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5.藍と月

 スイッチを入れると天井に月が灯った。満月を象った照明は、さして高くない空に佇んでいる。

 バー・tsukuyomiは、本日もそろそろ開店である。


「今日は雨だし、ヒマになるかな」


 経営側としてはあまり嬉しくない予測であるが、藍の顔には焦りも落胆も見当たらない。淡々と呟いて、開店準備の仕上げにカウンターの上を拭きあげた。


 tsukuyomiはお世辞にも広いとは言い難い店である。L字カウンターの長辺に四席、短辺に一席。四人がけのテーブル席が一卓、というとても小規模な店だ。ビルの設備の都合上、火を取り扱った調理に制限があるため、食事メニューも限られていた。出せるのはつまみになるナッツやレーズン、チーズにクラッカー、あとはドリンクにも使う果物程度。それでも定期的に訪れてくれる酔狂な客がいて、危うげながら成り立っている。


 マスター【代理】である藍は、本来のマスターである父の代わりに店を開けていた。


「紫苑と燈李の卒業式には、帰ってくると思うけど」


 少し年の離れた弟妹が高校卒業かと思うと、感慨深い。家を出ていく訳では無いけれど、大きくなったなぁ、なんてしみじみと思ってしまうのである。

 そんなとき、音もなくドアが開き、隙間から一人の男性が店内を覗き込んだ。


「どうもー。もう開いてる?」

「いらっしゃいませ、ちょうど開店したところです。一番乗りですね、あきらさん」


 金髪を後ろで一本結びにした、中年の男性だった。ジャケットの下に派手目な柄のシャツを着てはいるものの、下品に見えないよう全身が整えられていて、程よい遊び人感を窺わせる。アクセサリーなのか実用なのか、シャツの胸元には華奢なサングラスが引っ掛けられている。


「いやぁ、早く藍に言いたいことがあってさぁ」

「そういえば随分久しぶりですね」

「いっそがしいのよー! まともに飯食う暇もない」

「それはお疲れ様です。そんな時にいいんですか、こんなとこ来て?」

「こんなとこってお前ね。自分の店だろ?」

「父の店ですよ」

「まぁ、そりゃ知ってるけどさ。ほとんど藍がマスターだよ。あいつが店に立ってるの最後に見たの、いつだよって」

「はは、確かに」


 困ったように笑いながら、藍は水の入ったグラスを差し出した。「お、サンキュ」とグラスを受け取り、明は喉を鳴らして一気に飲み干す。よく冷えたビールでも飲んだようにプッハー! と息をつき、空いたグラスをカウンターに置いた。


「忙しいのにわざわざ会いに来た理由。わかってくれよー」

「はいはい、わかりましたよ。明日にでも明さんのとこに行きますね。お店でいいですか? それとも家?」

「さっすが藍、話が早い。じゃあ店に来てくれな。紫苑ちゃん連れてきてくれてもいいぞ」

「それは却下です」


 藍はにっこりと口角を上げた。店に立つときだけ前髪を軽く上げるものだから、楽しげに細められた瞳がよく見える。

 明もその返答を予測していたのであろう。特に食い下がることもなく、代わりに肩をすくめてみせた。


「やれやれ。お前といい燈李といい、鉄壁だな」

「ちょっと過保護な自覚はあります」

「まぁいいや。じゃあ悪いけど明日頼むな」

「えぇ」


 二人の会話が一段落したとき、氷のぶつかるような澄んだドアベルの音が響いた。「いらっしゃいませ」とそちらを向くと、何度か来店した覚えのあるカップルが一組、ドアを開けて入ってくる。男性の方がピースサインのように二本指を立てた。


「二人なんですけど」

「お好きな席にどうぞ」

「ここの一番乗りって初めてじゃない?」

「そうだね。雨降りそうだから今日は空いてるのかも」


 そう言いながら無邪気そうにL字の短辺を陣取った女性と、角を挟んで長辺の端に座る男性。つい先程まで水を飲んでいたはずの明の姿は、店内のどこからも煙のように消えていた。




 店の戸締りを終えビルの外に出ると、濡れた路面に朝の光が散らばっていた。ほんの少し前まで夜だった世界が急激に反転する。


「……さて」


 大通りには、スーツで武装した人々が増え始める頃合だ。ちらりと時計を確認すると、藍は迷うことなく細い通りを選んで進んだ。途中、同じように仕事帰りの同業者とすれ違う。いくらかの眠気を抱えながら、朝日に照らされて歩くこの時間が、藍は気に入っていた。


 コンビニで眠気覚ましのコーヒーを買い、レンガ敷きの歩道を十五分ほど歩く。いつでも閉店セール中の家具屋、若者が吸い込まれていく予備校、ランチが人気のカフェ。双子お気に入りの和菓子店もこのあたりだ。月替わりの上生菓子は見た目も美しく、普段甘味をさほど食べない藍でさえつい手に取ってしまう。帰りに買って帰ろう。そんなことを思いながら、まだ目覚めきっていない街を通り抜け、藍は一軒の美容院の前で立ち止まった。


「さすがに早すぎたかな」


 入口の扉の向こうにはクリーム色のロールカーテンが下ろされていて、中の様子はよく見えない。しかしカーテンの奥から、かすかに藍を呼ぶ声が聞こえる。


「鍵は開いてるぞー」


 促されるままにドアノブに手をかけると、なんの抵抗もなくドアが開いた。ロールカーテンの隙間から体を滑り込ませると、つい昨夜会ったそのままの姿……よりは多少疲労の滲んだ顔の明がいた。


「どうしたんだ、藍。仕事帰りに寄ってくれるなんて、珍しいな?」

「明さんに呼ばれたんですよ」

「……ひょっとして、オレ行った?」

「えぇ。開店一番乗りで」

「マジかー……すまん」

「いえいえ。僕で力になれることだといいんですけど」


 そう言うと、藍は店内の一点をじっと見つめた。三つある席の一番奥、明の立つすぐ横だ。きっと問題は『あれ』だろう。


 椅子の正面に据え付けられた大きな鏡。その鏡の中に、一人の女性が座っていた。椅子に腰掛ける客の姿は無い。

 年若く、高校生くらいだろうか。弟妹と歳の近そうな彼女の表情は暗く、顔や腕のあちこちに青アザが浮かんでいる。


「その人は?」

「それが……わからんのだ。ある日急に現れた」

「スタッフやお客さんにも見えるんですか?」

「人によるな。あ、燈李には見えてなかった」

「でしょうね。燈李は陽寄りだから」

「はじめはもっとこう……普通だったんだ。普通の女の子っていうか。それが日に日にケガが増えて、元気なくなってきて……」


 こちらの会話が聞こえているのかいないのか、鏡の中の少女に反応は無い。


「営業に差し支えるってのもそうなんだがなぁ……。女の子がこんな状態でいるのも見てられなくてな。成仏? みたいなことしてやれんもんかって、思ってたわけよ」

「僕はお坊さんじゃないですよ」

「わかってる、すまん。考えてただけで言いに行くつもりは……ないと思ってたんだ」


 文字どおり拝み倒す勢いの明に、藍は「冗談です」と声をかけた。父の友人である明には、幼い頃から世話になっている。親しさゆえの軽口であることは、明もわかっているだろう。だが、見た目に反して意外と真面目なのが彼なのである。


「ただ……困りましたね。追い払うくらいなら出来そうなんですけど」

「けど?」


 鏡の中の鬱々とした少女を横目に、しばし考え込む。言うべきか、言わざるべきか。


『女の子がこんな状態でいるのも見てられなくてな』


 先程の明の言葉が正解である気がして、藍は小さく息をついた。


「追い払ったら、たぶんこの子死んじゃいます。生きてますよ、まだ」

「なんだって?」


 素っ頓狂な明の声にも、少女はピクリとも反応しなかった。




「生霊……か?」

「そうみたいです。明さんとお揃いですね」

「……こんな体質のやつが他にもいんのかよ」

「体質とは限らないですよ。たまたま、何かきっかけがあっただけかもしれません」

「うちのお客さんで見た事ないんだが、なんでうちに出るんだよ」

「うーん……それはちょっと」


 店舗奥のスタッフ用休憩室で頭を抱える明に、コーヒーを手渡した。備品を勝手に拝借したが、問題ないだろう。ついでに自分用にも一杯いれて、ソファに腰掛ける。


 本来ならそろそろスタッフが出勤する時間であるが、今日はもともと休みの予定だったらしい。今回の件を片付けるには、今日一日の猶予があるようだ。


「心当たり、全くないんですか? 彼女が現れるようになった頃に何かあったとか」

「現れた頃……そうか、待てよ?」


 バタバタと店に戻り、明は一台のノートパソコンを持ってきた。顧客管理用と思われるそれをいくらか操作して、ある日の予約リストを画面に表示する。


「もしかして、この子だろうか。初めてのお客だったんだが、予約の時間になっても来なくてな。良くあることっちゃそうなんだが……。年もそれくらいっぽいし、その日の夜から出始めたんだ」

「この生霊が仮にその子……宮地さんだとして、宮地さんの様子が日に日に元気がなくなってきたなら、本体に何かが起きてる、というのが妥当だと思います」

「何か?」

「顔にアザができたってことは、殴られた、もしくは現在進行形で暴力を振るわれている、とか」

「なんだって!?」

「絶対とは言いきれないですけどね。本人に話が聞ければ一番いいんですけど」


 藍と明は顔を見合わせ、同時に店内へと視線を向ける。先程試してみたが、鏡の中の少女は、呼びかけてもノックしても、目の前で手を振って見せても全くの無反応だった。ただじっと座って軽く俯いているのだ。会話は出来そうにもない。


 じわりと焦りがにじり寄ってくるものの、これといった妙案も浮かばないまま無言が続く。そんな時、店から物音がした。ロールカーテンが降りたままのドアを開け、中に入り込んでくる音だ。二人が軽く身構えると、休憩室のドアを開けて入ってきたのは、美少女のような美少年だった。


「あれ? 兄貴?」

「なんだ、燈李か。おはよう」

「はよ。明さんとこに寄るんなら言っといてくれれば朝飯持ってきたのに。明さん、おはよーございます」

「おお、おはよう。今日は学校どうした?」

「もう授業ほとんどないんで、練習見てもらおうと思って」

「そりゃ構わないが……」


 明の視線が忙しなく、藍と燈李を往復する。怪訝そうに首を傾げた燈李だったが、すぐに理由に思い至ったようだ。


「あー……鏡の幽霊?」

「うん、燈李も手伝ってくれないかな」

「別にいいけど、オレには見えねんだよな」

「わかってる。でも燈李がいるなら宮地さんとも話せそうだよ」

「いや、誰だよミヤジサン」

「(仮)だけどね」


 肩をすくめる燈李ににっこり笑う藍。間に挟まれた明は頬を掻きつつ苦笑を浮かべるしか出来なかった。



 鏡の少女に向かい合うように、燈李が腰を下ろす。椅子に座っているのは燈李であるのに、鏡に映るのは別人――宮地さん(仮)だ。


「ちょっとそのまま座っててね」

「はいよ」

「オレは何かすることあるか?」

「明さんは……特にないかな」

「了解。大人しく見てるわ」


 小さくホールドアップして、明が一歩下がる。藍は座った燈李の隣に立ち、じっと鏡の中の少女を見つめた。時折もぞもぞと座り直して「だりぃ……」と呟く燈李の頭を、ぽんぽんと撫でる。


「お、おい……ちょっとこっち見てないか?」


 やがて明の言うとおり、少女が少しずつ顔を上げていく。まだ心ここにあらず、といった様子ではあるものの、確かに変化が起きていた。


「あ? ミヤジサンって、宮地明穂?」


 燈李が気怠げに言った瞬間、少女の瞳に光が宿った。正面に座る燈李をまじまじと見つめ、目をまん丸くさせている。


「知り合い?」

「クラスメイト」

「そりゃまた……世間は狭い……。確かに予約の名前は宮地明穂さんだ」

「あ、もう見えねぇわ。……兄貴まだ? 結構だるい」


 もはや椅子からずり落ちそうな燈李を抱えて、藍はこくりと頷いた。


「そうだね、そろそろ話せそう」

「んじゃ、よろしく」


 ふらふらと椅子を離れる燈李を明が支え、空いた椅子に藍が腰掛けた。


「こんにちは、宮地さん。弟がお世話になってます」

「別になってねぇ」


 ぐったりと床に座り込んだ燈李を、「まぁまぁ」と明がなだめた。そんな様子も、目の前の自分も、鏡の少女――宮地さん(確定)は確実に見ている。しっかりと視線が合う今なら、話が出来るはずだ。長時間は無理だとしても。


「君は今、どこにいるの?」


 深い藍色の瞳と、少女の戸惑いを浮かべた瞳が、正面から絡み合った――。




 その日の夜、開店時間が遅れる旨のメモを店のドアに貼り付け、ビルの屋上に上がる。空にコロンと転がったレモン型の月を見上げて、藍は今朝の会話を思い出した。

 倦怠感が拭いきれないらしくソファに横になったまま、ぽつぽつと燈李が話し始める。


「宮地はさ、めっちゃ頭いいんだよ」

「へぇ?」

「推薦で進学も決まっててさ。だから学校来ねんだな、と思ってたんだけど」

「違ったみたいだね」

「仲良いのか?」

「いや、普通。話せば話すけど、特別仲良いってことは……ねぇと思う。ただまぁ、ここでバイトしてるのは言ったことあるかも」

「それで予約してくれたのかもなぁ」

「母親の恋人がどうしようもないらしいって、噂されてたんだ。DV野郎だって。宮地は否定してたけど」

「DV……」

「……髪が、キレイだなって思ってた。つーか言った」

「ほほぅ。口説いたのか?」

「ちげーし。たまたま目について」

「そっか」

「宮地……生きてんだよな?」

「今はね」

「卒業前にクラスメイトの葬式には……出たくねぇ、な」

「わかってるよ。お兄ちゃんに任せなさい」

「……うん」


 そのまま眠りに落ちた弟を明に任せ、店を出た。明穂の姿は既に鏡の中にはなかった。いくらか話を聞いた後、涙を残して消えてしまったのだ。

 体に戻った彼女が、藍との会話を覚えていることは無いはずだ。ただ一つのことを除いて。


「うん……見つけた」


 月の先の虚空に目的地をイメージすると、藍の身体がすうっと闇に溶け込むように消える。

 次の瞬間、藍は見知らぬ部屋の窓際に立っていた。


 突如現れた黒ずくめの男に気付いたのは、月を見上げていた少女だけだった。馬乗りになって少女を――明穂を殴りつける男は、まだ藍に気付かない。


「こんばんは、宮地さん。約束どおり月を見上げてくれてありがとう」

「っ!?」


 声にびくりと反応して振り返った男の瞳に写ったのは、夜空を溶かし込んだような深い藍色だった。

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