第26話 夏休み初日のToDoリストが長すぎる
# 夏休み初日のToDoリストが長すぎる
夏休み初日に学校に来ている。
負けた気がする。夏休みという言葉には「休み」が入っているのに、朝九時に制服じゃない格好で校門をくぐるのは、何かの罰ゲームだろうか。セミが鳴いている。朝からうるさい。日差しが強い。アスファルトが光っている。
部室に向かう廊下は静かだった。他の部活も夏休みモードで、校舎の中に人が少ない。運動部はグラウンドにいる。サッカー部の声が遠くから聞こえた。走り込みをしているらしい。夏の走り込みは地獄だ。経験者だから知っている。文化部の大半は休んでいる。文芸部だけが律儀に集合している。凛先輩が「夏休み初日、朝九時、部室集合。遅刻不可」と前日にLINEで通達した。通達だ。お願いではない。
引き戸を開けた。
「おはよう」
凛先輩が既にいた。ソファに座って文庫本を読んでいる。いつもの光景だが、一つだけ違う。制服じゃない。サマーワンピースだ。白い。肩が少し出ている。学校で凛先輩の私服を見るのは初めてだった。商店街のフリルのブラウスとはまた違う。ワンピースの凛先輩は、なんというか、普通に女子高生だった。普段が部長すぎて忘れていた。
「先輩、その」
「ワンピースに何か文句あるか」
「いえ。似合ってます」
「前も同じことを言っただろ。レパートリーを増やせ」
商店街の件を覚えている。当然だ。凛先輩は何も忘れない。
壮介が入ってきた。Tシャツに短パンにサンダル。完全にオフモードだ。海に行く格好だ。部室に来る格好ではない。
「夏休みだ!! 最高!!」
「最高なのに学校に来てるけどな」
「呼ばれたから来た! 俺は忠実な部員だ!」
「忠実な部員は遅刻しない」
「五分前だ!」
「凛先輩は三十分前にいたぞ」
「先輩と比べるな!」
詩織さんが入ってきた。麦わら帽子をかぶっている。白いブラウスにロングスカート。夏っぽい。麦わら帽子の下から黒い髪が流れている。日差しを避けるためだろうが、似合っている。部室で麦わら帽子はミスマッチだけど、詩織さんが被ると「取材に行く文学少女」に見えるから不思議だ。
「おはようございます。夏休みですね」
「夏休みですね」
「朝倉くん、今日は何時に起きましたか?」
「七時くらい」
「私は五時に起きました。朝焼けを見ながら原稿を書いていたら、こんな時間に」
「五時!? 夏休み初日に五時起き!?」
「夏の朝は静かで書きやすいんです。蝉が鳴き始める前の、あの静寂が好きで」
「詩織さんは夏休みも文芸部員だな」
「一年中文芸部員です」
霧島先生が最後に来た。アロハシャツにチノパン。サングラスを額に上げている。缶コーヒーを二本持っている。一本は飲みかけ、もう一本は未開封。予備の缶コーヒーを持ち歩く人を初めて見た。
「先生、南国ですか」
「夏は南国スタイルだ。年に一度の解放だ」
「スタイルの問題じゃなくて、普通にアロハシャツが派手です」
「教頭に怒られるから校外でしか着られない。今日は夏休みだから着た」
「教頭に見つかったら」
「見つからない。教頭は夏休み中は出勤しない」
先生のアロハシャツは赤とオレンジの花柄だった。文芸部の顧問としては破壊力がある。壮介が「先生カッコいい!」と言ったが、壮介の美的感覚は信用できない。
*
全員が揃った。五人。私服の部室。いつもと同じ畳の匂いだが、空気が違う。制服がないだけで、こんなに雰囲気が変わるのか。凛先輩のワンピース、詩織さんの麦わら帽子、壮介のサンダル、先生のアロハ。部室が少しだけ開放的に見える。夏休みの魔法だ。
凛先輩がソファから立ち上がった。ホワイトボードの前に立つ。マーカーを取る。赤だ。楽しいことを決める青じゃない。予定を組む赤だ。
「今日中に夏のスケジュールを全部決める。決めないと間に合わない」
ホワイトボードに凛先輩が書き始めた。マーカーが走る。文字が並ぶ。七月下旬から八月末まで。六週間分のスケジュール。
書き終わった。
ホワイトボードが真っ赤だった。余白がない。七月の最終週から八月の最終週まで、びっしりと予定が書かれている。
壮介がホワイトボードを見つめた。目が点になっている。
「先輩」
「なんだ」
「休み、どこ?」
「ない」
「夏休みの意味!!」
壮介が叫んだ。正しいツッコミだ。凛先輩のスケジュールには「休み」の文字が一つも入っていない。毎日何かが予定されている。部活、執筆、読書、合宿、コンクール準備、部誌制作。六週間で休みゼロ。ブラック企業もびっくりだ。
「凛先輩、さすがに休みは入れましょうよ」
「入れてある。ここ」
凛先輩が八月十四日を指した。お盆だ。
「一日!?」
「お盆は休むべきだろう。先祖に敬意を払え」
「先祖への敬意で一日だけ!?」
「文句があるなら言え。スケジュールは調整可能だ」
「全面的に文句がある!」
*
スケジュールの話し合いが始まった。壮介の「休みを増やせ」運動と凛先輩の「予定を減らすな」主張がぶつかっている。いつもの光景だ。
その最中に、凛先輩がA4の紙を全員に配った。
「夏の課題図書リスト」
紙を見た。本のタイトルがずらりと並んでいる。三十冊。
「三十冊!?」
壮介が紙を二度見した。三度見した。
「先輩、俺のペース分かってますよね? 一冊二週間ですよ?」
「夏休みは六週間ある。つまり三冊は読める」
「三十冊のうちの三冊!! 残り二十七冊は!?」
「来年読め」
「来年に持ち越すの!?」
「読書は積み重ねだ。一年で三冊ずつ読めば、十年で三十冊だろう」
「十年計画かよ!」
凛先輩が壮介用のリストを別に作っていた。紙の端に「壮介用(初級)」と書いてある。
「壮介にはこっちだ。十冊。全部薄い。絵が多い」
「絵が多い!? 俺は幼児か!?」
「幼児ではない。初級者だ。ライトノベルも入れてある」
「ライトノベルは読める!」
「だから入れた。読めるものから始めろ」
壮介が「初級者用リスト」を読み始めた。ぶつぶつ言いながらも、タイトルを確認している。「これ知ってる」「これ面白そう」「これ表紙がカッコいい」。文句を言いつつも読む気はあるらしい。
詩織さんがリストを見て手を挙げた。
「凛先輩、このリストに追加してもいいですか? おすすめが十冊ほど」
「四十冊は多い」
「じゃあ五冊」
「三冊にしろ」
「四冊」
「三冊」
「三冊半」
「半分の本があるか」
「短編集なら半分読めます」
凛先輩が少しだけ笑った。詩織さんの交渉は凛先輩に似てきている。天城さんとの予算交渉を思い出した。数字を刻んでいく戦い方。文芸部の交渉術は凛先輩が起源だ。
結局、詩織さんの追加三冊が認められた。合計三十三冊。壮介が「増えた!!」と叫んだ。壮介用リストは変わっていない。十冊のまま。
「先輩、リストの中に俺でも読めるやつある?」
「全部読める。日本語で書いてある」
「読めるかどうかじゃなくて、楽しく読めるかどうかの話!」
「楽しさは読者が見つけるものだ。本はお前を楽しませる義務はない。お前が本から楽しさを見つけろ」
「先輩、時々カッコいいこと言いますよね。でも三十三冊は多い」
「壮介用は十冊だと言ってるだろう」
「十冊でも多い!」
「なら五冊にしてやる。ただし感想文つきで」
「感想文!? 一冊につき何文字!?」
「五百文字」
「五百文字! 壮介の短編より長い!」
「壮介の短編が短すぎるんだよ」
壮介が初級者用リストを握りしめた。目が泳いでいる。計算している。五冊×五百文字=二千五百文字。壮介の過去最高文字数が一千二十だから、感想文だけで過去最高の二倍以上になる。
「先輩、これ実質的な文字数トレーニングですよね」
「気づいたか。鋭いな壮介」
「褒められてるのか貶されてるのか分からない!」
「両方だ」
霧島先生が缶コーヒーを飲みながら言った。
「凛、課題図書に俺のおすすめは入れないのか」
「先生のおすすめは?」
「太宰治の『走れメロス』」
「なぜメロス」
「走る話だから。朝倉が走る話を書くなら、走る文学を読んでおいたほうがいい」
先生がぽつりと言った。俺を見ていない。缶コーヒーを見ている。でも言葉は俺に向けられていた。
「先生、それ追加していいですか」
「好きにしろ。百ページもない。すぐ読める」
凛先輩がリストに「走れメロス(霧島推薦)」と書き加えた。三十四冊目。壮介が「また増えた」と呟いたが、今度は文句は言わなかった。メロスは壮介も知っている。教科書に載っているからだ。
*
課題図書の話が一段落した後、凛先輩がスケジュールに戻った。八月の第二週に「合宿(かもめ荘)」と書かれている。その前の週に「コンクール原稿締切」と赤い字で書いてある。
「コンクールの締切は合宿の前の週だ。つまり合宿に行く前に、原稿を仕上げて提出する必要がある」
「先輩、俺もコンクールに出していいですか」
口が先に動いていた。考える前に言っていた。凛先輩が俺を見た。詩織さんが万年筆を止めた。壮介が振り返った。先生が缶コーヒーを持つ手を止めた。
「出していいかじゃない。出したいのか?」
「出したいです」
凛先輩の目が少しだけ大きくなった。驚いている。この人を驚かせるのは珍しい。ミステリのトリックでさえ予想を外されない人だ。
「理由は」
「書きたいものがあるんです。走れなくなった奴が、別の走り方を見つける話。ずっと書いてて、途中で止まってたんですけど、合宿で仕上げたいと思って」
「走れなくなった奴」
「はい」
「別の走り方」
「はい」
凛先輩が二秒黙った。それから言った。
「書け」
短い一言だった。でもその一言に、凛先輩の全部が入っていた。許可じゃない。期待だ。
「書きます」
「コンクールの規定は一万字だ。今どこまで書いた」
「三千字くらいです」
「あと七千字。三週間で書けるか」
「書けます。たぶん」
「たぶんは要らない。書けるか」
「書けます」
凛先輩が頷いた。ホワイトボードの「コンクール出場者」の欄に、俺の名前を書き足した。凛、詩織、壮介の三人の下に「朝倉陽翔」。四人目。赤いマーカーで書かれた自分の名前を見て、胸の奥がざわついた。名前がホワイトボードに載っている。宣言した。もう引き返せない。
詩織さんが俺を見ていた。万年筆を握ったまま。目がまっすぐだ。嘘チャレンジの時とは違う目だ。あの時は恥ずかしさで揺れていた。今は——期待で光っている。
「壮介も出すのか」
「出す!! 俺もコンクールに挑戦する!!」
「作品は?」
「カレーうどンのエッセイ!」
「エッセイ部門はないぞ」
「ないの!?」
「小説部門だけだ」
「じゃあカレーうどンの小説!」
「内容は任せる。ただし千文字以上は書け」
「千文字!! 約束する!!」
詩織さんが微笑みながら言った。
「全員で出るんですね。楽しみです」
「詩織さんは何を書くんですか」
「まだ秘密です。でも——朝倉くんの作品が読めるのが、一番楽しみです」
その声には「取材です」がついていなかった。ただの本音だった。
*
スケジュールが固まった。
七月最終週:原稿執筆+課題図書読み始め。八月第一週:コンクール原稿仕上げ+提出。八月第二週:合宿(かもめ荘・二泊三日)。八月第三週:部誌制作。八月第四週:夏休み後半の執筆+読書。お盆の一日だけ休み。
壮介が「地獄のスケジュールだ」と言った。凛先輩が「地獄じゃない。充実だ」と返した。充実と地獄の境界線は曖昧だ。
詩織さんがスケジュールを取材ノートに写していた。完全コピーだ。日付も時刻も全て。その横に自分用のメモを追加している。「執筆時間帯:朝五時〜七時(蝉の前)。取材時間帯:午後。原稿仕上げ:夜」。詩織さんの夏は凛先輩のスケジュールの上にさらに自分のスケジュールが重なっている。二重構造だ。
俺もノートにスケジュールを書き写した。コンクール締切までの日数を計算した。二十一日。三千文字から一万文字まで七千字。一日あたり三百三十三文字。壮介の文字数よりは多いが、不可能な量ではない。書ける。書くしかない。
「あと一つ」
凛先輩がホワイトボードに追記した。
「八月最終週。花火大会」
「花火!?」
壮介が目を輝かせた。
「駅前の商店街で毎年やってるやつだ。全員で行こう」
「先輩から遊びの提案!?」
「遊びじゃない。取材だ」
「先輩が取材って言った! 詩織ちゃんの真似!」
「真似じゃない。花火は文芸のテーマとして重要だ。一瞬で消える美しさ、夜空に広がる色彩、音の振動。全部書くための素材になる」
「先輩、本音は?」
「花火が好きだ。文句あるか」
「ない!! 花火最高!!」
壮介が立ち上がって拳を突き上げた。予算会議の時と同じポーズだ。この男は嬉しい時に拳を突き上げる。花火と聞いただけでテンションが天井を突き抜けている。
「浴衣で行こう!」
「浴衣?」
「花火大会は浴衣だろ! 全員浴衣!」
「壮介は浴衣持ってるのか」
「ない! 買う!」
「予算」
「自腹!!」
凛先輩が少しだけ考えた。
「浴衣か。悪くないな」
「先輩も浴衣!?」
「持ってる。去年のやつがある」
「先輩の浴衣!! 見たい!!」
「当日まで秘密だ」
詩織さんが取材ノートに何かを書いた。「花火大会。浴衣。八月最終週」。その下に小さく何かを書き足している。見えない。見ないほうがいいかもしれない。
凛先輩が花火を好きだと言った。古書店に通うのが好きで、ミステリが好きで、プリンが好きで、花火が好き。この人の「好き」が少しずつ増えていく。部室の中では部長の顔しか見せない人が、夏休みの開放感で少しだけ蓋が緩んでいる。
先生が缶コーヒーの二本目を開けた。
「花火大会か。俺は引率が必要だな」
「先生も来るんですか」
「顧問だからな。お前たちだけで夜に出歩かせるわけにはいかない」
「先生、花火好きですか?」
「嫌いじゃない。缶コーヒー片手に見る花火は悪くない」
「先生は何を見ても缶コーヒーが手にありますね」
「これは俺の酸素だ」
先生の缶コーヒーは一日何本だろう。計算しないほうがいい。年間で考えたら怖い数字になる。
*
昼前に解散になった。
帰り道。壮介と並んで歩いている。日差しが強い。壮介のTシャツの背中に汗のシミができている。サンダルがパタパタと音を立てている。夏の帰り道だ。
「陽翔、コンクール出るんだな」
「ああ」
「走れなくなった奴の話って、お前のこと?」
「フィクションだよ」
「嘘つけ。詩織ちゃんに言わせたら一秒でバレるぞ」
壮介は鋭い。この男はバカだけど、人のことはよく見ている。カレーうどンのことを考えている時間が九割で、残りの一割で人間を観察している。その一割の精度が異常に高い。
「まあ、少しだけ自分が入ってるかもしれない」
「少しじゃないだろ」
「少しだって」
「陽翔、お前の嘘は詩織ちゃんの次に下手だ」
「お前、最近ツッコミが上手くなったな」
「ツッコミじゃない。事実だ。お前が書く文章は、全部お前から出てる。サッカーの描写も、走れなくなった悔しさも、全部本物だろ。だからお前の文章は読むと胸がざわつくんだ」
「壮介、お前いつからそんな文芸批評を」
「批評じゃない! 感想だ! 俺にも感想くらいある!」
「それは知ってる。お前の感想はいつもまっすぐだ」
「まっすぐ!? 褒めてる!?」
「褒めてる」
「よっしゃ!!」
壮介がガッツポーズをした。歩きながらガッツポーズ。サンダルが脱げかけた。慌てて拾う。この男の人生は常にドタバタだ。
壮介がにかっと笑った。
「俺もカレーうどンの小説書くからな! お前に負けないぞ!」
「カレーうどンで勝負するの?」
「カレーうどンは最強のテーマだ!」
「ジャンル的に厳しい気がするけど」
「ジャンルを超えるんだよ! カレーうどンは全ジャンルに対応する!」
壮介が走っていった。「じゃあな! 俺カレーうどン食いに行く!」と叫んで。小説の取材かもしれない。ただ食べたいだけかもしれない。たぶん後者だ。
一人になった。
夏休みの住宅街を歩いている。子どもたちが公園で水遊びをしている。アイスクリームの移動販売車が音楽を流している。夏だ。完全に夏だ。
ポケットからノートを取り出した。小さなメモ帳。コンクール原稿のアイデアを書き留めるために持ち歩いている。三千文字の続き。走れなくなった主人公が、別の走り方を見つける話。
今日、自分からコンクールに出たいと言った。凛先輩に。みんなの前で。誰に言われたからでもなく、自分から。
三ヶ月前には考えられなかったことだ。三ヶ月前の俺は、文芸部に引きずり込まれた元サッカー部員だった。書くことなんて何も分からなかった。今も分かっていない。でも書きたいものがある。書きたい話がある。それだけは、はっきりしている。
ノートにペンを走らせた。一行。メモだ。合宿で使うかもしれないフレーズ。
「走れなくなった奴は、走れなくなったことを知っている。だから別の道が見える」
良いフレーズかどうか分からない。でも書いた。書いたものは残る。残ったものは使える。凛先輩がそう言っていた。掟の一番目。書け。だから書いた。
家に帰ったら、まずメロスを読もう。先生のおすすめだ。走る話。走れなくなった俺が、走る話を読む。何かが見えるかもしれない。見えなくても、読んだことは残る。
夏が始まった。忙しい夏だ。休みのない夏だ。でも楽しい夏になる。たぶん。いや、たぶんじゃない。なる。俺がそうする。ペンを握って、走る。




