6.
王太子が、私一人の時にも手を振って挨拶をするようになったとき。
私はそろそろ、頃合いになってしまったと、そう思った。
私はマリーを、中庭じゃなくて、校舎裏の陰になっているところに呼び出した。
ミルクティー色の頭がトテトテと走ってくるのをじっと眺めていた。彼女はいつものようにぴょいと、わたしに抱きついた。
それを私は力任せに引き剥がした。
「ごきげんよう。アプリコット男爵令嬢」
私は彼女に優美な一礼を披露した。
彼女は新緑の目をめいいっぱいに見開いた。
私は影になる方に立っていて、彼女は光の中にいたからその表情がよくよく見えた。
「随分と、私を煩わせてくれたわね」
彼女は迷子のような顔でぶるりと震えた。
「私はずっとずうっと、あなたのことが煩わしかったわ。あなたは本当に私の邪魔だった」
ひとつ、一つの言葉を噛みしめるように口にする。それは刃物のようで、口にするそばから私の口内を傷だらけにしていった。
「私はね、王太子殿下が欲しかっただけなの。ずっとお慕い申し上げていたのよ?とても恐れ多くて声をかけるのすら恐れ多かったのに。なのにぽっと出の貴方が簡単に掻っ攫っていくものだから」
実際のところ、もし転生した先がヒロインだったなら私は彼と幸せになる道があっただろうかと考えたことは一度ある。
「だからね、痛めつけてみることにしたの」
私は爪を太ももに食い込ませて、震えを止めた。そして両手で彼女の肩を掴んで壁に押し付ける。
「いろんなお友達に、あなたをいじめるように頼んだわ。彼らは私より身分が低いから従うしかなかったのよ」
まだ覚えている、彼女をいじめた者の名前を一つづつ告げてあげる。
「全部、全部私が指示したの。でも残念ね。それを理由にあなた、もっと殿方に取り入ってしまうから」
笑う。ゲームの中のリュシエンヌの顔を思い出しながら、笑う。
「ねえ、楽しかった?」
「違う!リュシーはそんな人じゃ」
「違わないわ。あははっ、本当に騙されて馬鹿みたい。ていうかもうやめてくださらない?その吐き気がするような呼び方」
彼女の耳に口を寄せて囁く。
「いじめさせてても、殿下は手に入らないようだから私はやり方を変えることにしたの」
ゆっくりと毒を流し入れるように囁く。
「私すっごく我慢したのよ、その汚らしい身体で私にすぐ抱きつくし、話はやたら長いし。そう。貴方ってつまらない話をするのが好きね」
長い睫毛が、何かに耐えるようにふるふると震える。そう。それでいいのよ。どうか私を嫌いになって。
「ふふ、でももう良いのよ殿下は最近、私と楽しく話してくださるの。下賤なあなたはすぐ用済みになるわ」
体を起こして彼女の顔を覗いてみた。彼女の顔はぐちゃぐちゃとした涙や鼻水で濡れていたけれど。
この期に及んでどこか私を信じているような目をする。
「違う違う違う。全部嘘だ!そんなの嘘だよ!!リュシー、ねえ急にどうしちゃったの?何がリュシーにそうさせているの?ねえ、私なんでも聞くから。お願い、教えてよ!話してよ!!!」
「黙りなさい!……煩いわ。私は最初からあなたが嫌いだったの。殿下の為に仕方なくそうしていただけなの。今日は本当にせいせいしてるわ」
新緑の目からぽろぽろと涙が溢れて彼女はまた私に抱きついた。縋り付くように抱きついた。
「りゅしいぃいいいいいいい!」
服にべっちょりと鼻水が付く感触がする。彼女がいや、いやと頭を振る。
彼女があまりにも温かいから、私は自分がどれほど冷たくなっていたかを知った。
「ごめんね、私馬鹿だからリュシーの辛さ、わかってあげられなかったね。私ね、リュシーが殿下のこと好きなんて全然わかってなかったよ。私最近ちょっと殿下のこと好きかもとか、馬鹿だから思っちゃったんだけどさ。よく考えたら不相応にもほどがあるよね。リュシーのほうがずっとお似合いだしとっても応援するよ……ってそういうことが言いたいわけじゃなくて」
彼女は咳き込むように、喘ぐように苦しそうに息をついた。
「私はリュシーが大切なの。リュシーに比べたら殿下なんてどうだっていいの。私がここにつれてこられて、戸惑って疲れて苦しんでいたときに、初めてレッテルじゃなくて私のことを見て気にかけてくれたのがリュシーだったの。リュシーが嫌だって思うなら全部いらないから。ねえ……リュシー以外何もいらないよぉ」
彼女は私の体に顔を埋めてうわーんと声をあげた。
私の決意が、揺らぎかけていた。でも。
「ヴァルフォワ様!」
後ろから声がかかる。完璧なタイミング。
「あら、よく来てくれたわ。とりあえずこの汚らしい小娘を剥がしてちょうだい」
歩み寄るのは、きっとこの子も見慣れた人。
「まあ、本当ね。あなたがこんな人だとは思わなかったわ」
「……え?」
私が助っ人として呼んでいたのは、そう。
ゲームのお助けキャラ、商業を営む男爵家の令嬢で、ヒロインの最初の友達。
私は令嬢に近づき、そのマリー像を、時間をかけて少しずつ、歪めていった。
「あなたのこと、本当に軽蔑するわ。あなたと友達になったこと、後悔してるの」
「……え」
「これ以上、ヴァルフォワ様を煩わせないでちょうだい」
「本当よ、これ以上顔も見たくないわ。こんな身分不相応なところになんて最初から来ずに、見えないところに引きこもってれば良かったのに」
「……」
新緑の瞳が私のことをみている。何か、もの言いたげにじっと見ている。
それなら仕方ない。できることなら残しておきたかったのだけれど。
「これ、忘れてたわ」
一つのチャームを乱暴に取り出す。それは幾つもの四つ葉を乾かして丁寧に貼り合わせたくす玉のようなもの。
中庭で一緒に過ごすたびに、集めた四つ葉。摘んだばかりのときは、ちょうど彼女の目のような新緑だった。
彼女はハッとしてそれを見つめた。
私はそれを彼女の顔の真ん前に掲げて。
グシャ。
手のひらの真ん中で思いっきり握りつぶして、崩れてできた屑をぱらぱらと彼女に掛けてあげる。
「そうそう。男爵にちょっとお金握らせて、頼んだら。あなたのこと、もういらないって」
「早く荷物をまとめて孤児院に逃げ帰ったらどうかしら?」
彼女は私を見ていた。
私は震える唇を開いて、こういった。
「私はあなたなんか要らない。早く私の前から消えて」
大きな新緑の瞳が私を見ていた。




