第20話 旧友と新しい場所
# 旧友と新しい場所
七月最初の土曜日。部活は休みだった。
部誌の第二号が完成したのが昨日。壮介が編集長として初めて仕切った部誌だ。十冊刷った。来週から配る。壮介のキャッチコピー「五人の物語、あなたの手に」が表紙に印刷されている。
図書館に本を返しに来た。詩織さんに借りた「走ることを諦めた少年」の本と、自分で借りたスポーツ小説二冊。三冊まとめて返却カウンターに出した。
図書館を出た。午後一時。夏の日差しが強い。七月の太陽は容赦がない。アスファルトが熱い。
学校の横を通る道を歩いていた。この道は通らなくてもよかった。図書館から家への最短ルートは反対方向だ。でも足が勝手にこっちに向いた。理由は、わかっている。
グラウンドから歓声が聞こえた。
サッカー部の練習試合。土曜日はよく組まれる。対戦相手の学校のバスが校門の横に停まっている。紺と白のユニフォーム。朝凪高校のサッカー部。俺が着ていたユニフォームと同じ色。同じデザイン。
気がつくと、フェンスの前に立ち止まっていた。
金網の向こうでボールが動いている。二十二人の選手がグラウンドを走っている。砂煙が上がる。スパイクが芝を噛む音。ボールが蹴られる乾いた音。パスが通る。トラップ。ドリブル。クロス。ヘディング。
全部知っている音だ。全部、身体が覚えている。
田中が走っている。フォワード。俺がいた場所。俺のポジションに田中が立っている。右サイドを駆け上がって、中央にクロスを上げた。ヘッドで合わせた味方がシュートを放つ。ゴール。ネットが揺れる。白い網が膨らんで戻る。あの感触も知っている。俺がゴールを決めたとき、ネットが揺れる瞬間に全世界が止まったように感じた。一秒が十秒に引き延ばされる。ボールがネットに吸い込まれていく軌道を、スローモーションで見る。そして次の瞬間、時間が加速して歓声が押し寄せてくる。
田中が両手を広げて走る。チームメイトが駆け寄って抱き合う。あの身体の温度も知っている。汗と芝の匂いが混ざるあの幸福な混沌。
俺の身体が覚えている。あの瞬間の高揚。ゴールが決まった瞬間に身体中の血が沸騰する感覚。チームメイトの体温。汗の匂い。芝の匂い。ホイッスルの音。全部知っている。全部懐かしい。全部、もう手の届かない場所にある。
左膝に手を置いた。もう痛くない。走ろうと思えば走れる。でもサッカーの動きは無理だ。膝に負荷がかかる動き全部が、もうできない。「痛かった」記憶が、膝の奥に染みついている。あの日の音。ゴムが切れるみたいなパチンという音。あれからもう四ヶ月が経つ。
フェンスの金網に指をかけた。冷たい。七月の日差しの下なのに、金属は冷たい。指の隙間からグラウンドが見える。あちら側とこちら側。走っている人間と、立ち止まっている人間。その境界線が、金網の冷たさとして指に触れている。
*
ハーフタイム。選手たちがベンチに戻っていく。水を飲む。タオルで汗を拭く。コーチの指示を聞く。
田中がこちらを見つけた。フェンスに向かって走ってくる。汗だくの笑顔。スパイクが砂を蹴る音がだんだん近づいてくる。
「朝倉! 見にきたの?」
「たまたま通りかかって」
「嘘つけ。立ち止まってたろ。ずっと見てたじゃん」
苦笑した。バレている。田中は鈍いようで、こういうところだけは鋭い。フォワード同士の勘だ。中学の頃からツートップを組んでいた。俺の考えていることは、田中にはだいたい読まれる。
「俺たち、地区大会進めそうだよ。お前がいた頃ほどじゃないけど、一年の新入部員がけっこう走れてさ」
「そうか。よかったな」
「ディフェンスが安定してきた。お前がいた頃はフォワードに偏ってたけど、今はバランスが取れてる」
「バランスか。俺がいた頃は攻撃偏重だったからな」
「お前が攻撃偏重の元凶だったんだよ。お前が前にいると、全員が前に出たくなる。お前のドリブルについていきたくなるんだ」
「買いかぶりすぎだ」
「買いかぶりじゃない。事実だ。お前がいなくなって、チームのバランスは良くなった。でも決定力は落ちた。お前みたいに一人で持ち込んで打てるやつがいない」
田中が水を飲みながら、俺を見た。目が真剣になった。サッカーの話をしているときの田中の目は、いつも真剣だ。この男は本気でサッカーが好きなのだ。俺がサッカーを好きだったように。
「なあ朝倉。お前、前と顔が違う」
「顔?」
「前はさ、怪我してから、なんていうか……抜け殻みたいだった。教室にいても目が死んでた。悪い意味じゃなくて、ただ……どこにもいない感じ。体はあるのに、中身がない感じ」
「ひどい言い方だな」
「でも今は違う。なんか……目が生きてる。何か書いてるんだろ? 文芸部で」
「書いてる。カレーうどんの小説とか」
「は? カレーうどん?」
田中が笑った。声を出して笑った。グラウンドに笑い声が響いた。
「マジで?」
「マジで」
「なにそれ、面白いじゃん。お前らしいよ。朝倉はいつもカレーうどん食ってたもんな」
「食ってたな」
「お前のカレーうどんのこだわりは異常だったからな。味で学食のおばちゃんと議論してたし」
「あれは議論じゃなくて提案だ」
「提案を聞いてもらえたのか」
「天かすが増えた」
「それは提案の成果だな」
田中がコーチに呼ばれた。後半が始まる。走り出す前に振り返った。
「今度読ませてよ、カレーうどんの小説」
「機会があればな」
「機会は作る。部誌っていうの読めるんだろ? 一冊くれよ」
「わかった。次の号ができたら」
「約束な」
田中が走り去っていく。紺と白のユニフォーム。グラウンドの向こう側に戻っていく。あちら側に。スパイクが芝を噛む音が遠ざかる。田中の背中が、かつてのチームメイトの中に消えていく。
「お前、変わった」と田中は言った。抜け殻じゃなくなった。目が生きていると。
俺自身はまだよくわからない。でも田中がそう言うなら、きっと何かは変わっているのだろう。
後半の笛が鳴った。フェンスの向こうで二十二人が動き出す。俺はフェンスのこちら側で立っている。
でも今日は、立ち止まっているだけじゃなかった。行く場所がある。
*
練習試合の後、図書館に戻るつもりだった。
でも足は別の方向に向かった。旧校舎。部室。
鍵は持っている。四月に霧島先生から合鍵を預かった。「いつでも来ていい」と言われた。休みの日でも。
引き戸を開けた。誰もいない。畳の匂い。お茶の残り香。ちゃぶ台がいつもの位置にある。本棚にはミステリと漫画と辞書が並んでいる。壮介の落書きが入った創刊号が棚に挟まっている。ソファの上に凛先輩の忘れたブックカバーが一枚。
ちゃぶ台の前に座った。南側。俺の席。
PCを鞄から出した。開いた。画面が白い。
何も書けなかった。
さっき見た試合のことを書きたい。田中が走る姿。ゴールの瞬間。フェンス越しの世界。「お前、変わった」と言われたこと。全部、文字にしたい。でも指が動かない。キーボードの上で止まっている。
入部した頃にも同じことがあった。白い画面の前で何も書けなかった。でもあのときは「何を書けばいいかわからなかった」から書けなかった。今は違う。書きたいことはある。でも一行にもならない。
「書けないの?」
詩織さんが横から声をかけた。
「言葉にならない」
「それ、一行目ですよ」
「え?」
「"言葉にならない"。それがもう書き出しです」
ペンを握り直した。
窓の外を見た。グラウンドはもう静かだった。練習試合は終わっている。相手校のバスが校門を出ていくのが見えた。空が夕焼けに染まり始めている。オレンジ色の光がグラウンドの白線を照らしている。もう誰も走っていない。
一人の部室は、いつもより広く感じた。ちゃぶ台が大きく見える。五人で囲むとちょうどいい大きさなのに、一人だと広すぎる。
でも帰りたいとは思わなかった。ここに座っていたかった。書けなくても。何もできなくても。この場所が俺を受け止めてくれることを、身体が知っている。
*
引き戸がカラカラと開いた。
「あ、朝倉くん」
詩織さんだった。鞄を肩にかけて、少し驚いた顔をしている。
「今日は部活休みですよね?」
「うん。なんとなく来た」
「私もです。なんとなく」
詩織さんがいつもの席に座った。鞄から万年筆とノートを取り出す。何も聞かなかった。俺の顔を見て、何かを察したはずだ。何も聞かなかった。隣に座って、万年筆を走らせ始めた。カリカリという音だけが部室に響く。
五分後。引き戸が開いた。
「なんだ、二人いるのか」
凛先輩。
「私は忘れ物を取りに来ただけだ。まあいい。ついでに」
ソファに座って文庫本を開いた。忘れ物を取った気配はない。最初から「ついで」が目的だったのかもしれない。
十分後。引き戸がバンと開いた。
「お? 全員いるじゃん!」
壮介。
「俺の壮介センサーが反応した!」
「そんなセンサーない」
「ある。仲間が集まってる時に鳴るんだ。ビビッと来た」
「ビビッと来たのか」
「来た! だから来た!」
全員が揃った。休みの日に。誰が呼んだわけでもなく。
壮介が畳に座った。あぐらをかいて、俺の顔を見た。数秒黙った。壮介が黙るのは珍しい。
「なあ陽翔、サッカー部の試合見たんだろ」
「なんで知って」
「お前、試合見た後の顔してる」
「顔?」
「中学の頃もそうだった。試合見た後は黙る。今日のお前は黙ってる。だからわかった」
壮介の観察力に驚いた。凛先輩も詩織さんも驚いた顔をしている。壮介がこういう鋭さを見せるのは、本当にたまにだ。
「俺はバカだけど、お前のことは分かるよ」
壮介が真っ直ぐ俺を見ていた。ふざけていない目。壮介の中にある、一割の核心。
凛先輩が文庫本を閉じなかった。開いたまま、視線だけをこちらに向けた。
「朝倉。前にも言ったけど、もう一回言う」
先輩の声は静かだった。
「お前は"逃げた"んじゃない。"持ったまま来た"んだ。サッカーも、怪我も、走れなくなった悔しさも、全部持ったまま、この部室に座ってる。それでいいんだよ」
二度目のその言葉。五月に一度聞いた。そのときは救われた。でも今日、試合を見て揺り戻しが来た。一度聞いただけでは足りなかった。だから凛先輩はもう一度言ってくれた。同じ言葉を。同じ強さで。
詩織さんがペンを止めた。
「朝倉くんが見た今日の試合のこと、書いてみませんか」
「書く?」
「走っていた人たちのこと。フェンスの向こう側で走っていた人たちのこと。書けると思います。朝倉くんなら」
定位置の端に缶コーヒーが置いてあった。さっきまでなかった。いつ置かれたのか。振り向くと、霧島先生がソファの端に座っていた。
いつ来た。
「朝倉。書けなかったら書くな。でも書きたくなったら、ここにはいつでもPCがある。ノートもある。万年筆も——まあ千歳のを借りろ」
「先生、今日休みですよね」
「散歩の途中だ」
「嘘ですよね」
「嘘だ」
目頭が熱くなった。泣かない。泣かないけど、熱い。五人が部室にいる。休みの日に。誰も呼んでいないのに。全員が来た。全員が、ここにいる。
四月に入部したとき、部室には三人しかいなかった。今は五人いる。五人の部室。テーブルを囲む五人。一台のテーブルに五つの席。一つも空いていない。全部埋まっている。
壮介が急に立ち上がった。
「よし! 焼肉行こう!」
「今それ!?」
「泣きそうな顔してるから空気変えてやった! 感謝しろ!」
「感謝するけどタイミングがおかしい」
「タイミングは俺の専門外だ!」
「知ってる」
凛先輩が小さく笑った。霧島先生が缶コーヒーを飲んだ。詩織さんがペンのキャップを閉めた。壮介が鞄を持って立ち上がった。
部室は、いつもの温度に戻っていた。
*
家に帰った。夕飯を食べて、風呂に入って、机に向かった。
ノートを開いた。ペン先を握った。千五百円の安い万年筆。でも手に馴染んできている。
今日見た試合のことを思い出した。田中が走る姿。ゴールの瞬間。歓声。フェンスの冷たさ。金網の隙間から見えたグラウンド。全部が流れ込んでくる。
ペンが動き始めた。
「グラウンドの向こう側で、かつての仲間が走っていた」。
最初の一行が出た。次の文が続いた。止まらなかった。
ゴールが決まった瞬間のこと。チームメイトが抱き合っていたこと。フェンスの金網に指をかけていたこと。あちら側とこちら側。その間にある距離。金属の冷たさ。田中の汗だくの笑顔。「お前、変わったな」という言葉。カレーうどんの小説を読みたいと言ってくれたこと。後半の笛。田中がグラウンドに駆け戻っていく背中。
全部が文字になっていった。渦巻いていたものが一行ずつ、紙の上に降りてくる。さっきは一行も書けなかった。でも今は書ける。四人の言葉が背中にある。
一人では書けなかった。でも四人の言葉が背中を押してくれた。書くのは一人の仕事だ。でも一人で書けるようになるまでに、四人の声が必要だった。サッカーと同じだ。シュートを打つのは一人だけど、そこまでボールを運んでくれたチームメイトがいる。
ペンが止まらない。ノートの見開き一ページ目が埋まった。二ページ目に入った。まだ書いている。田中のクロス。フェンスの冷たさ。部室の畳。全部が文字になっていく。
走ることについて書いている。走れなくなったことについて書いている。走れなくなってから見つけたことについて書いている。ペンが紙の上を走っている。俺の足は走れない。でもペンは走っている。これが俺の走り方だ。
最後の一行。
「走れ、朝倉。ペンで走れ」。
書き終えた。顔を上げると、窓の外はもう暗かった。何時間書いていたかわからない。手が震えている。ペンを握りすぎて、指の腹にインクがついている。青いインク。詩織さんと同じ色のインクだ。
でも心は不思議と澄んでいた。全力で走った後の清々しさに似ている。
逃げたんじゃない。選んだわけでもない。
たぶん、「見つけた」んだ。走れなくなった俺が、走り続ける方法を。
グラウンドでは走れない。でもペンは握れる。あの座卓の前で。書ける。走れる。ペンで。
四月に入部したとき、俺は何もなかった。膝を壊して、サッカーを失って、放課後に行く場所がなくて、霧島先生に腕を掴まれて部室に連れてこられた。白い画面の前で一文字も書けなかった。
でも今は違う。カレーうどンのエッセイを書いた。合評会で声を聞いた。部誌を作った。ミステリを学んだ。体育祭で実況小説を書いた。雨の日に積読タワーを積んだ。詩織さんに本を薦めてもらった。壮介の編集を見た。凛先輩に「エース候補」と呼ばれた。
全部が、今日の見開き二ページに繋がっている。「走れ、朝倉。ペンで走れ」。あの一行は、四月からの全部が集まってできた一行だ。
明日から、俺は文芸部員だ。
今度こそ、本当の意味で。
ノートを閉じた。インクが乾くまで待つ。窓の外は夜だ。星が出ている。七月の夜空。夏が本格的に始まる。




