第23話 手紙を書こう(ただし宛先は自分)
# 手紙を書こう(ただし宛先は自分)
「今日はちょっと変わったことをしたい」
凛先輩がソファから立ち上がった。手にはコンビニの袋。中から封筒と便箋の束を取り出して、ちゃぶ台の上に置いた。五人分。丁寧に数えて、一人ずつの前に配っている。コンビニで便箋を五セット買ってくる先輩の姿を想像した。似合わない。でも、やることはやる。それが凛先輩だ。
「全員、一年後の自分に手紙を書け」
金曜日の放課後だった。七月の二週目。嘘チャレンジから二日が経っている。詩織さんの耳の赤さはようやく収まっていた。たぶん。
「手紙?」
壮介が便箋を一枚つまみ上げた。白い便箋だ。罫線が入っている。
「そう。一年後の自分に宛てた手紙だ。内容は自由。一年後の自分に言いたいことを何でも書け。ただし、絶対に他の人に見せるな」
「LINEじゃダメ?」
「紙だ。手書きだ。封をして、本棚の奥に入れる。一年後の今日、全員で開ける」
詩織さんが目を輝かせた。万年筆を握る手に力が入っている。
「素敵ですね。時を超える手紙」
「言い方がカッコいい」
「カッコいいだろう。俺が考えた」
凛先輩が少しだけ得意げだった。この人が企画を立てる時は、いつも少しだけ楽しそうだ。掟を作る時も、合宿の計画を立てる時も。部長としての顔の裏に、「面白いことを仕掛ける」側の喜びが透けている。
「先生も書いてください」
凛先輩が霧島先生に便箋を差し出した。先生はソファの端で缶コーヒーを飲んでいた。
「顧問も?」
「部員全員です。先生も部員みたいなものでしょう」
「昇格か降格か分からないな」
先生が便箋を受け取った。渋い顔だが、断る気はないらしい。
五枚の便箋と五枚の封筒が、ちゃぶ台の上に並んだ。全員に一セットずつ。壮介がさっそくボールペンを取り出した。詩織さんは当然、万年筆だ。凛先輩はシャーペン。先生は赤ペンしか持っていなかったので、俺がボールペンを貸した。
「じゃあ始めろ。制限時間は三十分」
凛先輩の合図で、部室が静かになった。
*
五人が便箋に向かっている。
ペンの音だけが部室に響く。夕方の日差しが窓から差し込んで、ちゃぶ台の上を斜めに照らしている。畳の匂いと、インクの匂いと、缶コーヒーの匂い。いつもの部室だ。でも空気が少しだけ違う。普段は台詞と笑い声で埋まっている部室が、今はペンの音だけで呼吸している。
手紙の中身は見えない。見てはいけない。だから俺は、書いている人の表情だけを見ていた。
壮介。
一番最初に書き終えた。所要時間三分。封筒に「一年後の俺さまへ」と太い字で書いて、便箋を折りたたんで入れて、封をした。満足げに腕を組んでいる。三分。部誌の原稿を書く時より速い。
「凛先輩、書けた!」
「お前、何行書いた」
「三行!」
「少なっ」
「でも濃い三行だ!」
「三行で何が書けるんだ」
「全部!」
壮介にとっては三行で全部が書けるらしい。カレーうどンのエッセイも最初は三行だった。この男は最初の一歩がいつも三行だ。そこから広がるかどうかは別の話だが。
「壮介、もう少し書き足せ。一年後の自分に三行は失礼だぞ」
「一年後の俺は三行で十分だと思う!」
「根拠は」
「一年後の俺もバカだから、長い手紙は読まない!」
「自分で自分をバカと言うな。それは俺の仕事だ」
「先輩、それフォローになってません!」
凛先輩が壮介の封筒を取り上げた。「書き直せ。最低十行」。壮介が「十行!?」と叫んだ。「三行の三倍以上!」。「計算は合ってるが、三行が少なすぎるんだ」。
壮介が新しい便箋を受け取って、渋い顔で書き始めた。ボールペンを握る手が止まったり動いたり。三分で書き終えた男が、今度は苦戦している。一年後の自分に何を書けばいいか、壮介なりに考えているのだろう。ちゃぶ台に突っ伏しそうになっては起き上がり、ペンを噛んでは書き、消しては書き。壮介が原稿を書く時と同じだ。この男は短い文章ほど苦しむ。長く書くのは得意じゃないが、短く書くのはもっと得意じゃない。
凛先輩。
対照的に時間をかけていた。便箋の上でシャーペンが止まっては走り、止まっては走る。何度も消しゴムをかけている。書いては消し、書いては消し。凛先輩が文章を書き直すのは珍しい。部誌の原稿でも一発で仕上げる人だ。ミステリのトリックを練るときでさえ、一度書いたものを消すことは少ない。でも今日は何度も消している。
何度目かの消しゴムの後、凛先輩は少しの間ペンを置いた。ソファの背もたれに寄りかかって、天井を見上げた。考えている。何を書くかではなく、何を書かないかを考えているように見えた。この人は言葉を選ぶとき、いつも「言わないこと」を先に決める。言いたいことの全部を書くのではなく、一番大事な一つだけを残す。それが凛先輩の文章だ。
一年後の自分に、何を書いているのだろう。凛先輩の一年後は三年生だ。受験が控えている。卒業が見えている。この部室にいる最後の一年。そのことを考えながら書いているのかもしれない。
凛先輩の目が、一瞬だけ窓の外を向いた。グラウンドが見えるいつもの窓だ。何かを考えている。何かを迷っている。そしてまたペンを走らせた。今度は消さなかった。一気に書いた。迷いが消えた顔だった。
詩織さん。
万年筆の音が、止まったり走ったりしている。書くペースが不安定だ。普段の詩織さんは一定のリズムで書く。取材ノートの時も、原稿の時も、万年筆の音は規則正しい。でも今日は違う。速くなったり、遅くなったり。途中で手が止まって、何かを考えて、またペンが動く。
一度だけ、詩織さんがちらりとこちらを見た。
俺と目が合いかけて、すぐに便箋に視線を戻した。万年筆が少しだけ速くなった。何を書いたのかは分からない。分からないけど、その一瞬の視線が、嘘チャレンジの時の「何とも思っていません」を思い出させた。あの時の赤い耳。0.5秒ズレた目線。今日の詩織さんの目線は、あの時よりもっと短かった。でも確かに、こちらを向いていた。
詩織さんは便箋に何枚使うつもりだろう。一枚目の裏に書き始めている。取材ノートと違って、手紙にはページ制限がない。この人に制限なしの文章を書かせたら、何枚になるか分からない。
霧島先生。
缶コーヒーをちゃぶ台の端に置いて、静かに書いている。表情が読めない。いつも読めないけど、今日はいつもより読めない。先生の手元は俺からは見えない位置にある。ただ、ペンを動かす速度は一定だった。迷いがないのか、あるいは迷いを見せないことに慣れているのか。
先生は一度だけ手を止めた。缶コーヒーを持ち上げて、一口飲んで、また書き始めた。手紙の途中でコーヒーを挟む人を初めて見た。でも先生らしいと思った。この人にとって缶コーヒーは句読点みたいなものだ。文章の区切りに一口飲む。
先生の一年後は、また同じ場所にいるのだろう。この部室で、缶コーヒーを飲みながら、俺たちを見ている。先生はいつもそうだ。見ている。黙って見ている。でも今日は、先生自身が書いている。誰に見せるでもなく、一年後の自分だけに。先生にとっての「書く」は、俺たちとは少し意味が違うのかもしれない。この人はかつて書く側にいて、書けなくなって、教える側に回った人だ。その人が今、また書いている。
そして、俺。
便箋の前で万年筆を握っている。詩織さんの影響で買った万年筆だ。入部して数週間後に文房具屋で選んだ。安物だけど、書き心地は悪くない。インクの色は青黒。詩織さんと同じ色を選んだのは偶然だ。たぶん。
一年後の自分に、何を書けばいいのか。
一年前の自分を思い出した。一年前の今頃は、膝のリハビリをしていた。松葉杖は取れていたけど、走れなかった。グラウンドに立てなかった。教室と家を往復するだけの日々。灰色だった。あの頃の自分に「一年後、お前は文芸部で手紙を書いてるぞ」と言ったら、信じないだろう。「文芸部って何だ」と聞き返すだろう。「畳の上でちゃぶ台を囲んで文章を書く部活だ」と答えたら、「何が楽しいんだそれ」と言うだろう。
楽しいんだよ、と一年前の自分に言いたい。お前が想像もしなかった場所で、お前が想像もしなかった人たちと、お前が想像もしなかったことをしている。カレーうどンのエッセイを読んで笑ったり、嘘をつく練習をして全員にバレたり、プリンの犯人を推理したり。くだらないことばかりだ。でも全部、灰色じゃない。
ペンが動いた。何を書いたかは、ここには書かない。一年後の自分だけが読むものだ。でもペンを走らせている時、心の中にあったのは不安と、期待と、少しの祈りだった。一年後の自分が、今の自分を笑ってくれればいい。「お前、まだそんなこと考えてたのか」って。もっと書けるようになっていてほしい。もっと言葉にできるようになっていてほしい。
途中で一回だけ手が止まった。何かを書こうとして、やめた。まだ書けない言葉がある。一年後なら書けるだろうか。分からない。分からないから、そのぶんの余白を残した。便箋の最後の二行が空白になった。一年後の自分が、そこに何かを書き足してくれればいい。
十五分ほどで書き終えた。便箋を三つ折りにして、封筒に入れた。封をした。表に書いた。「一年後の朝倉陽翔へ」。自分の名前を自分に宛てて書くのは、変な気分だった。宛先が自分なのに、差出人も自分だ。でもこの手紙を書いた自分と、読む自分は、きっと少し違う人間だ。
*
全員が書き終えた。壮介は結局二十分かかった。凛先輩が「何行書いた」と聞いたら「十二行!」と答えた。「最低ラインは超えたな」と凛先輩が言った。壮介がガッツポーズをした。十二行でガッツポーズ。この男の基準は常に低空飛行だ。
「さて、封印するぞ」
凛先輩が本棚に向かった。部室の壁際にある、古い木の本棚。部誌のバックナンバーと、凛先輩が持ち込んだミステリと、詩織さんの参考文献と、霧島先生が昔から置いている文庫本が並んでいる。その一番奥の、棚の裏側に近いスペース。
「ここに入れる。一年後の今日まで、誰も触るな」
五通の封筒が、本棚の奥に並べて置かれた。壮介の封筒が一番太い。十二行なのに太い理由は、便箋を雑に折ったからだ。凛先輩の封筒は薄くて綺麗に折られている。詩織さんの封筒からは微かにインクの匂いがする。万年筆のインクは乾くのに少し時間がかかる。先生の封筒は何の特徴もない。俺の封筒は、壮介の次に雑だった。
五通の手紙が本棚の奥に消えた。暗くて見えない場所。部誌のバックナンバーの裏側。普段は誰も手を伸ばさない空間に、五人分の言葉が封じ込められた。
「一年後。全員でここに来て、一緒に開ける。約束だ」
凛先輩の声が、いつもより少しだけ柔らかかった。約束、という言葉を凛先輩が使うのは珍しい。この人は「命令」か「宣言」が多い。「約束」は、相手に選択の余地を残す言葉だ。強制じゃない。来てほしい、という祈りに近い。
壮介が手を挙げた。
「一年後って、俺たち二年で、凛先輩三年だよな。全員いるかな」
「いるに決まってる。なんでいないんだ」
「いや、なんとなく。一年って長いなって」
「長くない。あっという間だ」
凛先輩が本棚を閉じた。手紙が見えなくなった。一年間、あの封筒はこの本棚の奥で眠り続ける。
俺が言った。自分でも理由は分からなかったけど、口から出た。
「全員でまたここにいますよ。一年後も」
凛先輩が振り返った。壮介が俺を見た。詩織さんが万年筆を止めた。先生が缶コーヒーを置いた。四人の視線が俺に集まった。
「根拠は?」
凛先輩が聞いた。
「ない。でもそう思う」
「根拠なしか。壮介の未来予測みたいだな」
「俺の勘と一緒にしないでください」
「勘だろ」
「勘ですけど。でも、ここにいたい人が五人いれば、一年後もここにいるでしょう。ここにいたくない人がいますか?」
誰も答えなかった。壮介が首を横に振った。詩織さんが首を横に振った。凛先輩が口元だけで笑った。先生が缶コーヒーを飲んだ。それが全員の答えだった。声に出さなくても、この場にいること自体が答えだった。
凛先輩が笑った。
「いい予言だ。信じてやる」
「予言じゃなくて、願望です」
「願望でもいい。言葉にしたものは叶う確率が上がる。文芸部員なら知ってるだろう」
「それは凛先輩の法則ですか」
「俺の法則だ。覚えておけ」
壮介が手を挙げた。
「一年後って、俺たち二年で、凛先輩三年だよな。全員いるかな」
「いるに決まってる。なんでいないんだ」
「いや、なんとなく。一年って長いなって思って」
「長くない。あっという間だ。この三ヶ月を思い出せ。入部してからここまで、あっという間だっただろう」
壮介が考えた。三秒。
「確かに。あっという間だった」
「だろう。一年後も同じだ。気づいたらここにいる」
凛先輩が本棚を閉じた。手紙が見えなくなった。一年間、あの封筒はこの本棚の奥で眠り続ける。
「全員でまたここにいる、か」
先生が呟いた。独り言のように。でも俺たちに聞こえる声で。
「いい予言だ。当たるといいな」
先生の声には、少しだけ寂しさが混じっていた気がした。でもすぐに缶コーヒーを飲んで、いつもの無表情に戻った。先生はいつもそうだ。感情を見せかけて、すぐにしまう。缶コーヒーは先生の蓋だ。
*
帰り道。
壮介と二人で歩いている。詩織さんは凛先輩と一緒に反対方向に帰った。先生は職員室に寄ると言っていた。
「なあ陽翔」
「ん」
「手紙、何書いた?」
「見せるなって言われただろ」
「見せなくていい。何行書いたか教えて」
「十行くらい」
「俺より少ないじゃん!」
「お前は最初三行だっただろ」
「最終的には十二行だ! 勝った!」
「手紙に勝ち負けはない」
壮介がにかっと笑った。
「俺、三行目に何書いたか教えてやろうか」
「いいのか? 秘密だろ」
「三行目だけなら大丈夫だ。"カレーうどンはまだ好きですか"」
「一年後の自分にカレーうどンの安否確認したのか」
「大事じゃん! 一年後にカレーうどンが嫌いになってたら大事件だ!」
「ならないだろ」
「分かんないよ! 人は変わるんだ!」
「カレーうどンの好みは変わらないだろ」
「それは分からない! だから確認するんだ!」
「じゃあ一行目と二行目は?」
「それは秘密!」
「三行目だけ教えるのかよ」
「三行目が一番大事だから! 一行目と二行目はおまけ!」
壮介の手紙の三行のうち、メインがカレーうどンの安否確認。残りの二行がおまけ。この男の優先順位は本当に独特だ。でも壮介が「秘密」と言った残りの二行が、もしかしたら一番大事なのかもしれない。この男は時々、大事なことほど隠す。カレーうどンの陰に隠す。
駅前で壮介と別れた。「じゃあな! 明日もな!」と叫んで走っていった。いつもの全力ダッシュ。あいつは帰り道もフルスピードだ。走る時の壮介は格好いい。言ったら調子に乗るから言わないけど。
一人になった。
夕方の空が広い。雲が少なくて、空がオレンジから紫に変わりかけている。七月の日は長い。まだ明るい。でも空の色は確実に変わっている。季節が動いている。入部した四月は桜が散っていた。五月は新緑だった。六月は雨だった。今は七月で、空が高くて、蝉がどこかで鳴き始めている。
三ヶ月。たった三ヶ月だ。でも凛先輩が言った通り、あっという間だった。プリン消失事件と、体育祭の実況小説と、部誌の創刊と、壮介の三行エッセイと、詩織さんの取材ノートと、田中との再会と、嘘チャレンジ。全部が三ヶ月の中に詰まっている。密度が高い。サッカー部の三年間よりも濃い三ヶ月かもしれない。比べるものじゃないけど。
封をした手紙は、本棚の奥で眠っている。一年後に開くまで、誰にも読まれない。自分にさえ読めない。
俺は一年後の自分に何を書いたのか。書いた瞬間の内容はもう薄れかけている。でもペンを走らせている時の感覚は覚えている。不安と、期待と、少しの祈り。一年後の自分が、今の自分を超えていてほしい。もっと書けるようになっていてほしい。もっと言葉にできるようになっていてほしい。
何を言葉にしたいのか。それがまだ分からない。分からないから、一年後の自分に託した。便箋の最後の二行を空白にした。あの余白に、一年後の俺は何かを書き足すだろうか。それとも、空白のまま笑うだろうか。
封をされた言葉は、時間の中で変わっていく。一年後、それがどんな意味になっているか。楽しみでもあり、怖くもある。
家が見えてきた。夕飯の匂いが漂っている。母さんが何か作っている。カレーだ。カレーうどンじゃないけど。壮介が聞いたら「惜しい!」と言うだろう。あいつの一行目と二行目が気になる。カレーうどンの安否確認が三行目なら、残りの二行は何だ。聞けないけど、一年後に分かるかもしれない。全員で手紙を開いた時に、壮介が自分から読み上げてくれるかもしれない。あいつならやりかねない。
明日も部室に行く。本棚の奥に、五通の手紙がある。一年後まで眠り続ける手紙。俺たち五人の、今この瞬間の言葉が封じ込められた手紙。
全員でまたここにいる。一年後も。
根拠はない。でも、そう思った。言葉にしたものは叶う確率が上がる。凛先輩がそう言った。だから俺も言葉にした。文芸部員なんだから、言葉の力くらい信じないと格好がつかない。




