2.
貴族学院の授業は退屈だ。
……いや。公爵家の教育が良すぎるのかもしれない。
この国の歴史だとか、領地経営のことだとか。昔に家庭教師から教わった覚えがあるものを、講師は遅々となぞっていく。
もしくはこの身体が優秀すぎるのかもしれない。
一度教わったことは、忘れないのだ。
幸い、最近の私には気に入りの暇つぶしがある。
斜め前の席に座る、青い髪の令息。
少し脚こそ崩して座っているが、目は真剣に講師の手の先を追っている。あ、手で髪をクシャっとかきあげた。
どこか分からないところでもあったのだろうか。
彼は子爵家だから。家庭教師にはそれほど教わらなかったのだろう。
私は転生してから随分と考えていたことが一つある。
それはなぜここに転生してしまったのだろうかということだ。
最初は運命に感謝していた。貴族の生活は、現代人に比べてずいぶんゆっくりなのだ。
私は自由を手に入れた気がした。
しかしそう甘くはいかないものだ。
どこにだってしがらみはあるものだと、思い知った 。
公爵令嬢。甘やかな響きの裏には随分と背負うものがある。
リュシエンヌは生まれたときから雁字搦めの籠の鳥だった。
私は何かしようとしては、その度に何もできなかった。
結局はなるようにしかならない。
それは前世とそう変わらなかった。
それでも。
視線の先の彼があくびを一つする。
それだけで、なぜか私の口元に自然と微笑みが生まれてしまった。
そう。彼をこうして見ることができるだけでも転生して来た意味はあったかもしれない。
前世でも、彼は私に希望と生きる意味を与え続けてくれていた。
私は講師に見咎められる前に、視線を板書の方に移した。
彼はアレクシス・グレンディーン。
三人兄弟の長男で、頭の回る次男に子爵位を譲るため、騎士を目指していた。
ペンよりも剣のほうが性に合うのだと言っていたっけ。
彼はとにかく、まっすぐで誠実で、優しいキャラクターだった。苛烈ないじめを受けるヒロインを、誰よりも献身的に助けてくれて。
裕福な家ではないから、騎士として出世せねばならぬと語っていた。
彼の母は長く床に伏せていて、とにかくお金が足らないのだといつも気を揉んでいた。
そこまで考えたとき、私ははたと、手を額に当てた。
そうだ。
そういえば彼のルートでは……。
◇
新緑の乙女を中心に談笑しながら廊下を進む集団がいた。
彼女ら御一行は目立つので、とてもわかりやすい。なにせ揃いも揃って美男美女な上、身分の尊い方も揃っているので、視線の集まる先を辿れば大抵いるのだった。
ずんずんと斜め前で銀髪を靡かせるのは宰相の息子で、後ろを固めるのは赤毛の……ああ、教師枠のキャラクターだ。それで、隣にいるのは誰だ?
位置取りは好感度の順位で決まる。
私はもっとよく見ようと目を細めた。
「それでね、ヴァルフォワ様。」
横から声がかけられる。
「えっ…と。ごめんなさい、何だったかしら?」
もう、と栗色の目の令嬢が可愛らしく頬を膨らませた。
「ヴァルフォワ様ったら」
巻き毛の令嬢も私を心配そうに伺ってきた。
「また、アプリコット男爵令嬢が気になりますか?」
「ああ……彼女がそんなにもヴァルフォワ様の御心を煩わせるのならいっそ私が」
私は慌てて頭を振った。
「そういうわけじゃないのよ」
心配する学友達をなだめているうちに、御一行は過ぎてしまった。
もうそろそろルートが確定する時期だ。
隣りに来るのは一番好感度が高いキャラクターである。
隣にいたのは誰だっただろうか?
◇
「あ、お久しぶりです!」
にわかに声をかけられて、振りかえると新緑の目を煌めかせる彼女がいた。
見れば、その制服はびしょびしょに濡れていて、泥も混じったひどい有様だった。
彼女はそこで初めて自分の状態に思い当たったのだろうか、あわあわと釈明するように手を振り出す。
「ち、違うんです。ええ、さっきちょっと転んでしまって。えへへ。……お気になさらず」
気持ちのいい晴天の下、暖かな風が吹き抜けていった。どこで転べばそうなるというのか。
私が手を下さなくても、彼女は随分と……いじめられているようだった。
「……えっと。お目を汚してしまい、すみません」
彼女は、貴族式の礼をひとつ、初々しく披露した。
「勝手に声をかけてしまったことも、すみませんでした。そのままだと去っていってしまいそうで、私、あなたに……」
「大丈夫よ。早くお行きなさい」
「え?」
「いくらこんな天気でも濡れたままでは寒いでしょう。……風邪を引く前に早くお行きなさい」
きょとんと固まった彼女の顔が、みるみる喜色に染まっていく。
「わっ、確かにそうですね。ありがとうございますっ。今日はもう行きますね」
彼女はペコっと会釈する。
「ええ、ごきげんよう」
次の授業はいつからだっけ。
彼女はもう間に会わないだろうが、濡れたままではどちらにせよ行けないだろう。
そして私は、間に合わないわけには行かないだろう。公爵の顔が頭に浮かぶ。
「あのっ、また」
投げかけられた声に、軽く手を挙げて。曲がり角で振り返った時には、彼女の背中はもう見えなかった。
◇
あった。貴族名鑑。
無駄に装丁の凝ったその大きな本を、背伸びして上段の棚より引き出す。
どの家の書庫にもあるとはいえ、学園の図書室にもあって良かった。
そのまま図書室の調べ物兼、勉強場所へ腰を下ろし机に本を広げる。
ふむふむ。
この版は、公爵家のものよりもいくらか細かく載っていた。
読み飛ばし、読み飛ばして必要なところを探す。
何個もあった、目的の箇所を写しては、次を探してと繰り返すうちにいつの間にか日が暮れていたようだ。
窓から差す夕焼けの光、書き物をする手の影がやけに長く伸びて。
「よし。今日はこんなものにしましょうか」
割と頑張ったと思う。席を立って思わず気が抜け、そんな独り言を口にしてしまうくらいに。
相変わらず嫌になるほど大きなその本をよっこらせと抱えて、書棚に戻る。
棚の前まで来て私ははたと、困ってしまった。手を伸ばして取るような上段の棚だ。戻すのはいささか大変である。
本を掲げ直し、ぐっと踵を浮かせて隙間へめがけて差し込もうとする。
「あ」
うまく入らず本が横にそれる。本の重さが私の重心を傾かせて。
倒れる。
……ん?倒れない。
後ろから両手が伸びてきて、それは本と、身体をそれぞれ支えてくれた。
「まあ、すみません。お助けいただき」
会釈をしようとつい、後ろを振り向くと。
「……」
すぐ、至近距離に顔があった。
そのどこまでも青い瞳と、目が合う。
彼が、まばたきをした。
ばっと顔が火照る。
そりゃあ、支えている姿勢で、私が振り返ってしまったらそうなるだろう。
私は弾かれるようにしてそこから抜け出した。
彼は本を戻してくれた。
「本当にありがとう御座いました」
「いえ、お助けになれたのなら幸いです」
咄嗟とはいえお身体に触れてしまってすみませんと言い添えて、彼は立ち去った。
青い髪の毛の彼の後ろ姿を私は呆けたように眺めていた。




