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第28話 夏の図書館と執筆マラソン

# 夏の図書館と執筆マラソン


 図書館は涼しかった。


 プールの翌日から、俺と詩織さんは毎日ここに来ている。駅前の市立図書館。二階の自習室。長テーブルが六つ並んでいて、窓際の席が空いていれば窓際に座る。エアコンが効いている。静かだ。蝉の声も、壮介の声も聞こえない。ペンの音と、ページをめくる音と、たまに誰かの咳だけ。


 約束通り、隣で書いている。


 詩織さんが左。俺が右。間にペンケースを置いている。特に意味はない。境界線みたいなものだ。境界線がないと、ノートが重なる。詩織さんの万年筆の軌道と俺のシャーペンの軌道が交差する。それを避けるための、さりげない区画整理。初日に詩織さんが「ここに置いていいですか?」と聞いて、俺が「いいよ」と答えて、それ以来ずっとここにある。


 毎朝十時に図書館の前で待ち合わせる。詩織さんはいつも五分前に来ている。俺が着くと「おはようございます」と小さく言って、一緒に中に入る。受付で閲覧カードを見せて、階段を上がって、二階の自習室の窓際の席に座る。ペンケースを真ん中に置く。それぞれのノートを開く。書き始める。


 もう一週間になる。プールで手を繋いだ日の翌日から。あの日のことは、二人とも口にしていない。壮介が「手繋いでたー!」と叫んだことも、詩織さんが「取材です!」と返したことも。図書館では取材の話もしない。ただ、隣に座って、それぞれの原稿を書いている。


 静かだ。でも孤独じゃない。



    *



 コンクール原稿は四千五百文字まで来ていた。


 一週間で千五百文字。一日あたり二百文字ちょっと。遅い。凛先輩のペースなら一日千文字は書く。詩織さんなら二千文字。壮介は一日五十文字だから俺のほうが速いが、比べる相手が間違っている。


 でも、量じゃない。質が変わってきた。


 最初の三千文字は、走れなくなった主人公の回想だった。膝を壊す場面。病院の白い天井。松葉杖。リハビリ。全部、事実をベースにしたフィクション。書くのは楽だった。自分の記憶をなぞればよかった。


 三千文字から先が苦しかった。主人公が「走れない」ことを受け入れて、次の一歩を踏み出す場面。ここが書けない。走れなくなった後に何をするか。俺自身がまだ答えを見つけていないからだ。


 いや、見つけかけている。文芸部に入って、文章を書いて、部誌を作って、プールで詩織さんの手を引いて。全部が「次の一歩」だ。でもそれをどう小説にすればいいのか分からない。「文芸部に入りました。楽しいです」では小説にならない。もっと深い何かが必要だ。走ることを失った痛みと同じくらいの深さで、書くことを得た喜びを描かなければならない。


 凛先輩が合宿の前に言った。「原稿を一本仕上げてこい」。仕上げるためには、この壁を超えなければならない。壁の正体は分かっている。俺自身だ。俺が自分の経験をフィクションに変換する、その変換の精度が足りない。


 ペンが止まった。


 隣で詩織さんの万年筆が走っている。一定のリズム。規則正しい音。部室で聞くのと同じ音だが、図書館だとより鮮明に聞こえる。周りが静かだから。


「詩織さん」


 小声で呼んだ。図書館だから声を落とす。


「はい」


 詩織さんが万年筆を止めた。こちらを見る。近い。図書館の席は部室のちゃぶ台より狭い。肩の距離が三十センチくらいだ。


「主人公が走れなくなった後の場面が書けないんだけど、どうすればいい?」


「どう書けないんですか?」


「走れなくなったことは書けた。でもその後、別の道を見つける場面が——うまく言葉にならない」


 詩織さんが少し考えた。万年筆のキャップを回している。考えている時の癖だ。くるくる、くるくる。この一週間で何度も見た仕草だ。


「朝倉くん、走っていた時の感覚を覚えていますか?」


「覚えてる。足の裏が地面を蹴る感覚。風が顔に当たる感覚。心臓がバクバクする感覚。汗が首筋を流れる感覚。全部覚えてる」


「全部覚えているんですね」


「覚えてる。膝が壊れても、身体は覚えてる」


「それです。その感覚を、書くことに置き換えてみてください」


「書くことに?」


「朝倉くんの文章は、身体の感覚で書かれている時が一番いいんです。サッカーの描写も、膝の痛みも、全部身体で感じたことを言葉にしている。だから、書くことも身体の感覚で表現してみてください。ペンを握る手の感触。原稿用紙の手触り。書き終えた時の呼吸。走ることと書くことを、身体でつなげる」


 詩織さんが言い終えて、万年筆に目を戻した。それ以上は言わなかった。助言を一つだけ渡して、あとは俺に任せる。教えるのではなく、ヒントを置いていく。これが詩織さんのやり方だ。


 走ることと書くことを、身体でつなげる。


 ペンを握り直した。右手にシャーペンがある。この手でかつてはボールを蹴っていた。正確には足で蹴っていたが、手でバランスを取っていた。腕を振って走っていた。今、その手はペンを握っている。


 書き始めた。


 「ペンを走らせる、という表現がある。走らせる。走る。足が走れなくなった代わりに、手が走っている。シャーペンの芯が紙の上を滑る。芝生の上をスパイクが滑るのと似ている。いや、違う。スパイクは地面を蹴る。ペンは紙を撫でる。でも前に進む感覚は同じだ」


 書いた。消した。また書いた。消した。三回目に書いた文は、消さなかった。


 「走れなくなった日に、全部が終わったと思った。足が止まったら、人生も止まると思った。でも止まらなかった。足が止まっても、手は動いた。手が動くなら、ペンを持てる。ペンを持てるなら、書ける。書けるなら、走れる。足じゃなく、手で」


 手が震えていた。書きすぎたのか。力を入れすぎたのか。でも震えているのは手だけじゃない。胸の奥が震えている。自分の書いた文章に、自分で震えている。これは小説なのに、自分の体験が透けて見える。フィクションの膜が薄い。


 隣で詩織さんの万年筆が止まっていた。


 こちらを見ていないが、止まっている。俺のペンの音を聞いていたのかもしれない。俺が書いている間、詩織さんは自分の手を止めて、待っていたのかもしれない。


 待っていた、のではない。並走していたのだ。


 詩織さんは教えない。導かない。ただ隣に座って、自分も書いている。俺が詰まったらヒントを一つだけ置く。俺が書き始めたら自分も書く。俺が止まったら自分も止まる。並んで走っている。同じ速度で。同じ方向に。


 サッカーで言えば、パートナーだ。フォワードの隣を走るミッドフィルダー。ボールを持っている俺の横を、パスコースを作りながら走っている。ボールを奪わない。代わりに蹴らない。ただ、いつでもパスを受けられる位置にいる。


 凛先輩は違うタイプだ。凛先輩は監督だ。「書け」「走れ」「甘えるな」。指示を出す。方向を決める。叱る。それが凛先輩の導き方だ。詩織さんの導き方は違う。隣にいるだけ。並んで走るだけ。でもその「だけ」が、俺の背中を押している。


 それが詩織さんの「並走」だ。


 この一週間で分かったことがある。俺は一人でも書ける。でも詩織さんが隣にいると、書ける量が倍になる。質も上がる。なぜだろう。詩織さんは何も教えていない。ヒントを一つ置いただけだ。「身体の感覚で書いてみてください」。たった一言だ。でもその一言が、四千五百文字分の壁を崩した。



    *



 昼休憩。図書館の一階にあるカフェテリアでサンドイッチを食べている。詩織さんはアイスティーと卵サンド。俺はアイスコーヒーとツナサンド。窓の外に夏の日差しが照りつけている。図書館の中と外では温度が十度くらい違う。外に出たくない。ずっとここにいたい。


 一週間前から、この昼休憩が日課になっている。午前中に二時間書いて、ここでサンドイッチを食べて、午後にまた二時間書く。四時間の執筆マラソン。サッカーの練習は二時間が限界だった。書くことは四時間できる。膝が痛くならないから。手は痛くなるけど。


「朝倉くん、さっきの場面、いい感じでしたね」


「聞こえてた?」


「ペンの音で分かります。朝倉くんが集中している時は、シャーペンの音が速くなるんです。さっきは一番速かったです」


「ペンの音で分かるのか」


「毎日隣で聞いていますから」


 毎日隣で聞いている。この一週間、毎日。ペンの音を。俺のペンの音を。それは取材なのか、それとも——。


「取材ですか?」


 聞いてみた。詩織さんが少し笑った。


「最初はそうでした。でも今は、ただ聞いています。朝倉くんのペンの音が好きなんです」


「好き」


「ペンの音が、です」


「ペンの音」


「はい。ペンの音が」


 詩織さんが卵サンドを一口食べた。何事もなかったように。でも耳がわずかに赤かった。ほんのわずか。プールの時ほどではない。日焼けの赤さと混ざっていて判別が難しい。でも俺には分かる。一週間隣にいたから。


 俺はアイスコーヒーを飲んだ。苦い。図書館のカフェテリアのアイスコーヒーは、先生の缶コーヒーより苦い。でも今は苦さが心地いい。


「午後も書く?」


「書きます。朝倉くんは?」


「書く。さっきの場面の続きが見えてきた」


「良かった。隣で聞いていますね」


「聞いていてくれると助かる。なんか、一人で書くより捗る」


「私もです。朝倉くんが隣にいると、ペンが進みます」


 お互いに、隣にいるほうが書ける。不思議な関係だ。作家は孤独な作業だと凛先輩が言っていた。一人で机に向かって、一人で言葉と戦う。でも俺たちは二人で書いている。孤独を二人で分け合っている。



    *



 午後。図書館の自習室に戻った。


 午前中に書いた場面を読み返した。走ることと書くことを身体でつなげる文章。悪くない。でもまだ足りない。主人公が「書く」ことを選ぶ場面に、もう一段階の飛躍が必要だ。


 凛先輩からLINEが来た。


「原稿の進捗を報告しろ」


 部長は夏休み中でも部長だった。俺が「四千五百文字」と返すと、「遅い。明日までに五千文字にしろ」と来た。五百文字。今日の午後で書けるか? 書くしかない。凛先輩の命令は絶対だ。


 壮介からもLINEが来た。


「陽翔! 俺今日三百文字書いた!! 過去最高のペース!!」


「お前の過去最高が三百文字なのか」


「一日で!! 一日三百文字は新記録!!」


「頑張ってるな。内容は?」


「カレーうどンと少年の友情物語!! タイトルは『走れカレーうどン』!!」


「メロスのパクリじゃないか」


「リスペクトだ!! パクリとリスペクトは違う!!」


「凛先輩に見せたら怒られそうだな」


「見せない!! 完成してから見せる!!」


「完成するのか?」


「する!! 三百文字がこのペースなら一万文字まで……えーと……」


「三十三日くらいだな」


「三十三日!! 締切まであと十日!!」


「間に合わないな」


「間に合わせる!! 壮介パワーで!!」


「壮介パワーとは」


「気合いだ!!」


 壮介のコンクール原稿が「走れカレーうどン」。メロスを読んだ影響が直球すぎる。でも壮介が一日三百文字書いたのは本当にすごいことだ。この男は入部した時は四十二文字だった。三千字の壁はまだ遠いが、三百文字の壁は超えた。小さな壁を一つずつ超えている。俺と同じだ。


 霧島先生からもLINEが来た。珍しい。


「朝倉。メロスは読んだか」


「読みました」


「どうだった」


「走る話だと思ったら、信じる話でした」


「そうだ。走るのは手段だ。目的は信じることだ。お前の小説も同じだろう。書くのは手段だ。目的は何だ?」


 先生の質問に、すぐには答えられなかった。書くのは手段。目的は何だ。走ることの代わりに書いている。でも「走る代わり」が目的なら、それは逃げだ。走れないから書くのではなく、書きたいから書く。その違いが分かるかどうか。


 メロスは走った。友を信じて走った。走ることが手段で、信じることが目的だった。俺は書いている。何のために? 走れない自分を慰めるため? 違う。もうそんな段階は過ぎた。文芸部に入って三ヶ月が経って、書くことが楽しくなっている。楽しいから書く。それが目的? 違う気がする。もっと何かがある。まだ言葉にならない何かが。


「考えておきます」


「考えろ。答えが出たら原稿に書け」


 先生は短い。いつも短い。缶コーヒーの一口みたいに短い。でも後味が残る。


 ノートを開いた。先生の質問が頭に残っている。書くのは手段。目的は何だ。


 目を閉じた。図書館の静けさの中で。隣に詩織さんがいる。万年筆の音がかすかに聞こえる。エアコンの低い音。遠くで子どもの声。図書館の午後は、世界から少しだけ切り離された時間だ。


 目を開けた。書いた。


 「走ることが目的だった時代は終わった。足が止まった。でも止まったのは足だけだ。頭は止まっていない。心は止まっていない。手は止まっていない。走れないなら、書けばいい。書くことが新しいゴールだ。ゴールを変えたんじゃない。ゴールの形が変わったんだ。丸いボールから、四角い原稿用紙に」


 丸いボールから四角い原稿用紙に。


 このフレーズが出てきた時、手が止まった。止まったのは驚いたからだ。自分の書いた文章に驚いた。これだ。これが俺の文体だ。スポーツの感覚を文芸に持ち込む。身体で覚えたことを言葉にする。走る感覚、蹴る感覚、汗の感覚、心臓の鼓動。全部を文章に変換する。サッカーの比喩で世界を切り取る。


 詩織さんが言っていた。「身体の感覚で書かれている時が一番いい」。そうだ。俺は身体の言葉で書く人間だ。頭で考えた文章じゃなく、身体で感じた文章。それが俺の武器だ。


 凛先輩の文体はミステリだ。論理と伏線で文章を組み立てる。詩織さんの文体は観察だ。見えたものをそのまま透明に書く。壮介の文体は勢いだ。感嘆符と熱量で突き抜ける。そして俺の文体は、身体だ。走った記憶、蹴った記憶、転んだ記憶、立ち上がった記憶。全部が文章の燃料になる。


 ペンが走り始めた。止まらない。五百文字を超えた。六百文字。七百文字。一気に書いた。図書館の閉館アナウンスが聞こえるまで、手を止めなかった。



    *



 閉館の音楽が流れた。蛍の光。五時だ。


「朝倉くん、すごかったです」


 詩織さんが万年筆のキャップを閉じながら言った。


「すごかった?」


「午後の三時間、ほとんどペンが止まりませんでした。最後の一時間は特に。音が変わりました」


「音?」


「いつもは紙を引っ掻く音なんですけど、今日は紙を走る音でした」


「引っ掻くと走るの違いが分からないんだけど」


「引っ掻くは摩擦の音です。走るは推進の音です。今日のペンの音は、前に進んでいました」


 詩織さんの耳は鋭い。ペンの音の違いを聞き分ける。さすがは毎日隣に座って聞いている人だ。


「何文字くらい書いた?」


「数えてない。でもたぶん千文字以上」


「一日千文字。凛先輩のペースですね」


「今日だけだよ。明日は分からない」


「明日も隣にいますから」


 図書館を出た。夕方の空が広い。西の空がオレンジ色に染まっている。蝉がまだ鳴いている。暑い。でも図書館の中で冷えた身体には、夏の空気が心地いい。


「詩織さん」


「はい」


「今日、文体が見えた気がする」


「文体?」


「俺の書き方。サッカーの感覚を文章にする書き方。身体で覚えたことを言葉に変える。それが俺の文体なんだと思った」


「スポーツと文芸ですね」


「変かな。文芸部の原稿にスポーツの比喩を使うの」


「変じゃないです。むしろ朝倉くんにしか書けない文章です。サッカーを知っていて、走ることを知っていて、走れなくなることを知っている。その全部を持って書いている人は、朝倉くんだけです」


「詩織さんはいつも、俺のいいところを見つけてくれるな」


「見つけているんじゃないです。最初からあるものを、指差しているだけです」


 詩織さんが微笑んだ。夕日が顔を照らしている。日焼けした鼻の頭が少しだけ赤い。プールの日からまだ治っていないらしい。


「明日も来ますか?」


「来る。締切まであと十日だ」


「じゃあ、同じ席で。窓際の、あの席で」


「あの席、詩織さんが左で俺が右で」


「はい。ペンケースを真ん中に置いて」


「境界線な」


「境界線です」


 二人で笑った。小さな声で。図書館の前だから。


 家に帰る道を歩いている。一人だ。詩織さんとは駅前で別れた。「また明日」と言った。明日もある。明後日もある。締切まで毎日ある。毎日、あの席で、隣で書く。


 鞄の中にノートがある。今日書いた千文字が詰まっている。合計五千五百文字。あと四千五百文字で一万文字だ。半分を超えた。半分を超えると、ゴールが見える。マラソンの折り返し地点を過ぎた感覚。足で走るマラソンは膝が壊れて走れなくなった。でもペンで走るマラソンは、まだ走れる。


 丸いボールから四角い原稿用紙に。


 このフレーズを思い出して、少しだけ笑った。俺の文体。スポーツの言葉で世界を書く文体。まだ粗い。まだ未完成だ。でも形が見えた。形が見えれば、あとは磨くだけだ。


 先生が聞いた。「書くのは手段だ。目的は何だ」。


 答えは出ていないけど、近づいている気がする。走ることが好きだった。書くことが好きになりかけている。好きなことのために手が動く。その動きを、誰かが隣で聞いてくれている。ペンの音を聞いてくれている。引っ掻く音と走る音の違いが分かる人が、隣にいてくれている。


 それだけで、ペンは走る。明日もきっと走る。締切まで、あと十日。

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