第31話 海が見える部室(仮)
# 海が見える部室(仮)
朝八時。駅前。
凛先輩がベンチで文庫本を読んでいた。当然のように先に来ている。到着時刻は不明だが、文庫本のページがそこそこ進んでいることから、少なくとも三十分は前にいたと推測される。
「おはようございます」
「おはよう。時間通りだな」
「はい。五時に起きました」
「壮介か?」
「いえ、俺です」
「お前が五時に起きたのか。成長だな」
成長と言われるほど、俺は普段寝坊していたのだろうか。否定できない。
詩織さんが五分前に到着した。麦わら帽子に白いワンピース。大きなトランクを引いている。車輪がアスファルトの上でガラガラ鳴っている。
「おはようございます。朝焼け、綺麗でしたよ」
「四時に起きたんですか」
「はい。朝焼けを見ながら取材ノートに三ページ書きました」
「出発前に三ページ」
「合宿の前の空気も取材対象ですから」
詩織さんのトランクが異様に重そうだ。中身の七割は本と原稿用紙だと昨日確認した。残りの三割が着替えと洗面用具。荷物の比率がおかしい。
霧島先生がアロハシャツにサングラスで現れた。缶コーヒーを二本持っている。朝の一本目はもう飲み終えたらしい。手に持っているのは二本目と三本目だ。
「先生、朝から三本目ですか」
「合宿中は消費量が上がる」
「上がるんですか」
「緊張するからな」
「先生も緊張するんですね」
「顧問だって人間だ」
先生のアロハシャツは昨日と柄が違った。今日は青と白のハイビスカス。昨日の赤とオレンジよりは落ち着いている。落ち着いているとはいえ、アロハシャツだ。
八時五分。壮介が来ない。八時十分。来ない。凛先輩の文庫本を持つ手に力が入っている。ページをめくる速度が上がっている。怒りのバロメーターだ。
八時十五分。
壮介が全力疾走で現れた。リュックが揺れている。花火がカシャカシャ鳴っている。サンダルがパタパタ鳴っている。朝の駅前に壮介の効果音が響き渡った。
「間に合った!!」
「十五分遅刻だ」
「五時に起きた!」
「なぜ三時間あって遅刻する」
「起きてから二度寝した!」
「二度寝したら意味ないだろ!!」
壮介のリュックから何かがはみ出している。丸い。膨らんでいる。
「壮介、それ浮き輪か?」
「浮き輪! 今回はちゃんと持ってきた!」
「膨らませてあるぞ」
「出発前に膨らませた! 現地で膨らませる手間を省いた!」
「電車に持ち込めるのか、それ」
壮介が浮き輪を見つめた。直径一メートル。改札を通れるかどうか怪しいサイズだ。
「あっ」
「"あっ"じゃない」
空気を抜く作業が始まった。壮介が浮き輪の栓を開けて、全力で押す。プシューと空気が抜ける。駅前に壮介の「ふんっ!」という声と浮き輪のプシューという音が響いている。通行人が振り返っている。朝の駅前で浮き輪の空気を抜いている高校生。不審者に見えないことを祈った。五分かかった。凛先輩が時計を見ている。合計二十分のロス。凛先輩の分刻みのスケジュールが早くも崩壊しかけている。
「壮介。次にこういうことがあったら、本当に置いていくぞ」
「はい! すみません!」
「謝罪の声がでかい。声量を下げろ」
「はい!!」
「下がってない」
*
電車に乗った。ローカル線。ボックス席を二つ占拠した。窓際に座る。エアコンが効いていて涼しい。外は朝から暑い。駅のホームに立っているだけで汗が出た。電車の中は別世界だ。
五人がボックス席に収まっている。一つ目のボックスに俺と壮介と先生。二つ目のボックスに凛先輩と詩織さん。向かい合わせだ。部室ではちゃぶ台を囲んで座るが、電車では向かい合って座る。同じ五人なのに、座り方が変わるだけで空気が変わる。旅の空気だ。
窓の外の景色が変わっていく。住宅街から田園風景へ。田んぼが緑色に広がっている。水面に空が映っている。青い空と白い雲が、田んぼの水面に逆さまに映っている。トンネルを一つ抜けると、山が近づいてきた。木々が増える。空気の色が変わる。窓を通して入ってくる光が、さっきまでの都会の光とは違う。柔らかい。緑がかっている。
壮介が窓にへばりついた。
「海だ!!」
トンネルを抜けた先に、海が見えた。水平線。青い。広い。部室の窓からはグラウンドしか見えない。ここからは海が見える。世界が広がった感覚がある。部室から出て、初めて見る景色だ。文芸部が部室の外に出た。
「海だ海だ海だ!!」
「何回言う」
「三回! 大事なことは三回言う!」
「誰のルールだそれ」
「俺のルールだ!」
「お前のルールは信用できない」
詩織さんが窓の外を見ながら万年筆を握っていた。取材ノートを膝の上に広げている。電車の揺れで文字が少し歪んでいるが、気にしていない。電車の中でもう書き始めている。
「電車の窓枠に切り取られた海の色は、水彩絵具のコバルトブルーを水で薄めたような——」
「もう書いてる!?」
「車窓の海は取材対象です。角度と光の加減で色が変わるんです。今は午前九時の角度なので、午後になると別の色になります。朝と夕方でも違います。全部記録したいんです」
「詩織さん、旅を楽しんでくれ。取材は着いてからでいい」
「取材を楽しんでいます。これが私の旅の楽しみ方です」
この人にとって取材は楽しみだ。取材と楽しみは同義だ。万年筆を握っている時の詩織さんが一番生き生きしている。プールでは怖がっていた手が、ペンを握ると安定する。水の中では震えていた手が、紙の上では自由に走る。
凛先輩がおやつを配った。部長権限で管理しているらしい。一人一袋。壮介だけ小さい袋だ。中身はビスケット三枚。
「俺だけ少なくない?」
「お前は朝食をコンビニで三つ買ってたろ。改札の前で見たぞ。おにぎり二つとメロンパン」
「監視!?」
「監視じゃない。目に入っただけだ」
「先輩の目は広角レンズか!」
「朝から三つ食べた人間に、おやつは少量で十分だ」
「足りない! 電車は腹が減る!」
「電車で腹が減る理由がない。座ってるだけだろう」
「座ってるだけで腹が減るんだ! 壮介の胃は燃費が悪い!」
「燃費を改善しろ」
霧島先生が向かいの席で缶コーヒーを飲みながら車窓を眺めている。窓の外に海が広がっている。先生の目がいつもと少し違う。遠い目だ。
「この路線、学生時代によく乗ったな」
先生がボソッと呟いた。誰にも聞かれていないと思っているだろう。でも俺は聞いていた。先生がこの電車に乗って、かもめ荘に通っていた。若い頃の先生。小説家を目指していた頃の先生。原稿用紙をリュックに詰めて、この同じ窓から同じ海を見ていた。今、同じ電車に俺たちが乗っている。時代は違うが、線路は同じだ。海も同じだ。窓の外の景色は、十五年前も今日も変わっていない。変わったのは、乗っている人間だけだ。
*
バス停から坂道を歩いた。
バスを降りた瞬間、空気が変わった。都会の空気じゃない。山の空気だ。湿っていて、緑の匂いがして、少しだけ甘い。蝉の声がすごい。部室の窓の外で聞く蝉の声とは密度が違う。ここは山の中だ。木々に囲まれている。日差しが木の葉を通してまだらに降ってくる。木漏れ日だ。道が光の斑点で埋まっている。
潮風が下から吹き上げてくる。海が近い。木の間から、ちらちらと青い海が見え隠れしている。山なのに海が見える。不思議な場所だ。先生が「海と山の間」と言っていた意味が分かった。
坂を上る。アスファルトではなく、土の道だ。木の根が道を横切っている。歩きにくい。でも気持ちいい。足の裏に土の感触がある。スパイクで走った芝生とは違う感触だ。でも「地面を踏んでいる」感覚は同じだ。
十分。壮介が汗だくだ。リュックが重い。花火を三分の一に減らしたのに、おやつが大量に残っている。「リュックが肩に食い込む」と唸っている。詩織さんのトランクの車輪が坂道で空転している。俺が手伝って引いた。「ありがとうございます」と小さく言われた。先生は缶コーヒーを飲みながら涼しい顔で歩いている。アロハシャツが潮風に揺れている。この人は体力があるのか、ないのか分からない。凛先輩が先頭を歩いている。足が速い。待ってくれない。先頭を走るのは部長の性だ。
坂を登り切った。
目の前に、民宿があった。古い二階建て。白い壁にエメラルドグリーンの屋根。瓦が少し苔むしている。玄関に「ようこそ」の木製看板。看板の文字は少し色褪せている。年月を経た色だ。でも読めないほどではない。誰かがたまに塗り直しているのだろう。その横に小さな看板。「民宿かもめ荘」。かもめの絵が描いてある。手描きの、少し下手な絵だ。でも味がある。
建物の向こうに海が見えた。屋根の上に水平線がある。空と海の境目が、屋根のラインと重なっている。
玄関からおばあさんが出てきた。小柄。白い割烹着。しわが深い。でも目が明るい。よく笑う目だ。
「いらっしゃい。霧島先生のお弟子さんたちかい? 話は聞いてるよ。文芸部だってね」
「弟子じゃないですが。まあ、よろしくお願いします」
先生が頭を下げた。先生がこの女将さんの前で見せる表情は、部室で見せる表情とは違った。少しだけ柔らかい。少しだけ若く見える。缶コーヒーを持つ手が、いつもより力が抜けている。
「あんた、変わらないねえ。学生の頃と同じ顔だよ」
「もう十年以上前ですよ」
「十年なんてあっという間さ。あの頃もアロハ着てたじゃないか」
「覚えてるんですか」
「忘れないよ。書く人のことは、忘れないもんだ」
女将さんの言葉に、先生が一瞬だけ口を開きかけた。何か言おうとして、やめた。缶コーヒーを飲んだ。いつもの蓋だ。でもその蓋の裏に、何かが隠れているのを、俺は見た気がした。
壮介が小声で聞いてきた。
「先生、ここに何回来たの?」
「学生の頃は毎年。教師になってからは来ていない。今日が久しぶりだ」
「何年ぶり?」
「十五年くらいか」
「十五年ぶりに弟子を連れてきたんですね」
「弟子じゃないと言ってるだろう」
でも先生の声は否定の割に穏やかだった。
館内を案内された。一階に食堂。大きなテーブルが一つ。キッチン。使用可。浴場は男女別。二階に客室二部屋。そして、二階の奥に小さな和室があった。
引き戸を開けた。
畳の匂いが最初に来た。部室と同じ匂いだ。でも少しだけ違う。部室の畳は学校の畳だ。ここの畳は、潮風を吸った畳だ。ほんのわずかに塩の匂いが混ざっている。
六畳。窓が大きい。部室の窓よりずっと大きい。窓を開けると、海が一面に広がっていた。水平線まで何もない。青い。広い。光が跳ねている。午前の海は白く光っている。部室の窓からはグラウンドが見える。ここの窓からは海が見える。同じ窓なのに、向こう側が全然違う。
風が入ってくる。潮の匂い。部屋の中にちゃぶ台が一つ。部室のちゃぶ台より少し小さい。でもちゃぶ台はちゃぶ台だ。五人で囲める。古い本棚が壁際にある。本が並んでいる。文庫本。ハードカバー。背表紙が日に焼けて色が変わっている。部室の本棚と同じように、誰かの読んだ本が並んでいる。
凛先輩が窓辺に立った。海を見ている。風が凛先輩の髪を揺らした。振り返った。
「ここを部室にしよう」
壮介が飛び込んできた。
「部室だ!! 海が見える部室!!」
「仮の部室な」
「仮じゃない。三日間はここが本部だ」
詩織さんが和室に入ってきた。窓の外の海を見て、息を呑んだ。
「素敵です。波の音が聞こえます。ここで書いたら最高の原稿が書けます」
「書けるかどうかはお前次第だ。場所のせいにするなよ」
霧島先生が和室に入ってきた。本棚の前で立ち止まった。背表紙を指でなぞった。
「俺の学生時代もこの部屋で書いてた」
全員が振り返った。
「先生!?」
「あの本棚、俺が寄贈したやつだ」
「先生が!?」
「学生の頃、ここに通って原稿を書いてた。本が増えすぎて持って帰れなくなったから、女将さんに預けた。そのまま本棚になった」
「聞いてませんでした!!」
「言ってなかったからな」
先生が本棚から一冊を引き抜いた。古い文庫本だ。ページが黄ばんでいる。表紙が色褪せている。でも本は生きている。先生がページを開いた。しおり代わりの紙片が挟まっていた。先生が紙片を見つめた。何かが書いてある。先生の字だ。十五年前の先生の字。先生がそれを元に戻して、本を棚に返した。
「そのうち、新しい本も足すかもしれない」
先生が呟いた。独り言のように。でも俺たちに聞こえる声で。
俺たちはその本棚の前に座る。同じ畳の上で。同じ海を見ながら。先生が書いていた場所で、俺たちが書く。時間は繋がっている。場所が記憶を持っている。畳も、本棚も、窓からの海も、全部が十五年分の「書く」を覚えている。
*
部屋割りが決まった。男子部屋(俺、壮介、霧島先生)と女子部屋(凛先輩、詩織さん)。男子部屋は海側。女子部屋は山側。凛先輩が「海側がいい」と言ったが、先生が「女子の安全のために山側にしろ。海側は男子が守る」と言って、凛先輩が「何から守るんですか」と聞いて、先生が「知らない。顧問としての建前だ」と答えた。
男子部屋。布団を三枚並べた。壮介が真ん中だ。
「スリーマンセル!!」
「軍隊か」
「合宿は戦いだ!」
「何と戦うんだ」
「原稿と!」
「それは正しい」
壮介がリュックからおやつを大量に出して、枕元にタワーを建設し始めた。ポテトチップス、チョコレート、グミ、せんべい。積み上がっていく。
「壮介、虫が来るからやめろ」
先生が注意した。
「虫!? 来るの!?」
「山の中だぞ。窓を開けたら入ってくる」
「お菓子タワーが崩壊する!」
「崩壊以前に食べ物を枕元に置くな」
壮介が渋々お菓子をリュックに戻した。お菓子タワーの夢は三十秒で終わった。
女子部屋からは凛先輩の声が聞こえてきた。
「千歳、トランクから本を出すな。全部出したら部屋が本棚になる」
「でも並べたいんです。読む順番に」
「二泊三日で五冊も読めないだろう」
「読めます」
「読めても出すな。足の踏み場がなくなる」
「凛先輩は何冊持ってきましたか?」
「三冊。それが適正量だ」
「三冊は少ないです。万が一、三冊とも読み終わったら——」
「読み終わったら寝ろ」
「寝るのはもったいないです。合宿の夜は書く時間です」
「書くならいい。読むのは三冊まで」
詩織さんが五冊の参考文献を並べようとして凛先輩に止められている。最終的に三冊は棚に並べて、残り二冊はトランクの中に残すことで妥協が成立したらしい。この二人の共同生活は、本の量をめぐる戦いになりそうだ。でもたぶん、夜になれば二人で原稿を読み合っている。
*
二階奥の和室に全員が集合した。海が見える仮の部室。凛先輩がスケッチブックを取り出した。ホワイトボードがないから、スケッチブックで代用する。マーカーでスケジュールを書く。
「本日の予定。午後は海。夕方に買い出し。夜は壮介カレーと執筆会。明日の合評は朝十時から」
「午後は海!! 早く行こう!!」
「その前に。全員、原稿の進捗を三十秒で報告」
「先に海!!」
「先に報告」
「報告! 七百二十文字! 電車の中で二十文字書いた!」
「電車の中で書いたのか。偉いぞ」
「褒められた!!」
「褒めて伸ばす方針に切り替えた。合宿中に千文字を超えろ」
「超える!! 海を見ながら書く!! カレーを食べながら書く!!」
「食べながら書くと原稿が汚れるからやめろ」
「じゃあ食べた後に書く!!」
「それでいい」
凛先輩がスケッチブックをパタンと閉じた。
「よし。海に行くぞ」
「やった!!」
壮介が立ち上がった。全員が立ち上がった。壮介がしぼんだ浮き輪を膨らませ始めた。プーッ。プーッ。顔が赤くなっている。肺活量の勝負だ。凛先輩が見かねて「ポンプは持ってこなかったのか」と聞いた。壮介が首を横に振った。「花火の代わりに抜いた」。花火のスペースにポンプを入れていれば良かったのに。優先順位の問題がここでも出ている。
窓の外に海がある。坂を下れば十分で着く。この三日間、あの海と、この畳と、五人の声が俺たちの全部だ。
窓から風が入ってきた。潮風。原稿用紙がふわりと持ち上がった。ペーパーウェイト代わりに文庫本を載せた。畳の匂いと潮の匂いが混ざっている。今まで嗅いだことのない匂いだ。部室の畳の匂いは知っている。海の潮の匂いも知っている。でもこの二つが同時に存在する匂いは初めてだ。
これが、合宿の匂いか。
ペンを手に取った。コンクール原稿のノートを開いた。八千文字の続き。ここで、残りの二千文字を書く。走れなくなった主人公が、新しい走り方を完全に手に入れるラストシーン。この海と、この畳と、この風の中で書けば、きっと書ける。
書き始める前に窓の外を見た。水平線。空と海の境目が一本の線になっている。あの線の向こうに何があるか分からない。でもここにいることは分かる。ここに来てよかった。
引き戸を開けて、階段を降りた。玄関で靴を履いた。外に出た。潮風が顔に当たった。蝉の声。波の音。太陽が真上にある。壮介が「海だー!!」と叫んで坂を駆け下りていった。凛先輩が「走るな! 転ぶぞ!」と追いかけた。詩織さんが万年筆を握ったまま微笑んでいた。先生が缶コーヒーを開けた。
合宿が始まった。俺たちの最初の夏が、今、ここで始まった。海が待っている。原稿が待っている。五人の夏の、この三日間の全部が、待っている。




