29.空の戦い3
昇り始めた朝日が、眩しく地上を照らしていた。朝露が散りばめられた宝石のように輝いて、その場にいる者達を平等に飾っていく。藍は僅かに目を細めると、新へと近づいていった。
「お兄ちゃん、ダメ!」
「兄貴、やめろ」
紫苑と燈李が同時に、藍を止めようと服の裾を掴んだ。どうやら双子にも、藍の目的は知られてしまっているらしい。
「……ごめんね」
振り返り安心させるように微笑むと、藍は二人の頭を順に撫でる。すっかり大人になったけれど、藍にとっては幼い時と変わらない妹と弟だ。つい頭を撫でてしまう癖は直せなかったな、と心の中で苦笑した。
「行ってきます」
感傷を置き去るように、別れの言葉を口にする。それなのに、無意識に選んだ一言は日常に帰ることを望むもので。
小さくかぶりを振って踵を返すと、藍はまっすぐに新を見据えた。
「藍……そんなにボクが嫌い?」
「どうかな。君が嫌いというよりは、家族が大事なだけだと思うけど」
「また家族か。家族家族家族。キミたちはみんなそれだ」
「父さんの体は返してもらうよ。代わりに僕の中に入ってもらう」
そう言って、藍は新に手をのばした。胸のあたりに触れ、掌に意識を集中する。どうあっても逃がすつもりはなかったけれど、新が全くの無抵抗なことが気になった。
「抵抗しないのかい?」
「だって無駄だもの。キミは随分ボクの同種を吸収したらしい」
「そうだね。全ては、今この時のために」
「…………」
藍と新の視線が至近距離で交錯する。
新がふっと微笑み、天を仰ぐ。
「今日はいい天気になりそうだね」
「そうだね。いい空だ」
新は糸が切れたように、藍に向かって倒れ込んだ。抜け殻のようになった透の体を支えた藍も、ゆっくりと膝をつく。
「兄貴!」
「燈李……父さんを……」
最後まで言うことなく、藍の瞼が閉じられていく。
駆け寄ってくる燈李と紫苑の姿を、目に焼き付けた。倒れこもうとする体を燈李が支えてくれたのがわかる。
ありがとう、と伝えたいのに。
はく、と開いた口からは、息が少し漏れただけだった。
「お兄ちゃん! いやぁ!!」
紫苑の悲鳴を遠くに聞きながら、藍の意識は深い闇に落ちていった。
藍が目を開けると、そこは自宅の自分の部屋だった。
自室の中央で一人立ち尽くしていたのだが、部屋の様子は大小様々におかしな点だらけだった。
「……あぁこれは、僕の意識の中、かな」
幼稚園児くらいの小さな妹と弟たちが、「お兄ちゃん、遊ぼ?」と現れては消えていくし、部屋の中に月が浮かんでいる。呪いの人形のようなものが窓からこちらを覗いているし、ベッドの上には虎程の大きさの猫――よく見ると八雲が、大の字になって眠っている。
「なんていうか、雑然としてるなぁ」
「キミの中なのに、随分と他人事みたいに言うんだね」
「そうだね。僕はもう自分がどんな人間だったか、よく覚えていないんだよ」
「だから忠告したじゃないか。キミのしようとしていることは、キミ自身を殺すって」
「…………」
どこからともなく現れた新に驚くことも無く、藍は静かに微笑んだ。駄々をこねる弟に対するような、どこか優しげな笑みだった。
「その姿は久しぶりに見たけど……大きくなってるね。紫苑や燈李と同い年位に見えるよ」
「そりゃあボクだって成長したからね。だから透も陽子も僕を抑えられなくなったんじゃないか」
「父さんと母さんは……」
言いかけて止めた藍を、新は訝しげに見たけれど、やがて肩を竦め嘆息した。
「揺籃がボクを受け入れなくなったんだ。自我を持ったボクはもう異物なんだろうね」
自嘲気味に笑う新は、藍の前を通り過ぎ、窓の方へ向かう。窓を守る番人のように立つ人形は、数ヶ月前陽子が持ってきたお土産の人形とそっくりだった。
「これは陽子。あっちが透、かな」
新が見上げた先に浮かぶ月は、しっとりと輝きを放つ満月だ。
「ホントにキミの中は家族だらけだ。ボクは全てから切り離されて、家族どころか自分さえも失うっていうのに」
窓枠にもたれるように立ち、新は藍を見て笑った。
「誰よりも人の願いを叶えたから、ボクは自我を持ったのに。ボクの願いだけが――叶わないんだ」
満足したように微笑む新の目から、透明な雫が流れ落ちた。夜空を落ちる流星のように、月光を受けて光の筋を描く。
「新……僕は、……」
藍が口を開こうとすると、言葉を遮るように周囲が暗転した。
ちょっとおかしな自室から、何も無い真っ暗な空間へと、一瞬で切り替わる。
二人が何も無いその空間を見回していると、ひらりと一匹の蝶が現れた。ひらひらと舞い飛ぶ蝶の飛んできた方に目を向ける。視線の先、暗闇の中でぼんやりと浮かび上がったのは、それ自体が光を放っているかのような、満開の桜の大木だった。
悲しげに佇む桜から散った花びら達が、虹色に輝く蝶に変わっていく。
気がつくと藍と新は、舞い散る花びらと虹色の蝶にすっかり囲まれていた。
「これは……前に来た……」
「ここは……終焉? ボクはここに来られないはずなのに……」
引き寄せられるように二人が桜に近づくと、桜のさらに向こうに濃密な闇が渦巻いていた。藍はそれに見覚えがあった。
「死へ向かう道、かな」
闇の渦に、虹色の蝶たちがひらりひらりと飛び込んでいく。きっとここは、魂が最後行き着く場所。あの闇の向こうが完全な死なのだろう。
封印という形ではなかったけれど、新と共にあの闇へ進めば藍の目的は達することが出来るようだった。
それならば、と新を見ると、桜に魅入られたように新はポカンと口を開け、立ち尽くしていた。
「それなら……ボクは、人間に…………?」
「……新?」
「揺籃から切り離されたから? ボクは……実として死ねる、の?」
新のつぶやきを聞いて、藍はようやく全てを理解した。
「そうか……父さん達も諦めなかったのか。……あの二人がそんな簡単に諦めるわけない、よね」
にっこり笑ってピースサインする両親を想像すると、笑みが浮かぶ。透と陽子は、新も放ってはおけないと言っていなかっただろうか。これがその答えであるならば。
桜の向こうの闇は相変わらず濃密で、どこか惹き付けられるし、今すぐ飛び込まなければいけないような錯覚に襲われるけれど。
藍は桜に近づいて幹に手をついた。満開の花を散らす桜は、想像もできない程長い間、数え切れないほどの魂を、送り出してきたのだろう。桜自身が望む望まないに関わらず。
「ありがとう、もう大丈夫。君の願いは僕が引き受けるよ」
藍の言葉に応えが返ってくることはなかったけれど、幹に触れた掌が温かくなったような気がした。
***
「藍兄が……」
昼過ぎ頃、面会にきた燈李から話を聞いた蒼汰は、がっくりと肩を落とした。止めてくれと伝えたものの、藍の決意が固いこともわかっていたから、落胆半分、納得半分、といったところだったけれど。
「兄貴も親父も、今んとこ体に問題はないらしい。ただ、今の昏睡状態がずっと続くようならどうなるか、ってとこだ」
「姉ちゃんは?」
「兄貴のそばから離れたくねぇってさ。とりあえず兄貴の隣でいいから寝ろっつって来たけど、寝てねぇだろうな」
「そっか……」
蒼汰はまだICUにいたけれど、昨夜生死の境を彷徨ったとは思えない回復ぶりだった。医者も目を瞠る程で、この調子であれば数日で一般病棟に移れるかもしれない、とまで言われている。
「……守ってやれなくて、悪かったな」
「へ? なに、急に。どしたの?」
「オレが母さんとこ行けって言わなきゃ、お前がそんな目に合うことも無かったかもしれないのに」
「いやいやいやいや、燈李兄が謝ることじゃなくない? 確かにあいつ急に出てきて、しかも父さんの姿で、なんか影連れてって驚いたけどさ。……どこにいたとしても、あいつはオレを狙って来たんじゃないかな」
「まぁ、そうだろな。いいんだよ、オレが謝りたかったんだから、黙って受け入れとけ」
「燈李兄……、わかった。じゃあ大人しく謝られとく」
「おう」
そこでふと会話が途切れた時、燈李が大きく欠伸をした。涙の浮いた目を擦ったのを見て、燈李も寝ていないのだと気付いた。
「オレのことは大丈夫だからさ、燈李兄も帰って寝たら?」
「あ? あぁ……そうだな。そうするか」
「そうそう。それにさ、オレ藍兄と約束したことがあるんだよ」
「兄貴と約束?」
「そう。今練習中だから、ちょっと待ってて。絶対できるようになる」
「練習中って、なんの事だよ?」
「それはまだ秘密! あ、ほら燈李兄、そろそろ時間みたい」
看護師が面会時間の終了を告げ、燈李は退室することになった。「明日また来る」と言い残して、渋々帰っていく。
「普通の病室行けるくらい回復すれば、いけるはず!」
「空野さん、安静にしてないと傷が開きます」
「はーい!」
藍との約束を守るためには、蒼汰自身が一刻も早く回復する必要があった。ここで無理をするのは違う。
「待ってて、藍兄。オレ、必ず約束を守るからね」
いつでも笑顔で。自分の願いを忘れずに。
刺された時の衝撃を忘れることは無いだろうし、今だって痛み止めがほとんど効いてる気がしないけれど。
蒼汰は、絶対に前を向くと決めていたのだった。




