第30話 合宿前夜──俺たちの夏が始まる
# 第三十話 合宿前夜──俺たちの夏が始まる
花火大会から四日。八月第二週の水曜日。合宿は明日。かもめ荘。二泊三日。
合宿前日。部室。最終打ち合わせ。
引き戸を開けると凛先輩がホワイトボードの前に立っていた。三日間のスケジュールが分刻みで組まれている。
「一日目。八時駅前集合。十一時かもめ荘チェックイン。十三時海。十五時帰着。十八時夕食カレー。十九時半夜の執筆会。二十二時就寝」
「二日目。六時半起床。七時朝の散歩。九時合評会。十三時自由時間二時間。十五時執筆。十九時半花火。二十一時執筆会。二十三時就寝」
「三日目。六時半起床。七時朝の執筆で最終原稿提出。九時朝食。十時チェックアウト。十二時帰宅」
「先輩、分刻みは息苦しくない?」
「自由時間はちゃんと確保してある」
「二時間だけ!?」
「十分だろ」
「十分じゃない! 夏の合宿で自由時間二時間は監獄だ!」
「監獄ではない。合宿だ。書きに行くんだ」
「でも海が! 海があるのに!」
「海は初日に行く。二時間。それ以外は執筆と合評会」
「壮介の不満は理解できるけど凛先輩のスケジュールは合理的だ」
「合理的って。遊ぶ時間がない」
「遊びに行くんじゃない。書きに行く」
「書きながら遊べないのか」
「遊びながら書け。順番が違う」
「先輩が『遊びながら書け』って。どっちが優先なんですか」
「書くのが優先だ。遊びは息抜き」
「息抜きが二時間は短い」
「壮介には短い。壮介以外には十分だ」
「俺だけ短いのか」
「お前だけ遊びの欲求が人の三倍ある」
「三倍って。壮介の遊び欲求が三倍なのはデータで証明されてますか千歳さん」
「されてます。壮介くんの遊び関連発言頻度は他の部員の三・二倍です」
「三・二倍。千歳さんが小数点まで出した」
「出しました。正確です」
「俺の行動予定は? 顧問として」
「先生は安全管理と料理担当です」
「料理!?」
「民宿のキッチンが使えるそうなので。先生、料理できますよね」
「カップ麺なら」
「カップ麺は料理ではありません」
「お湯を沸かすのも調理の一種だ」
「調理ではありません」
「先生の調理能力がカップ麺限定」
「限定ではない。焼きそばも作れる」
「焼きそばも?」
「袋の焼きそば。お湯で戻すやつ」
「それもカップ麺と同じカテゴリです先生」
「カレーなら作れる!」
「壮介」
「俺のカレーは美味い。カレーうどンの研究で鍛えた舌がある」
「カレーうどンとカレーは別物だぞ」
「同じだ! カレーの延長がカレーうどンだ! カレーはカレーうどンの母だ!」
「壮介が哲学的なことを言ってる」
「哲学だ。カレー哲学」
「初日の夜はカレーで決定」
凛先輩がホワイトボードに「カレー(壮介担当)」と書き足した。
「やった! 料理長! 編集長に続いて料理長!」
「壮介の肩書きが増えていく。編集長兼アイデアマン兼広報担当兼料理長」
「四つ目の肩書き!」
「壮介は書く以外の全ての役割を引き受けてる」
「引き受けてる。壮介のマルチタレント」
「書くことだけがマルチに含まれてない」
「含まれてない。書く才能は別枠だ」
「別枠にするな。書け」
「カレーうどンも作れますか」
「千歳さんがカレーうどンに興味を」
「できる! カレーを作ったあとに残りのルーでうどンを茹でれば完成だ!」
「カレーうどンは壮介さんの魂の食べ物ですから」
「千歳さんが真面目な顔で魂の食べ物って言った」
「真面目です。データとしても壮介くんとカレーうどンの結びつきは統計的に有意です」
「統計的に有意なカレーうどン愛」
◇
持ち物チェック。凛先輩が「各自荷物を持ってきているか確認する」と宣言。
「壮介、そのリュック何リットルだ」
「七十」
「多すぎる。二泊三日だぞ」
「入りきらないかもしれないから」
「入りきらない荷物って何だよ」
壮介がリュックの中身をちゃぶ台の上に広げ始めた。
「花火セット。手持ち花火三十本以上。線香花火二十本。ロケット花火五本」
「多すぎる」
「浮き輪。膨らませ済み。リュックに押し込んだから変形してる」
「膨らませて持ってくるなよ」
「虫取り網」
「虫は取らなくていい」
「バーベキュー用トング」
「バーベキューの予定ないですよ壮介」
「ポータブルスピーカー」
「いるか?」
「いる。音楽は大事だ」
「サンダル。水着二着。タオル三枚」
「ここまではまあいい」
「日焼け止め」
「壮介も日焼け止め持ってくるのか」
「持ってくる。壮介の肌も大事だ」
「カレーのルー三箱」
「三箱! 多すぎる!」
「三日分だ。一日一箱」
「カレーは初日だけだろ! 三日連続カレーにする気か!」
「三日連続カレーでもいい」
「よくない」
「そして——筆記用具。ボールペン一本」
「文芸部の合宿で筆記用具がボールペン一本だけ!?」
凛先輩の声量が壮介レベルに達した。
「足りないかな」
「ノートは!?」
「あ」
「『あ』じゃない!!」
「壮介の荷物にノートが入ってない。文芸部の合宿でノートなし」
「カレーのルーは三箱あるのにノートがゼロ」
「優先順位が完全に狂ってる」
「花火三十本とカレーのルー三箱を持ってきてノートを忘れるのか」
「花火とカレーは絶対必要だろ」
「ノートのほうが絶対必要だ。文芸部の合宿だぞ」
「文芸部でも花火は」
「花火よりノートが先だ。明日までにノート三冊持ってこい」
「三冊!?」
「一日一冊。二泊三日で三冊」
「壮介がしょんぼりしてる。花火を前にして」
「花火を十本に減らせ」
「十本は少ない!」
「十分だ」
「二十本にしてくれ」
「十五本が最終ラインだ」
「十五本で手を打つ!」
「壮介と凛先輩が花火の本数で交渉してる。予算交渉と同じ構図だ」
「予算交渉よりシリアスだ。花火は壮介の生命線」
「花火は生命線ではない。ノートが生命線だ」
「浮き輪は抜け。現地で膨らませろ」
「現地で膨らませるのか」
「膨らませろ。リュックの中で浮き輪が他の荷物を潰してる」
「だからカレーのルーの箱が凹んでるのか」
「壮介の荷物管理能力が壊滅的だ」
「壊滅的ではない。創造的だ」
「創造的に壊滅してるだけだろ」
「バーベキュー用トングも外せ。使わない」
「使うかもしれない」
「使わない。カレーにトングは不要だ」
「カレーうどンの素は」
「没収」
「入れてないけど」
「本当か」
「本当だ」
全員が壮介の顔を見た。嘘チャレンジの教訓。壮介の目が泳いでいた。
「入れてるだろ」
「入れてない!」
「目が泳いでるぞ」
「泳いでない!」
「リュックの底を見せろ」
凛先輩がリュックの底をひっくり返した。靴下の中に小袋。カレーうどンの素。二食分。
「没収」
「先輩!!」
「靴下の中に隠すとは。壮介の発想力が変な方向に」
「変じゃない。戦略的だ」
「戦略的に靴下に隠すのか」
「凛先輩の捜査が壮介の隠し場所を見抜いた」
「ミステリの部長だからな。隠し物を見つけるのは得意だ」
「先輩のミステリスキルが日常で発揮されてる」
「発揮される。ミステリスキルは万能だ」
「壮介くんの隠し物発見率は百パーセントです」
「百パーセント! また千歳さんに」
「千歳さんの前回のデータ通り。壮介は隠すのが下手」
「下手じゃない。先輩が上手すぎるだけだ」
「どっちにしろバレてるのは同じだ」
「俺の荷物チェック。着替え三日分、ノート三冊、万年筆、ペンケース、文庫本二冊、コンクール原稿の下書き九千二百字分。洗面用具。タオル。サンダル」
「朝倉は合格。過不足ない」
「ありがとうございます」
「万年筆を持ってくるようになったか。千歳の影響だな」
「はい。千歳さんに影響されて」
「千歳の影響力は大きい」
「大きいです。朝倉くんの万年筆購入は私の取材活動の副産物です」
「副産物って。千歳さんの取材が俺の持ち物に影響してるのか」
「影響してます。朝倉くんの文房具選択は私の影響を受けています。データ的にも」
「千歳さんが朝倉の文房具選択まで把握してる」
「把握してます。朝倉くんのペンの種類、ノートのブランド、インクの色。全てデータベースに」
「千歳さんのデータベースに俺の文房具情報が」
「入ってます。取材の基本です」
「千歳さんの荷物チェック」
「着替え三日分プラス予備一日分。雨で濡れた場合に備えて」
「予備一日分って。千歳さんの準備が完璧」
「万年筆三本。替えインク付き」
「三本!」
「一本がインク切れになっても二本で対応できます」
「千歳さんの万年筆のリスク管理が企業レベル」
「企業レベルです。取材は止められません」
「原稿用紙百枚」
「百枚は最低限です」
「最低限が百枚。千歳さんの最低限が高い」
「取材ノート新品二冊。合宿専用の新しいノートを用意しました」
「合宿専用ノート。千歳さんの準備力」
「参考文献五冊」
「五冊! 合宿で読むんですか」
「読みます。執筆の合間に」
「合間に五冊は多くない?」
「足りないかもしれません。持っていけるだけ持っていきたかったのですがカバンの容量の限界で」
「千歳さんの荷物が移動式図書館だ」
「移動式図書館です。はい」
「千歳は荷物が重すぎる。腰を痛めるぞ」
「大丈夫です。慣れてますから」
「何に慣れてるんだ」
「本を運ぶことに。積読タワーの三十二冊を運んだ経験が活きています」
「あの三十二冊は運搬訓練だったのか」
「凛先輩の荷物」
「着替え。ノート二冊。ペン。文庫本三冊。スケジュール表。最小限」
「先輩の荷物が効率的すぎる。無駄がない」
「無駄は敵だ」
「先輩のミステリ構造と同じだ。余計な要素がない」
「先生の荷物」
「着替え。缶コーヒー六本。赤ペン。替えインク。文庫本一冊。カップ麺三個」
「先生、カップ麺三個は」
「非常食だ」
「民宿が食事出してくれますよ」
「精神安定剤だ」
「缶コーヒーとカップ麺が精神安定剤って。先生の精神は何で安定するんですか」
「炭水化物とカフェイン」
「先生の精神安定剤が炭水化物とカフェイン。栄養学的に」
「栄養学は関係ない。心の問題だ」
「先生の心がカップ麺で安定するの、文芸部の謎だ」
「謎ではない。事実だ」
◇
持ち物チェック完了。全員が合格。壮介はノート三冊を明日までに追加で持ってくる条件付き合格。
「最後に確認。コンクール原稿の進捗を全員報告しろ」
「千歳」
「恋愛短編『窓辺の手紙』最終稿完成。八千二百字。合宿で最終確認して提出します」
「完成してるな。合格」
「凛先輩は」
「ミステリ短編『密室と紅茶』最終稿完成。六千五百字」
「先輩も完成。さすが」
「壮介は」
「八百五十文字! 合宿で千文字超える!」
「コンクールには出さないが千文字到達を合宿の目標にしろ」
「する! 千文字! 壮介の千文字!」
「朝倉は」
「九千二百字。冒頭が未定。合宿で冒頭を決めて完成させます」
「冒頭だけか。合宿で決めろ。海を見て決まるかもしれない」
「海を見て冒頭が決まるんですか」
「わからない。でも場所を変えると見えるものが変わる。部室で見えなかったものが海辺で見えるかもしれない」
「先輩が文学的なこと言ってる」
「文学的ではない。経験だ。ミステリのプロットが詰まったとき古書店に行くと解ける。場所の力だ」
「場所の力」
「かもめ荘には場所の力がある。先生が十年前に一晩で短編を書いた場所だ」
「先生の十年前の力が残ってるかもしれない」
「残ってない。あれは俺の力だ。場所の力ではない」
「先生が自分の力を主張してる」
「主張する。缶コーヒーの力だ」
「先生の力が缶コーヒーに帰結した」
「帰結する。全ては缶コーヒーに」
「先生、合宿で自分の原稿は書きますか」
「書かない」
「先生がまた断定的に書かないって」
「断定した。顧問の仕事は赤ペンだ」
「先生の赤ペンは文芸部の財産ですけど。先生自身の文章も読みたいです」
「朝倉がまた先生に書いてほしいと」
「ほしいです。何度でも言います」
「何度言っても書かない」
「先生の『書かない』がいつか『書く』に変わる日を待ちます」
「待つな。来ない」
「先生が来ないって言ってる。でも原稿の最後に『続きはいつか』って」
「あれは十年前の俺だ」
「十年前の先生が書いた約束はまだ有効ですよ」
「有効期限が切れてる」
「先生の約束に有効期限はないです」
「ある。十年で期限切れだ」
「先生が自分の約束に有効期限をつけてる。悲しい」
「悲しくない。合理的だ」
「合理的でも悲しいです」
「缶コーヒーの味が変わった。やめてくれ」
「先生の缶コーヒーが感情で味変した。また」
◇
帰り支度。先生が「明日八時に駅前。遅刻するなよ。特に壮介」と去った。
凛先輩が西口で分かれた。
「明日から合宿だ。全員コンクールに向けて全力で書け。壮介はカレーも全力で作れ」
「作る! 壮介のカレーは文芸部最強だ!」
「まだ作ってないのに最強と言うな」
「最強の予定だ」
「先輩、明日楽しみですね」
「楽しみだ。楽しみと言うと気が緩むから言わないが」
「今言いましたよ先輩。楽しみって」
「言ってない」
「言った。聞こえた」
「壮介の耳が」
「いい。壮介の耳は凛先輩の本音も拾う」
「本音ではない」
「本音だ。先輩は合宿が楽しみだ」
「うるさい。帰れ」
「先輩が照れて追い払ってる」
「追い払ってない。帰宅指示だ」
三人になった。千歳さんと壮介と俺。
「朝倉くん」
「はい」
「明日から合宿ですね」
「ですね。かもめ荘」
「朝倉くんの冒頭が合宿で決まるといいです」
「決まるといいです。千歳さんの隣で」
「千歳さんの隣で。朝倉が自分から言った」
「言った。もう壮介に拾われる前に自分で言う」
「朝倉が先手を打った。成長だ」
「成長って。壮介の拾いに先手を打つのが成長なのか」
「成長だ。壮介に拾われる前に自分で言えるようになった」
「千歳さんの隣で書きたいって自覚してるんですね朝倉くん」
「自覚してます。千歳さんの隣は書きやすいから」
「書きやすいからですか」
「書きやすいからです。それだけです」
「それだけか?」
「壮介」
「それだけかって聞いてるんだ」
「それだけだ」
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
「お前の嘘は千歳さんと同じくらいバレバレだぞ」
「バレバレじゃない」
「バレバレ。でもいい。お前のペースで」
「壮介の定番台詞が出た」
「定番だ。何度でも言う」
「壮介の『お前のペースで』がもう何回目か」
「数えてない。無限だ。壮介のペースで催促は壮介理論の最終形態だ」
「最終形態って。壮介理論に最終形態があったのか」
「ある。お前のペースで、が最終形態。これ以上の理論はない」
「壮介理論の到達点がお前のペースで」
「到達点だ。壮介の哲学の完成形」
分かれ道。壮介と別れた。
「じゃあ明日、駅で」
「駅で。八時。遅刻するなよ」
「しない。五時に起きるから」
「早すぎないか」
「忘れ物しそうだから早く起きて確認する」
「自覚があるなら対策しろ」
「対策はしてる。リュックの横にメモを貼った。『ノート! ペン! カレーのルー! 忘れるな!』」
「カレーのルーがメモに入ってるのは壮介だけだ」
「壮介だけだ。それでいい」
「壮介、合宿楽しみか」
「楽しみだ。修学旅行よりワクワクする」
「なんでだろうな」
「自分たちで決めたからだろ。行き先もスケジュールもやることも。全部自分たちで。修学旅行は学校が決めたやつだったけど合宿は俺たちが決めた」
「壮介の分析が的確だ」
「的確だろ」
「自分たちで作った合宿だからワクワクする。いい理由だ」
「いい理由だ。壮介の夏は自分で作る」
「壮介、ノート忘れるなよ」
「忘れない。三冊買った」
「カレーうどンの素はもう諦めろ」
「諦めない。合宿先で調達する」
「調達って。かもめ荘にカレーうどンの素があるのか」
「わからない。でも壮介は諦めない」
「壮介のカレーうどン愛が合宿でも止まらない」
「止まらない。壮介のカレーうどン愛は永遠だ」
「じゃあ明日」
「明日。俺たちの夏が始まる」
「壮介がかっこいいこと言った」
「言った。かっこいいだろ」
「かっこいいよ」
壮介が手を振って去っていった。七十リットルのリュックを背負って。大きな背中が夕暮れに消えていく。
◇
家に帰った。机の上にカバンが開いている。明日の荷物。全部確認した。忘れ物はない。
ノートを開いた。「走れ、朝倉」の第一稿。九千二百字。最後の一文。「走れ、朝倉。ペンで走れ」。
明日からこの続きを海と山で書く。冒頭を決める。完成させる。提出する。
四月に入部してから四ヶ月が経った。カレーうどンのエッセイから始まって、合評会、ミステリ講座、プリン事件、取材ノート、田中との再会、ジャンル迷走、テスト勉強、体育祭、実況小説、積読タワー、編集長、手紙、予算交渉、嘘チャレンジ、古書店、プール、図書館、花火。
振り返ると密度がおかしい。部室の六畳の中でこんなにたくさんのことが起きた。
そして明日。部室の外に出る。初めて。合宿という形で。
四ヶ月で灰色の放課後が虹色に変わった。走れなくなった少年が書くことで走り始めた。部室という居場所を見つけた。仲間を見つけた。
ベッドに入った。目を閉じた。
明日。俺たちの最初の夏が始まる。
もっと長くておかしい夏になる。予感がそう言っている。
掟の一番目。書け。
書く。明日から。海と山で。仲間と一緒に。
俺たちの夏が、始まる。
◇
夜。スマホが鳴った。グループ「文芸部」。
壮介から。
「ノート三冊買った! コンビニで! 百円ノート!」
「壮介が三冊買えた。成長だ」
「成長だ。壮介は成長する。ノートを買える大人になった」
「ノートを買えるのは大人の基本だぞ」
「壮介にとっては大きな一歩だ」
「大きな一歩だ。壮介にとってのアポロ十一号」
「壮介がノート購入をアポロ十一号に例えた。スケールが」
「スケールは壮介だ」
「明日の持ち物最終確認。各自チェックしろ」
「チェックしました。万年筆三本。ノート。原稿用紙百枚。参考文献五冊。準備完了です」
「千歳さんの荷物が移動式図書館のまま」
「移動式図書館です。誇りを持ってます」
「チェックした。着替え。ノート。万年筆。原稿。文庫本。OK」
「朝倉は過不足なし。合格」
「壮介は」
「チェックした! ノート三冊追加! 花火十五本! 水着! カレーのルー! 完璧!」
「カレーうどンの素は」
「入れてない」
「本当か」
「本当だ。没収されたから」
「壮介が没収されたことを受け入れた」
「受け入れてない。合宿先で調達する計画だ」
「壮介が合宿先調達計画を立ててる」
「立ててる。壮介の作戦は止められない」
「凛先輩が壮介の計画を阻止しに行くぞ」
「阻止は困難だ。壮介のカレーうどン愛は凛先輩の監視を超える」
「超えない。私の監視は完璧だ」
「先輩の監視と壮介のカレーうどン愛の戦いが合宿でも続く」
「続く。永遠の攻防だ」
「先生の持ち物チェックは」
「缶コーヒー六本。赤ペン。カップ麺三個。着替え。OK」
「先生の持ち物の半分が飲食物」
「飲食物は精神安定剤だ」
「先生、明日はレンタカーですよね。安全運転で」
「安全運転だ。制限速度を守る」
「先生が制限速度を守ると宣言した。普段は守ってるんですか」
「守ってる。たぶん」
「たぶんが不安だ」
「たぶんをつけるのは壮介の影響だ」
「先生に壮介のたぶんが伝染してる」
「伝染してない。偶然だ」
「千歳さんの偶然と先生のたぶんが混じってる」
「混じってない」
「混じってる。文芸部の口癖が伝染してる」
「明日八時。駅前。全員遅刻するな」
「はい」
「しない! 五時に起きる!」
「はい。六時半に起きます」
「はい」
「おやすみ。明日は早い」
「おやすみ。合宿だ」
「合宿! 俺たちの夏!」
「おやすみなさい。明日楽しみです」
「おやすみなさい」
「おやすみ。缶コーヒーの在庫を最終確認して寝る」
「先生のおやすみが缶コーヒー。伝統」
「伝統だ」
「おやすみ!! 明日から文芸部の夏が始まる!!」
「壮介の感嘆符で締まった」
「締まった。壮介の感嘆符は文芸部のエンディングテーマだ」
「エンディングテーマにするな」
「する。壮介の感嘆符は永遠だ」
「おやすみ」
「おやすみ」
スマホを置いた。
明日。朝八時。駅前。電車とバスでかもめ荘へ。海沿いの山の中腹。先生の学生時代の民宿。
コンクール原稿の冒頭を決める。千歳さんの恋愛短編を読む。凛先輩のミステリを読む。壮介がカレーを作る。全員で合評会をやる。花火をする。海で泳ぐ。
全部、明日から。
俺たちの夏が始まる。
掟の一番目。書け。明日から。海と山で。五人で。
◇
翌朝。五時半。目覚ましより先に目が覚めた。
合宿の日だ。
窓を開けた。八月の朝。まだ涼しい。空が白んでいる。蝉がまだ鳴いていない。早朝の静けさ。
カバンを確認した。着替え。ノート三冊。万年筆。インク。ペンケース。文庫本二冊。コンクール原稿の下書き。全部ある。忘れ物なし。
万年筆を手に取った。千歳さんの影響で買った千円の万年筆。青黒いインク。この万年筆で「走れ、朝倉」を書いた。五十行の断片から九千二百字の第一稿まで。全部このペンで。
今日、このペンで冒頭を書く。かもめ荘で。海を見ながら。千歳さんの隣で。
壮介のLINEが来た。朝五時四十五分。
「起きた! 五時に起きた! 忘れ物チェック中!」
「壮介が五時に起きたのか。やる気がすごい」
俺も返信した。
「起きた。準備完了」
千歳さんから。
「おはようございます。六時に起きました。荷物の最終確認中です。万年筆のインク残量をチェックしています」
「千歳さんが万年筆のインク残量をチェックしてる。朝六時に」
「チェックは基本です」
凛先輩から。
「全員起きてるのか。優秀だ。八時に駅前。遅刻するなよ」
「先輩も起きてるんですか」
「五時から起きてる。スケジュール表の最終版をプリントした」
「先輩の準備力が朝五時から」
「五時からが普通だ。ミステリ作家は朝型が多い」
「先生は?」
「先生はまだ寝てるだろ」
「寝てない。四時から起きてる」
「先生が四時に!?」
「レンタカーの予約確認をした。かもめ荘への道順を確認した。缶コーヒーの在庫を数えた」
「先生が四時から缶コーヒーの在庫を数えてた」
「数えた。十二本。十分だ」
「先生、十二本って。レンタカーに積むんですか」
「積む。保冷バッグに入れる」
「先生の保冷バッグの中身が全部缶コーヒー」
「全部だ。着替えより缶コーヒーが大事だ」
「先生と壮介の優先順位が同じ構造」
「同じではない」
「同じです。缶コーヒーとカレーうどン。構造的に同一」
「千歳のデータを朝から引用するな」
「引用します。データに朝も夜もありません」
「壮介、ノート三冊持った?」
「持った! 枕元に置いて寝た!」
「枕元にノートを置いて寝る壮介」
「枕元に置けば忘れない。壮介の忘れ物対策」
「壮介の忘れ物対策が枕元って。子供の遠足みたいだな」
「遠足みたいだ。壮介にとって合宿は遠足だから」
「遠足ではない。文芸部の合宿だ」
「文芸部の遠足だ」
「遠足と言うな」
「合宿だ。書きに行く。遊びに行くんじゃない」
「先輩が朝から念押ししてる」
「念押しする。壮介が遊びモードに入る前に」
「遊びモードには入らない。書くモードだ」
「壮介の書くモードって何だ」
「カレーうどンのことを考えながらペンを握る状態だ」
「それは書くモードではなくカレーうどンモードだ」
「カレーうどンモードでも書ける。壮介はマルチタスクだ」
「マルチタスクではない。カレーうどンタスクだ」
「朝から壮介理論が止まらない」
「止まらない。壮介の朝は壮介理論で始まる」
「じゃあ八時に駅前で。全員遅刻するな」
「はい!」
「はい」
「はい」
「はい。缶コーヒーの保冷バッグを車に積んでから向かう」
「先生の出発準備が缶コーヒーの積み込みから始まる」
「始まる。全てはコーヒーから」
スマホを置いた。
カバンを肩にかけた。玄関で靴を履いた。ドアを開けた。
八月の朝。空が青い。蝉が鳴き始めた。夏の朝。
駅に向かって歩き始めた。
四ヶ月前、この道を灰色の気持ちで歩いていた。サッカーを失って、何もなくて、放課後がからっぽで。
今は違う。カバンの中にノートが三冊。万年筆が一本。コンクール原稿の下書きが九千二百字分。全部、四ヶ月で手に入れたもの。
駅に着く。電車に乗る。バスに乗る。かもめ荘に着く。海が見える。山の空気がある。五人で書く。
俺たちの夏が、始まる。
掟の一番目。書け。
書く。今日から。海と山で。仲間と一緒に。




