第14話 中間テスト前夜祭
# 中間テスト前夜祭
六月に入った。梅雨はまだ来ていないが、空気が湿っぽくなり始めている。教室の窓を開けると、重たい風が入ってくる。夏が近い。
中間テストまであと一週間。校内放送で「部活動は原則禁止。テスト期間は勉強に集中するように」というアナウンスが流れた。原則禁止。原則。つまり例外はある。文芸部はその例外に入るのか。入らないだろう。だが凛先輩は気にしない。
放課後。部室に全員が集まっていた。当然のように集まっていた。テスト期間だろうと、この部室は開いている。部員がいる。先輩がいる。先生がいる。お菓子がある。缶コーヒーがある。部活動禁止の校内放送など、この部室には届かないらしい。
「活動じゃない。勉強会だ」
凛先輩が開口一番に宣言した。ソファではなく、ちゃぶ台の前に正座している。珍しい。正座のときの凛先輩は本気モードだ。
「文芸部による自主的な学習支援だ。部活動ではない」
「屁理屈が上手いですね先輩」
「屁理屈ではない。正当な解釈だ」
「どこが正当なんですか」
「部室を使っているが、活動内容は勉強。つまり自習室の利用だ。自習室の利用は禁止されていない」
「先輩、ミステリの論理力をそっちに使わないでください」
霧島先生もいた。ソファで缶コーヒーを飲んでいる。いつもの姿勢だ。
「先生も来てるんですか」
「テスト監督の仕事があるからな。問題の最終チェックで部室を使わせてもらう」
「先生も屁理屈ですね」
「教育的利用だ」
「先生と凛先輩、屁理屈の系統が同じですね」
壮介が畳の上であぐらをかいている。教科書を三冊広げているが、どれも開いたまま放置されている。
「自粛って言われると逆に来たくなるよな」
「天邪鬼か」
「あと家だと集中できない。弟がうるさい」
「ここでも集中してないだろ」
「ここだと集中してるフリができる」
「フリだけかよ」
「フリも大事だ! 形から入るタイプなんだ!」
「形だけで中身がないのが問題なんだが」
*
凛先輩がホワイトボードの前に立った。マーカーを持って、表を書き始める。
「得意科目マッチング表」。
横軸に科目名。国語、数学、英語、理科、社会。縦軸に部員の名前。桐谷凛、千歳詩織、朝倉陽翔、大和壮介。各マスに○△×を記入していく。
「まず千歳。申告しろ」
「国語◎、英語○、歴史○、数学×、理科×です」
「文系特化型だな。数学と理科が壊滅か」
「壊滅です。二次関数が生理的に無理です」
「生理的に無理な科目があるのか」
「あります。数式を見ると頭痛がします。昨日も教科書を開いた瞬間に閉じました」
「開いた瞬間に閉じるな。少しは読め」
「読もうとしました。でも数式が文字に見えなくて。記号の羅列にしか見えないんです」
「それは数学がわからないということでは」
「わからないのではなく、相性が悪いんです」
「相性で教科を選べたら全員国語だけ受けるわ」
凛先輩が自分の欄を書いた。
「私は全教科七十五点前後。ムラがない」
「先輩、全部七十五点って逆にすごくないですか。一点もブレないんですか」
「前回は国語七十六、数学七十四、英語七十五、理科七十三、社会七十七。振れ幅四点だ」
「振れ幅四点。精密機械みたいですね」
「器用貧乏とも言う。突出した強みがない代わりに、穴もない」
「ミステリは突出してますよね」
「ミステリはテストに出ない。残念ながら」
「出たら凛先輩が満点ですね」
「出たら俺が作問する。全員苦しめてやる」
「怖い宣言しないでください」
俺の番。
「数学○、理科○、国語△、英語△です」
凛先輩が眉を上げた。
「朝倉、国語が弱いのか」
「はい」
「文芸部なのに国語が弱いのは恥ずかしいぞ」
「すみません」
「読書は増えてるのに国語が上がらないのか」
「読書と国語のテストは別物なんですよ。評論文の読解とか古文の文法とか、小説を読む力とは微妙に違う」
「理系科目が強いのは意外だな」
「サッカー部時代、戦術の計算をよくやってたので。フォーメーションの角度とか、シュートの軌道とか」
「サッカーで数学を鍛えたのか。面白い経歴だ」
最後は壮介。
「壮介、申告しろ」
「全教科四十五点前後です!」
沈黙。
「大和、お前よくこれで進級できてるな」
「才能だよ!」
「赤点回避の才能か」
「赤点は取ってない! ギリギリ回避してる!」
「ギリギリ回避を才能と呼ぶのはどうかと思う」
霧島先生がソファから口を出した。
「大和の成績は俺が担任として心配している。頼むから今回は平均点を取ってくれ」
「平均って何点くらいですか」
「お前の場合、五十点取れれば上出来だ」
「よっしゃ、五十点目指す!」
「志が低い!」
「低くない! 俺にとっての五十点は、普通の人の八十点くらいの価値がある!」
「その計算がおかしい」
「計算が苦手だからな!」
「だから数学が四十五点なんだ」
凛先輩がマッチング表を完成させた。ホワイトボードの表を眺めて、腕を組む。
「教え合いペアを決める。陽翔は数学と理科が強い。千歳は数学と理科が弱い。つまり陽翔が千歳に数学を教える」
「はい」
「了解です」
「壮介は全科目弱い。私が全科目を担当する」
「鬼教官!」
「修行だと思え」
「修行きつい!」
「きつくないと成績は上がらない。先生は全員のサポートに回ってください」
「了解した。缶コーヒー代は経費で落としてくれ」
「経費はありません」
*
教え合いタイムが始まった。
俺は詩織さんの隣に座った。ちゃぶ台の南側。いつもの席より一つ分近い。詩織さんの数学のノートを開いて、二次関数のグラフの書き方を説明する。
「まず、y=x²のグラフはこういう形です」
ノートに放物線を描いた。シャーペンの線が紙の上を走る。
「頂点がここで、xが正の方向に動くとyは急激に大きくなります」
「xが増加するとyも増加する。つまりxとyは共依存関係にあるんですね」
「数学的にはそうだけど、言い方!」
「でもそうですよね。xがいなくなるとyも存在できない。二つの変数が互いに支え合っている。これは数学的事実であると同時に、人間関係の比喩として」
「比喩にしないで。テストに出るのは数学的事実のほうだけだから」
「でもxとyの関係は、ミステリの犯人と被害者の関係にも似ていますね。犯人が存在しなければ被害者も存在しない」
「それは凛先輩に言って。俺は数学を教えてるんだ」
「すみません。つい」
詩織さんが真面目にノートを取り直した。万年筆ではなくシャーペンだ。数学のノートだけはシャーペンらしい。万年筆だとグラフが描きにくいのだろう。
「次に、頂点の座標の求め方を教えます。y=a(x-p)²+qのとき、頂点は(p,q)になります」
「p,qって何の略ですか」
「特に意味はない。ただの変数名だ」
「変数に意味がないなんて寂しいですね。名前には意味があるべきです」
「数学の変数に意味を求めないでくれ」
「放物線って美しいですね」
「美しい?」
「まるで物語のクライマックスの曲線みたいです。上がっていって、頂点に達して、降りてくる。起承転結の"転"が頂点ですね」
「感性は面白いけど、テストでそう書いたら零点だからな?」
「零点ですか」
「零点だ。座標を正確に記入して式を書け。文学的解釈はテストの後にやれ」
「テストの後に放物線の文学的解釈をする人は私くらいでしょうね」
「たぶん世界で一人だ」
詩織さんが少し笑った。シャーペンの先がノートの上で止まっている。
近い。同じノートを覗き込んでいるから、顔の距離が近い。詩織さんの髪からシャンプーの匂いがした。花みたいな匂い。何の花かはわからない。でも不快じゃない。むしろ意識してしまう。鼻先が詩織さんの耳に近い。耳たぶが小さくて白い。何を見ているんだ俺。数学だ。二次関数だ。集中しろ。
次の問題の解説に移った。声が少し上ずった。自分でもわかった。わかったけど直せなかった。「この式のaが正のとき、グラフは上に開きます」。声が裏返りかけた。裏返ってない。裏返ってないと思いたい。
詩織さんも妙にペンを持つ手が硬い。さっきまでスラスラ書いていたのに、グラフの線がかくかくしている。頂点の座標を書くとき、pとqの字が妙に小さくなっていた。
二人ともテスト勉強に集中しているフリをしていた。
ちゃぶ台の反対側からは、凛先輩と壮介の声が聞こえてくる。あっちは別の意味でカオスだった。
「"apple"は?」
「ああ、あれだろ、赤いやつ」
「日本語で答えろ」
「りんご!」
「正解。次、"literature"」
「り……りて……りてらちゃー……文芸!」
「惜しい。文学だ」
「文芸と文学って違うの!?」
「お前文芸部にいるのに文芸がわからないのか」
俺が思わずツッコんだ。
「文芸は芸だ! 文学は学だ! 芸と学は違う!」
「その区別が合ってるかどうかはさておき、literatureは文学だ。覚えろ」
「覚える!」
「次。"beautiful"」
「びゅーてぃふる。これ知ってる。美しい!」
「正解。例文を作れ」
「例文? えーと……The カレーうどん is beautiful!」
「文法的には合ってるが意味がおかしい」
「カレーうどんは美しいだろ!!」
「主観的にはそうかもしれないが、英語の例文としてはもう少し一般的なものを」
「カレーうどンは一般的だ!」
「"ン"がカタカナになってるぞ口頭なのに」
凛先輩の英語特訓は厳しい。壮介の悲鳴が部室に響き続けている。霧島先生はそれを聞きながら、壮介の英語プリントに赤ペンで修正を入れていた。赤ペンの速度が速い。壮介の間違いの量が多すぎるからだ。一ページにつき赤い文字のほうが多くなっている。
*
休憩時間。壮介が畳に倒れている。
詩織さんが急に手を挙げた。
「思いついたんですけど、テストの問題文を小説にしたら面白くないですか?」
「小説?」
「はい。たとえば数学の文章問題。"AさんとBさんが同時に家を出発し、途中で出会う確率は"。これって運命の出会いの物語ですよね!」
「確率の問題だよ」
「でもAさんとBさんが出会うんですよ! 歩いて、どこかですれ違う。それが運命じゃなくて何ですか」
「確率だ」
詩織さんが目を輝かせてノートに書き始めた。
「"A子は時速四キロで歩いた。B男は時速六キロで走った。二人の距離が縮まるのに必要な時間は。A子は知っていた。B男がこの道を通ることを。だから走らなかった。待っていた。B男が追いつくまでの、あの数分間が、A子にとっては永遠のように感じられた"」
「テスト前にそんなことしてる場合か!!」
「でもこの問題、ドラマがあるんですよ。A子がなぜ時速四キロなのか。走れないんじゃなくて、走らないんです。B男を待つために」
「数学の問題にそんな意図はない」
「あります。出題者にも心があるんです」
「出題者は霧島先生だ。心はあるかもしれないが意図はない」
壮介が単語帳の下から顔を出した。
「詩織ちゃんの小説版で読みたい! A子とB男の続きが気になる! A子は追いつかれたの?」
「追いつきました。B男は時速六キロですから、差は時速二キロ。十分で追いつきます」
「追いついた後どうなったの!?」
「二人は一緒に歩きました。同じ速度で」
「それ数学の答えじゃないだろ」
「数学の答えは十分です。でも物語の答えは"一緒に歩いた"です」
「壮介もテスト勉強しろ!」
凛先輩が冷静に言った。
「千歳、それ普通に解けば答え出るよ。時速の差で割れば終わりだ」
「数学的にはそうですが、文学的には奥が深いんです」
「テスト期間中は数学的にいけ」
霧島先生が壮介の英語プリントに赤入れしながら言った。
「千歳、お前は国語教師になれるかもしれないな。数学は絶対なれないが」
「先生、私の数学はそんなにひどいですか?」
「前回のテスト、二十八点だったろ」
詩織さんの顔が固まった。
「それは内緒にしてもらったはずでは」
「「「「二十八点!?」」」」
「国語◎で数学二十八点って振れ幅がすごいな」
「振れ幅ではなく個性です」
「個性で片付けていいスコアじゃないだろ」
「だから今日教えてるんじゃないか。頑張れ」
「朝倉くん、今日教えてもらった分で何点くらい上がりますか」
「正直に言っていいですか」
「はい」
「二次関数だけで十五点分くらいある。今日やった範囲が全部解ければ四十点は超える」
「四十点! 前回から十二点アップですね」
「まずは赤点回避だ」
「赤点回避が目標って、壮介さんと同じレベルなんですが」
「数学に関しては同レベルだな」
壮介が畳から顔を上げた。
「詩織ちゃんと俺、数学仲間!」
「仲間じゃありません! 国語は私のほうが五十点以上高いです!」
「数学仲間は数学仲間だ!」
「嫌です!」
詩織さんが赤くなりながらノートに向き直った。二十八点がバレたショックは大きいらしい。さっきの小説モードが消えて、真剣な顔で二次関数の問題集を解き始めた。シャーペンの動きが速い。悔しさが原動力になっている。
横で見ていて思った。詩織さんは国語の天才だけど、数学では普通の高校生以下だ。完璧じゃない。どこか安心する。天才にも苦手なものがあるということが。二十八点の詩織さんは、いつもの取材モードの詩織さんよりも、少しだけ人間っぽく見えた。
*
勉強会が終わった。日が落ちかけている。六月の夕暮れは長い。空がまだ明るい。西の空がオレンジと紫の中間くらいの色をしている。
帰り道。壮介と並んで歩いている。詩織さんは凛先輩と反対方向に帰った。先輩が帰り道でも数学の口頭テストをしていた。「二次関数のグラフで頂点の座標は?」「えっと、(p,q)です」「正解。pとqの求め方は?」。詩織さんの声が遠くから聞こえた。真面目にやっている。二十八点の汚名を返上するつもりらしい。
「なあ陽翔」
「ん」
「お前、詩織ちゃんに教えてる時、楽しそうだったよ」
「そうか? 教えるのは嫌いじゃないからな。サッカー部のとき、後輩に教えるの好きだったし」
「そういうことじゃなくてさ」
「?」
壮介が一瞬黙った。珍しい。この男が言葉を選ぶことは滅多にない。いつも思ったことをそのまま口にする。
「……いや、なんでもない」
言葉を飲み込んだ。壮介が言葉を飲み込むのを見たのは、文芸部に入って以来初めてかもしれない。
「なんだよ、気になるだろ」
「ほんとになんでもない。腹減ったなって思っただけ」
「急に腹の話にすり替えるな」
「すり替えてない! 勉強すると腹減るじゃん!」
壮介がにかっと笑って走っていった。「じゃあな! テスト頑張ろうぜ!」と叫びながら。いつもの壮介だ。でもさっきの沈黙が、少しだけ引っかかった。
「そういうことじゃなくて」。壮介は何を言いかけたんだろう。
壮介は普段バカだ。声がでかくて、考えが浅くて、焼肉とカレーうどんのことしか頭にない。でもたまに核心を突く。壮介の「たまに」は、いつも予測できないタイミングでやってくる。
今日の「そういうことじゃなくて」も、そのたまにの一つだったのかもしれない。壮介が言いかけて飲み込んだ言葉。俺には見えなかったものが、壮介には見えていた。何が見えていたんだろう。
まあいい。壮介が言いたかったことは、いつか壮介が自分で言うだろう。あいつは黙っていられないタイプだ。今日は飲み込んだけど、そのうち我慢できなくなって言う。そのときに聞けばいい。
家に帰った。夕飯を食べて、風呂に入って、机に向かった。テスト勉強の続き。数学の問題集を開く。二次関数。放物線。さっき詩織さんに教えた範囲だ。
問題を解きながら、今日の勉強会を思い出していた。詩織さんが「xとyは共依存関係」と言ったこと。「放物線はクライマックスの曲線」と言ったこと。数学を文学に変換する詩織さんの感性は、確かに面白かった。教えていて楽しかったのは事実だ。壮介が「楽しそうだったよ」と言ったのは正しい。
ただ、壮介の「そういうことじゃなくて」が引っかかる。教えるのが楽しかったのは事実だ。でも壮介は「そういうこと」じゃないと言った。じゃあ何だ。
ノートを開いた。今日の勉強会で使ったページ。俺の字と、詩織さんの字が混ざっている。同じページに二人の筆跡がある。
ページの端に、詩織さんが書いた数式があった。二次関数の計算途中で、符号を間違えている。プラスとマイナスが逆だ。だから答えも間違っている。
その間違った数式を、俺は無意識にそのまま写してしまっていた。自分のノートに、詩織さんの間違いがコピーされている。
消しゴムを手に取った。消そうとした。
少し躊躇した。
なんで躊躇ったんだ。間違った数式だ。消すのが当然だ。テスト前に間違いをノートに残しておく理由はない。
消した。消しゴムのカスを払った。白いページの上に、微かに詩織さんの筆圧の跡だけが残っていた。光の角度によってはかすかに見える。見えるけど、読めない。
なんで躊躇ったんだ、俺。
間違った数式だ。消すのが当然だ。テスト前に間違いをノートに残しておく理由はない。でも消しゴムを手に取ったとき、一瞬だけ詩織さんのシャーペンの線が惜しくなった。同じページに二人の筆跡がある。それがなくなるのが、少しだけ。
ノートを閉じた。テスト勉強に戻った。でも壮介の「そういうことじゃなくて」が、まだ頭の隅に引っかかっていた。
テストまであと六日。数学の問題集はまだ半分残っている。明日も部室で勉強会だ。明日も詩織さんの隣で数学を教える。明日も近い距離で、同じノートを覗き込む。
それが楽しみだと思っている自分がいる。
壮介の「そういうことじゃなくて」の答えが、もしかしたら、もうわかっているのかもしれない。




