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第21話 文芸部、予算を勝ち取れ

# 文芸部、予算を勝ち取れ



 七月第二週。月曜日。部誌の第二号を配り始めてから一週間が経った。十冊のうち九冊はすでに読者の手に渡っている。残り一冊は壮介が「記念保存用」と言って本棚に飾った。


 放課後。蒸し暑い廊下を抜けて旧校舎に入る。七月の旧校舎は、窓を開けても風が通らない。汗が額に浮く。


 部室に入ると、凛先輩がホワイトボードの前に立っていた。マーカーを持って数字を書いている。文芸部のホワイトボードに数字が並ぶのは珍しい。いつもは「掟」とか「締切」とか「壮介の古典成績」とかが書いてある。今日は違う。


 「夏合宿予算」。


 その下に項目が並ぶ。交通費。宿泊費。食費。雑費。合計の横に赤いマーカーで「五万三千円」。


 その隣に「部費残高」。八千円。


 差額、四万五千円。


 四万五千円。高校生の部活動の追加予算としては途方もない金額だ。サッカー部なら遠征費として普通に出るかもしれないが、文芸部は違う。文芸部に四万五千円の予算をつけてくれる学校は、たぶん日本中探してもない。


「足りない」


 凛先輩が振り返った。目が据わっている。ミステリの犯人を追い詰めるときよりも鋭い。プリン事件の解決よりも本気の目だ。


「圧倒的に足りない」


「圧倒的ですね」


「生徒会に追加予算を申請する必要がある」


「通るんですか」


「通すんだよ」


 霧島先生がソファで缶コーヒーを飲みながら呟いた。


「凛、目が怖いぞ」


「怖くないです。本気なだけです」


「本気と怖いは両立する」


「先生、顧問として何かしてくれないんですか」


「俺にできることは缶コーヒーを差し入れることくらいだ」


「缶コーヒーでは合宿に行けません」


「じゃあ缶コーヒーを我慢して差額に充てたらどうだ」


「先生が一日何本飲んでるか計算したんですが、一ヶ月で缶コーヒー代が約八千円です」


「部費と同額!?」


「同額です。先生の缶コーヒー代で部費が倍になります」


「それは困る。缶コーヒーは俺の生命線だ」


「合宿も文芸部の生命線です」


「……善処する」


「善処じゃなくて具体的にお願いします」


 壮介がちゃぶ台の前で腕まくりをした。文字通りの「戦う」の構えだ。


「予算ってどうやって取るの? 戦う?」


「プレゼンで取る」


「プレゼン? パワポ? 俺得意だよ」


「お前にパワポさせたら何が起きるか分からない」


「大丈夫、任せろ」


 この台詞が一番危険だ。壮介の「大丈夫、任せろ」は、入部以来一度も大丈夫だったことがない。


 詩織さんが万年筆を置いた。


「私もプレゼン資料のためにデータを集めます。文芸部の活動実績を数値化して」


「実績が薄いのが問題なんだ。部誌二号とコンクール入賞ゼロ。数字にすると悲惨だ」


「薄いなりに盛ります」


「盛るな。正確にいけ」


「正確に盛ります」


「矛盾してるが、まあいい」


 詩織さんが取材ノートを開いた。体育祭の実況小説の反響データがびっしり書かれている。SNSの投稿数、声をかけてくれた生徒の数、「語彙が足りない」が何回リツイートされたか。いつの間にこんなデータを集めていたのか。


「体育祭の実況小説は、SNSで少なくとも五十件以上の投稿がありました。"文芸部の実況"というキーワードで検索した結果です」


「五十件もあったのか」


「"語彙が足りない"単体で二十三件です」


「壮介の語彙力のなさが数値化された」


「数値化された! 俺の語彙力のなさにデータの裏付けが!」


「それは喜ぶところではない」



    *



 翌日の放課後。


 生徒会室のドアの前に立っていた。凛先輩と俺の二人だ。壮介には「待機命令」が出ている。理由は「何を言い出すか分からないから」。正しい判断だ。


 凛先輩がドアをノックした。三回。均等な間隔。この人はノックにも品がある。


「どうぞ」


 澄んだ声が返ってきた。ドアを開ける。


 生徒会室は部室の三倍くらい広かった。窓が大きくて、西日が差し込んでいる。書類の山が三つ。ホワイトボードにスケジュール表。壁に生徒会の活動方針が額装されている。うちの部室とは別の星の景色だ。うちの部室は畳とちゃぶ台とソファと本棚だ。こっちは長テーブルとパイプ椅子と書類棚だ。文明が違う。


 その文明の中心に、一人の女子が座っていた。


 長い黒髪をハーフアップにまとめて、生徒会の腕章を完璧に着用している。姿勢がいい。背筋が定規で引いたみたいにまっすぐだ。目が鋭い。書類の上を走る赤ペンのスピードが尋常じゃない。一文読んでは赤を入れ、一文読んでは赤を入れ。俺たちが入ってきても手を止めない。あと三秒で止める、という計算が見えた。


 三秒後、ペンが止まった。顔が上がった。


「文芸部の桐谷さんですね。追加予算の申請と聞いています」


 天城瑠璃。二年生。生徒会長。凛先輩とは学年が同じだが、空気がまるで違う。凛先輩が「自由」なら、この人は「秩序」だ。凛先輩がソファで足を組んで缶コーヒーの蓋を弾くタイプなら、天城瑠璃はパイプ椅子に背筋を伸ばして座るタイプだ。


「内容を聞かせてください」


 凛先輩が企画書を差し出した。天城さんが受け取り、一読する。ページをめくるスピードが速い。速読だ。だが目は正確に文字を追っている。赤ペンを握ったまま読んでいる。修正したい衝動と戦っているように見えた。


「文芸部の昨年度の活動実績は——部誌二号、コンクール入賞ゼロ。率直に言って、追加予算を出す根拠が薄いです」


 率直だった。直球だった。ストレートのど真ん中だった。サッカーで言えば、ゴールキーパーが正面で受け止めるしかないコースだ。


 だが凛先輩は動じない。こういう場面で動じないのが、この人の強さだ。部室でソファに座って足を組んでいるときの凛先輩とは別人みたいに、背筋が伸びている。


「今年は状況が違う。部員が五人に増え、体育祭での実況小説は好評だった。SNSでも話題になっている」


「実況小説は承知しています。学内での反響があったことも。ただ、それは活動実績と呼ぶには——」


「根拠が必要だというのは理解しています。だからこそ、夏合宿で成果を出す。コンクールに出場し、入賞を目指す。合宿はそのための投資です」


「投資、ですか」


 天城さんの眉がわずかに動いた。凛先輩が「投資」という言葉を選んだことに反応している。この人は言葉の選び方に敏感だ。凛先輩もそれを分かっている。


「投資には回収計画が必要です。具体的な数値目標はありますか」


「あります」


 凛先輩が企画書の二ページ目を開いた。


「三つの数値目標を掲げます。一、夏のコンクールで入賞一名以上。二、部誌の定期発行、年四号。三、文化祭での展示来場者五十名以上」


 天城さんが数字を見ている。目が鋭い。電卓のような目だ。数字を入力して、弾いて、判定している。


「五十名。根拠は」


「昨年度は来場者ゼロです。何もしなかったから。今年は違う。企画を立てます」


「企画の具体案は」


「合宿中に策定します。現時点では未定ですが、方向性は体験型の文芸イベントを検討しています」


 天城さんが企画書を閉じた。


「保留にします。企画書の再提出をお願いします。費用対効果の分析を加えてください」


 凛先輩が一礼した。俺も頭を下げた。生徒会室を出る。廊下の空気が涼しく感じた。生徒会室の空気は、物理的にではなく精神的に暑かった。


「保留、か」


 凛先輩が廊下を歩きながら言った。


「一発では通らないと思っていた。天城は甘くない」


「凛先輩、あの人のこと知ってるんですか」


「学年が同じだ。一年のときから成績は学年トップ。生徒会は一年から入って、二年で会長になった。努力と実績の人だ。だから実績がない相手には厳しい」


「嫌な人ですか」


「いや。正しい人だ。正しいから手強い」


 凛先輩が前を向いたまま笑った。


「面白い。もう一回行くぞ」



    *



 部室に戻ると、壮介がちゃぶ台の上にUSBメモリを掲げていた。


「おかえり! 朗報だ! 俺、プレゼン資料作った!」


 部室の空気が凍った。凛先輩の目が細くなった。詩織さんが万年筆を握る手に力を込めた。霧島先生が缶コーヒーを静かに置いた。


「見せてみろ」


 凛先輩の声が低い。嫌な予感しかしない。


 ノートPCにUSBを差す。ファイルを開く。


 一枚目。


「文芸部 最強計画」


 タイトルだ。背景が炎だ。フォントが極太ゴシックだ。文字が赤と黄色の交互だ。目が痛い。


「壮介、なんで背景が炎なの」


「文芸部の情熱を表現した!」


「燃えてるのは予算だよ」


 凛先輩が冷静にツッコんだ。俺は心の中で拍手した。


 二枚目。活動実績のグラフ。全部右肩上がりだ。部誌の発行数、来場者数、知名度、全てが急上昇している。


「壮介、このグラフのデータは何だ」


「気合い」


「気合いでグラフを捏造するな」


「捏造じゃない。未来予測だ」


「未来予測に根拠が必要だろ」


「俺の勘」


「却下」


 三枚目。「目標:全国制覇」のスローガン。背景がさらに炎。文字が大きくなっている。画面の九割が炎だ。


「全国制覇って、文芸部に全国大会はあるのか?」


「ないけど、あったら制覇する!」


「ない大会を制覇する宣言に意味はあるのか」


「気持ちの問題だ!」


 四枚目。予算の使い道。「カレーうどン代:五千円」という項目がある。しかも円グラフの三分の一を占めている。


「壮介」


「はい」


「カレーうどンは予算に入れるな」


「合宿の食費だよ!」


「食費の内訳にカレーうどンだけ独立させるな。しかも全体の三分の一ってどういう計算だ」


「カレーうどンは三食に入るから!」


「三食カレーうどンは栄養が偏る」


「偏らない! カレーは野菜だ! うどんは炭水化物だ! 完全食だ!」


「完全食ではない」


 詩織さんが控えめに手を挙げた。


「大和さん、スライドの炎の背景は何を表しているんですか?」


「文芸部の情熱!」


「火災報知器が鳴りそうですね」


「詩織ちゃん、それツッコミ? ボケ?」


「感想です」


 凛先輩がノートPCを閉じた。静かに、だが完全に。


「全没」


「全没!?」


「スライドは全て作り直す。俺が」


「先輩が!? 俺の三日間の努力は!?」


「三日もかけてこれだったのか」


 壮介がちゃぶ台に突っ伏した。「俺のクリエイティビティが否定された」と呟いている。俺は壮介の肩を叩いた。


「お前の情熱は伝わった。伝わり方が間違ってただけだ」


「慰めになってない!」


 霧島先生が缶コーヒーを飲みながら言った。


「壮介、お前のスライドは面白かった。プレゼン資料としては零点だが、エンターテインメントとしては百点だ」


「先生、その評価は嬉しいんですか悲しいんですか」


「どっちでもいい。お前らしいということだ」


 壮介が少しだけ顔を上げた。先生の言葉は、たまに妙な角度から人を救う。



    *



 二日後。


 凛先輩が一晩で作り直した企画書とスライドを持って、再び生徒会室のドアをノックした。今度は俺と詩織さんも一緒だ。壮介は再び待機命令。「前回より厳重な待機」と凛先輩が言った。壮介は部室でカレーうどンのエッセイの続きを書いている。


「失礼します」


 天城さんが顔を上げた。前回と同じ姿勢。同じ赤ペン。書類の山は少し減っている。仕事が速い人だ。


「再提出の企画書です」


 凛先輩が差し出した書類は、前回とは格が違った。表紙からして違う。フォントが整っている。数字が並んでいる。グラフがある。根拠のあるグラフだ。壮介の「気合いグラフ」とは対極にある、データに基づいたグラフだ。


「文芸部は今年、三つの数値目標を掲げます」


 凛先輩がプレゼンを始めた。声のトーンが変わっている。部室で掟を読み上げるときの声じゃない。論理で武装した声だ。


「一、夏のコンクールで入賞一名以上。五名全員がコンクールに作品を提出予定です。昨年度はゼロでした」


「二、部誌の定期発行。年四号を予定。印刷は学内設備を使用し、制作費を抑えます」


「三、文化祭での来場者50名以上。体育祭のSNS反響数から推定した数字です。詳細は企画書の四ページにまとめました」


 天城さんが四ページを開いた。数字を追っている。凛先輩が作ったグラフは、壮介のグラフとは違って、全てに出典がある。学内アンケートの結果。SNSの投稿数。他校の文芸部の文化祭来場者数との比較。


「合宿は三日間の集中執筆です。合評会で互いの作品を磨き、コンクール入賞に必要な質を確保します。予算はそのための投資です」


 沈黙。天城さんが企画書を最初から読み直している。赤ペンは握ったままだが、動いていない。


「悪くないです」


 天城さんが顔を上げた。


「ただ、全額は出せません。他の部活との予算バランスがあります。半額なら」


「六割」


 凛先輩が即座に返した。


「五割五分」


「五割八分」


 天城さんの口の端がわずかに動いた。


「桐谷さん。交渉が上手いですね」


「文芸部ですから。言葉が武器です」


「では五割五分で。端数は切り上げます」


 予算の五十五パーセントが承認された。凛先輩が書類にサインしている。天城さんもサインしている。二人のペンの音だけが静かな生徒会室に響いた。


 帰り際、天城さんが凛先輩を呼び止めた。


「桐谷さん。一つ聞いていいですか」


「はい」


「次の部誌、いつ出ますか」


 凛先輩の足が止まった。俺の足も止まった。詩織さんの足も止まった。三人分の足音が同時に消えた。


「七月末を予定していますが。なぜ?」


 天城さんの表情が一瞬だけ揺れた。瞬きよりも短い時間。


「なんでもありません」


 早足で席に戻った。赤ペンを握り直して、書類に向かった。顔を上げない。


 廊下に出てから、三人で顔を見合わせた。


「今の」


「部誌の発行日を聞いた?」


「もしかして天城さん、読者なのでは」


 詩織さんが取材ノートを開いてメモを始めた。


「生徒会長が文芸部の隠れファン。取材対象として非常に興味深いです」


「千歳、メモはいいが本人の前で言うなよ」


「もちろんです。秘密の読者は秘密のままが美しいんです」


 凛先輩が少しだけ笑った。企画書を後ろ手に振っている。承認のハンコが押された企画書。


「まさかな」


 小さく呟いた。でも少し嬉しそうだった。



    *



 部室に戻ると、壮介がちゃぶ台の前で待っていた。


「おかえり! どうだった!?」


「通った。五十五パーセント」


「通った!? やった!!」


 壮介が立ち上がってガッツポーズをした。ちゃぶ台が揺れた。コンビニの袋が出てきた。中にジュースが五本入っている。


「打ち上げだ! 合宿決定の乾杯!」


「いつ買ったんだ、これ」


「さっき。通ると思って先に買った!」


「通らなかったらどうするつもりだったんだ」


「その時はやけ酒の代わりにやけジュースだ!」


 紙コップが配られた。壮介がオレンジジュースを注いでいく。凛先輩のコップ。詩織さんのコップ。俺のコップ。霧島先生のコップ。最後に自分のコップ。五つ。


「合宿決定、乾杯!」


 紙コップが軽い音でぶつかった。オレンジジュースが少しこぼれた。壮介が「もったいない!」と叫んで、こぼれた分を指ですくった。


「壮介、行儀が悪い」


「もったいない精神だよ!」


 霧島先生がジュースを一口飲んで、すぐに缶コーヒーを開けた。


「先生、ジュースは」


「甘い。俺には甘すぎる」


「先生の缶コーヒーも甘いでしょう。微糖って書いてありますけど」


「コーヒーの甘さとジュースの甘さは別物だ」


「そういうものですか」


「そういうものだ」


 詩織さんがジュースを一口飲んで、取材ノートの新しいページを開いた。


「合宿 Day 0」


 まだ行ってもいないのに、記録が始まっている。


「詩織さん、気が早い」


「備えあれば憂いなしです。合宿で何を取材するか、リストを作っておきたいんです」


「取材リスト」


「はい。朝焼けの色。波の音。砂浜の温度。民宿の畳の匂い。全員の寝顔」


「寝顔はやめてくれ」


「取材です」


「寝顔が取材になるのか」


「なります。人は眠っているときが一番素です。無防備な表情には、起きているときには見えない本質が表れるんです」


「やめてくれ。頼む」


 詩織さんがノートに何かを書き込んだ。たぶん「朝倉くん、寝顔を撮られるのを嫌がる。→寝顔に何かやましいものがある? 要確認」とか書いている気がする。気がするだけだ。確認はしない。


 壮介がちゃぶ台を叩いた。


「俺のスライドが却下されたことは忘れてないからな!」


「忘れろ」


「忘れない! 炎の背景は最高だった!」


「最高じゃなかった」


「凛先輩のプレゼン見てないけど、絶対俺のほうがインパクトあった!」


「インパクトと説得力は別だ」


「来年は俺のスライドで!」


「来年もお前のスライドは使わない」


「ひどい!」


 窓の外に夕日が落ちている。グラウンドでサッカー部が片付けをしている。ボールを網に入れて、コーンを積んで、ゴールを運んでいる。田中の姿が見えた。遠くからでも分かる走り方。あいつはいつもまっすぐ走る。


 俺はもうグラウンドに立たない。でも、グラウンドを見ることは怖くなくなっていた。あの場所は「失った場所」じゃなく、「走っていた場所」だ。俺はそこからここに来た。持ったまま来た。サッカーも、膝の痛みも、走れなくなった悔しさも、全部持って、この部室の畳の上に座っている。


 今は部室にいる。畳の上でペンを握っている。ホワイトボードには「夏合宿予算」の文字がまだ残っている。オレンジ色の夕日に照らされて、赤いマーカーの文字がさらに赤く見えた。


 合宿が決まった。初めて部室の外に出る。五人で。原稿と万年筆とカレーうどンへの想いを詰め込んで。


 ノートを開いた。コンクール原稿の下書きだ。途中まで書いたまま止まっている。「走れなくなった主人公が、走れなくなったことを書く」。あの日ノートに書いた最初の一行は、まだそこにある。


 合宿で、この続きを書く。海と山と、この五人の声に囲まれながら。


 楽しみだ。

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