1.
ある朝、目が覚めると私はリュシエンヌになっていた。
前世……そう呼んでいいのかは分からないが、頭の中に残る記憶で私は今の世界にそっくりの乙女ゲームをプレイしていた。
リュシエンヌというのはゲームの中でヒロインを幾度となく阻む悪辣なキャラであった。
最初は大変取り乱したものだ。そしてその後は巷の転生主人公みたいに、懐柔を試そうと使用人にフレンドリーに接してみたり、領地の内政に手を出そうと掛け合ってみたり。
気がついたのは、この世界はどうやら私にそこまで甘くないようだということだった。
貴族の封建制風の世界観の中で急に現代的価値観に目覚めた私は実際、異端だったのだろう。
そぐわないことを口にするたび、部屋に閉じ込められて何日も何日も折檻された。
私はこの世界に順応することを学んだ。淑やかに、聞き分け良く。貴族の仮面をかぶって。
しかし、問題はあった。
ゲームの中で、私は死ぬ運命にある。もうすぐ始まるゲーム本編の舞台、貴族学院に思いを馳せて私はほうっと息を吐いた。
そうか。ゲームの中で出てきた人物達に会えるのか。ヒロインや……そう。彼にも会えるかもしれない。
ヒロインは庶子であり、最近引き取られて男爵令嬢になった元孤児。
平民の世界で生きてきたゆえ常識破りな彼女は、持ち前の明るさで王侯貴族の子息らを虜にしていく。
なんともまあ、平凡なストーリーだと思うだろうが。
ファンの多い耽美派の絵師による美麗な立ち絵、豪華な声優陣、堅実なゲームづくり、そして大々的な広告。
流石の大手によるプロデュースで、このゲームはそこそこの人気を集めていた。
私もファンの一人だった。
激務、人間関係、孤独、ありふれた悲劇の中でかつて私の日々に色付けてくれたのは紛れもなくそのゲームだった。
たまたま、流行り好きの部下が口にしていて。たまたま広告を目にして。本当にたまたま。ネットショッピングで、いつも通り必需品をポチるときに横にいたから。
ほんのちょっと気まぐれに暇つぶしをと思って。まぁ本当はつぶす暇などなかったけれど。無闇に落ち込んだ気持ちで眠れずにいた夜に。
……。
『……貴女はもっと自分を大切にした方が良い』
あのとき、視界が青く染まった。
……思い出しながら眼尻に染み出てきた涙を拭った。
◇
貴族学院の入学式から数週間。
柔らかそうな白肌。たおやかに煌めく新緑の瞳。
中庭で涼んでいた私は、彼女とばったり会ってしまった。
「こんにちはっ!私は一年のマリー・アプリコットです。あっ、そのリボンタイの色、あなたも同じ一年ですよね?」
生き生きとした笑顔にまくし立てられ、少し気おされてしまう。
哀れな子。
本来は位の高い方から声をかけられるまで待つべきだ。それとも男爵はその程度も教えずにここに送り込んできたというのか。
こんな無礼をしてしまうようでは貴族社会では生き残れないだろう。
たしなめるために口を開きかけて、私は固まった。この景色、覚えがある。
風にそよぐ中庭。ああ、目の前の彼女からこちらを見ればちょうど私の記憶にある景色と重なるだろうか。
“パシンッ
『いっ』
『無礼な方ね』”
序盤の洗礼。このイベントを皮切りにプレイヤーは幾度も嫌がらせを受けることになる。
「ここ、良いところですよねっ。私も一目で気に入ってしまって。あ、今度ここで一緒にお昼しませんか?」
薄紅に色づいた唇が人の良い笑顔を作り、新緑の目が悪戯っぽくこちらに流される。
なるほど。確かに魅力的だ。
私の反応がないことを不思議に思ったのだろうか。彼女は小首を傾げ、私の目の前でひらひらと手を振った。
「あれっ、大丈夫ですか?もしもーし。ふええ、立ちくらみとかですか?」
顔を覗き込まれる。ミルクティー色の絹糸がカーテンとなり。
彼女の温かい息が私の顔にかかった時、私は金縛りが解けたように慌てて仰け反った。
「だ、大丈夫ですわ」
私のものに重ねられた、まだささくれのある手をそっと取ってどかす。
「私、用事を思い出しましたの。失礼しますわ」
「ええっ、でも」
彼女が私と気軽に話していたら、それを気に入らない輩が出てくるだろう。望んだ訳では無いが、なにせリュシエンヌは公爵令嬢なのだ。
上流貴族と下流貴族ではクラス分けも違うので、常に横で守ってやれるわけじゃない。
私は自分の無力さをよく知っていた。
「ごきげんよう」
「まって」
「……図書室に行けば初歩的な礼法の本もおいてありますわ」
席を立ってそのまま去る。彼女を打たなかった、これで結末は変わるだろうか。
私は背中に刺さる物言いたげな新緑の眼差しを感じていた。
◇
「ヴァルフォワ様。ときにあの子、最近少し調子に乗っていませんこと?」
くるくると豪奢に巻かれた金髪を結い上げたこの令嬢はさる伯爵家のもので、私の学友だ。
「あら、そうなの?」
「ええ、王太子殿下に、宰相家の次男様に、騎士科の方に、さらに……随分と殿方を侍らせているそうですわ」
栗色の瞳を鋭く輝かせて別の侯爵令嬢が囁く。
「まぁ、王太子殿下まで!?ご自身の爵位がわかっていらっしゃらないのかしら」
「本当にね。それもどうやら出身は……」
結局、私がいじめの先陣を切らずともヒロインは悪い意味で目立っていた。
「殿下達が面白がって声をかけてしまったら、彼女では断れないでしょう」
「そうですかしら。あの方は、見目のいい殿方を選んで声をかけていると噂ですわよ」
先日の温かい笑顔が脳裏に浮かぶ。
少なくとも私は殿方なんかではなかったけれど、あの子は声をかけてきた。
「あらまあ、怖いこと」
彼女らの目線の先をたどれば、新緑の乙女が何人かに囲まれて笑いながら歩いていた。
彼女が一瞬つまづきかけると、すぐ横の男が抱きとめる。
「面白くないですわね」
巻き毛の令嬢が、こちらを上目遣いで見上げた。
「ねえ、ヴァルフォワ様。ちょっとあの子に身分というものを教えてあげませんこと?」
「まあ、良い案ですわね。どうですか、ヴァルフォワ様」
私は少し考えて、頭を振った。
「そうするほどのことでもないわ」
ほうっとため息が空間を抜けていく。
彼女らは残念そうに眉をひそめて、しかしそれ以上は言いつのらなかった。




