第22話 詩織さんは嘘がつけない
# 詩織さんは嘘がつけない
詩織さんの万年筆が止まっていた。
珍しい光景だった。この人のペンが止まるのは、インクが切れた時か、取材対象を発見した時くらいだ。今日はどちらでもない。インク瓶は満タンだし、取材対象は俺しかいない。俺は取材されていない。たぶん。
七月の部室。合宿の予算が通ってから二日が経っていた。壮介のスライドが全没になった傷はまだ癒えていないらしく、ちゃぶ台の隅で「炎の背景は悪くなかった」と呟いている。凛先輩はソファでミステリを読んでいる。霧島先生は今日は不在。職員会議だ。
詩織さんが万年筆を置いた。ノートの上に両手を重ねて、小さくため息をついた。
「どうした千歳、手が止まるなんて」
凛先輩がミステリから目を上げた。
「嘘のシーンが書けないんです」
「嘘?」
「はい。新作の短編で、主人公が恋心を隠すために嘘をつく場面があるんですけど、その心理描写がどうしても書けなくて」
詩織さんが原稿を見つめている。万年筆のキャップを回している。考えている顔だ。でもペンは動かない。書けない時の詩織さんは、いつも万年筆のキャップを回す。くるくる、くるくる。俺はそのことを知っている。いつの間にか知っていた。
「嘘をつく人の気持ちが分からないんです。なぜ本当のことを言わないんでしょう。本当のことを言ったほうが楽じゃないですか?」
「言えないから嘘をつくんだろ」
俺がツッコんだ。詩織さんが首を傾げた。
「でも、本当のことを言ったほうが楽じゃないですか?」
「楽かどうかの問題じゃないんだよ。言えない事情があるから嘘をつくんだ」
「事情、ですか」
「恥ずかしいとか、傷つけたくないとか、いろいろあるだろ」
詩織さんが真剣な顔で頷いた。万年筆をノートに戻して、何かを書こうとした。また止まった。
「やっぱり分かりません。私、嘘がつけないんです」
「つけない?」
「つこうとすると、顔に出ます。全部」
凛先輩がミステリを閉じた。ソファから身を起こす。面白いものを見つけた時の顔だ。プリン消失事件の時と同じ顔。犯人を追い詰める直前の、あの好奇心に満ちた目。今回の対象は詩織さんの「嘘がつけない」という弱点だ。
「じゃあ練習しよう」
「練習?」
「嘘をつく練習だ。作家は自分に書けないものを書くために、体験する必要がある」
「体験」
「そうだ。やってみろ。嘘をつけ」
詩織さんの目が丸くなった。壮介がちゃぶ台から顔を上げた。「面白そう!」と言った。面白そうだ。
こうして、文芸部史上初の「嘘チャレンジ」が始まった。
*
ルールは単純だった。
詩織さんが嘘を言う。俺たちが騙されたら詩織さんの勝ち。騙されなかったら負け。凛先輩が審判を務める。壮介は観客兼実況担当を自称した。誰も頼んでいない。
「いいか千歳。嘘をつくコツは三つだ」
凛先輩がホワイトボードにマーカーで書き始めた。この人は何でもホワイトボードに書く。
「一、目を逸らさない。二、声のトーンを変えない。三、手を動かさない。この三つを守れば、大抵の嘘は通る」
「目を逸らさない。声を変えない。手を動かさない」
詩織さんが復唱した。真剣だ。取材ノートにメモまで取っている。嘘のつき方をメモする人間を初めて見た。これも将来、取材ノートを読み返した時に「嘘の練習メモ」として残るのだろう。何年後かの詩織さんが見て恥ずかしくなるやつだ。
「では始めます」
詩織さんが姿勢を正した。深呼吸をした。真剣な顔。まるでコンクールの壇上に立つ前みたいだ。嘘をつくのにそこまでの覚悟がいるのか。この人は。
「今日はいい天気ですね」
窓の外を見た。土砂降りだった。雨粒が窓ガラスを叩いている。校庭は水たまりだらけだ。
「窓見えてるよ詩織ちゃん」
壮介が即座にツッコんだ。詩織さんが慌てた。
「雨でも心は晴れやかということを」
「無理があるぞ」
凛先輩が腕を組んだ。
「千歳。目を逸らすなと言ったのに、嘘を言った瞬間に窓を見た」
「見てません」
「今の方が嘘としては上手い。反射的に否定するほうがお前は得意らしい」
一問目、失敗。
「二問目いきます」
詩織さんが部誌の最新号を手に取った。自信作だ。表紙を壮介がデザインして、中身は全員の短編が載っている。詩織さんが一番長い作品を書いた号だ。
「この部誌は……あまり面白くありません」
声は平静だった。だが、目が泳いでいる。唇が引きつっている。部誌を持つ手が微かに震えている。全身が「嘘です」と叫んでいる。
「全部のパーツが本音を叫んでるよ」
「嘘をつこうとしているのに、身体が拒否しているんです」
「それはもう体質だな」
凛先輩が冷静に分析した。
「千歳、お前は嘘をつくと自律神経が反応するタイプだ。嘘をつくたびに心拍数が上がって、毛細血管が拡張して、顔が赤くなる。嘘発見器が要らない人間だ」
「人間嘘発見器と呼ばないでください」
「俺が呼んだんじゃない。お前の身体がそう証明しているんだ」
二問目、失敗。壮介が拍手した。「面白い! もっとやって!」。詩織さんが壮介を見た。「面白がらないでください」。「でも面白いんだもん!」。凛先輩が壮介の頭を小突いた。「お前は黙って見てろ」。
「三問目いきます」
詩織さんが壮介に向き直った。
「大和さんの短編は……文学的に……難解で……」
声がどんどん小さくなっている。目が左上を向いている。指が万年筆をくるくる回している。凛先輩が言った「嘘のコツ」を三つとも破っている。
「褒めてくれてるのか貶してるのか分からない!」
「どっちも嘘がつけないからこうなる」
壮介が首を傾げた。
「ていうか詩織ちゃん、俺の短編読んだ?」
「読みました。三回読みました」
「三回!? マジ!?」
「はい。一回目は内容を把握するため、二回目は文体を分析するため、三回目は純粋に楽しむためです」
「三回読む理由がちゃんとあるの!? 感想は?」
「元気が出ました」
「それ褒めてるの?」
「褒めています。大和さんの文章は読むと元気が出るんです。カレーうどンを食べた後みたいに」
「カレーうどンと同じ扱いなら最高の褒め言葉だ!」
「壮介の褒められ基準がカレーうどンなの、どうにかならないのか」
凛先輩がため息をついた。
「千歳。最後だ。本番いくぞ」
「本番?」
「朝倉に向かって嘘を言え」
詩織さんの表情が変わった。さっきまでのリラックスした空気が消えた。背筋が伸びた。万年筆を置いた。俺のほうに向き直った。
目が合った。
詩織さんの目はいつもの色だ。穏やかで、まっすぐで、少しだけ奥に何かが光っている。取材モードの時とは違う。あの鋭い観察者の目じゃない。もっと柔らかい目だ。
「朝倉くんのことは——」
一拍。
「——何とも思っていません」
声は平静だった。今までの三問と違って、声は震えていない。トーンも変わっていない。凛先輩の教えた「三つのコツ」を守っている——声だけは。
だが。
耳が赤かった。耳の先端から付け根にかけて、じわりと赤みが広がっている。目線が0.5秒だけ右にズレた。ほんの一瞬。すぐに戻した。でもズレた。スカートの端を、左手の指がギュッと握っている。爪が白くなるくらい。
沈黙が落ちた。二秒。
「嘘じゃん」
壮介が言った。あっさりと。容赦なく。
「全身が嘘だと叫んでいるな」
凛先輩が言った。楽しそうに。残酷に。
「え……え?」
俺は意味を処理していた。「何とも思っていません」が嘘。ということは、つまり。何かを思っている? 何を? 俺のことを? 何を思って?
「取材です!!」
詩織さんが立ち上がった。椅子が畳の上で滑った。顔が赤い。耳だけじゃない。頬も、首筋も。全部赤い。
「今のは嘘の練習の一環として!!」
「嘘の練習の嘘が一番本当っぽいの、面白すぎるだろ」
凛先輩が笑っていた。声を出して笑っていた。この人がこんなに楽しそうに笑うのは珍しい。プリン消失事件の時よりも楽しそうだ。
詩織さんが万年筆を握りしめて、ちゃぶ台に座り直した。まだ赤い。赤いまま取材ノートを開いて何かを書き始めた。書いている内容は見えない。見ないほうがいい気がした。
壮介が俺の隣に来て小声で言った。
「なあ陽翔、今の見た?」
「見てたけど」
「詩織ちゃんの耳、トマトみたいだったぞ」
「トマトは言い過ぎだ」
「トマトだった! 赤いトマト!」
「トマトは赤いに決まってるだろ」
「じゃあ完熟トマト!」
「余計ひどいわ」
凛先輩が壮介の頭を軽く叩いた。
「千歳が聞いてるぞ。黙れ」
「あっ、すみません」
詩織さんは聞こえていないふりをしていた。でも耳の赤さが増していた。聞こえている。完全に聞こえている。
「フィクションです。今のは全てフィクションです」
「千歳、お前は嘘がつけないと証明されたばかりだぞ。フィクションと言い張るのも嘘だ」
「フィクションです!」
「声が裏返ってるぞ」
詩織さんが万年筆を置いて、両手で顔を覆った。耳の赤さが指の隙間から見えていた。
*
休憩時間。
壮介が俺を廊下に連れ出した。部室のドアを閉めて、壁にもたれる。廊下は静かだった。放課後の校舎は人が少ない。
「なあ陽翔」
「ん」
「さっきの詩織ちゃんの嘘、どう思った?」
「どうって……嘘つくの下手だなって」
「そこじゃなくてさ」
壮介が珍しく真面目な顔をしている。いつもの全力ボケの表情じゃない。
「"何とも思ってない"って嘘、つまり"何か思ってる"ってことだろ」
「いや、あれは嘘の練習だから。お題として出されたから言っただけで」
「お題は"嘘を言え"だろ。で、詩織ちゃんが選んだ嘘が"何とも思ってない"だ。他にいくらでも嘘はあるのに、なんでそれを選んだと思う?」
「それは」
「考えろよ」
壮介が俺の目を見た。この男がこういう目をするのは、めったにない。いつもは目も口も全開で笑っているか叫んでいるかのどっちかだ。今は違う。静かだ。
「お前って時々ほんとにバカだよな」
「お前に言われたくない!」
「俺はバカだけど、お前は別の意味でバカだ」
「どういう意味だよ」
壮介がそれ以上は言わなかった。壁から背中を離して、部室のドアを開けた。
「戻ろう。詩織ちゃんが一人で赤くなってるの可哀想だし」
「壮介」
「ん?」
「さっきの、どういう意味だ」
壮介がにかっと笑った。いつもの笑顔だ。
「知らねーよ! 俺はバカだからな!」
都合のいい時だけバカに戻るんじゃない。
部室のドアを開ける前に、壮介が振り返った。
「でも陽翔、ひとつだけ言っとく」
「なんだ」
「詩織ちゃんの嘘、下手だったけど、あれ嘘じゃなかったら言わないよ。嘘チャレンジだから言えたんだ。本当のことを嘘として言える唯一のチャンス。それを詩織ちゃんは使ったんだよ」
「壮介、お前いつからそんな鋭いことを」
「俺はいつも鋭い! ただ普段はカレーうどンの方向に鋭いだけだ!」
カレーうどンの方向って何だ。
*
部室に戻ると、詩織さんが原稿用紙に向かっていた。
さっきまで書けなかった新作の短編だ。万年筆が動いている。止まらない。滑るように走っている。さっきの嘘チャレンジの前とは別人みたいだ。キャップをくるくる回していた手が、今はペンを走らせている。
俺はちゃぶ台の向かいに座って、自分のノートを開いた。コンクール原稿の続き。でも正直、詩織さんの万年筆の音のほうに意識が行く。一定のリズムで紙を引っ掻く音。静かで、でも力強い。書けている時の音だ。
凛先輩がソファからそれを見ていた。口元に小さな笑みがある。計画通り、という顔だ。嘘の練習は最初からこのためだったのかもしれない。体験させることで、書けるようにする。凛先輩のやり方だ。
三十分後。
「書けました」
詩織さんが原稿用紙を持ち上げた。凛先輩が受け取って読む。ページをめくる速度がいつもより遅い。丁寧に読んでいる。
「千歳、これ……上手いぞ。嘘をつく人間の葛藤がちゃんと描けてる」
「本当ですか?」
「嘘をつかない俺が言ってるんだから本当だ」
詩織さんの顔が明るくなった。
「今日の練習で分かりました。嘘をつく人は、本当のことを言いたいのに言えないから嘘をつくんです。それはすごく苦しいことなんだと。言いたい言葉が喉の奥にあるのに、別の言葉が口から出てしまう。その瞬間の、胸が詰まるような感覚が——」
詩織さんが言葉を切った。自分で言ったことに、何か気づいたような顔をした。一瞬だけ。すぐに戻った。
「書けました。体験って大事ですね」
「作家の正しい姿勢だ」
凛先輩が原稿を返した。詩織さんが原稿を大事そうに受け取る。万年筆で書かれた文字が、午後の光に照らされて微かに光っている。
「でも私はもう嘘の練習はしたくないです」
「なぜ?」
「顔に出るのが恥ずかしいからです」
「短編が書けたなら成果はあっただろ。嘘の練習なしにあの短編は生まれなかった」
「それはそうですが、代償が大きすぎます」
「代償?」
「私の人格に対する信頼が揺らぎました」
「揺らいでないぞ。お前が嘘をつけないことは全員が証明済みだ」
壮介が身を乗り出した。
「何が顔に出たの?」
「何も出てません!」
「今も出てるぞ」
凛先輩が指摘した。詩織さんの耳がまた赤くなっている。
「出てません! これは気温です! 七月ですから!」
「千歳、嘘チャレンジは終わったのに、まだ嘘をついてるぞ」
「嘘じゃないです!」
「声が裏返ってる」
壮介が笑っている。凛先輩も笑っている。詩織さんだけが赤い。俺は、まだ壮介の言葉を考えていた。「何か思ってる」。何を。
詩織さんが取材ノートを開いた。万年筆を握った。赤い顔のまま、何かを書き始めた。
「何書いてるんだ?」
「取材記録です。今日の嘘チャレンジの結果を記録しています」
「どんな結果?」
「第一回嘘チャレンジ、成功率ゼロパーセント。課題は多い。しかし小説のネタとしては豊作。以上」
「豊作って」
「はい。今日だけで短編が一本書けました。取材としては大成功です」
「嘘チャレンジが取材だったのか」
「全ての体験は取材です」
その言い方は便利だな、と思った。詩織さんにとって「取材」は万能の免罪符だ。何をしても「取材です」で通る。嘘がつけない代わりに、「取材」という名前をつけることで、全てのことを正当化できる。
でもそれは、嘘をつけない人間が編み出した、唯一の防衛手段なのかもしれない。
*
帰り道。
今日は一人だった。壮介は駅前のラーメン屋に寄ると言って別の方向に消えた。「カレーうどンがあるラーメン屋を見つけた!」と叫んでいた。凛先輩は生徒会に用事があると言っていた。天城さんとの追加書類のやり取りらしい。詩織さんは図書館に寄ると言って校舎に戻った。
一人で歩いている。夕方の空は雲が多い。さっきまでの土砂降りは止んだが、空気はまだ湿っている。アスファルトが濡れている。水たまりに空が映っている。
詩織さんは嘘がつけない。
それは弱点みたいに聞こえるけど、たぶんこの人の一番いいところだ。嘘をつかない人間が書く文章は、全部が本当のことでできている。だから読むと心が動く。詩織さんの小説が俺の胸に届くのは、そこに嘘が一文字もないからだ。
取材ノートもそうだ。俺の歩き方を記録して、弁当のおかずを記録して、カレーうどンを語る時の声のトーンを記録して。全部、詩織さんが見たままを書いている。装飾も誇張もない。ただ、見えたものを、そのまま。透明な文章。透明な人。
今日書けた短編も、きっとそうだ。嘘をつく人間の葛藤を、自分が体験して、自分が感じたままを書いた。凛先輩が「上手い」と言ったのは、そこに技術以上のものがあったからだろう。体験の温度がそのまま文字に宿っている。
詩織さんが言った言葉が頭に残っている。「嘘をつく人は、本当のことを言いたいのに言えないから嘘をつくんです」。あの言葉を言った後、詩織さんは一瞬だけ黙った。自分の言葉に自分で驚いたみたいに。何かに気づいたような顔をして、すぐに戻した。
あの一瞬、詩織さんは何を考えていたんだろう。
「何とも思っていません」。
あれが嘘だった。全員がそう判定した。壮介も凛先輩も。詩織さんの身体が、全力で「嘘です」と叫んでいた。
ということは。
何かを思っている。俺のことを。何を思っているかは分からない。でも「何とも思っていない」の反対だ。「何かを思っている」。それが何なのか。
壮介が言った。「お前って時々ほんとにバカだよな」。
それから「本当のことを嘘として言える唯一のチャンス」とも言った。壮介は時々、核心を突く。本人は「カレーうどンの方向に鋭い」と言っていたけど、あれは違う。あいつは人の心の動きに鋭い。ただその鋭さを、普段はカレーうどンとボケの裏に隠しているだけだ。
何がバカなんだ。分からない。分からないから考えている。
水たまりを避けて歩いた。靴の先が少し濡れた。帰ったら乾かさないと。
明日も部室に行く。詩織さんがいる。壮介がいる。凛先輩がいる。合宿の準備がある。原稿の続きがある。嘘チャレンジの第二回があるかもしれない。ないほうがいい気もする。
でも——もしあったら、詩織さんはまた同じ嘘をつくだろうか。
「何とも思っていません」。
同じ嘘を、もう一回聞いたら。俺は今度こそ、その意味を理解できるだろうか。
分からない。分からないまま、帰路についた。水たまりの中の空が、夕焼けでオレンジ色に染まり始めていた。




