第24話 凛先輩の休日には近づくな
# 凛先輩の休日には近づくな
日曜日の商店街を歩いていた。
母さんに頼まれた買い物だ。醤油と味噌と卵。メモを見ながら歩いている。七月の三週目。夏休みが近い。商店街のアーケードには風鈴の音が響いて、どこかの店からかき氷の看板が出ている。日差しが強い。Tシャツの背中に汗が滲む。
古書店の前で、足が止まった。
正確には、足が止まったのではなく、目が止まった。古書店のショーウインドウに額を近づけて本を眺めている女性がいた。長い髪。見覚えのあるシルエット。後ろ姿だけで分かる。あの立ち方。片足に重心を寄せて、少しだけ首を傾げる姿勢。部室でソファに座っている時と同じ角度だ。
凛先輩だった。
制服じゃない。白いフリルのブラウスにジーンズ。学校で見る「クールビューティ」とは別人のような雰囲気だった。髪を下ろしている。学校では後ろで一つに束ねていることが多いのに、今日は下ろしている。肩にかかる黒い髪が、古書店のガラスに映っている。
柔らかい。それが最初に浮かんだ言葉だった。部室にいる凛先輩は鋭い。ソファに座っていても目が鋭い。ホワイトボードの前に立つと声が鋭い。壮介をツッコむ時の言葉が鋭い。でも今、古書店のショーウインドウを覗き込んでいる凛先輩は、全部の角が丸くなっていた。
「凛先輩?」
声をかけた。凛先輩が振り返った。一瞬、目が大きくなった。驚いた顔。すぐにいつもの表情に戻す。表情の切り替えが速い。この人はいつも二秒以内に平静に戻る。
「朝倉。奇遇だな」
「先輩、その……フリルの……」
凛先輩の目が細くなった。声が半音下がった。
「何か文句あるか」
「いえ、似合ってます」
「……バカ。面と向かってそういうこと言うな」
凛先輩が視線を逸らした。首筋がわずかに赤くなっていた。照れている。凛先輩が照れるのを見るのは初めてだった。部室ではどんなボケを壮介が投げても動じない人が、「似合ってます」の一言で赤くなっている。
「で、お前は何でここに」
「買い物です。醤油と味噌と卵」
「生活感がすごいな」
「母さんに頼まれまして」
「そうか。じゃあ行け。醤油と味噌と卵を買え」
「先輩は?」
「俺は本を見てるだけだ。一人で」
「一人で」
「そう。一人で。休日は一人で過ごすのが好きなんだ」
凛先輩が古書店のショーウインドウに目を戻した。追い払おうとしている。でもその追い払い方が、いつもの部室とは違う。部室なら「帰れ」の一言で終わる。今日は「行け」と言いながら、背中が少しだけこちらを向いている。
「先輩、もしよかったら、その古書店、一緒に見てもいいですか」
凛先輩が振り返った。二秒の沈黙。
「好きにしろ」
それは「来い」と同義だった。凛先輩が古書店のドアに手をかけた。ドアベルが鳴った。小さな金属音。カランカラン。凛先輩の歩く後ろについていく。この人の後ろ姿を追うのは、部室の中では日常だ。でも商店街の古書店で追うのは初めてだった。フリルのブラウスの後ろ姿は、制服の後ろ姿よりも小さく見えた。制服には肩パッドが入っているわけではないのに。
*
古書店の中は薄暗かった。
天井が低くて、棚が高い。本の壁に囲まれている。紙の匂いが濃い。古い紙と、新しい紙と、インクの匂いが混ざっている。部室の本棚の匂いを十倍にしたような空気だ。
凛先輩の足取りが変わっていた。部室の中を歩く時よりも軽い。棚の間を縫うように歩く。慣れている。常連だ。店主のおじいさんが奥から声をかけた。
「おう、桐谷さん。いらっしゃい」
「お久しぶりです」
凛先輩が笑った。穏やかな笑顔。学校では見たことがない顔だった。壮介にツッコむ時の鋭い笑みでもなく、予算が通った時の得意げな笑みでもなく、ただ本が好きな人間の、純粋な笑顔だった。
「連れか?」
店主のおじいさんが俺を見た。
「後輩です」
「彼氏じゃないのか」
「違います」
即答だった。凛先輩の声に一切の迷いがなかった。俺の存在が一瞬で否定された。まあ、事実だけど。
凛先輩が棚を歩き始めた。一冊一冊を丁寧に手に取り、装丁を確認し、ページを開いて、匂いを嗅いだ。
「先輩、今、本の匂い嗅ぎました?」
「嗅いだが」
「古書の匂いを嗅ぐんですか」
「当たり前だ。古い本は匂いがいい。時間の匂いがする」
「時間の匂い」
「何十年も棚の中にいた本は、紙が空気を吸い込んでいる。その時代の空気が詰まってるんだ。昭和の匂い、平成の匂い、全部違う。これは昭和四十年代の匂いだな」
凛先輩が本を鼻に近づけたまま言った。真剣な顔で。本の匂いを鑑定している凛先輩は、ミステリの講座を開いている時と同じ目をしていた。好きなものの前で輝く目。
棚の前で凛先輩が一冊を手に取り、パラパラとページをめくった。
「これは活版印刷だ。文字のインクが紙に凹凸を作ってる。指で触ると分かる」
俺も触ってみた。確かに、文字の部分がわずかに盛り上がっている。
「活版印刷の本は読んでると指先が喜ぶんだ。今の本にはない感覚だぞ」
「先輩、詳しいですね」
「月に二回、三年通えば詳しくもなる。俺の知識の半分は、この店と図書室でできてる」
「残りの半分は?」
「ミステリだ」
即答だった。この人の脳内は本棚でできているのかもしれない。
「先輩、いつもここに来るんですか?」
「月に二回くらい。中学からの趣味だ」
凛先輩が棚の奥に手を伸ばした。本を引き抜いて、表紙を見つめる。
「笑うなよ」
「笑いませんよ。カッコいいと思います」
「お前は本当に思ったことをそのまま言うな」
「詩織さんほどじゃないですけど」
「千歳は言いすぎる。お前はちょうどいい」
凛先輩がミステリの棚に移動した。目が変わった。さっきまでの穏やかな目が、狩人の目になっている。獲物を探す目だ。指先が背表紙の上を滑っていく。一冊ずつ確認している。探し物があるらしい。
「先輩、探してる本があるんですか」
「ある。三ヶ月前から探してる。絶版になった推理小説の初版だ。どの古書店にも在庫がなくて、ネットでも見つからなかった」
「三ヶ月も」
「本探しは忍耐だ。急ぐと出会えない。本のほうから来るのを待つんだ」
「本のほうから来る?」
「ミステリ読みの迷信だ。本気で探してる本は、いつか棚の中からこちらを呼ぶ。"ここにいるぞ"って」
棚の奥で、凛先輩の手が止まった。一冊を引き抜いた。表紙を見て目が輝いた。
「あった」
声が弾んでいる。凛先輩の声が弾むのは珍しい。本が呼んだのかもしれない。三ヶ月の忍耐が実った瞬間だ。
「先輩、何の本ですか」
「絶版のミステリだ。ずっと探してた。初版だぞ、初版」
凛先輩が本を胸に抱えた。大事そうに。まるで赤ん坊を抱くように。いや、赤ん坊よりも丁寧かもしれない。
値札を見た。凛先輩の顔が曇った。
「高い」
「いくらですか」
「お前に言う必要はない」
「でも顔が渋いですよ」
「来月の小遣いが消える」
「先輩でも予算の壁があるんですね」
「生徒会より厳しい壁だ。自分の財布は」
三秒の沈黙。凛先輩が本を棚に戻しかけて——戻さなかった。もう一度胸に抱えた。
「買う」
「買うんですか」
「後悔はしない。本への投資に後悔はない」
レジに向かう凛先輩の背中は、予算交渉に勝った日と同じくらい堂々としていた。
*
古書店の近くの喫茶店に入った。
凛先輩が「ここでいいか」と言った。俺が「はい」と答えた。凛先輩がアイスティー、俺がアイスコーヒー。窓際の席。午後の日差しが柔らかく差し込んでいる。
凛先輩が古書店の紙袋を大事そうに膝の上に載せている。さっき買った本が入っている。来月の小遣いと引き換えに手に入れた一冊。
「朝倉」
「はい」
「なんで文芸部に入ったか、前に聞いたよな」
「はい。部室でちゃぶ台を囲んだ日に」
「俺の理由も話しておく」
凛先輩がアイスティーのストローを回した。氷がグラスの中でカランと鳴った。
「中学の時、クラスの人間関係に疲れた」
声が静かだった。部室で掟を読み上げる時の声とは全然違う。
「友達がいなかったわけじゃない。でも、"友達でいるための演技"が疲れた。笑いたくない時に笑う。興味がない話に付き合う。それが普通だって分かってた。みんなやってることだ。でも俺には合わなかった」
「演技」
「一人で本を読む場所が欲しくて、文芸部に入った。逃げ場として」
凛先輩がアイスティーを一口飲んだ。
「高校に上がった時、文芸部は俺と千歳と先生しかいなかった。廃部寸前。正直、どうでもいいと思った。廃部になったら図書室で読書すればいい。一人で本が読めれば、場所はどこでもよかった」
凛先輩の目が窓の外を向いた。商店街の人通りを見ている。でも見ていない。過去を見ている。
「でも千歳が泣いたんだ」
「詩織さんが?」
「"この部がなくなったら、私の居場所がなくなります"って。あいつが泣くの、初めて見た。万年筆を握ったまま泣いてた。ノートにインクが落ちて滲んで。あいつの文字はいつも綺麗なのに、その時だけ崩れてた。それを見て——決めた。潰させない。この部を」
「それで部長に」
「なった。自分から言い出した。"俺がやる"って。先生は驚いてた。俺が一番やる気なさそうだったからな」
「先生も一緒だったんですか」
「ずっといた。先生は最初から顧問だ。千歳と先生と俺。三人だけの文芸部。部室は今と同じ場所だが、ちゃぶ台は一つで、ソファもボロくて、本棚は半分空だった。あの頃は寂しい部室だった。でも千歳がいたから、場所として成立していた」
俺は黙って聞いていた。アイスコーヒーの氷が溶けかけている。凛先輩の声はいつもより柔らかい。部長としてではなく、一人の先輩として話している。喫茶店のざわめきと、氷の音と、凛先輩の声。三つの音が重なっている。窓の外では商店街を歩く人たちが、それぞれの日曜日を過ごしている。俺たちも、この喫茶店でそれぞれの日曜日を過ごしている。
「お前が入って、壮介が入って、今五人だ。もう廃部はない。でも、"ある"だけじゃ意味がない。部誌を出して、コンクールに出て、文化祭をやって。"続ける"ことに意味がある。俺が卒業した後も」
「卒業後」
「来年の三月には卒業だ。その後、この部はお前たちのものになる。俺はいなくなる。でも部は残る。残すために、今やれることを全部やっておきたい」
凛先輩がアイスティーのグラスを回した。氷がカランと鳴った。窓の外の商店街を、家族連れが通り過ぎた。子どもが風鈴を指差している。
「合宿も、コンクールも、文化祭も、全部そのためだ。"凛がいたからできた"じゃなくて、"凛がいなくてもできる"部にしたい。そのほうが、俺が安心して卒業できる」
凛先輩が自分のことを名前で呼んだ。いつもは「俺」だ。「凛」と言ったのは、客観的に自分を見ているからだろう。部長としての自分を、外側から眺めている。
「千歳のこと、ちゃんと見てやれよ」
「え?」
「あいつ、お前が入ってから変わった。書くものも、表情も。お前がいるから——」
凛先輩が言葉を切った。アイスティーを飲んだ。
「まあ、いい。これ以上は野暮だな」
「先輩、今の続き——」
「ない。行くか。長居しすぎた」
凛先輩が立ち上がった。伝票を持った。
「先輩、俺が払います」
「いい。お前は後輩だ。先輩が奢る」
「でも先輩、来月の小遣いが」
「本と後輩への投資は別勘定だ」
レジに向かう凛先輩の背中を見ながら思った。この人は不器用だ。本音を言った直後に話を切る。感情を出した直後に閉じる。でもその不器用さが、この人の誠実さだ。言葉を選んで、必要な分だけ出して、残りはしまう。ミステリの伏線みたいに、あとで回収されるのを待っている。
*
駅前で別れた。
「今日のことは内緒だぞ」
「はい」
「フリルのブラウスの件は特に」
「はい」
「あと、古書店の件も」
「古書店もですか」
「俺の趣味だ。部室では部長でいたい。休日の俺は部長じゃない。分かるか」
「分かります」
「なら良い」
凛先輩が手を振った。古書店の紙袋を大事そうに持っている。来月の小遣いと引き換えに手に入れた本。大事に読むのだろう。部室のソファで、足を組んで、夢中になって。
「でもまあ」
凛先輩が振り返った。少しだけ笑っていた。
「たまにはいいか。部室の外で話すのも」
「はい。楽しかったです」
「楽しかったとは言ってない。普通だ」
「先輩、嘘つくの、詩織さんの次に下手ですよ」
「殴るぞ」
「先輩に殴られたら痛そうです」
「痛い。手加減はしない」
「やっぱり怖い」
「怖がれ。部長だからな」
「今日は休日じゃなかったんですか」
「休日でも部長は部長だ。休日モードの部長だ」
「休日モードの部長ってなんですか」
「フリルを着た部長だ」
凛先輩が自分で言って、少しだけ笑った。自分のフリルを自分で笑えるようになっている。さっきまでは触れられるのを嫌がっていたのに。
凛先輩が歩いていった。振り返らなかった。この人はいつも振り返らない。前だけ見て歩く。背中がまっすぐだ。フリルのブラウスの背中が、夕方の光に照らされて白く光っていた。
俺は立ち止まって、その背中を見送った。
凛先輩は、「先輩」って呼ばれることに少し疲れているのかもしれない。部長で、先輩で、まとめ役で。掟を作って、予算を取って、スケジュールを組んで、壮介をツッコんで、詩織さんを導いて、俺を叱って。全部一人で背負っている。
でも今日、古書店で本の匂いを嗅いでいる凛先輩は、ただの本が好きな人だった。ミステリのレア本を見つけて目を輝かせて、値段を見て渋い顔をして、結局買って、紙袋を大事そうに抱えて。部長じゃなく、先輩じゃなく、桐谷凛という一人の人間。
俺はその人を、もっと知りたいと思った。先輩としてじゃなく、仲間として。
*
翌日。月曜日。部室。
凛先輩がいつも通りソファでミステリを読んでいた。昨日買ったレア本ではなく、いつもの文庫本だ。レア本は家で読むのだろう。大事な本は部室には持ってこない。汚れるから。壮介がいるから。
俺が部室に入ると、凛先輩が顔を上げた。目が合った。一瞬だけ微笑んだ。それだけで、昨日のことが共有されていると分かった。古書店と、フリルのブラウスと、喫茶店と、「潰させたくない」と、「千歳のことを見てやれ」。全部が、あの一瞬の微笑みに入っていた。
壮介が後ろから入ってきた。
「なんか二人、仲良くなった?」
「別に」
「別に」
ハモった。凛先輩と俺が、同時に同じ言葉を言った。
「ハモった!!」
壮介が指を差した。
「絶対なんかあったろ! ハモるのは仲良くなった証拠だ!」
「根拠がない」
「根拠がないのも一致してる!」
「一致してない」
「してる!」
詩織さんが入ってきた。壮介の声が廊下まで聞こえていたらしい。取材ノートを開いている。
「何かあったんですか?」
凛先輩と俺が同時に答えた。
「何もない」
また、ハモった。
詩織さんの万年筆が動いた。ノートに何かを書いている。俺には見えない角度で。
「メモしておきます」
「何をメモするんだ!」
「凛先輩と朝倉くんが同じタイミングで同じ言葉を二回発言した事実です。偶然の確率は低いので、何らかの共有体験があったと推察されます」
「推察しなくていい!」
「取材です」
取材だ。詩織さんの万能の免罪符だ。嘘はつけないが、「取材」の名のもとに全てを記録する。俺と凛先輩の微笑みも、きっと記録される。ノートの何ページ目かに。
詩織さんが万年筆を止めて、俺を見た。まっすぐな目だ。嘘チャレンジの時の赤い耳はない。ただ、じっと見ている。何かを確かめるように。
「朝倉くん、昨日何をしてたんですか?」
「買い物だよ。醤油と味噌と卵」
「それだけですか?」
「それだけだ」
「嘘をついてますね」
「詩織さん、嘘発見能力だけは高いんだな」
「嘘がつけない人間は、他人の嘘に敏感です」
凛先輩がミステリのページをめくりながら言った。
「千歳、それ以上は追求するな。野暮だぞ」
「分かりました。でもメモは残します」
「メモは自由にしろ。ただし本人の許可なく公開するな」
「しません。取材ノートは取材者の生命線ですから」
凛先輩がミステリに目を戻した。口元がわずかに上がっている。楽しんでいる。この人は日常の中に小さなミステリを見つけるのが好きなのだ。「何があったか」を推理させるのも、一種の謎解きだ。
壮介がちゃぶ台に座った。「絶対なんかあった」とまだ言っている。詩織さんがメモを取り続けている。凛先輩が本を読んでいる。俺はPCを開いた。コンクール原稿の続きだ。
いつもの部室だ。畳の匂い。ちゃぶ台。ソファ。本棚。本棚の奥には、金曜日に封をした五通の手紙が眠っている。窓の外のグラウンド。全部同じだ。
でも俺の中で、何かが少しだけ変わっていた。凛先輩のことを、昨日より少しだけ知っている。「部長」の裏にある「桐谷凛」を、少しだけ。フリルのブラウスを着て古書店に通う凛先輩。本の匂いを嗅いで「昭和四十年代だ」と鑑定する凛先輩。来月の小遣いを犠牲にしてレア本を買う凛先輩。「この部を潰させたくない」と、喫茶店で静かに語る凛先輩。
全部、部室では見えなかった一面だ。部室の外に出たから見えた。合宿でもきっと、また新しい一面が見えるのだろう。五人全員の、まだ知らない顔が。
それだけで十分だと思った。仲間を知るということは、そういう小さな積み重ねだ。




