アウゾテ ― 水底に棲む手
水が深くなりすぎた場所では、
もはや空は映らない。
月明かりさえ沈み、
水面はただの黒い膜となる。
そうした湖や川には、人が決して踏み入れてはならない領域がある。
古代メシーカの人々は、その境界を知っていた。
そして、その奥に棲むものの名を――アウゾテと呼んだ。
その名は、警告であり、呪いでもあった。
アウゾテの姿を正確に見た者は、ほとんどいない。
見たとしても、語る前に水へ還ってしまうからだ。
黒く濡れた獣のような体。
犬に似た輪郭。
だが、その毛皮は常に水を含み、腐臭を帯びているという。
耳は鋭く立ち、闇の中で微かに動くたび、水音がする。
目は黒曜石のように光り、
それを見た者は、自分が見られていることを理解する。
逃げ場はない。
しかし、アウゾテの恐怖はその姿では終わらない。
その尾――
長く、異様にしなやかな尾の先には、
人間の手が生えている。
皮膚は水にふやけ、白く変色し、
骨の形がはっきりと浮き出ている。
指は異様に長く、爪は湾曲し、
一度掴めば離さない。
それは、捕食のための道具ではない。
連れ去るための手だ。
アウゾテは襲わない。
走り回ることも、叫ぶこともない。
――誘う。
夜、風が止み、
水辺の音がすべて消えた時、
声が聞こえる。
小さな子どもの泣き声。
水に沈みながら助けを求める、かすれた声。
あまりにも自然で、
あまりにも人間らしい。
それが罠だと分かっていても、
足は勝手に水辺へ向かう。
覗き込んだ瞬間、
水中から伸びた手が喉を掴む。
叫ぶ暇はない。
水が口に流れ込み、
冷たさが肺を刺し、
視界が黒に染まる。
だが、すぐには死なない。
アウゾテは獲物をすぐに殺さない。
水底へ引きずり込み、
抵抗が消えるまで待つ。
水の中で、
あの黒い目がじっとこちらを見ている。
数日後、遺体は発見される。
川下。
湖の浅瀬。
水草に絡まったまま。
顔は穏やかで、
溺れた苦しみは残っていない。
だが、必ず欠けている。
眼球。
歯。
爪。
それらは切り取られたのではない。
持ち去られたのだ。
長老たちは知っていた。
それは供物だと。
アウゾテは飢えていない。
食らうために殺しているのではない。
それは水の神に仕える存在。
川と湖の奥深くで、
人間の傲慢を罰する者。
水を汚し、
敬意を忘れ、
自分が支配者だと思い込んだ者を、
静かに水底へ連れていく。
だから、遺体には争った跡がない。
抵抗は無意味だと、
魂が理解してしまうからだ。
今でも、
水が異様に黒く、
音を吸い込むような場所では、
泣き声が聞こえるという。
近づいてはいけない。
助けを求める声は、
すでに人のものではない。
アウゾテは、今もそこにいる。
水の底で、
その手を伸ばしながら。
次に、
「助けられる」と信じてしまう者を待っている。




