第17話 体育祭当日──実況小説は暴走する
# 体育祭当日──実況小説は暴走する
六月第三週の土曜日。体育祭。
朝七時半。校庭にテントが並んでいる。赤組と白組の応援幕が風に揺れている。砂埃が舞い上がり、朝の日差しが眩しい。校庭のスピーカーからテスト放送が流れている。ハウリングの音。どこかのクラスが応援練習をしている。太鼓の音と、掛け声。六月の朝にしては暑い。空は快晴。雲が一つもない。体育祭日和だ。
サッカー部がリレーのバトンパスの最終確認をしている。ユニフォーム姿で走り込みをしている。あの中に田中がいる。見えた。背番号はまだ覚えている。走るフォームも覚えている。でも今日、俺はあちら側にはいない。
文芸部は本部テントの横に「取材席」を確保していた。凛先輩が事前に交渉して勝ち取った場所だ。机が一つ。その上にノートPC、原稿用紙、ペン、壮介のスマホ。文芸部の武器一式。周りの運動部がバトンやボールを持っているのに対して、俺たちの武器はペンとキーボードだ。場違い感は否めない。でも凛先輩は堂々としている。場違いだと思っていないのだ。あるいは、場違いを気にしないのがこの先輩の強さだ。
「作戦通りにいく」
凛先輩が全員を見回した。
「各担当は自分の競技に集中しろ。原稿は競技終了後五分以内に提出。霧島先生が放送室から読み上げる」
「やるのは俺なのか」
霧島先生が缶コーヒーを握りながら言った。今日は放送室に向かう。いつものソファではなく、マイクの前に座る。
「先生の声が一番聞きやすいので」
「小説の朗読なんてやったことないんだが」
「初めてのことはやってみないとわかりません。先生がいつも言ってることです」
「自分の言葉が武器になって返ってくるとは」
「ブーメランです」
「教育的ブーメランだな」
先生が放送室に向かった。缶コーヒーを片手に。階段を上がっていく背中が、いつもより少しだけ緊張しているように見えた。
*
午前十時。最初の担当競技。百メートル走。
詩織さんが取材席に座って、メモ帳と万年筆を構えた。スタートラインに八人の選手が並ぶのを、真剣な目で見つめている。取材モードの目だ。
号砲が鳴った。八人が飛び出す。砂煙。掛け声。スパイクが地面を蹴る音。十秒ちょっとで終わる。一瞬の競技だ。
詩織さんの万年筆が走った。猛烈な速度で原稿用紙を埋めていく。五分後、原稿が完成した。凛先輩がチェックして、放送室に持っていく。
スピーカーから霧島先生の声が流れた。
「えー、文芸部からのスペシャル実況です」
先生の声はいつもの脱力した感じではなかった。マイクの前に座ると声が変わるらしい。低くて落ち着いていて、妙に聞き心地がいい。
「"スタートラインに八人が並ぶ。彼らの視線の先にあるのは百メートル先のゴールテープではない。自分自身の限界だ。号砲が鳴る。それは始まりの音であり、終わりへのカウントダウンでもある。八つの身体が地面を蹴った。重力に逆らい、空気を裂き、彼らは走った。十一秒間の永遠を"」
グラウンドが一瞬静まった。何だこれ、という空気。校庭にいる数百人の生徒が、スピーカーからの声に耳を傾けていた。
そして数秒後、ざわめきが起きた。
「なにあれ」
「文芸部の実況?」
「めっちゃ独特じゃん」
「百メートル走を"十一秒間の永遠"って。詩的すぎない?」
詩織さんの実況が、予想以上にウケていた。凛先輩がテントの下で小さくガッツポーズをした。
だが問題も発生した。詩織さんの実況が詩的すぎるのだ。競技の合間に綱引きの実況が回ってきたとき、詩織さんが書いた原稿は。
「"あるいはこれは、引力と斥力の根源的相克であり、人類が縄というテクノロジーを手にして以来の"」
放送委員が駆け寄ってきた。
「千歳さん、もう少し普通に書いてもらえませんか!」
「普通、とは」
詩織さんが首を傾げた。本気で「普通」がわからない顔だ。俺は横で頭を抱えた。
「普通っていうのは、"赤組が綱を引きました"とか」
「それでは物語になりません」
「物語にしなくていいんです! 実況なんです!」
「実況小説なので、物語にする必要があります」
「小説をつけないでください!」
だが意外にも生徒たちからは好評だった。スマホを見ている生徒たちが口々に言っている。
「文芸部の実況めっちゃ独特で面白い」
「綱引きを哲学にするの草」
「百メートル走を"十一秒間の永遠"って最高じゃん」
SNSのタイムラインに文芸部の実況が流れ始めていた。凛先輩が「予想以上だ」と呟いた。
「詩織さん、次の綱引きの原稿も書いてくれるか」
「書きます。ただ先ほどのは少し抑えたほうが」
「いや、あのままでいい。むしろもっと振り切れ」
「振り切っていいんですか」
「お前の文章は詩的すぎるくらいがちょうどいい。普通の実況は放送委員がやる。文芸部の実況は普通じゃなくていいんだ」
「わかりました。では次はもっと振り切ります」
「頼む。ただし放送委員が倒れない程度にな」
詩織さんが万年筆を握り直した。目が輝いている。許可が出た。詩織さんに「もっと書け」と言うのは、壮介に「もっと叫べ」と言うのと同じくらい危険だと思ったが、凛先輩の判断を信じる。
*
午前十一時。騎馬戦。壮介の担当だ。
壮介は観客席の最前列に陣取って、スマホを構えた。騎馬戦が始まる。赤組と白組の騎馬がグラウンドに並ぶ。開始の合図。
壮介がスマホにフリック入力で打ち込み始めた。速い。さすがにスマホ入力だけは速い。だが三十秒ほどで手が追いつかなくなった。興奮して。目の前で帽子が取られ、騎馬が崩れ、歓声が上がるたびに壮介の興奮が加速し、メモが断片的になっていく。
「やべえ!」「うおお!」「すげえ!」「帽子!」「えっ!」。メモがもはや単語の羅列だ。
凛先輩が横でスマホの画面を覗き込みながら、壮介の断片的なメモを原稿に仕立て直している。「やべえ」を「激しい攻防」に、「うおお」を「歓声が沸く」に変換する作業だ。だが最終的に、凛先輩は壮介の生のテキストをそのまま使うことにした。
「このまま読ませたほうが面白い」
「先輩、正気ですか」
「正気だ。壮介の文章を整えたら壮介じゃなくなる。壮介は壮介のまま出すのが一番いい」
「でも"やべえ"と"うおお"しか書いてないですよ」
「それがいいんだ」
放送室から霧島先生の声が流れた。
「文芸部・大和壮介の騎馬戦実況です」
先生が一瞬ためらった。原稿を見て、何かを覚悟した声で読み始めた。
「"うおおおお!! 赤組第三騎馬が突っ込んだ!! やべえ!! 帽子取られる!! いや耐えた!! 耐えたぞ!! なんかすごい!! 語彙が足りない!!"」
グラウンドが爆笑した。数百人の笑い声が校庭に響いた。壮介の実況は文学性ゼロだが、臨場感だけは異常にあった。「なんかすごい」「語彙が足りない」が特にウケた。
壮介の実況は続く。
「"決着!! 白組の勝ち!! 騎馬戦を一言で表すなら——男たちの魂のぶつかり合い!! 以上!!"」
霧島先生が放送室で笑いを堪えきれなくなっていた。マイクを通して、先生の「ふっ」という息が漏れた。
「以上、大和の実況でした」
先生がアドリブで締めた。普段のぼそぼそした声とは違う、少しだけ楽しそうな声だった。
体育教師が本部テントに来て「あの実況は何だ」と言ったが、周りの生徒たちからは「もっとやれ」「次も壮介で」の声が上がっていた。
壮介本人は観客席で満面の笑みだった。自分の実況がグラウンドを爆笑させたことが嬉しくてたまらないらしい。
「俺の実況ウケた!!」
「ウケたな。理由は語彙力のなさだが」
「語彙力がなくても伝わった!」
「伝わったな。"なんかすごい"で」
「"なんかすごい"は最高の褒め言葉だ!」
「最高かどうかは議論の余地がある」
凛先輩がテントの下で腕を組んだ。
「予想外だが、成功だ」
「予想外ってことは計算してなかったんですね」
「壮介の語彙力のなさがここまでウケるとは計算できなかった。これは嬉しい誤算だ」
*
午後。二人三脚。
午前中の実況小説が予想以上にウケたことで、文芸部の取材席周辺にはちらほら見物人が来ていた。「次は何やるの?」と聞いてくる生徒もいる。凛先輩が「二人三脚の実況は出場者本人が書く」と説明すると、「え、走りながら?」と驚かれていた。「走った後にだ」と凛先輩が訂正した。
俺と詩織さんがスタートラインに並んだ。足首を紐で結ぶ。練習で何度もやった動作だ。でも今日は本番だ。周りに観客がいる。歓声が聞こえる。砂埃が舞う。
「いける?」
「いけます」
詩織さんが小さくうなずいた。顔が少し緊張している。でも目は真っ直ぐだ。
「いち、に、いち、に」
スタートの合図。練習通りのリズムで走り出した。肩が触れる。腕が触れる。足音が重なる。周りのペアも走っている。砂を蹴る音。歓声。心臓の音。
順調だった。中間地点まで三位をキープしている。このまま行ける。練習の成果だ。リズムが合っている。呼吸が合っている。
そう思った瞬間だった。
詩織さんの足がもつれた。紐で結ばれた足が変なタイミングで出て、バランスが崩れた。俺が咄嗟にバランスを取ろうとした。腕を伸ばした。でも間に合わなかった。
二人で転んだ。
砂埃が舞った。
気がつくと、俺は仰向けに倒れていた。背中にグラウンドの砂の感触。そして、その上に詩織さんがいた。
俺が下敷きになっていた。反射的に詩織さんをかばっていた。サッカー部時代の癖だ。チームメイトが転びそうになったら受け止める。身体が勝手に動いた。
砂埃が収まった。
顔と顔が近かった。十五センチくらい。詩織さんの髪が俺の頬にかかっている。目が合った。黒い瞳。睫毛が長い。今まで気づかなかった。こんなに近くで見たことがなかったから。鼻先に砂がついている。唇が少し開いている。息が触れるくらいの距離。
周囲の歓声が轟いているはずなのに、俺の耳には何も聞こえなかった。心臓の音だけが、やけに大きく鳴っていた。ドクンドクン。転倒のせいじゃない。わかっている。転倒のせいではないことを、わかっている。
詩織さんも心臓が鳴っているのが伝わってきた。俺の胸の上に詩織さんの胸が乗っているから、振動が直に来る。二つの心臓が、バラバラのリズムで鳴っている。合わせようとしても合わない。二人三脚のときはリズムが合ったのに、心臓のリズムは合わせられない。
「す、すみません」
詩織さんの声が震えていた。
「大丈夫、怪我は?」
「私は大丈夫、です」
目を逸らせない。詩織さんも逸らせないでいる。逸らすべきだとわかっている。でも逸らせない。詩織さんの黒い瞳の中に、俺の顔が映っている。砂だらけの、赤い顔の俺が。
「あの、そろそろ」
「あ、は、はい!」
詩織さんが慌てて起き上がった。俺も起き上がった。砂を払う。膝は大丈夫だ。痛くない。左膝のサポーターが少しずれただけだ。制服の背中が砂だらけだ。詩織さんの制服も砂だらけだ。
起き上がった後も、二人とも顔が赤かった。砂埃のせいじゃない。六月の日差しのせいでもない。心臓のリズムがまだ戻らない。
遠くから壮介の絶叫が聞こえた。
「おーい!! 写真撮ったぞー!!」
俺と詩織さんが同時に叫んだ。
「消せ!!!!」
壮介が嬉しそうにスマホを振っている。凛先輩がテントの下で双眼鏡を目に当てていた。レンズの向こうで、たぶんニヤリと笑っている。
足はまだ結ばれている。残りの距離を走らなければならない。
「行くよ」
「はい」
「いち、に、いち、に」
全力で走った。さっきまでのリズムなんかどこかに飛んでいた。ただ必死に足を動かした。詩織さんも必死だった。顔が赤いまま走っている。俺も赤いまま走っている。リズムは合っていない。ぐちゃぐちゃだ。でも転ばなかった。二度目の転倒だけは避けたかった。あの距離をもう一度体験する心臓の余裕がなかった。
五位でゴール。順位はどうでもいい。
ゴールした瞬間、詩織さんと二人で膝に手をついて息を整えた。足の紐を解く。結び目が固くなっている。走っている間にきつくなったらしい。解くのに時間がかかった。その間も隣にいる。肩が触れている。
紐が解けた。足が自由になった。でもなぜか、自由になった瞬間に少しだけ寂しいと思った。
スマホを確認した。文芸部のグループLINEに写真が投稿されていた。俺の上に詩織さんが倒れている瞬間。顔と顔が近い。顔が赤い。二人とも。画角が妙にいい。壮介のくせにカメラの腕だけは確かだ。
壮介のコメント「青春のワンシーン!!」。
凛先輩のコメント「良い写真だな」。
霧島先生のコメント「放送室から見えなかったが、いい転倒だったらしいな」。
全員敵だ。この部の人間は全員、俺と詩織さんをおもちゃにしている。
*
閉会式。
体育祭の全プログラムが終了した。結果は白組の勝ちだった。文芸部の面々は赤組も白組もバラバラなので、どっちが勝っても関係ない。俺たちの戦いは実況小説だった。
閉会式の後、テントを片付けていると、他の部活の生徒が声をかけてきた。
「文芸部の実況、面白かったよ」
「"十一秒間の永遠"ってやつ、めっちゃよかった」
「騎馬戦の"語彙が足りない"は笑った」
「次の体育祭もやってよ」
「文芸部ってあんなことするんだ。知らなかった」
知らなかった。その言葉が嬉しかった。存在を知られていなかった文芸部が、体育祭を通じて「あんなことをする部活」として認識された。それだけで、凛先輩の企画は成功だ。
詩織さんも声をかけられていた。「百メートル走の実況書いた人? すごかったよ」と言われて、照れくさそうに「ありがとうございます」と答えている。普段は取材する側の詩織さんが、取材される側になっている。珍しい光景だ。
文芸部の名前が、学校に少しだけ認知された日だった。凛先輩が満足げに腕を組んでいる。
「第一歩だ」
「先輩、最初から計算してたんですか。ここまでウケることを」
「計算はしていた。ただし壮介の"語彙が足りない"がここまでウケるのは想定外だった」
「想定外の方が盛り上がりましたね」
「ミステリの面白さもそこにある。計算通りにいかない展開が、一番読者を驚かせる」
「俺たち有名人じゃん!」
壮介が興奮している。
「騎馬戦の"語彙が足りない"がウケたんだよ」
「語彙の少なさが武器になった!」
「それは喜んでいいのか微妙だが」
「喜ぶ! 武器が見つかったんだ!」
「語彙力のなさを武器と呼ぶ文芸部員は世界で一人だ」
「世界で一人ってことは唯一無二だ! レアだ!」
「レアってのは価値があるって意味じゃないんだが」
霧島先生が放送室から降りてきた。缶コーヒーの空き缶を三つ持っている。放送室で三本飲んだらしい。
「放送室から読み上げるの、意外と楽しかったぞ。次もやるか」
「先生、やる気を出してくれるのは嬉しいですけど、まず放送室で缶コーヒー飲むのやめてください」
「なぜだ」
「マイクに飲む音入ってましたよ。プシュッって」
「気づかなかった」
「生徒全員に聞こえてました。"文芸部の実況の合間に缶コーヒーを開ける音が入ってた"ってSNSで言われてます」
「それも文芸部の味だ」
「味じゃないです。ただの不注意です」
*
家に帰った。
風呂に入って、机に向かった。ノートを開く。万年筆を手に取った。いつの間にか買っていた万年筆。詩織さんが使っているのを見て、文房具屋で安いやつを一本買った。千五百円。高校生の小遣いにはちょっと痛い出費だったけど、ペンの滑りが良くて気に入っている。
二人三脚の実況小説を書く。本番では書けなかった。走っていたから。転んでいたから。心臓がうるさかったから。
ペンを走らせた。
「スタートラインに並んだ時、横にいたのは詩織さんだった。足が結ばれて、一歩ずつ進む。自分一人で走るより遅い。でも」
ペンが止まった。
「でも」の続きが書けない。
でも、何だ。でも一人で走るより楽しかった? でも一人で走るより心地よかった? でも一人で走るより心臓がうるさかった?
全部本当だ。全部書ける。でもどれを書いても、たぶん嘘になる。本当のことを書いているのに、嘘になる。言葉にすると何かが漏れる。
あの十五センチの距離。詩織さんの黒い瞳。長い睫毛。砂埃の中で見た横顔。鼻先の砂。息が触れる距離。二つの心臓のバラバラなリズム。全部を言葉にすると、何かが失われる。言葉にできない部分にこそ、一番大事なものがある気がする。
心臓がうるさいから、書けない。
でもいつか書きたい。今日の体育祭のことを。実況小説のことを。壮介の「語彙が足りない」のことを。詩織さんの「十一秒間の永遠」のことを。凛先輩の「第一歩だ」のことを。霧島先生の缶コーヒーのプシュッの音がマイクに入ったことを。
全部書きたい。でも「でも」の続きだけが、まだ書けない。
ペンを置いた。ノートを閉じた。
明日、部室で書こう。あのちゃぶ台の前に座って、いつもの音を聞きながら。万年筆のカリカリ音と、壮介の声と、凛先輩のツッコミと、霧島先生の缶コーヒーの音。あの中で書けば、「でも」の続きが出てくるかもしれない。
出てこなくても、いい。今日はもう、「でも」の手前まで書けたことだけで十分だ。
体育祭の日の夜。窓の外は暗い。星が見える。六月にしては澄んだ空だった。




