第18話 雨の部室と積読タワー
# 雨の部室と積読タワー
体育祭が終わって一週間。六月の下旬に入った。梅雨が本格的に始まった。
木曜日。大雨だった。
放課後、渡り廊下を走って旧校舎に向かった。傘は持っていたけど、横殴りの雨で意味がなかった。制服の肩が濡れている。靴の中にも水が入った。
旧校舎に入ると、雨の音が変わった。外ではバラバラという激しい音だったのが、旧校舎の中ではくぐもったゴーッという低い響きに変わる。古い建物の壁と天井が、雨音をフィルターにかけている。遠くで鳴っているのに近くに感じる。身体全体を包み込むような音だ。
部室の引き戸を開けた。
全員がもう来ていた。俺が一番最後だ。凛先輩がソファに座っていて、詩織さんがちゃぶ台の前にいて、壮介が畳に寝転がっていて、霧島先生がソファの端で缶コーヒーを飲んでいる。いつもの光景だ。でもいつもより静かだ。
「遅かったな」
「渡り廊下が滝になってました」
「雨の日は部室率が上がる。全員がいつもより早く来る」
凛先輩が文庫本のページをめくりながら言った。確かにそうだ。普段は俺か壮介が最初に来ることが多いのに、今日は全員が先に揃っていた。
部室の窓が濡れている。ガラスの表面を水滴が流れ落ちていく。外の景色が滲んで見える。グラウンドは巨大な水たまりと化していた。白線が水の下に沈んでいる。サッカー部も練習中止だ。あの校庭で走っている人間は誰もいない。
畳がいつもより少しひんやりする。六月の湿気が畳に染みている。素足で歩くと冷たい。でも不快ではない。この冷たさが、雨の日の部室の証拠みたいなものだ。
壮介でさえ声のトーンが少し落ちている。いつもの百パーセントの声量が、今日は七十パーセントくらいだ。雨の日には雨の日のボリュームがある。
「雨の日って、物語が生まれやすいんです」
詩織さんがちゃぶ台の上で万年筆を走らせながら言った。インクが今日はいつもより滑らかに走るらしい。湿度の影響かもしれない。万年筆の書き心地は湿度で変わると、前に詩織さんが教えてくれた。
「雨が降ると外に出られない。外に出られないと、人は内側に向かう。内側に向かうと、言葉が生まれる。だから雨の日は物語が生まれやすいんです」
「詩織さんの持論?」
「持論です。でも本当だと思います」
窓の外で雨が降り続けている。部室の中は静かだ。橙色の蛍光灯の光が、畳の上に柔らかい影を作っている。五人分の呼吸と、雨音と、万年筆のカリカリ音。それだけで部室が満ちている。他に何もいらない。テレビもスマホもBGMも。雨の音がすべてを覆っている。世界から隔絶された、小さな部屋。体育祭のときの喧騒が嘘みたいだ。あの日は砂埃と歓声と壮介の絶叫で世界が揺れていた。今日は雨音だけだ。同じ部室なのに、全く違う場所のように感じる。
*
一時間ほど各自が自分の作業をしていた。凛先輩が読書。詩織さんが執筆。俺は「走れ、朝倉」の続きを書こうとしたが、今日はうまく進まなかった。雨の日に走る文章は書きにくい。壮介はスマホをいじっている。霧島先生は缶コーヒーを二本目に突入した。
凛先輩が文庫本を閉じて、ホワイトボードの前に立った。
「暇だし、積読本を持ち寄ってタワーを作ろう」
「積読本タワー?」
「各自が家から持ってきた"買ったけど読んでいない本"を積み上げる。高さを競う」
「それ、先輩の積読本を消化するための企画じゃないですか」
「違う。純粋な遊びだ」
「嘘っぽいですけど」
「明日持ってこい。全員だ」
翌日の金曜日。全員が袋いっぱいの本を持って部室に集まった。外は今日も雨だ。
凛先輩の積読本。ミステリが中心。洋書も何冊か混ざっている。アガサ・クリスティの原書、エラリー・クイーンの未読作品、国内の新人ミステリ作家の短編集。整然と積み上げられた。文庫本と新書が交互に並んでいて、構造的に安定している。さすがミステリ脳。積み方にも論理がある。高さ四十五センチ。
「先輩、積み方が几帳面すぎません?」
「崩れたら意味がない。タワーは構造が大事だ」
「ミステリ作家は積読タワーも論理的に積むんですね」
「当然だ」
壮介の積読本。全部漫画だった。
「壮介、小説を持ってこいと言ったんだが」
「漫画も積読だ!!」
「確かに……反論できないな」
壮介の漫画タワー。少年漫画がずらり。冊数が異常に多い。一冊一冊が薄いから高さは出る。五十センチ。凛先輩のタワーを超えた。
「勝った!!」
「漫画で勝つな」
「勝ちは勝ちだ!」
詩織さんの積読本。ジャンルがバラバラだった。純文学。SF。哲学書。料理本。図鑑。歴史書。詩集。百科事典の一冊。ちゃぶ台の上に積み上げていくと、タワーがどんどん高くなっていく。詩織さんの座高を超えた。まだ積んでいる。鞄の中からまだ出てくる。どこに入っていたのかわからない。鞄が四次元ポケットなのかもしれない。
「多すぎない!?」
「読む速度より買う速度が速いんです」
「それは病気だよ」
「病気ではありません。投資です。未来の自分への」
「未来の自分は何冊読むつもりなんだ」
「全部です」
「全部って何冊あるの」
「数えていません。数えると怖くなるので」
「数えたほうがいいと思うんだが」
「数えたら買うのを控えるかもしれません。それは本への冒涜です」
「冒涜って」
「本は買うことに意味があるんです。読むかどうかは二の次です」
「読まないと意味ないだろ」
「いいえ。本棚に並んでいるだけで意味があります。"いつか読む"という希望が本棚に詰まっているんです」
「詩織さんの本棚は希望の塊なんだな」
「はい。ただし物理的に棚が足りなくて床に積んでます」
「それは希望じゃなくて災害では」
霧島先生の積読本が出てきた。段ボール一箱分。先生が部室に持ち込んだ瞬間、全員が声を失った。ちゃぶ台に載りきらない。畳の上に直接積んだ。高さ七十センチ超え。全員のタワーを圧倒的に凌駕した。
「先生、いつ読むんですかこれ」
「定年後に」
「定年まであと三十年くらいあるんじゃないですか」
「だから三十年分ある」
「計画的なのか無計画なのかわからない」
「計画だ。定年後の三十年間を全て読書に充てる計画」
「その計画、破綻してません?」
「破綻は教師の日常だ」
そして俺の積読本。
サッカー関連の本が二冊。体育祭の後に図書館で借りたスポーツ小説が三冊。合計五冊。高さ十五センチ。
「陽翔のしょぼっ!」
「うるさい。入部するまで本を買う習慣がなかったんだよ」
「十五センチって辞書一冊より低いぞ」
「事実だ。認める」
凛先輩が俺のタワーを見て、少し笑った。
「これから増える。断言する」
「そうですかね」
「断言する。お前は読み始めたばかりだ。読み始めた人間は止まらない。一年後にはこのタワーが三倍になっている」
「三倍でも四十五センチですけど」
「四十五は先輩のタワーと同じ高さだ。悪くない」
五つのタワーが部室に並んだ。凛先輩のミステリタワー、壮介の漫画タワー、詩織さんの全ジャンルタワー、霧島先生の段ボールタワー、俺の小さなスポーツタワー。五つの積読本が、五人の人格をそのまま映している。
凛先輩のタワーはミステリへの愛の形だ。洋書まで手を出しているのは、日本語のミステリだけでは足りないからだろう。この先輩は、世界中のミステリを読みたがっている。
壮介のタワーは漫画文化の象徴だ。小説は読めないけど漫画は読む。文字が苦手でも物語は好き。壮介の「書けないけど読むのは好き」が、漫画のタワーに現れている。
詩織さんのタワーは無限の好奇心の塊だ。純文学もSFも哲学も料理も、何でも知りたがる。何でも吸収する。あの万年筆から出てくる多彩な文章は、この積読本の海から生まれている。
霧島先生のタワーは「いつか読む」という希望だ。定年後に三十年分。先生は夢を捨てていない。棚の奥に原稿を隠して「続きは、いつか」と書いた人だ。「いつか」が先生のキーワードなんだろう。
そして俺のタワーは「これから始まる」の形だ。五冊。十五センチ。一番低い。でも凛先輩が言った。「これから増える。断言する」と。空白はこれから埋まっていく。
*
タワーバトルの後、凛先輩が提案した。
「互いの積読本から気になる一冊を借りて、ここで読もう」
各自が他の人のタワーから一冊を選んだ。
壮介が凛先輩のミステリを借りた。「密室と赤い糸」という短編集。壮介が表紙を見て「かっこいい」と言って読み始めた。三ページで止まった。
「先輩、この本難しい」
「三ページで挫折するな」
「漢字が多い」
「小説とはそういうものだ」
「漫画は漢字にふりがながつく」
「小説にもつく場合がある。その本にはつかないが」
「つけてほしい」
「自分で辞書を引け」
壮介が畳に転がって本を閉じた。お約束の展開だ。
凛先輩は壮介の漫画タワーから一冊を手に取った。スポーツ漫画。表紙にバスケットボールの絵。先輩はその本をソファの影に持っていって、背中を丸めて読み始めた。漫画を読んでいるところを見られたくないらしい。
「先輩、面白いですか」
「読んでない」
「読んでるじゃないですか。ページめくってますよ」
「めくってるだけだ」
「楽しそうですけど」
「楽しくない」
嘘だ。先輩の口元が微かに上がっている。漫画を楽しんでいる凛先輩は新鮮だ。
詩織さんが窓際に移動した。窓のすぐ横に座って、外の雨を見ている。手に一冊の本を持っていた。俺のタワーから取った本ではない。自分の積読本の山から選んだ一冊だ。
「朝倉くん」
「はい」
「この本、読んだことありますか?」
一冊を差し出された。文庫本。表紙は青い。タイトルは知らない作品だった。著者名にも見覚えがない。裏表紙のあらすじを読んだ。
「走ることを諦めた少年が、書くことで世界を取り戻す」。
目が止まった。
走ることを諦めた少年。書くことで世界を取り戻す。俺のことだ。膝を壊してサッカーを辞めた俺が、文芸部で文章を書いている。それと同じ話だ。
「俺のために選んだ?」
「偶然です」
詩織さんが目を逸らした。偶然じゃないだろう。この人の「偶然です」は、もう信じていない。取材ノートの「偶然の一致です」も、全ジャンルの主人公が俺に似ていた「偶然です」も、全部嘘だった。この人は嘘がつけない。嘘をつくと目が泳ぐ。今も泳いでいる。
「朝倉くんならきっと好きだと思います。主人公が、走れなくなってから見つけた新しい世界の描写がすごく丁寧で。読んでいると、朝倉くんのことを思い出しました」
「俺のことを思い出した」
「はい。朝倉くんが部室で最初にカレーうどンのエッセイを書いたときのこと。走れなくなった人が、書くことを見つけたときの顔。あのときの朝倉くんと、この小説の主人公が重なったんです」
雨音が窓の外で鳴り続けている。部室の中は橙色の光で温かい。詩織さんの声は小さい。雨音に半分溶けている。でも全部聞こえている。
「貸してくれる?」
「もちろん」
詩織さんが微笑んだ。本を俺に渡すとき、指先が少しだけ触れた。冷たかった。雨の日だから。六月の湿気で手が冷えている。でもその一瞬の冷たさが、妙に記憶に残った。
借りた本を開いた。最初のページ。一行目。「走れなくなった日から、世界は色を失った」。
息を呑んだ。一行目でこれか。走れなくなった日。色を失った世界。俺が膝を壊した日と同じだ。グラウンドの白線が灰色に見えた日。ホイッスルの音が遠くなった日。あの日の俺がそのまま文字になっている。
二行目。「でも彼は気づいていなかった。世界が色を失ったのではなく、彼の目が色を見ることをやめただけだということに」。
すごい。まだ二行しか読んでいないのに、胸が詰まる。この作者は知っている。走れなくなった人間の気持ちを。
読み進めた。詩織さんも隣で自分の本を開いた。二人並んで、窓際で本を読んでいる。外は灰色の雨。部室の中は橙色の灯り。畳のひんやりした感触。雨音。ページをめくる音。万年筆のカリカリ音はしない。今は二人とも読んでいる。書いていない。読んでいる。同じ空間で、それぞれの物語に没頭している。
時々、詩織さんが微かに息を漏らした。自分の本の中の何かに反応している。笑ったのか、感動したのか。その小さな息の音が、雨音の中に混ざって消えていく。
俺も本に没頭した。主人公が走れなくなってから、図書館に通い始める場面。本を読む。文字を書く。最初は日記。次にエッセイ。そして小説。走れない足の代わりに、ペンが走り始める。
俺と同じだ。カレーうどンのエッセイが、俺のペンの第一歩だった。
読んでいる間、詩織さんの肩が時々触れた。窓際は狭い。二人で座ると肩と肩の距離が近い。触れるたびに、ほんの少しだけ意識がそっちに行く。でもすぐに本に戻る。本の力が強い。この小説は、俺の集中力を掴んで離さない。
三十分くらい読んだ。半分まで進んだ。主人公が初めて自分の書いた文章を誰かに読んでもらう場面。相手は図書館で出会った少女だった。少女は主人公の文章を読んで「あなたの言葉には、走った人にしか出せない速度がある」と言った。
本から顔を上げた。詩織さんを見た。詩織さんも同じタイミングで顔を上げた。目が合った。
「面白い?」
「すごく」
「よかった」
詩織さんが笑った。目が優しい。取材モードの目ではない。本を薦めた相手が面白がってくれていることが、純粋に嬉しい目だ。
ソファの影から凛先輩のページをめくる音がかすかに聞こえる。漫画のページは音が軽い。畳の上では壮介が寝息を立てている。ミステリを三ページで諦めて寝落ちしたらしい。霧島先生は缶コーヒーの三本目を開けた。プシュッという音が、雨音の合間に響いた。
五人がそれぞれの場所で、それぞれのことをしている。でも同じ部室にいる。同じ雨音を聞いている。同じ空気を吸っている。それだけで、ここは居場所だ。
*
帰る頃に、雨が小降りになった。
全員で傘を広げて校門に向かう。水たまりが校庭のあちこちにある。夕方の空が水面に映っている。雲の隙間からオレンジ色の光が差し込んで、水たまりが鏡みたいに光っていた。
壮介が水たまりに突っ込んだ。
「子供か」
「子供だ! 水たまりは入るものだ!」
「靴が濡れるだろ」
「もう濡れてる!」
「だから追加で濡らすな」
壮介が水しぶきを上げながら走っていった。凛先輩がため息をついている。
詩織さんが空を見上げた。傘の隙間から、灰色と橙色が混ざった空が見えている。
「雨上がりの匂い、好きです」
「雨上がりの匂い?」
「アスファルトが濡れた匂い。土の匂い。草の匂い。全部が混ざって、雨が降る前にはなかった匂いがするんです。世界が洗われた匂いです」
「世界が洗われた、か。詩織さんらしい表現だ」
「取材ではなく、感想です」
「珍しい。取材じゃないんだ」
「たまには」
俺は鞄の中の本を確認した。詩織さんに借りた一冊。青い表紙の文庫本。「走ることを諦めた少年が、書くことで世界を取り戻す」。
「読んだら感想言うよ」
「楽しみにしてます」
詩織さんが笑った。傘の下で。雨上がりの光の中で。水たまりにその姿が映っていた。
分かれ道で全員と別れた。一人で歩く。雨はほとんど止んでいた。傘を閉じた。空気が湿っぽい。でも温かい。六月の夕暮れの、雨上がりの空気。
雨の日の文芸部は、晴れの日よりも好きかもしれない。
全員が同じ場所に留まって、同じ雨音を聞いている。外に出られないからこそ、中が温かく感じる。壮介でさえ静かになる。凛先輩がこっそり漫画を読む。詩織さんの万年筆のインクが滑らかになる。霧島先生の缶コーヒーの音が、いつもより柔らかく聞こえる。
「雨の日は物語が生まれやすい」。詩織さんの言う通りだ。
今日、物語が一つ生まれた。詩織さんが俺に本を薦めてくれた。「走ることを諦めた少年」の物語を。あれは詩織さんから俺への、言葉にしない手紙みたいなものだった。「この本を読んでほしい」という気持ちの中に、たぶん「あなたのことを見ています」が含まれている。
見られている。知っている。取材ノートのときから知っている。でも今日のあれは、取材ではなかった。詩織さんの目は、取材モードではなかった。もっと静かで、もっと真剣で、もっと温かい目だった。
本を読んでいるとき、詩織さんの肩が触れた。窓際で。雨音の中で。あの一瞬の温度を、まだ覚えている。
鞄の中の青い文庫本が、ほんの少しだけ温かい気がした。詩織さんが持っていた温度が、まだ残っている。
明日、部室で続きを読もう。主人公が「走れなくなった日から、世界は色を失った」と言っていた。でも物語の後半では、きっと色が戻ってくるはずだ。書くことで。言葉を見つけることで。
俺もそうだったのかもしれない。文芸部に入る前の世界は灰色だった。膝を壊して、サッカーを辞めて、放課後に一人で帰っていた。でも今は違う。部室がある。ちゃぶ台がある。五人がいる。雨の日の畳がひんやりしている。万年筆のインクが滑らかに走る。積読本のタワーが五つ並んでいる。
世界に色が戻っている。少しずつ。一色ずつ。雨の日の部室の、橙色から。詩織さんが薦めてくれた青い表紙の文庫本の、青から。壮介の漫画タワーの賑やかな色から。凛先輩のミステリの深い黒から。霧島先生の缶コーヒーの銀色から。
全部の色が、この部室にある。




