28.空の戦い2
体に燻る怠さと眠気を払うため熱めのシャワーを浴びた紫苑は、身支度を整えるとリビングに向かった。護衛のように足元を歩く八雲を抱き上げ、リビングに入る。
ソファに体を横たえていた新は、紫苑に気付くと嬉しそうに起き上がった。
「おはよう紫苑、髪結ったんだね」
「そうね」
「似合うよ。そうしてるとちょっと幼いね。昔と変わらないなぁ」
「……そう」
目を細める新の様子とセリフがまるで透と話しているようで、紫苑の胸がざわついた。腕の中の八雲がぴくりと紫苑を見上げる。
会話があっさりと途切れたリビングが静寂に包まれ、紫苑はふと気が付いた。
まだ日は昇り始めたばかりで早朝と言っていい時間とはいえ、あまりにも静かだった。人の気配どころか、鳥の囀りすら聞こえない。窓の外に視線を向けると、昨晩ずっと紫苑を苦しめた黒い霧が薄く家の外を覆っているのが視えた。
『結界も張ったし、これなら藍でも入ってこられない』
新が眠る前、そう言っていた気がする。
藍が入ってこられないというのなら、今の紫苑には都合がよかった。藍に助けを求めるわけにはいかないと、決意したばかりなのだから。
紫苑はくるりと向きを変えると、キッチンに向かった。ダイニングテーブルに八雲をおろし、食パンを一枚トースターに放り込む。ケトルに水を入れお湯を沸かし、ドリップパックのコーヒーを自分のマグカップにセットした。
淡々と朝食の支度をする。トーストとコーヒーだけの簡単なものだけれど、日常と同じ行動をしながら、紫苑は冷静にこの後のことを考えた。リビングの新が興味深げにこちらに向ける視線は、黙殺する。
「朝ごはん食べるの? ボクの分も作ってよ」
「自分で作ったら」
「えー。紫苑冷たいなぁ」
今考えてみれば、紫苑と燈李の卒業前に帰ってきた透は、既に新だったのかもしれない。
あの時はそんなことを思いもしなかったのに。
きっとずっと、戦っていたのだ。透も陽子も、そして藍も。
ケトルのお湯が沸くように、紫苑の胸にふつふつとこみ上げたのは怒りだろう。新と、何も気づかなかった自分に対しての。
「絶対……止める」
小さく呟いた声は、焼き上がりを告げたトースターの音で、新に届くことはなかった。
食事を終えた紫苑がリビングに戻ると、新はテレビを眺めていた。画面はついているのに音が出ておらず、不思議そうに首を傾げている。
足元に駆け寄ってきた八雲を再び抱き上げ、紫苑は新に問いかけた。
「ねぇ、新。私が新と一緒にいれば、お兄ちゃんにも燈李にも蒼汰にも、母さんにも父さんにも、他の誰にも何もしないのよね?」
「もちろんだよ、紫苑。それがキミの願いだからね」
にっこりと、慈愛さえ感じる微笑みを浮かべた新が頷く。どこまで本当のことを言っているのだろう。新の微笑みからは何もわからなかった。本当かもしれないし、全て嘘かもしれない。新の目的がどこにあるのかは結局考えてもわからなかったけれど、何にしろ紫苑の魂の容量を増やそうとしていることだけは、確かだった。
「なら……私に吸収されて? 新はきっと私の体が欲しいんでしょう。私が吸収するのでも、新が入ってくるのでも、結果は一緒だと思うのだけど」
紫苑の提案は意外だったらしい。新は浮かべていた微笑みを消し、目を瞠った。
「それは……ダメだ」
「どうして? 私の願いを叶えてくれるんじゃなかったの?」
「それはキミの願いじゃないだろう? 紫苑はそんなことを望んでいない」
「望んでる」
「望んでない。ボクには本当の願いがわかるんだ」
「じゃあ、私の願いって何?」
「…………家族を守ることだろう? キミたちは、みんなそうだ」
「それなら」
「ダメだ。まだキミの器が整っていないから」
「整うって……霊をたくさん吸収させて、容量を増やそうとしてることよね? 何のために?」
紫苑が問い詰めると、新は苛立ったように顔を歪めた。
リビングの気温が一段下がる。黒い霧が室内に立ち込め、三体の死霊が霧から滲み出した。
「……そんなに言うなら、こっちを急ごうか。昨夜の続きだ」
新の目がドロリと闇色に染まる。現れた三体の死霊がひたりと紫苑へと近付いてきた。
「大丈夫。落ち着いて」
口の中で呟いで自分に言い聞かせると、紫苑は死霊から僅かに距離をとった。しかし死霊は構わず距離を詰める。
ジリジリと後退して紫苑が窓際まで追い詰められた時、腕の中の八雲が低く唸り始めた。鼻先に皺を寄せ牙を剥き、近付いてくる死霊を睨みつけている。
「そいつ……昨日と」
八雲を見た新が口を開いたのを契機に、八雲がキシャー! と威嚇の音を鳴らした。
「すごい……」
紫苑に迫っていた三体の死霊がすべて、さらさらと崩れ消えていく。黒い霧の痕跡も残さず消えて、リビングは再び紫苑と八雲、新だけになった。
「その生き物、なんでそんなに陽が強いのさ。昨夜はそんなんじゃなかったのに」
忌々しげに新が伸ばした手を、八雲の爪が襲う。バチンと派手な音がして、新が顔を歪めた。八雲に叩かれた新の手からは、黒い霧がさらさらと零れていた。
新がダメージを受けた。
その事実を認識すると同時に、紫苑が前に出る。
新の腕に手を伸ばしその手首に指先が触れた瞬間、紫苑は力を解放した。
「くっ……紫苑、やめろ!」
「止めない! あんたは私が止める!」
「今のキミじゃ……」
触れたところから新の陰を吸収する。極細針の注射器で採血するようにゆっくりと、新の陰が紫苑に流れ込んでくる。
同時に、死霊から陰を吸収するのとは違う感覚が紫苑を襲った。
「なに、これ……?」
「今のキミの器じゃボクを受けきれない。そのまま続ければキミの魂が消滅する。やめるんだ」
「そんな嘘」
「嘘じゃない。ボクは虚だから、キミ達の魂を削るんだ」
「…………それでも止められない」
紫苑は気付いた。気付いてしまった。藍のしようとしていることに。
藍はきっと、新を吸収しようとしているのだろう。
家族を守るために。
自身の魂を削って。
そのために、きっと何年も準備をしてきたのだ。
そして新は、それを知っている。
「だって私がやらなきゃ、お兄ちゃんがこれをするんでしょう? そんなの嫌」
「本当にキミ達は……なんで揃いも揃って!」
新が力任せに腕を振った。体格差は大きい。紫苑の掴んでいた手が離れ、新が数歩後退する。
振り払われた勢いと魂の削れた怖気で、紫苑はがくりと膝をついた。辛うじて抱えた八雲を落とすことはなかったけれど、陰を急激に吸収した時と同じような頭痛や目眩が襲ってくる。
「……? 私……?」
頭に霞がかかったように、自分の思考がわからなくなった。今自分が何をしているのか、一瞬の記憶喪失のように、目の前の新を吸収しようとしたことすら、すぐに思い出せない。
霞を払うようにかぶりを振って、紫苑は新を見た。もう少し吸収していたら、自分が自分じゃなくなったのだろう。魂の消滅とはきっと、肉体の死とは違うものだ。
そのまま、紫苑と新は無言で対峙する。
その時、紫苑の背後、リビングの大きな窓から朝日が差し込んだ。
「紫苑!」
「燈李っ!?」
窓の外を覆っていた黒い霧の結界の大部分が消え去っていた。残っている箇所にもクモの巣のような光の筋が走り、いまにも光に溶けてしまいそうである。
眩しい朝日が室内を照らす中、光を背負った燈李がこちらに向かっていた。
咄嗟に紫苑が窓を開ける。
庭に駆け込んできた燈李が、紫苑に手を伸ばした。
「来い、紫苑!」
「でも!」
「いいから、早く!」
燈李の伸ばした手を掴むのは、新から逃げることにはならないだろうか。
紫苑の逡巡を読んだように、新も紫苑に手を伸ばす。しかし、新の手は八雲によって退けられた。
「――――燈李!」
意を決した紫苑が燈李に手を伸ばすと、燈李がしっかりと掴んで引き寄せる。
「ごめん、燈李」
「今度は掴めたな」
「え?」
「何でもねぇ。新を封印するぞ」
「うん」
繋いだ手を強く握り、静かにこちらを見つめる新と、二人は相対した。
新から視線を外さないまま、燈李と紫苑が言葉を交わす。
「……封印ってどうやるの?」
「親父の体から新を何かに移しさえすれば、それを結界で閉じ込められるらしいんだが」
「移すって……さっき吸収しようとしてみたけど、かなりの容量が必要みたい。そんなものある?」
「…………一個だけ心当たりがある。前に兄貴と見た……桜だ。あれは……魂のかたまりだった」
「何よそれ、いつの話?」
「一年経たないくらいだな。前に言ったろ、兄貴の死んだ友達が挨拶に来たって」
「…………あぁ、思い出した。死者の魂を咲かせる桜、だっけ」
「それだ。あそこに行ければ」
「…………」
「…………」
二人で見合わせた顔は、どちらも苦々しい。心当たりはあっても、行き方がわからない。
リビングにいた新が、窓際で二人を見おろしていた。
「話は終わった? 久しぶりだね、燈李。まさかキミが来るとは思わなかったよ」
「そうかよ」
「キミたちが話していたのは、終焉のことでしょう? 残念だったね、ボクはあそこに行けないんだ。あそこはボクらの揺籃と真逆のものだからね」
「終焉……」
「あれは実が最後に行くところさ。虚であるボクは踏み入ることが出来ない」
新の周囲に黒い霧が立ち込める。早朝の朝日を浴びてもなお消えも薄れもしない霧は、生き物のように紫苑と燈李に這い寄ってきた。
それはゆっくりと人の形をとっていく。
現れたのは、就学前程度の子どもの姿をした影だった。
「揺籃が……? ……まぁいい、あの二人を捕まえて」
「下がってろ、紫苑」
紫苑をかばうように、燈李が強引に一歩前へ出た。紫苑が止めても、燈李はじっと二体の影を睨みつける。
「桜がだめならゴリ押しするしかねぇな。見た目がガキってのがやりにくいが、しかたねぇ」
左半身を前にして、燈李が構えた。足を前後に開き腰を落とす。
まずは一体。
目前に迫った影が無造作に腕を伸ばした瞬間、燈李が動いた。前においた脚を軸にして、影にくるりと背を向ける。そのまま上体を沈め、反動で跳ね上げた右の踵で影の顔面を蹴り飛ばした。
黒い霧を撒き散らしながら、蹴られた影が後ろに吹き飛ぶ。
「ちょ……、なんで蹴れるのよ!?」
二体目。
紫苑には答えず上体を戻した燈李は、蹴り上げた脚をもう一体の影の方向に踏み込んだ。踏み込んだ脚の裏側に左脚をクロスさせ、重心を移動する。そのまま左に上体を沈め地面に手をつくと、今度はサイドキックの要領で右脚を蹴り上げた。
燈李の足底に喉元を強襲された影は、先の一体と同じように黒い霧を撒き散らしながら倒れ込む。
「さすがに一撃必殺ってわけにはいかねぇか。まともに入ったんだけどな」
元いた位置に戻り、紫苑を背後にかばうように構えた燈李は、倒れた二体の影を見る。痛覚などないかのように立ち上がる二体は、蹴られた箇所から黒い霧が溢れ、ぼろぼろと形を崩していた。
「意味分かんないんだけど」
「まぁ、結界もどきでも使いようってことだ」
「結界って、そんなのだった?」
「しょうがねぇだろ。陰陽の見極めは出来ても、手のひらサイズくらいにしか結界作れなかったんだよ。これでも一晩だぞ、天才だろが」
「知らないわよ。それでなんで影を蹴っ飛ばせるようになるの」
「蹴り足に結界くっつけた」
「…………燈李にしか出来ないね、それ」
「うらやましいか」
「全然」
話す間も影を見据え続けていると、崩れかけていた影二体が砂山が崩れ落ちるように霧となって消えた。
それを確認して、燈李は鋭く息を吐く。
消えた影と入れ替わるように、新が庭に降りてきていた。
「次はお前だな、新」
「面白いね、燈李。キミがそんな成長をするとは、思ってもみなかったな」
「昔からオレのことは眼中になかったもんな!」
新までの距離は数歩。
燈李は間合いを測るように左右にステップを踏むと、そのまま駆け出した。
「っらぁ!!」
左斜め前方の地面に飛び込むように手をついて、低い体勢から右脚を蹴り上げる。シーソーのように跳ね上がった右脚は、新の鳩尾あたりに勢いよく叩き込まれた。
「――っ!?」
しかし新は微動だにしなかった。
先程の影二体と同じように、確かに手応えはあったのだけれど。
「すごいなぁ、燈李。一瞬燈李が消えたかと思ったよ」
余裕そうにそう言った新の体を守るように、黒い霧が集まっている。
「ふふ。燈李の使い方も面白いけど、こっちが結界の普通の使い方、かな」
「くそっ……」
黒い霧でできた結界がまとわりついてきて、燈李は慌ててバックステップで回避した。黒い霧が触れた箇所から体の中に冷気が侵入してきたかのように、肌が粟立つ。
「そう簡単には……いかねぇか」
簡単にいくとは思っていない。しかし他にとれる手段がないのも事実だった。
新を封印しなければ。
燈李と紫苑に焦りが這い寄ってくる。
そんな二人の焦りを見抜いているのだろうか。二人の方へ向かって、新が静かに一歩を踏み出そうとした瞬間――。
両者の間、なにもない空間から、ふわりと人影が舞い降りた。
ぼさぼさとも言えるような黒い髪、夏だというのに全身黒い服、革靴までも真っ黒なその男は、長めの前髪の奥にある濃藍色の目でじっと新を見つめている。
「兄貴!」
「お兄ちゃん!」
「…………藍」
藍と新の視線が絡み合う。
「新、これで最後にしよう」
そうして藍は、ゆっくりと新に近づいていった。




