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第27話 プールサイドには小説を持て

# プールサイドには小説を持て


「プール行こう!」


 壮介が部室に入ってくるなり叫んだ。夏休みが始まって三日目。コンクールの宣言をしてから二日。ノートの文字数は三千百文字まで増えていた。昨日の夜に百文字だけ書いた。百文字でも進んだ。朝十時。部室の畳は朝から暑い。窓を全開にしても風が入ってこない。扇風機が首を振っている。凛先輩がソファで汗をかきながらミステリを読んでいる。詩織さんが万年筆を握ったまま額の汗を拭いている。先生は不在。今日は職員会議だ。


「プール?」


「市民プール! 駅前の! 五百円で入れる! 涼しい!」


「部活は?」


「部活をプールでやればいい!」


 凛先輩がミステリから目を上げた。汗で前髪が額に張り付いている。いつもはクールな凛先輩が、暑さに負けかけている。この人でも暑いものは暑いらしい。


「悪くないな」


「先輩が賛成した!?」


「この暑さで畳の上に座るのは限界がある。プールサイドで原稿を読むのもありだろう」


「先輩、プールで原稿読むんですか」


「読む。水に濡れなければ問題ない」


「プールで水に濡れないのは難しくないですか」


「パラソルの下にいれば濡れない」


 凛先輩はプールに行っても泳ぐ気がないらしい。海の時と同じパターンだ。この人はパラソルの下で本を読むために水辺に行く。


 詩織さんが万年筆を止めた。


「プール、ですか」


 声が小さかった。いつもの詩織さんより、半音低い。


「詩織さんも行こう!」


「あ、はい。行きます。行きますけど」


「けど?」


「私、泳ぐのが少し苦手で」


「少し?」


「かなり」


「かなり苦手なの?」


「水に顔をつけるのが怖いんです」


 壮介が固まった。俺も少し驚いた。詩織さんが何かを「怖い」と言うのは珍しい。この人は取材のためなら廃墟にでも行きそうな勇気がある。嘘チャレンジで赤面するのは怖がらないのに、水に顔をつけるのは怖い。


「泳げなくてもプールは楽しいよ! 浅いとこあるし!」


「そうですよね。浅いところなら大丈夫です。たぶん」


「たぶんって言葉、最近この部で流行ってるな」


 俺がツッコんだ。凛先輩の「たぶん幽霊は出ない」、先生の「たぶん大丈夫」、詩織さんの「たぶん泳げる」。文芸部の「たぶん」は信用できない。



    *



 市民プール。駅前から歩いて十分。夏休みだから子どもたちで混んでいる。歓声が響いている。水の匂い。塩素の匂い。真夏の太陽が照りつけている。


 着替えを済ませて、プールサイドに出た。


 壮介がすでに飛び込み台の前にいた。海パンに浮き輪。浮き輪は今日も膨らませてきたらしい。学習しない男だ。


「いくぞ! 壮介スペシャルダイブ!」


「待て壮介、飛び込み台からの飛び込みは」


 遅かった。


 壮介が飛び込み台から跳んだ。両手を広げて。全身を水面に平行にして。つまり——腹打ちだ。


 バチーーーン。


 水面が爆発した。水しぶきが三メートル上がった。周りの子どもたちが「すげえ!」と叫んだ。壮介が水面に浮かんできた。うつ伏せのまま。赤い腹を上にして。


「壮介! 生きてるか!」


「生きてる……腹が……死んだ……」


「腹が死んだ」


「赤い……腹が赤い……」


 引き上げた。壮介の腹は見事に真っ赤だった。平手打ちを百回受けたような赤さだ。腹打ちダイブの破壊力は凄まじい。


「壮介、なんで腹から行った」


「カッコよく飛ぶつもりだった」


「全然カッコよくなかった」


「音はカッコよかっただろ!」


「音だけな」


 凛先輩がプールサイドの隅にパラソルとビーチチェアを設置していた。どこから持ってきたのか分からない。受付で借りたらしい。サングラスをかけて、文庫本を開いている。足だけ水につけている。膝から下だけプール。残りは陸。完全にリゾート客だ。プールに来た意味があるのかと聞きたくなるが、聞いたら怒られる。


「先輩、泳がないんですか」


「泳がない。読む」


「プールに来て読書だけ?」


「読書のために来た。涼しい場所で読むのが目的だ」


「それならエアコンの効いた図書館のほうが」


「図書館は静かすぎる。適度な騒がしさがあるほうが集中できる。これはミステリ研究で証明されている」


「ミステリ研究のどこにプールの騒がしさが」


「俺が今証明している」


 凛先輩はプールでもブレない。パラソルの下で文庫本を読む姿は、砂浜でミステリを読む凛先輩と同じだ。場所が変わっても人は変わらない。



    *



 壮介が復活した。腹打ちのダメージから三分で回復する回復力は大したものだ。サッカー部で鍛えた体力は伊達じゃない。いや、壮介はサッカー部じゃないから、これは生まれ持ったタフさだ。


「もう一回飛ぶ!」


「やめろ」


「今度はちゃんと飛ぶ!」


「さっきもそう言ってた」


「今度こそ!」


 壮介が飛び込み台に向かった。止めても無駄だ。この男は失敗から学ばない。いや、学んでいるのかもしれない。ただ、学んだことと行動が連動しない。頭では「腹から行くな」と分かっているのに、身体が勝手に腹から行く。


 二回目。バチーーーン。また腹打ちだった。壮介が水面に浮かんだ。今度は仰向けだ。進歩と言えるかもしれない。向きが変わった。


「壮介! 向きが変わっただけだぞ!」


「進歩だ! 向きが変わった!」


「進歩の方向が間違ってる!」


 周りの子どもたちが「もう一回!」と叫んでいる。壮介が子どもたちのヒーローになっている。腹打ちダイブのヒーロー。文芸部としてはどうなのかと思うが、壮介はどこにいても人気者だ。声がでかくて、バカで、全力で。子どもたちはそういうのが好きだ。


 三回目。壮介がまた飛び込み台に立った。俺は見守ることにした。止めても無駄なら見守るしかない。これがツッコミ担当の諦めだ。子どもたちが「がんばれー!」と応援している。壮介が手を振っている。観客がいるとテンションが上がるタイプだ。文化祭で朗読バトルのMCをやらせたら化けるかもしれない。


 壮介が跳んだ。今度は足から入った。普通の飛び込みだ。水しぶきは小さい。綺麗に入水した。壮介が水の中から顔を出した。


「できた!! 足から入れた!!」


「おお、普通にできたじゃん」


「二回腹打ちした甲斐があった!!」


「甲斐があったのか? あの腹の赤さに甲斐があったのか?」


「ある! 失敗は成功の母!」


 壮介の腹は赤から紫に変わりかけていた。失敗の代償は大きい。


 監視員のお兄さんが近づいてきた。


「あの、飛び込みは一回ずつ順番でお願いします。あと、腹打ちはなるべく控えてください」


「なるべく!?」


「完全にやめてください」


 壮介が監視員に注意された。文芸部として恥ずかしい。いや、文芸部は関係ないか。壮介個人の問題だ。



    *



 壮介の腹打ちショーが一段落した後、俺はプールの浅いほうに移動した。


 詩織さんがプールサイドに座っていた。足だけ水につけている。凛先輩と同じだが、理由が違う。凛先輩は読書のため。詩織さんは水が怖いから。


 水着の詩織さんは——見たことがなかった。白いワンピースタイプの水着だ。いつもの制服姿や私服姿とは違う。肩のラインが見えている。日焼けしていない白い肌。髪を一つに束ねている。いつもは下ろしている髪を束ねると、首筋が見える。


 意識するな、と自分に言った。意識するなと言うと余計に意識する。人間の脳はそういう仕組みだ。壮介が嘘チャレンジの時に言った「お前って時々バカだよな」を思い出した。今も同じことを言われそうだ。


 詩織さんがプールサイドに座って水面を見つめている。万年筆は持っていない。プールに万年筆は持ち込めない。詩織さんが万年筆を持っていない姿も、たぶん初めて見る。この人はいつも手に万年筆がある。万年筆がない詩織さんは、少しだけ心許なく見えた。


「詩織さん、入らないの?」


「入ります。入りますけど。少し準備が」


「準備?」


「心の準備です」


 詩織さんが水面を見つめている。プールの水は透き通っている。深さは一メートル。立てば胸くらいだ。溺れるような深さじゃない。でも詩織さんにとっては深いのかもしれない。


「小さい頃に、海で溺れかけたことがあるんです」


「溺れかけた?」


「はい。家族で海に行った時に、波に巻かれて、水を飲んで。お父さんが引き上げてくれたんですけど、それ以来、水に顔をつけるのが怖くて。泳げないわけじゃないんです。学校のプールの授業では泳ぎました。二十五メートル、息継ぎなしで。ただ、最初の一歩が」


「息継ぎなしで二十五メートル!?」


「顔を水につけたくないから、一回も息継ぎせずに全力で泳ぎ切りました」


「それはそれですごいな」


「すごくないです。恐怖が動力になっただけです。早く水から出たくて」


 詩織さんの恐怖は本物だ。でもその恐怖を動力に二十五メートルを息継ぎなしで泳ぐのは、間違いなく強い。この人は怖がりなのに強い。嘘がつけないのに「取材です」で全てを乗り切る人だ。


「じゃあ、浅いところで立ってるだけでいいよ。無理に泳がなくても」


「はい。でも——せっかく来たので。少しだけ」


 詩織さんがプールの縁から足を降ろした。ゆっくりと。水が膝を超えた。腰を超えた。立った。水面は胸の少し下。立てる深さだ。でも詩織さんの身体がわずかに強張っている。両手が水面の上で宙に浮いている。水に触れたくないように。


「大丈夫?」


「大丈夫です。立てています。立てていますが」


「が?」


「動けません」


 詩織さんが硬直していた。立ったまま動けない。足が底についているのに、身体が凍っている。水が怖い。頭では分かっている。深さは一メートル。溺れない。でも身体が覚えている。小さい頃の恐怖。波に巻かれた記憶。


 俺は詩織さんの前に立った。水の中で。


「手、出して」


「え?」


「手を出して。引っ張るから」


 詩織さんが俺を見た。目が少し潤んでいる。怖いんだ。本当に怖いんだ。嘘チャレンジで全員の前で赤くなるのは平気なのに、水の中で一人で立つのは怖い。


 詩織さんが手を出した。右手。指先が震えている。万年筆を握る時とは全然違う手だ。万年筆を握る詩織さんの手は安定している。水の中の詩織さんの手は、小さな子どもみたいに頼りない。


 俺はその手を握った。


 詩織さんの手は冷たかった。水の中なのに、水より冷たかった。緊張で血が引いているのかもしれない。小さい手だ。万年筆を握る手。取材ノートをめくる手。嘘チャレンジの時にスカートの端を握った手。


「歩くよ。ゆっくり」


「はい」


 一歩。詩織さんの足が動いた。水の中を一歩。俺が前を歩いて、詩織さんが後ろについてくる。手を繋いだまま。


「大丈夫。底はずっと平らだ。急に深くならない」


「はい」


「俺がいるから」


 口が先に動いた。考える前に言っていた。「俺がいるから」。言ってから気づいた。なんだそれ。カッコつけすぎだ。恥ずかしい。でも言い直すのはもっと恥ずかしいから、そのまま前を向いた。


 詩織さんの手に力が入った。ぎゅっと。握り返された。


「ありがとうございます。朝倉くん」


「別に。大したことしてない」


「大したことです。水の中で手を引いてくれる人は、いままでいませんでした」


 詩織さんの声が少しだけ柔らかくなっていた。さっきまでの硬い声じゃない。手を握っているうちに、少し安心したのかもしれない。


 五歩。十歩。プールの浅いエリアを横断した。詩織さんが歩いている。水の中を。手を繋いだまま。水面に小さな波が立つ。二人分の歩幅で。


 プールの端まで来た。詩織さんが壁に手をついた。もう片方の手は、まだ俺の手を握っていた。離さなかった。俺も離さなかった。数秒。水の音だけが聞こえた。


「詩織さん、歩けてるよ」


「本当ですね。歩けています」


「水、怖い?」


「怖いです。でも——手を握っているから、少しだけ大丈夫です」


 その言葉に、心臓が一回多く鳴った。プールの水の中で、心臓の音が身体に響いた。水中だと音が増幅される気がする。詩織さんに聞こえていないことを祈った。


 壮介がプールの反対側から叫んだ。


「陽翔! 詩織ちゃん! 手繋いでるー!!」


 水しぶきの向こうから、全力の声が飛んできた。壮介のメガホン並みの声量がプール中に響き渡った。周りの子どもたちが振り返った。監視員のお兄さんも振り返った。


 詩織さんの手から力が抜けた。離れた。


「取材です! 水中歩行の取材です!」


 詩織さんが叫んだ。顔が真っ赤だった。耳も赤かった。嘘チャレンジの時と同じ赤さだ。


「水中歩行の取材って何だよ!」


「水の中で歩く感覚を文章にするための! 実地調査です!」


「実地調査で手を繋ぐ必要はあるのか!?」


「あります! 被験者の協力が必要なんです!」


「俺が被験者!?」


 壮介が泳いでこっちに来ようとした。凛先輩がパラソルの下から「壮介、黙れ」と一言で止めた。壮介が「はい」と水中で直立不動になった。


 詩織さんが水から上がった。プールサイドに座って、タオルで顔を拭いている。赤い。まだ赤い。タオルで隠しているが、耳の先が見えている。真っ赤だ。


「詩織さん」


「何ですか」


「水、少し歩けたじゃん」


「はい。歩けました。朝倉くんのおかげで」


「また練習しよう。合宿で海に入る前に」


「合宿の海は、深いですよね」


「浅いところもあるよ。きっと」


「きっと、ですか」


「行ってみないと分からない」


 詩織さんがタオルから顔を出した。まだ赤いけど、少しだけ笑っていた。


「行ってみないと分からない。作家的に、いい言葉ですね」


「適当に言っただけなんだけど」


「適当に出た言葉が一番いいんです。推敲していない言葉には本音が入っています」


 推敲していない言葉。「俺がいるから」。あれも推敲していない。本音が入っている? 何の本音が?


 考えるのはやめた。プールの水面がキラキラ光っている。壮介がまた飛び込み台に向かっている。四回目だ。監視員が走っていく。「お客さん、もう飛び込みは!」「最後の一回!」「さっきも最後と言いましたよね!?」。凛先輩がページをめくっている。夏の午後だ。プールの歓声と、ページをめくる音と、壮介の叫び声。全部が混ざって、不思議と心地いい。



    *



 帰り道。四人で歩いている。夕方の日差しがまだ強い。壮介の腹はTシャツの下で紫色に変わっているはずだ。「痛くないの?」と聞いたら「痛い! でも楽しかったから気にならない!」と答えた。痛みを楽しさで上書きできる男。壮介の才能だ。


 凛先輩は日焼け対策が完璧で、肌の色が全く変わっていない。パラソルの力だ。「ミステリ三十ページ読めた。プールは良い読書環境だ」と満足そうだ。五十ページと言っていたのに三十ページに減っている。壮介の腹打ちが気になって集中できなかったのかもしれない。


 詩織さんは少しだけ鼻の頭が赤い。日焼け止めを塗り忘れたらしい。「水の中のことで頭がいっぱいで、日焼け止めのことを忘れていました」。水の中のこと。手を繋いだこと。言わなかったけど、そういうことだろう。


 壮介が振り返って言った。


「今日のまとめ! 壮介、腹打ち三回。凛先輩、読書五十ページ。陽翔と詩織ちゃん——」


「言うな」


「手を繋いだ!」


「言うなって!」


「取材です!」


 詩織さんが反射的に叫んだ。もう癖になっている。都合が悪くなると「取材です」が出る。嘘がつけない代わりに「取材」で逃げる。でも今回は逃げ切れていない。壮介の声が大きすぎる。


 凛先輩が歩きながら言った。


「朝倉。明日から図書館で原稿を書け。コンクール締切まであと二週間半だ。プールで遊んでる場合じゃないぞ」


「はい」


「千歳もだ。原稿の仕上げは?」


「九割完成です。合宿前に仕上げます」


「壮介は」


「二百五十文字!」


「昨日より五十文字増えたのか」


「増えた! 一日五十文字ペースだ!」


「そのペースだと一万文字に五百日かかるぞ」


「五百日!? 一年以上!?」


「だからペースを上げろ」


 壮介が「うおおお」と叫んで走っていった。帰り道もフルスピード。あの男のエネルギーはどこから来るんだろう。腹打ち三回のダメージはどこに消えたんだ。


 詩織さんが俺の隣を歩いている。無言だ。さっきまでの「取材です」の声が嘘みたいに静かだ。


「詩織さん」


「はい」


「明日、図書館で会うかもしれない。原稿書くから」


「私も図書館に行きます。涼しいので」


「じゃあ、隣で書いてもいいですか」


「隣」


「並んで書く、っていうか。一人で書くより、誰かが隣にいるほうが捗る気がして」


 詩織さんが俺を見た。夕焼けの光が横顔を照らしている。鼻の頭の日焼けが赤い。その赤さが、さっきの赤面とは違う種類の赤さで、なんだか可愛かった。


「はい。隣で書きましょう」


 小さな声だった。でもはっきり聞こえた。


 家に帰った。シャワーを浴びた。プールの塩素の匂いが髪に残っている。水のない世界に戻ってきた。髪を乾かしながらノートを開いた。コンクール原稿の続き。三千文字のその先。走れなくなった主人公が、誰かの手を借りて歩き始める場面。


 今日、プールで詩織さんの手を引いた。冷たい手だった。小さい手だった。震えていた手が、少しずつ力を取り戻していった。あの感覚を、原稿に使えるかもしれない。使っていいのか分からない。でも、指先に残っている。水の中の、あの手の感触が。


 ペンを握った。書き始めた。三千五百文字目を書いた。あと六千五百。明日は図書館で、詩織さんの隣で、続きを書く。水の中の、あの手の感触を忘れないうちに。

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