第25話 夏の予感
# 第二十五話 夏の予感
七月第三週の水曜日。梅雨が完全に明けた。毎日三十度超え。旧校舎にエアコンはない。扇風機を一台持ち込んだ。先生が職員室から「借りた」やつ。
合宿まであと一週間半。コンクールの締切まで二週間。期末テストは終わっている。壮介の成績は全教科平均四十九点。一点上がった。
「一点の重みを噛みしめろ」
「先輩、一点ですよ。一点」
「一点は一点だ。ゼロと一は違うと先生が言った」
「ゼロと一は違う。でも四十八と四十九は」
「違う。四十九は四捨五入すると五十だ。壮介は平均五十点の男になった」
「四捨五入で五十! すげえ! 五十点到達!」
「四捨五入で到達を喜ぶな」
「到達は到達だ。壮介理論」
放課後。部室。凛先輩がホワイトボードの前に立っていた。
「夏合宿 行き先選定会議」
「座れ。合宿の行き先を決める」
「行き先って先生の知り合いの民宿に決まったんじゃ」
「決まっていない。先生の提案は候補の一つだ。全員の意見を聞いてから決める。民主主義だ」
「先輩が民主主義を掲げるの珍しいですね。普段は独裁ですよね」
「独裁ではない。効率的な意思決定だ」
「先輩の効率的な意思決定は独裁と区別がつかない」
「区別はある。今日は効率より合意を優先する」
「では各自、行きたい場所と理由をプレゼンしろ」
◇
「私は山がいい」
「理由」
「山は静かだ。虫の声と風の音だけ。執筆に集中できる。ペンションを借りれば安い。電波が弱いからスマホの誘惑も少ない」
「電波が弱いのがメリットですか」
「メリットだ。壮介がスマホでゲームをしなくて済む」
「俺の名指し!?」
「お前は電波があると集中できない人種だ」
「否定できない」
「先輩の山推しは合理的だ。静かで安くて集中できる」
「凛先輩らしいですね。ミステリの密室と同じ発想だ。外界を遮断して中に閉じ込める」
「山のペンションは文芸部の密室だ」
「先輩が密室って言ってる。怖い」
「怖くない。執筆の密室だ」
「虫は?」
「虫は……我慢する」
「先輩も虫苦手なんですか」
「苦手ではない。得意でもない」
「それを苦手と言うんですよ」
「言わない」
「千歳さんは虫ダメですか」
「ダメです。虫は取材対象外です」
「千歳さんの取材対象外は虫だけですか」
「虫と爬虫類です。それ以外は全て取材対象です」
「取材対象外が虫と爬虫類って。千歳さんの取材範囲が広すぎる」
「私は海がいいです」
「海」
「波の音は創作に良い影響を与えるというデータがあります。リラックス効果が高まり創造性が向上するという研究が」
「千歳さん、それどこのデータ」
「先週読んだ心理学の本に」
「積読タワーから読んだんですか」
「はい。三十二冊のうちの一冊でした」
「積読から心理学のデータを引き出してくる千歳さん。辞書みたいな頭」
「辞書ほどではないです。でも数学は二十八点です」
「自分で言わなくていいですよ」
「海!!」
壮介の声が部室を揺らした。
「水着! バーベキュー! 花火! 砂浜! スイカ割り!」
「壮介の動機が不純すぎる」
「何が不純だよ! 夏は海だろ! 海は夏だろ!」
「同語反復だぞ」
「同語反復は文学の技法だ!」
「壮介が文学の技法を持ち出した。珍しい」
「珍しくない。壮介は文学を知っている」
「知らないだろ」
「知ってる。カレーうどンから学んだ」
「カレーうどンから文学は学べない」
「学べる。カレーうどンは全ての教科書だ」
壮介がホワイトボードに走った。凛先輩のマーカーを奪って「海の良いところリスト」を書き始めた。
「①泳げる ②焼ける ③カニが食える ④花火ができる ⑤水着」
「壮介、⑤が動機の本体だろ」
「違う! ①が本体! 泳ぎたいんだよ!」
「どっちでも不純だよ」
「不純じゃない! 夏を楽しむのは人間の権利だ!」
「権利の主張が力強い」
「壮介くんの権利主張は毎回全力ですね」
「全力だ。壮介は常に全力だ」
「全力の方向がいつもずれてるけどな」
「ずれてない。真っ直ぐだ」
「真っ直ぐに斜めだ」
「海派は壮介と千歳さんの二人。山派は凛先輩。朝倉は?」
「どっちでもいいです。書ける環境がいい」
「日和見か」
「意見がないだけです」
「意見がないのが一番困る。どっちか選べ」
「じゃあ海で」
「理由は」
「千歳さんのデータが説得力あったので」
「仲間! 海派三人!」
「多数決なら海の勝ちですね」
「多数決は取らない。合理的な判断をする」
「民主主義を否定するのは民主主義じゃないですよ先輩」
「民主主義は多数決だけではない。議論を尽くしたあとの合意形成だ」
「議論を尽くしたら山になりそうですね」
「当然だ」
「海の夕日は最高! インスタ映え!」
「文芸部にインスタ映えは不要だ」
「海辺の描写は恋愛小説の定番舞台です。文学的根拠があります」
「千歳さんが文学的根拠を出した」
「どっちでもいいんですけど」
「朝倉の中立が一番役に立たない」
「海と山、両方行ける場所にすればいいだろ」
全員が振り返った。先生がデスクで缶コーヒーを啜っている。
「先生!?」
「知り合いの民宿がある。海沿いの山の中腹にある。歩いて十分で海に出られる。窓を開ければ山の空気が吸える。安い。飯もうまい」
「海も山も! 両方!」
「先生すげえ!! 神!!」
「大げさだ」
「珍しく役に立った」
「『珍しく』は余計だ」
「事実です」
「俺はいつも役に立っている。缶コーヒーを通じて精神的サポートを」
「缶コーヒーは精神的サポートではありません」
「千歳さんが先生の精神的サポート理論を否定した」
「否定ではないです。訂正です」
「海も山も! 最高の取材環境です!」
「千歳さんは全部取材なんですか」
「全部取材です。海の波も山の木も砂浜も空も全部」
「取材対象が広すぎる」
「先生、その民宿って大丈夫ですか。幽霊とか出ませんよね」
「出ない。たぶん」
「たぶんは不吉ですよ」
「冗談だ。俺も学生時代に何度か泊まった。いい場所だ」
「先生の学生時代の民宿」
「先生が小説を書いていた頃の宿」
「あの原稿の先生が泊まった場所」
「先生の青春の場所を俺たちに渡してくれるんですね」
「渡すとは大げさだ。紹介するだけだ」
「先生の紹介は渡すと同じです」
「缶コーヒーの味が変わった。やめてくれ」
「先生が照れてる」
「照れてない」
「じゃあ決定だ。海沿いの山の中腹の民宿」
「民宿の名前は?」
「かもめ荘」
「かもめ荘! いい名前!」
「風情がありますね」
「先生、かもめ荘ってどんなところですか」
「古い民宿だ。女将さんが一人でやっている。部屋は畳で部室くらいの広さ」
「六畳ですか」
「六畳と八畳が一部屋ずつ。男子と女子で分ければちょうどいい」
「男子三人で六畳は狭くないですか」
「壮介が寝返りを打たなければ大丈夫だ」
「俺の寝返りは規格外だぞ」
「知ってる。だから釘を刺している」
「壮介の寝返りが名指しで釘を刺されてる」
◇
日程とルール。
「八月第一週、木金土。二泊三日」
「初日は移動と自由時間。二日目は集中執筆。三日目は合評会と帰路」
「コンクールの締切は合宿後の月曜日。ギリギリですね」
「ギリギリだからこそ集中できる。締切は最高のモチベーションだ」
「先輩の締切論がミステリの構造と同じだ。緊張と解決」
「同じだ。締切という緊張を設けて提出という解決に向かう」
「合宿にはルールがある」
「ルール一。全員、合宿までに原稿を一本仕上げてくること」
「合宿までに一本。完成品じゃなくていいですか」
「第一稿でいい。合宿で推敲する」
「ルール二。合宿中に全員の作品を合評する」
「部室の合評会と同じですか」
「同じだ。でも合宿だから時間がある。深くやれる」
「ルール三。最終日に全員が新しい作品を一本書く」
「コンクール用のとは別に?」
「別に。合宿の体験を元にした短編。海を見て書いてもいい。山の空気を吸って書いてもいい。その場で感じたことをその場で書く」
「体育祭の実況小説みたいですね」
「似ている。ライブ執筆だ」
「ルール四。以上のルールを守らない者は海に沈める」
「④が物騒!!」
「冗談だ。山に埋める」
「変わってない!!」
「冗談だ。守らない者はカレーうどン禁止」
「それが一番きつい!!」
「壮介にとってカレーうどン禁止が最大の罰だ」
「最大の罰だ。死刑より重い」
「死刑より重い罰がカレーうどン禁止って。壮介の価値基準が」
「壮介基準だ」
「楽しみです。朝倉くんのコンクール作品読みたいです」
「まだ構成が固まってないんですけど」
「合宿までに固めてください」
「千歳さんに言われると頑張らないといけない気がします」
「頑張ってください。私も読みたいので」
「千歳さんの『読みたい』が強い動機付けになる」
「千歳さんが朝倉のコンクール作品の最初の読者になるのか」
「最初の読者になりたいです」
「千歳さんが最初の読者宣言した」
「だから合宿までに書くんだよ。甘えるな」
「はい」
「各自、合宿までの残り日数で原稿を仕上げろ。進捗は毎日LINEで報告。遅れたら追い込みをかける」
「追い込みって何ですか」
「私が直接原稿を見に行く」
「先輩が家に来るんですか」
「来る。書くまで帰らない」
「それは怖い」
「怖がれ。その恐怖が執筆のモチベーションになる」
「先輩の指導がスパルタすぎる」
「スパルタだ。でも全員がコンクールに出す。全員で。誰も置いていかない」
「先輩が『誰も置いていかない』って」
「言った。部長の責任だ」
「合宿中は自由時間も取る。海で泳いでもいい。散歩してもいい。ただし原稿の提出は三日目の朝まで。それだけ守れ」
「先生のルールは緩いですね」
「締切だけ守れ。あとは自由。それが俺のスタイルだ」
「先生のスタイルと凛先輩のスタイルが正反対ですね」
「相補的と言え」
「先輩が厳しく管理して先生が緩く見守る。このバランスが文芸部ですね」
「バランスではない。役割分担だ」
「役割分担が完璧すぎる」
◇
壮介がカバンの底から何かを取り出した。A4の紙。
「じゃん! 合宿のしおり作った!」
「壮介がしおりを」
「いつ作ったの」
「昨日の夜。三時間かかった」
「三時間! コンクールの原稿に三時間使えよ!」
「しおりのほうが楽しかった」
「楽しさで作業の優先順位を決めるな」
「表紙に棒人間が五人並んでる。海と山の両方が描いてある」
「太陽と波と木。棒人間が水着を着てる」
「棒人間に水着の概念があるのか」
「ある。腰のあたりの短い横線が水着だ」
「壮介の画力が部誌の表紙から変わってない」
「変わらないのは安定だ。壮介は安定型」
「安定型って。成長してないとも言える」
「安定は成長の土台だ。壮介理論」
「中のスケジュールがやばい」
「一日目。到着→荷物置く→海!!→バーベキュー→花火→寝る」
「二日目。朝ごはん→海!!→昼ごはん→海!!→おやつ→海!!→夜ごはん→寝る」
「三日目。朝ごはん→帰る」
「壮介、二日目が海しかない」
「海の日だ!」
「集中執筆はどこに行った」
「あ」
「『あ』って。壮介のしおりに『執筆』の文字が一つもない」
「合宿の目的を完全に忘れてる」
「忘れてない! 書くのは海の合間にやる」
「海の合間に書くのか。逆だろ」
「持ち物リストもやばいですよ」
「水着、浮き輪、花火、虫取り網、バーベキューセット、テント、日焼け止め、ポテチ大袋、カレーうどンの素、筆記用具」
「筆記用具が一番小さい字なのはなぜだ」
「スペースがなくて」
「優先順位の問題だろ。筆記用具が最後に追加されてる」
「文芸部の合宿で筆記用具が最後に思いつくのはおかしいだろ」
「おかしくない。水着のほうが先に思いつく」
「水着が先に思いつく文芸部員は壮介だけだ」
「テントは要らない。民宿だぞ」
「え!? キャンプじゃないの!?」
「話聞いてたか!?」
「聞いてた!」
「聞いてない顔してるぞ」
「壮介も千歳さんと同じで嘘がつけないタイプだ」
「嘘ついてない! 聞いてた! 民宿って言ってた! かもめ荘!」
「名前は覚えてるのに泊まることを忘れてる」
「忘れてない。テントも持っていきたかっただけだ」
「民宿にテントは不要だ」
「テントは浪漫だ」
「浪漫は原稿に入れろ。テントは家に置いてこい」
「壮介のしおり、修正が必要だな」
「修正!? 俺の三時間が!」
「三時間のうち執筆時間をゼロにしたのはお前だ」
「赤入れしてくれるんですか先輩」
「赤入れする。全面的に。壮介、このしおりを俺に預けろ」
「全面書き直しですか」
「書き直しだ。でもイラストだけ残してやる」
「棒人間は残る! やった!」
「壮介の棒人間は常に生き残る」
「生き残る。壮介のアイデンティティだから」
「カレーうどンの素は?」
「持ち物リストから削除だ」
「なんで! カレーうどンは俺の命綱だ!」
「民宿の食事がある。カレーうどンの素は不要」
「民宿にカレーうどンがなかったらどうする」
「なくても生きていける」
「生きていけない! カレーうどンなしの二泊三日は砂漠だ!」
「砂漠でも書け。掟の一番目」
「壮介がカレーうどンの素を隠して持っていく計画を立ててるの、顔に出てますよ」
「出てない!」
「出てる。壮介の目が右上を向いてる。計画を立ててるときのサインだ」
「千歳さんが壮介の嘘を計測してる」
「計測してます。壮介くんの嘘は千歳さんと同じくらいバレやすいです」
「俺と千歳さんが同レベルなのか」
「嘘スキルは文芸部で最下位を争ってます。二人で」
「最下位争い」
「争いにもなってないです。二人とも壊滅的なので」
◇
帰り支度。先生が「ちゃんと帰れよ。合宿の準備は計画的に」と去った。
凛先輩が西口で分かれた。
「合宿まであと十日。全員原稿を持ってくること」
「はい」
「壮介、カレーうどンの素は持っていくなよ」
「持っていかない。たぶん」
「たぶんは信用しない」
「持っていく。絶対」
「壮介が正直に宣言した。凛先輩の前で」
「正直は美徳だ」
「壮介の正直はカレーうどンに関してだけ発揮される」
「カレーうどンは壮介の信仰だからな」
「信仰を禁止することはできない」
「できる。部長権限で」
「部長権限でカレーうどンの信仰を禁止するの、宗教弾圧では」
「弾圧ではない。合宿の規律だ」
「規律とカレーうどンの戦い」
「戦わせるな」
三人になった。千歳さんと壮介と俺。
「朝倉くん、合宿楽しみですね」
「楽しみです。かもめ荘」
「海と山の両方ですよ。取材が捗ります」
「千歳さんの取材が捗るの確定なんですか」
「確定です。新しい環境は新しいデータを生みます」
「千歳さんが新しいデータに興奮してる」
「興奮してます。波の音と万年筆の音が合わさったらどんな文章が書けるか」
「それは面白いですね。部室の万年筆の音と海辺の万年筆の音が違うかどうか」
「違うと思います。湿度が違いますから。ペンの摩擦が変わります」
「千歳さんが合宿先での万年筆の摩擦係数を予測してる」
「予測してます。海辺の湿度は高いのでペン先の滑りが良くなるはずです」
「千歳さんの取材が物理学レベルに達してる」
「達してます。文芸と物理学は両立します」
「千歳さんの数学が二十八点なのに物理を語ってる」
「物理と数学は別です」
「別じゃないです」
「朝倉くんのコンクール作品、構成は決まりましたか」
「まだです。今週中に固めます」
「固まったら教えてください。感想を言います」
「千歳さんの感想が先に聞けるのか」
「聞けます。朝倉くんの最初の読者は私です」
「千歳さんが読者宣言を繰り返してる」
「繰り返します。大事なことは何回でも言います」
「先生の受け売りですね」
「先生の受け売りです。いい言葉だから」
「壮介はコンクールの原稿どうだ」
「カレーうどンの冒険。千文字に挑戦中」
「千文字。進んでるのか」
「六百文字まで来た。あと四百文字」
「壮介が六百文字に到達してる。成長してる」
「成長してる。壮介は成長する」
「壮介くんの文字数の伸び率、データ的には月あたり約百文字のペースです」
「月百文字って。千文字到達は四ヶ月後ですか」
「計算上はそうです。でも合宿の集中環境なら加速する可能性があります」
「千歳さんが壮介の成長を数値予測してる」
「予測してます。壮介くんの成長は文芸部の財産ですから」
「俺が財産って。嬉しい」
「財産だ。壮介は文芸部の財産だ」
「先輩までが壮介を財産と」
「財産だ。壊れ物注意の財産だが」
「壊れ物注意って。俺は丈夫だぞ」
「丈夫だけど取扱注意だ。壮介の声量は取扱注意シール付き」
「取扱注意シール。俺の額に貼る?」
「貼れ」
「貼らない。壮介は自由だ」
「自由すぎる壮介を管理するのが部長の仕事だ」
「管理されたくない」
「されろ」
「なあ陽翔」
「ん」
「合宿で泳ぐよな」
「泳ぐだろうな。海があるなら」
「お前の膝は大丈夫か。海で」
「海なら大丈夫だ。水中は膝への負荷が少ない。浮力があるから」
「お前、泳ぐの好きか」
「嫌いじゃない。サッカー部のとき体力トレーニングで泳いでた」
「じゃあ一緒に泳ごう。合宿で」
「泳ごう」
「壮介と泳ぐのか。楽しそうだ」
「楽しいぞ。壮介は泳ぐの速い」
「壮介が泳ぎも速いのか」
「速い。サッカーは得意じゃないけど水泳は得意だ」
「壮介の得意が水泳とカレーうどンと声量って」
「全部身体能力だ。壮介は身体が強い」
「身体は強い。頭は」
「頭は別だ。別枠」
「別枠にするな」
「朝倉くんも泳ぐんですか」
「泳ぎます。膝に優しい運動なので」
「千歳さんは泳げますか」
「泳げます。得意ではないですが」
「千歳さんの得意科目が国語で苦手が数学と運動。文系の極みだ」
「極みです。認めます」
「合宿で泳いで書いて食べて寝る。最高の夏だ」
「最高の夏になりますね」
「なる。壮介が保証する」
「壮介の保証はカレーうどンより軽い」
「軽くない! 壮介の保証はカレーうどンと同じ重さだ!」
「カレーうどンと同じ重さが褒め言葉なのは壮介だけだな」
「壮介だけだ。壮介基準」
「じゃあ明日な」
「明日な。原稿やれよ」
「やる。千文字目指す」
「お前なら書ける」
「書く。カレーうどンの力を借りて」
「カレーうどンの力って何だ」
「全ての力だ」
壮介が笑いながら去っていった。
俺は家に帰った。机に向かった。ノートを開いた。「走れ、朝倉」。五十行超え。構成が固まっていない。
構成を考えた。起承転結。
起。走れなくなった少年がフェンスの前に立っている。
承。少年は書くことを見つける。部室で。仲間と。
転。サッカーの試合を見て揺れる。逃げたのか選んだのか。
結。「走れ、朝倉。ペンで走れ」。走り続ける方法を見つけた。
構成が見えた。凛先輩が言った通り。「お前の問題は何を書くかじゃなくてどう並べるかだ」。素材は全部ある。あとは並べるだけだ。
構成メモを書いた。四つの段落の骨格。フェンス。グラウンド。部室。ちゃぶ台。万年筆。走る。書く。
合宿までに第一稿を書く。合宿で推敲する。コンクールに出す。
掟の一番目。書け。
夏が来る。合宿が来る。コンクールが来る。
文芸部の夏が、始まる。
◇
夜。スマホが鳴った。グループ「文芸部」。
壮介から。
「かもめ荘!! 調べた!! ネットに写真あった!!」
「壮介が早速調べたのか」
「調べた! 古い民宿だ! 木造! 畳! 海が見える! 最高!!」
「感嘆符が多すぎる」
「多い! 興奮してる! 止まらない!!」
「壮介の感嘆符が文芸部のLINEの帯域を圧迫してる」
「圧迫してない! 感嘆符は感情の発露だ!」
「壮介の感情の発露が過剰だ」
「過剰じゃない。適正量だ」
「適正量の感嘆符が十個超えてるのはおかしいだろ」
「かもめ荘の写真、私も見ました。海が近いですね。窓から波が見えます」
「千歳さんも調べたのか」
「調べました。取材の予習です」
「合宿前に取材の予習をする千歳さん」
「予習は基本です。現地に着いてから慌てたくない」
「千歳さんの取材準備が本格的すぎる」
「本格的です。プロの取材者は準備が命です」
「プロじゃないです千歳さん。高校生です」
「高校生でもプロ意識は持てます」
「千歳のプロ意識は認める」
「先輩に認められた」
「認めた。千歳の取材力は文芸部の資産だ」
「資産扱い」
「資産だ。壮介が財産で千歳が資産。どっちも部の宝だ」
「先輩が部員を経済用語で評価してる」
「経済用語ではない。文芸的評価だ」
「先生、かもめ荘の女将さんって覚えてますか」
「覚えてる。十年前と変わっていなければ七十代の女性だ。料理が上手い」
「十年前って先生の学生時代ですよね」
「学生時代だ。新人賞に応募していた頃の夏に泊まった」
「先生がかもめ荘で原稿を書いてたんですか」
「書いた。一晩で短編を一本仕上げた。波の音を聞きながら」
「先生がかもめ荘で一晩で短編を書いた」
「書いた。あの短編は新人賞の一次選考を通過した」
「先生! それすごくないですか! かもめ荘で書いた短編が一次通過!」
「すごくない。一次通過は予選だ。最終選考に残ったのは別の作品だ」
「でもかもめ荘にはご縁がありますね先生」
「縁があるかもしれない。十年ぶりに行く」
「先生が十年ぶりにかもめ荘に行くのか」
「行く。顧問として」
「顧問としてって。先生もまた書きますか。かもめ荘で」
「書かない」
「書いてくださいよ」
「書かない。顧問の仕事は赤ペンだ」
「先生が赤ペンだけで済ませようとしてる」
「済ませる。俺の仕事は書くことではない。お前たちの文章を磨くことだ」
「先生の仕事観がかっこいい」
「かっこよくない。事実だ」
「先生、かもめ荘で原稿の『続き』を書くチャンスですよ。十年前の」
「朝倉、余計なことを」
「余計じゃないです。先生の原稿の最後のページに『続きは、いつか』って書いてあった。かもめ荘が『いつか』の場所かもしれない」
「かもめ荘が先生の原稿の続きを書く場所になるかも」
「ならない。たぶん」
「先生のたぶんが不安定だ」
「不安定ではない。確定的な否定だ」
「確定的な否定なのにたぶんがついてる」
「たぶんは壮介の接尾語だ。伝染した」
「壮介の接尾語が先生に伝染した」
「伝染してない。偶然だ」
「千歳さんの偶然と同じ匂いがする」
「匂いではない。事実だ」
「おやすみ。合宿の準備は計画的に。壮介、しおりの修正版は金曜までに出す」
「はい! 棒人間は残してくれるんですよね!」
「残す。イラストだけ」
「やった!!」
「壮介の棒人間が合宿のしおりに生き残った」
「生き残った! 棒人間は不滅だ!」
「不滅の棒人間。壮介のアイデンティティ」
「アイデンティティだ! 壮介=棒人間!」
「壮介が自分を棒人間と同一視してる」
「してる。棒人間は壮介の分身だ」
「おやすみなさい。合宿が楽しみです」
「楽しみですね。千歳さんの海の描写が早く読みたい」
「書きます。朝倉くんの隣で」
「千歳さんがまた『隣で』って」
「壮介、拾うな」
「拾う。大事な情報だから」
「壮介の情報収集能力が千歳さんに次いで文芸部二位」
「二位だ。一位は千歳さん。壮介は万年二位」
「万年二位って。成長しないのか」
「しない。一位は千歳さんに譲る。壮介は二位の王だ」
「二位の王って。変な称号だな」
「変じゃない。二位は大事だ。一位を支える二位」
「壮介がまたいいこと言った」
「いつもだ」
「たまにだ」
「おやすみ。缶コーヒーを忘れるな」
「先生のおやすみが毎回缶コーヒーで終わる」
「終わる。文芸部の伝統だ」
「伝統にするな」
「した。おやすみ」
「おやすみなさい」
「おやすみ!!」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
スマホを置いた。
かもめ荘。海沿いの山の中腹。先生の学生時代の思い出の場所。先生が十年前に短編を一晩で書いた場所。
そこで俺たちが書く。「走れなくなった少年の話」を。千歳さんの恋愛短編を。壮介のカレーうどンフィクションを。凛先輩のミステリを。
夏が来る。文芸部の夏が。
三ヶ月半前、サッカーを失った俺が、文芸部で走り始めた。ペンで。部室で。仲間と。
その走りが合宿で加速する。
掟の一番目。書け。
書く。かもめ荘で。海と山の間で。五人で。
文芸部の夏が、始まる。




