26.紫に光
「うぁ……ぐ……ぅ……」
「ほら紫苑、がんばって」
あまりの苦しさに呻き頽れそうになったところを、新に支えられた。彼こそが紫苑を苦しめている張本人だというのに、透の姿で発せられる優し気な声と微笑みは紫苑の思考を混乱させる。
真夜中の公園には、紫苑と新以外の人はいない。
都築医院の近くにいたはずなのに、真っ暗な空間に放り出されたと思った直後には、この公園に移動していた。
移動してからどれほど経っているだろうか。そんなことすら考えられないほど、紫苑はぐったりと疲弊している。
抱き上げられ体が浮かぶ感覚は、ひどい眩暈で倒れるときのようで。
同時に襲い来る吐き気をこらえ、紫苑は無意識に新にしがみついた。
紫苑を横抱きにしたままベンチに腰掛けた新が、紫苑の頬を愛おしそうに撫でる。
「ねぇ、紫苑。もっと入るでしょ?」
「や、め……」
「いいの、やめて? ホントに?」
「…………ヤ、な……ヤツ……」
二人の周囲には、黒い霧に操られた死霊が集まってきていた。
新は彼らの一体を無造作に引き寄せると、紫苑の体に押し付けた。触れた箇所から死霊が体内に侵入してくる。しかし紫苑の魂は紫苑の意思とは無関係にそれを許さず、自身の中に吸収していった。
とめどなく注がれる陰が意識を奪おうとするのを、紫苑は唇を噛んで耐えるしかできなかった。
「あぁ、血が出てる。ダメだよ噛んじゃ」
血のにじむ唇に労わるように指を置いた新は、そのまま紫苑の顎を軽く持ち上げる。
「君の体は、もう君だけのものじゃないんだから」
くすくすと笑いながら紫苑をのぞき込んだ新の目には、ゆらゆらと闇が揺れていた。
もう一体が紫苑の体に押し込まれる。
体内を掻き回すかのような怖気で、背筋が凍る。紫苑の体は冷えきっていて、小刻みに震え始めていた。
「ぁ……ぅあ、……は、ぁ……」
「ふふ、いい子だね、紫苑」
縋りたくないのに、自身の体を支えることもままならず、紫苑は新の胸元に再びしがみついた。そうすることで、手放しそうになる意識を留めようとする。
新はひたすらに優しく、しがみつく紫苑の後頭部を撫でた。小さな子供を褒めるように額に口づけ、猫なで声で囁く。
「我慢しないで。キミの願いはボクがちゃんと叶えてあげるから。安心してボクに全部任せなよ」
そう言ってさらにもう一体を紫苑の背に押し込む新は、楽しそうに口端を上げた。
「あぁ……っ! …………っ!!」
大きく開いた口から悲鳴と空気が漏れる。紫苑の全身が硬直し、視界がチカチカと明滅した。
満足したのか、新が周囲の死霊を手を振って消し去ると、ぬるい夜気が紫苑に触れる。冷えて強張っていた体から、ほんの少しだけ力が抜けると、今度はひどい倦怠感に襲われた。
「誰か近付いてくるなぁ。騒がれると面倒だし、場所を変えようか」
面倒と言いつつも楽しそうに新が言うと、瞬きの間に周囲の景色が変わる。
ぼうっとする頭を必死にたたき起こして、顔を上げた紫苑の目に映ったのは、見間違えようのないほどに見慣れた自宅のリビングだった。
真夜中の自宅には、当然ながら八雲しかいなかった。夜までひとりで留守番をしたことがなかった八雲は、蒼汰が脱ぎっぱなしたと思われるTシャツの上に、丸くなっていた。
紫苑たちの気配に気付いたらしく顔を上げた八雲は、新を見るなり鼻にシワを寄せて唸り声を上げる。
「変な生き物。また会ったね」
悠然と微笑む新が立ち上がり、八雲に手を伸ばそうとしたのを、慌てて腕を引いて止めた。
「その子に、何もしないで」
「……別に、何もしないけど。昼間に手を引っかかれて痛かったし」
「昼間?」
「気にしなくていいよ。それより……ボク眠くなってきたなぁ。たぶんこれが眠いってことだよね?」
「なにそれ……」
「ふふ。人の体は睡眠が必要。ちょっと面倒だけど、仕方ないよね」
仕方ないと言う割に、新は嬉しそうに見える。何かを企んでいるのだろうかと警戒するけれど、紫苑の疑いを笑い飛ばすかのように新はソファに横になった。
八雲は既に紫苑の足元まで駆け寄ってきている。
「結界も張ったし、これなら藍でも入ってこられない」
「…………」
「おやすみ、紫苑。また明日ね」
「…………意味わかんない」
とはいえ、紫苑にとっても新が休むことは都合が良かった。無理やりに死霊を押し込まれて膨れ上がった陰は、紫苑の理性を、人としての意識を容赦なく削り取ろうとする。本意では無いけれど陰の量に順応する時間が必要だった。
「八雲、私に近付くと危ないから」
くるりくるりと体を擦り付ける八雲をかわしながら、紫苑は自室へと向かった。
頭痛と吐き気は治まらないし、体は自分のものじゃないように重く怠いけれど。
「初めてじゃない。時間をかければ大丈夫なことは……もう知ってる」
自身を納得させるように声に出すと、全てを投げ出して楽になりたいという気持ちが薄れていく。
部屋の主より先にベッドに上がって、紫苑を見上げていた八雲が「にゃあ」と鳴いた。
頭を撫でようと伸ばしかけた手を、寸前で引っ込めると、撫でられ準備万全で待っていた八雲は、不思議そうに首を傾げた。
「あの人……全然関係ない人を、死なせてしまったかもしれない」
目の前で倒れていた男性から、陰をあるだけ吸収してしまった。ただ、自分が苦しさから逃れるために。
目がじわりと熱くなり、視界が潤む。瞬きに合わせて熱い雫がこぼれ落ちると、堰を切ったように後から後から溢れ出し、引き結んだ口の隙間から嗚咽の欠片がまろび出た。
「ふ…………ぅ……、っ…………」
ベッド脇に座り込み、布団に顔を埋めて声を殺す。泣いている場合じゃないと思っていても、溢れ出した涙は止まってくれなかった。
八雲がちょい、と紫苑の髪に触れる。
「や、くも……?」
ふっと紫苑が顔を上げると、八雲の前肢の肉球がぴとりと紫苑の目元に触れた。
まるで、泣くなと慰めているようで、紫苑の口元に笑みが浮かぶ。
「ありがと」
そこで紫苑はふと気づいた。八雲に触れられても、自分の意識を保っていることに。八雲から吸収してしまうことを恐れていたが、今のところその心配はないらしい。
恐る恐る八雲を抱き上げると、八雲は嬉しそうにふわふわとした頬を紫苑の顔に擦り付けた。
「よかった……」
何度触れても変化はなく、安堵の息を吐く。それどころか、触れた箇所から温もりが染み入ってきて、とめどなく溢れていた紫苑の涙を止めてくれた。
ベットに腰掛けた紫苑の膝にのり、八雲がごろごろ喉を鳴らしている。
その背をゆっくりと撫でながら、紫苑はこの後のことについて考えた。
「新はたぶん、私の魂の容量を増やそうとしてる」
生きた人間ではなく死霊ばかりを利用するのは、紫苑が陰しか吸収できないためだろう。つまりは効率化だ。
「でも、なんで……?」
透のように体を乗っ取るためだろうか?
透から紫苑に乗り換えて、紫苑のふりをして紫苑として生きようとしている――。
それならば、今すぐにそうしたっていいはずなのに。
あえて紫苑の魂の容量を増やす必要は無いはずだ。
「ダメだ……頭がまわらない……」
いつの間にか頭痛や吐き気は治まっていたけれど、襲ってくる疲労感と相まって酷く眠い。自室の安心感と八雲の温もりが、さらにそれを後押しする。
眠気を払うようにかぶりを振って窓の外を見ると、うっすらと白み始めていた。夜明けが近いらしい。
「蒼汰は大丈夫かな……? 燈李はどこにいるんだろ……。それにお兄ちゃん……」
『藍に至っては、人として生きることを捨てようとしている』
藍はいつでも優しい。新の言ったことを藍に聞けたとしても、きっと教えてはくれないだろう。困ったように微笑む藍の姿が目に浮かぶ。
「お兄ちゃんに助けを求める訳にはいかない」
何をしようとしているかわからなくても、何のためにしようとしているかはわかる。
家族を守るためだ。
「今度は私が守るんだから。新は私が……吸収してでも止めてやる」
家族の誰もが、紫苑の行動を止めようとするだろうけれど。
明るくなってきた窓の外を見つめ、紫苑は手を握りしめた。
書棚に飾った陽子からもらった置物が、差し込んだ朝日に照らされじんわりと輝いていた。




