった。凛先輩は持っている。準備のいい人だ。波が規則正しく寄せては返している。ザーッ、サーッ。ザーッ、サーッ。メトロノームみたいだ。詩織さんならこのリズムを「執筆のテンポに最適」と言うだろう。空が高い。雲が少しだけある。入道雲が遠くに一つ。夏の空だ。部室の窓から見る空と同じ空のはずなのに、海の上の空は何倍も広い。
凛先輩が大きなパラソルとビーチチェアを砂浜に設置していた。民宿から借りてきたらしい。パラソルの影の中にビーチチェアを置いて、サングラスをかけて、文庫本を開いた。水着の上にパーカーを羽織っている。日焼け対策が完璧だ。
「先輩、泳がないんですか」
「泳がない。読む」
「プールの時と同じですね」
「プールでも海でも俺の行動は変わらない。読書できる場所があればそこで読む」
「先輩のパラソルの下、いい影ですね」
「座りたければ座れ。ただし静かにしろ」
霧島先生がクーラーボックスを砂浜に運んできた。麦茶とスポーツドリンクが入っている。
「熱中症対策は万全だ」
「先生にしてはまともですね」
「顧問の務めだ」
先生がクーラーボックスの底に何かを隠す動作をした。さりげなく。だが凛先輩のサングラスの奥から鋭い視線が飛んだ。
「先生、底に何か隠しましたよね」
「気のせいだ」
「缶ビールですか」
「麦茶だ。色が似ているだけだ」
「缶の形が違います」
先生が観念した顔をした。缶ビールは没収されなかったが、「生徒の前では飲まないこと」という条件がついた。先生が渋い顔で缶コーヒーを開けた。海辺でも缶コーヒーは不変だ。
*
壮介が海で暴走していた。
まず浮き輪を膨らませた。プーッ、プーッ。砂浜で膨らませるのに五分かかった。膨らませた浮き輪をつけてジャンプダイブした。水面に着水した瞬間、浮き輪が外れて宙を舞った。壮介だけが沈んだ。浮き輪は浮いている。本体が沈んで浮き輪が浮く。意味がない。
「壮介! 浮き輪の意味!」
「浮き輪は浮くもんだ! 俺は沈むもんだ!」
「沈むな!」
壮介を引き上げた。プールの時と同じだ。この男は水に入ると沈む。泳力が向上していない。文字数は上がっているのに泳力は上がっていない。成長の方向が偏っている。
次に壮介が砂の城を作り始めた。両手で砂を掘って、積んで、固めて。最初は小さかった。ヤドカリの家くらいだった。それが十分後にはバケツ三杯分になった。三十分後には壮介の腰くらいの高さになっていた。
「壮介、何を作ってるんだ」
「文芸部城!」
「文芸部城?」
「文芸部の城だ! ここが本棚で、ここがちゃぶ台で、ここがソファ!」
壮介が砂の城に部室の間取りを再現していた。砂でできた本棚。砂でできたちゃぶ台。砂でできたソファ。本棚には砂の本が並んでいる。小さな棒を立てて背表紙に見立てている。ちゃぶ台は貝殻を四つ角に置いて脚にしている。壮介の技術力は低いが想像力は高い。いや、想像力も低いかもしれない。部室を砂で作るという発想が想像力なのか疑問だ。
「壮介、ソファの形が変だぞ」
「ソファは凛先輩の形に凹んでるから変なんだ!」
「凛先輩の凹みを再現したのか!?」
「した! 忠実に! 右側が深く凹んでるだろ? 先輩はいつも右に体重をかけて座るんだ!」
「観察力がそっちに向いてるのか」
凛先輩がパラソルの下から声を上げた。
「壮介。俺の凹みを砂で再現するな。しかも右側が深いのは正しい」
「正しい! やった!」
「褒めてない。気持ち悪いと言っている」
「リスペクトです!」
「リスペクトと嫌がらせは紙一重だ」
波が来た。大きな波だ。砂の文芸部城に波がぶつかった。本棚が崩れた。ちゃぶ台が流された。ソファの凹みが消えた。
「俺の城ー!!」
壮介が叫んだ。三十分の労作が三秒で崩壊した。波は容赦がない。
「壮介、砂の城は波に壊されるものだ。知ってただろ」
「知ってた! でも悔しい!!」
「じゃあもっと上に作れよ」
「上に作ったら海が見えない!」
「優先順位がおかしい」
壮介がヤドカリを発見した。砂浜を歩いている小さなヤドカリ。壮介が手のひらに載せた。
「こいつ、小説のキャラにしよう!」
「ヤドカリを?」
「名前をつけよう! カレー丸!」
「ヤドカリにカレーは関係ないだろ」
「カレー丸は海底でカレーうどンを探す旅に出るんだ!」
壮介がカレー丸を主人公にした即興小説をその場で語り始めた。「昔々、海底にカレー丸というヤドカリがいました。カレー丸はカレーうどンが大好きでした。でも海底にはカレーうどンがありません。カレー丸は決意しました。地上に出よう。地上にはカレーうどンがあるらしい。友達のタコ八が教えてくれました」。
「タコ八!? いつの間にキャラ増えたんだ!」
「即興だから増える! タコ八は情報屋だ!」
「情報屋のタコ!?」
「タコは頭がいいんだよ! 知能が高い!」
「壮介よりは高そうだな」
「俺よりタコが賢いのは認める!」
「認めるのか!」
詩織さんが取材ノートにメモしていた。「大和さんの口頭文学。カレー丸の冒険。海底カレーうどン探索記。登場キャラクター:カレー丸、タコ八(情報屋のタコ)」。記録されてしまった。壮介のカレー丸は取材ノートに永遠に残ることになった。消えない記録だ。砂の小説とは真逆だ。
*
俺も海に入った。
久しぶりの海だ。中学の頃に家族で来て以来。水が冷たい。足首から膝へ、膝から腰へ。ゆっくりと海に入っていく。波が身体を押す。引く。押す。引く。リズムがある。
腰まで浸かったところで、身体を倒した。仰向けに浮いた。水面に身体を預ける。空が見える。青い空。白い雲。入道雲。太陽が眩しい。目を細める。
浮いている。何もしなくても浮いている。身体が水に支えられている。膝に負担がかからない。サッカーでは走ることしかできなかった。走れなくなったら何もできなかった。でも海では浮くだけでいい。何もしなくていい自由がある。浮いているだけで、世界が広い。空が丸く見える。地球が丸いんだと実感する。
プールで詩織さんの手を引いた時のことを思い出した。あの時、詩織さんは水が怖くて動けなかった。俺は手を握って歩いた。今、俺は一人で浮いている。怖くない。水は俺を支えてくれている。走れない俺を、水は受け入れてくれている。
波の音が耳元で鳴っている。水面に耳がつくたびに、ゴボゴボと水中の音が聞こえる。魚がいるのかもしれない。水中の世界は知らない。知らないものがたくさんある。文芸部に入る前は、文章の世界も知らなかった。今は少しだけ知っている。知ることは広がることだ。
凛先輩がパラソルの下から叫んだ。
「朝倉! 今の姿勢で何か書け!」
「浮きながら!?」
「浮遊感の描写を体験で。作家は体験が命だ」
「溺れたら責任取ってくださいよ」
「溺れたらそれも小説のネタだ」
「鬼かよ!」
凛先輩はどこにいても部長だ。パラソルの下でサングラスをかけて文庫本を読みながら、部員に執筆指示を出す。プールの時と変わらない。場所が変わっても人は変わらない。凛先輩は永遠に凛先輩だ。
でも「浮遊感の描写」は確かに面白いかもしれない。水に浮いている時の感覚。重力から半分だけ解放される感覚。足が地面についていない不安と、水に支えられている安心が同時にある。これを文章にしたら、どんな言葉になるだろう。
コンクール原稿に使えるかもしれない。走れなくなった主人公が、水に浮いて、初めて「止まっていてもいい」と気づくシーン。足が動かなくても、水の上なら浮いていられる。立ち止まることが許される場所がある。
*
午後三時を過ぎた頃、詩織さんが波打ち際に座っていた。
足だけ海につけている。波が寄せるたびに、足首が水に浸かる。引くたびに、砂が足の下から流れていく。詩織さんは水が怖い。プールの時に知った。でも足首までなら大丈夫らしい。座って、波と遊んでいる。
詩織さんが指で砂に何かを書き始めた。
万年筆ではなく、指で。砂浜が原稿用紙だ。指がペンだ。湿った砂の上に、文字が刻まれていく。
俺は少し離れたところから見ていた。邪魔したくなかった。詩織さんが何を書いているか、遠くからでは読めない。でも書いている姿は見える。真剣だ。部室で万年筆を握っている時と同じ顔だ。同じ角度で首を傾げて、同じリズムで手を動かしている。ただし道具が違う。万年筆ではなく指。原稿用紙ではなく砂浜。
波が来た。詩織さんが書いた文字の上を、白い波が覆った。引いていった。文字が消えていた。跡形もなく。
詩織さんが微笑んだ。消えたことに。
「詩織さん、何書いてたの」
近づいて聞いた。詩織さんが俺を見上げた。逆光だ。太陽が詩織さんの後ろにある。顔が影になっている。でも微笑んでいるのは分かった。
「小説です」
「砂に?」
「はい。砂に書く小説は、波が消してくれます」
「消えちゃうじゃん」
「消えるからいいんです」
詩織さんが砂の上に座り直した。膝を抱えている。波が足先を洗っている。
「原稿用紙に書くと、残ります。残るから怖いんです。自分の書いた言葉が、紙の上に永遠に残る。それが怖い時がある」
「怖い?」
「はい。自分の言葉が残ることは、嬉しいけど怖い。でも砂に書いた言葉は消えます。波が来て、全部消してくれる。だから自由に書ける。失敗を恐れずに書ける」
「消えるから自由に書ける」
「はい。消えることが、書くことの勇気をくれるんです。コンクールの原稿を書く時、一文字一文字が怖くなることがあります。この言葉で合っているのか。この表現で伝わるのか。でも砂に書くと、怖くない。間違えても消えるから。失敗しても消えるから。だから思い切って書ける」
「それって、下書きみたいなもの?」
「下書きとも違います。下書きは残す前提で書きます。砂は消す前提で書きます。残さない前提の文章は、残す前提の文章より正直です。推敲しないから。考えないから。心のまま書くから」
詩織さんがまた砂に指を走らせた。文字が刻まれていく。何を書いているか、今度は近くから見えた。
「海が青い。空が青い。隣に人がいる」
三行。短い。でも全部本当のことだ。嘘がつけない詩織さんの、嘘のない三行。
波が来た。三行が消えた。詩織さんが笑った。
「消えました」
「消えたな」
「でも覚えています。書いたことは覚えています。砂の上から消えても、頭の中には残ります。だから大丈夫なんです」
書いたものは消えても、書いたことは残る。言葉は消えても、言葉を書いた記憶は残る。詩織さんの理論は不思議だが、なんとなく分かる。花火と同じだ。光は消えるが、光を見た記憶は消えない。
「俺も書いていい?」
「もちろん」
俺は砂に指を立てた。湿った砂は柔らかい。指が簡単に沈む。原稿用紙よりもずっと柔らかい。抵抗がない。ペンで紙を引っ掻く感覚とは全然違う。砂は受け入れてくれる。何を書いても。
文字を書く。二文字。
「走れ」
砂の上に「走れ」と書いた。コンクール原稿のキーフレーズだ。走れ、朝倉。ペンで走れ。でも砂の上では「走れ」だけ書いた。短い。でも十分だ。この二文字が、四ヶ月前の俺を変えた。ノートに最初に書いた一行。「走れ、朝倉。ペンで走れ」。その原点がここにある。砂の上に。
波が来た。「走れ」が消えた。
消えた。でも覚えている。書いたことを覚えている。砂の上から消えても、俺の中には残っている。
「朝倉くん、何を書いたんですか?」
「走れ、って書いた」
「走れ」
「うん。走れ」
詩織さんが少し黙った。何かを考えている。万年筆のキャップを回す代わりに、砂を指先でなぞっている。
「朝倉くんらしい言葉ですね」
「そうかな」
「はい。朝倉くんの言葉は、いつも動いています。走る、書く、進む。止まる言葉を使わない。立ち止まっている時でも、朝倉くんの言葉は走っています」
「止まってる時も?」
「はい。浮いている時も。さっき海に浮いていましたよね。あの時、朝倉くんの目は空を見ていました。止まっていたけど、目が動いていました。何かを追いかけていました」
「追いかけてた? 何を?」
「分かりません。でも、動いていました。朝倉くんは止まれない人なんだと思います。足が止まっても、目が動く。目が止まっても、手が動く。手が止まっても、心が動く。そういう人です」
詩織さんが俺を見ていた。逆光の中で。太陽が後ろから照らしている。顔の輪郭だけが光っている。
何か言おうとした。花火の夜と同じだ。何かが喉まで出かけて、止まった。今回は花火の音にかき消されたんじゃない。自分で止めた。まだ言葉にならない。でもいつか言葉になる。いつか、砂の上ではなく、紙の上に書ける日が来る。
「戻ろうか。日が傾いてきた」
「はい」
立ち上がった。砂が膝についた。払った。詩織さんも立ち上がった。スカートの裾が濡れている。波が思ったより高かったらしい。
「詩織さん、裾濡れてるよ」
「あ、本当ですね。気づきませんでした」
「取材に夢中で?」
「取材ではなく。ただ、書くことに夢中で」
取材ではなく。その言葉が、花火の夜に詩織さんが言った「取材じゃないです」と重なった。詩織さんの中で、「取材」と「本当のこと」の境界線が少しずつ溶けている。
*
夕方の砂浜を五人で歩いた。
西日が海を赤く染めている。波打ち際が金色に光っている。砂浜が一面の赤と金に覆われている。さっきまで青かった海が、今は赤い。同じ海なのに色が違う。詩織さんが言っていた「午後になると別の色になる」は正しかった。
壮介の砂の文芸部城は完全に消えていた。跡形もない。三十分の労作が、午後の波で全部消えた。壮介が「来年また作る」と言った。凛先輩が「来年も壊される」と言った。壮介が「それでも作る!」と叫んだ。壊されても作る。それが壮介だ。
凛先輩がパラソルとビーチチェアを片付けている。文庫本を百ページ読んだらしい。合宿初日の午後だけで百ページ。先生がクーラーボックスを運んでいる。麦茶は空になっている。缶コーヒーも空になっている。缶ビールだけが底で揺れている。手つかずのまま。約束は守ったらしい。
砂浜に俺たちの足跡が残っている。五人分。大きいのが先生。少し大きいのが俺と壮介。小さいのが凛先輩と詩織さん。五人の足跡が砂浜に並んでいる。明日の朝には波で消えるだろう。でも今は残っている。
坂を上った。かもめ荘が見えてきた。白い壁が夕日でオレンジ色に染まっている。朝見た時とは別の建物みたいだ。朝は白くて清潔だった。夕方は暖かくて柔らかい。時間帯で建物の印象が変わる。人間と同じだ。
女将さんが玄関で待っていた。割烹着の上からエプロンをつけている。
「楽しかったかい?」
「楽しかったです!」
壮介が答えた。声がでかい。女将さんが笑った。
「元気な子だねえ。霧島先生の弟子は元気だ」
「弟子じゃないです」と先生が言った。三回目だ。女将さんは聞いていない。
「お風呂沸いてるからね。海の塩を落としておいで。夕飯は自分たちで作るんだって?」
「はい! カレー作ります!」
「キッチンは好きに使っていいよ。食器も鍋もあるからね」
「ありがとうございます!!」
壮介の声が民宿の玄関に響いた。この声の大きさだけで、かもめ荘の歴史に名を残しそうだ。
かもめ荘の引き戸を開けた。畳の匂いがした。潮風の匂いが身体についている。海と畳。二つの匂いが混ざっている。合宿の匂いだ。
今夜は壮介のカレーと、夜の執筆会がある。合宿の一日目が終わりかけている。でもまだ終わっていない。夜がある。夜の文芸部がある。
リュックからノートを取り出した。八千文字の続き。砂浜で感じたことを、紙の上に書く。砂の上ではなく、紙の上に。消えない言葉で。残る言葉で。
詩織さんが言った。「消えるから自由に書ける」。でも俺は残したい。消えない場所に書きたい。走れなくなった記憶も、書くことを見つけた喜びも、砂浜で詩織さんと並んで座ったことも、全部紙の上に残したい。
それが俺の答えだ。詩織さんと俺は、違う書き方をする。詩織さんは消える砂の上で自由に書く。俺は残る紙の上で覚悟を持って書く。どっちが正しいかは分からない。でもどっちも「書く」だ。掟の一番目。書け。砂の上でも、紙の上でも、どこでもいい。書くことが全てだ。
窓の外で波の音が聞こえている。明日の朝、砂浜に行ったら、今日の足跡は消えているだろう。五人分の足跡。壮介の文芸部城。詩織さんの三行の小説。俺の「走れ」。全部消えている。でも全部覚えている。
今夜は、壮介のカレーだ。そして、夜の執筆会だ。海と砂浜と潮風を吸い込んだ俺たちが、畳の上でペンを握る。合宿の夜が始まる。




